鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

ジョルジュ・ビゴーという人 その1

2010-04-28 08:08:51 | Weblog
ジョルジュ・ビゴーというフランス人画家はいったいどういう人物だったのか。私が清水勲編の『ビゴー日本素描集』という本に目を通していて、ビゴーという人物に強く興味を惹かれた箇所の一つは、巻末の「ビゴー紹介のあゆみ」の部分の、松尾邦之助の「晩年のビゴー」(『明治文化研究』第8巻第6号)という文章でした。「松尾邦之助」という人がどういう人であるかは私は知らない。この文章が世に出たのは昭和10年(1935年)の6月のこと。ビゴーが亡くなったのは昭和2年(1927年)。その年の10月10日、パリ郊外のビエーブルの自宅の庭を散歩していたビゴーは、突然の心臓発作で倒れました。享年67歳。ということは「晩年のビゴー」は、ビゴーが亡くなってから8年ほど後の文章ということになります。松尾邦之助は、前年、すなわち昭和9年(1934年)に「ロンセイ夫人」というフランス人女性と知り合いになり、そのロンセイ夫人からビゴーについての話を聞かされます。どういう話かといえば、夫人の田舎にある別荘はビゴーが晩年を送ったアトリエであったというもの。ビゴーのことについて岡田三郎助からかねていろいろ話を聴いていた松尾は、そのロンセイ夫人の話に興味を抱き、画家の長谷川潔を誘って、ロンセイ夫人の案内で、ヴェルサイユの近くにあるかつてビゴーのアトリエであったという別荘を訪ねました。その別荘は、パリの近郊とは思えぬような、木々の繁る閑静な丘陵の上にあったのですが、その別荘や別荘の庭を見て、松尾邦之助は一驚します。以下、その文章の抜粋です。「アトリエ兼別荘は、まるで日本の家のようで、内部の西洋式な装飾は別として、庭から軒の作りからまるで日本風です。藤だなが作ってあるし、日本風の松や楓(かえで)の木が植えてあり、築山や灯籠まで幼稚ながら小規模ながら日本を知った人でなくては出来ない代物です。(中略)ロンセイ夫人の紹介でビゴーの最後を一緒に暮した寡婦に逢いました。寡婦の話によると、ビゴーはこの近所の村人から『日本人』と呼ばれ、外出にはいつも着物であり、下駄をはいて村の子供を背におんぶしたりして、まるで日本にいたときと同じようにやっていたというんです。」ビゴーの家には、古ぼけた桐のたんすや矢立(やたて)や横笛が、ビゴーの絵の間で日本らしい強い香りを放っており、さらに、彼の朱肉印は「美好」という漢字2文字であったという。 . . . 本文を読む

2010.4月取材旅行「番町・麹町界隈」 その最終回

2010-04-27 06:11:58 | Weblog
明治中頃の子どもたちの遊びにはどういうものがあって、その時、子どもたちはどういう姿をしていたか、といえば、『ビゴーの世界』の表紙に掲げられている絵が、その遊びの内容や姿、そして子どもたち一人一人の表情までも、生き生きと私たちに伝えてくれます。当時の麹町の街並みがどういうものであったかは、P32の上の絵がその雰囲気を伝えてくれます。商家が建ち並んでいることから考えて、この通りは番町の武家屋敷街とはやや離れた通り沿いになります。明治20年頃の熱海海岸のようすや漁師たちのようすについては、P134の絵に描きとめられ、そこには着物を着てヘルメットをかぶったビゴー自身も描かれている。一連のビゴーの絵の中でもとくに私の興味をそそるのは、彼が新吉原の街のようすや遊女たち、さらには遊客たちの生態までも生き生きと描いていること。新吉原の花魁(おいらん)の一人は、同書P25の「花魁」という絵に描かれています。新吉原や顔見世のようすがよくわかるのはP73の「遊女が逃亡せぬよう目を光らせる」という絵。新吉原の「引け時」のようすを描いたのがP74の上。P122の「遊廓の仕置き」という絵も新吉原のものかも知れない。『ビゴー素描集』のP99からP123には「娼婦の一日」として、新吉原の遊女たちや彼らを取り巻く世界が描かれていますが、これらほど新吉原のようすを伝える絵はないのではないか。P117の「医者の検診」などは、その駆毒院で一人の遊女の深刻な病状を診る医者の表情が印象的です。ビゴーは来日間もなくにして、早くも新吉原を訪れています。清水勲さんは次のように記しています。「同じ外国人が描いたものでもビゴーの作品は吉原の風物詩的な描写ではなく、遊女・女郎・花魁と呼ばれる生身の女たちが甲斐甲斐しく働く姿を密着取材で描いている。その意味で『娼婦の一日』は明治中期の吉原や洋妾たちの生活ドキュメントといえる。」またこうも記されています。「こうしたスケッチをするために彼は花街に入りびたった。懇意の人をつくり、スケッチブックを常にたずさえて、夜の世界をのぞき見し、一夜を過ごして朝の芸者たちの素顔をも観察している。…芸者の生態を知るためにビゴーは、一般人がとても入り込めないところまで押し入る執念を見せている。」その執念を見せたビゴーの密着取材による作品群が、当時の日本を知る貴重な手掛かりとなっているのです。 . . . 本文を読む

2010.4月取材旅行「番町・麹町界隈」 その6

2010-04-26 06:22:45 | Weblog
幕末・明治に日本にやってきた外国の写真家や画家の中で、現在の私たちが、その時代の人々の風俗や息吹きといったものを捉える際に、きわめて参考になるような写真や絵を残してくれた人々というとそれほど多くはないように思われる。しかし、外国人ということもあって、当時の日本人がありふれたこと(あたりまえのこと)として興味を示さなかったものや気付かなかったもの、醜悪なものとして外国人には見せたくなかったものを、しっかり写真や絵として記録した人々がわずかながらいます。写真家として私の脳裡に浮かぶのはイタリア系イギリス人のフェリーチェ・ベアトであり、画家としてはイギリス人のチャールズ・ワーグマンとフランス人のジョルジュ・ビゴーの2人。ベアトについては、『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)と『F.ベアト写真集2』横浜開港資料館編(明石書店)の2冊が手許にあって、汲めども尽きせぬ情報を提供してくれます。ワーグマンについては、岩波文庫に『ワーグマン日本素描集』(清水勲編)というのがあって、幕末から明治20年頃までの日本や日本人の素描が収められています。このワーグマンとベアトは横浜居留地で隣り合わせに過ごしていたこともある親しい間柄で、一緒にスケッチ・写真撮影旅行に出かけたりもしています。ビゴーについては、『明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界』清水勲編(山川出版社)や『ビゴー日本素描集』清水勲編(岩波文庫)、『続ビゴー日本素描集』(同左)、『ビゴーが見た日本人 諷刺画に描かれた明治』清水勲(講談社学術文庫)などがあって、これらに収められている絵も、汲めども尽きせぬ魅力を持つ。ビゴーが日本にやってきたのは明治15年(1882年)で、帰国したのが明治32年(1899年)。17年間も日本に滞在しています。兆民が死んだのは明治34年(1901年)だから、兆民の後半生にあたる時期を、ビゴーは日本で過ごしたといっていい。ビゴーが17年間において自分の目で見、そして描いた日本や日本人の姿は、兆民が目にしたものでもあったのです。しかもそれらには、当時の日本人にはあたりまえで日常的なものとして見過ごされていたものや気付かれなかったものが、しっかりと見事に描き込まれていたのです。私がビゴーに強く興味・関心を持つ理由は、彼が兆民と親しい間柄であったこととともに、彼のそのような貴重な画業にあります。 . . . 本文を読む

2010.4月取材旅行「番町・麹町界隈」 その5

2010-04-25 07:18:45 | Weblog
『復元江戸情報地図』で千鳥ヶ淵公園のあたりを見てみると、そこは「御使番京極左衛門二千俵」とあり、その西隣が「松平又三郎」、その西隣が「井上助太夫」となっています。その南側、半蔵堀沿いの道に沿って「上野七日市藩(群馬)前田丹後守一万石余」「寄合水野石見守六千七百石」「大和新庄藩(奈良)永井若狭守一万石」「陸奥七戸藩(青森)南部丹波守一万千石」の屋敷が並んでいますが、これらの敷地が現在はイギリス大使館になっています。甲州街道は現在の「新宿通り」であり、半蔵門前で左折し、麹町一丁目→同二丁目→…同十丁目と続き、四ツ谷御門にぶつかります。麹町八丁目から同十丁目にかけての甲州街道沿いの町屋の北側に、栖岸寺・常仙寺・心法寺が並んでいます。兆民の仏学塾(ジョルジュ・ビゴーが描くところの)の所在地は、「松平又三郎」の屋敷地であったと思われます。その門を出て通りを右に行くと、江戸城の内堀にぶつかりますが、それが千鳥ヶ淵。その千鳥ヶ淵や半蔵堀に沿って走る道が、現在は「内堀通り」になっています。私が満開の桜や花見の人々の流れを見ながら昼食を摂っている「千鳥ヶ淵公園」はかつての「御使番京極左衛門」の屋敷跡の一部。昼食を食べ終えてから、ふたたび仏学塾の跡地を確認してみました。その場所はおそらく「一番町パーク・マンション」が建っている場所であり、住所は「千代田区一番町二番地一」となっています。マンション前には何のガイドパネルもありませんでした。かつての仏学塾のあたりの雰囲気がわかるのは、ジョルジュ・ビゴーの描いた水彩画。それは『ビゴーの世界』のP4に載っていますが、それを見ると、明治15年(1882年)1月に新築された仏学塾は2階建てであったことがわかります。敷地のまわりは簡単な格子状の竹垣で囲まれ、通りに面した門もそれほど立派なものではない。門を入って真っ直ぐ進むと玄関があり、屋根は瓦葺き。屋根の一部は銅板(?)張りのようにも見えます。1階に庭に面した障子戸のある部屋があり、また2階には日除けのための簾(すだれ)が垂れ下がった部屋がある。その建物の左隣に納屋(物置)のような建物があり、その背後には木々の繁りが見えています。その木々の繁りの向こうがイギリス公使館であったでしょう。この仏学塾の跡地に、現在は高層マンションがでんと建っており、両隣のビルとの間もほとんど隙間はありません。 . . . 本文を読む

2010.4月取材旅行「番町・麹町界隈」 その4

2010-04-22 07:10:04 | Weblog
清水勲さん編著の『ビゴーの世界』によれば、明治20年初頭頃、ビゴーは諷刺雑誌の創刊を決意しますが、それを長期的に発行する体制づくりのために協力者を選び、そのアドバイスをもとに資金確保や販売方法などを綿密に検討しました。当時ビゴーの周辺にいた最も有力な協力者として、清水さんは中江兆民とプロスペール・フーク(1843~1906)の2人を挙げています。フークは明治3年(1870年)に来日し、フランス語教師として開拓使学校・司法省法律学校・外国語学校・学習院・陸軍学校などで教えたという。滞日中のビゴーの後援者であり、またボアソナードの後援者でもあったらしい。そして諷刺雑誌『トバエ』が創刊されたのが明治20年の2月。その諷刺画の日本語キャプションは、ビゴーのものとは違って達筆な文章であり、清水さんは少なくとも4人の協力者がいたであろうと推定されています。そしてそれらが「中江兆民の主宰する仏学塾関係者であることは推測できる。ビゴーの書いたフランス語を理解し、それに関連した戯文を書ける結束した集団の人々でなければできないことだからである」としています。『トバエ』の戯画の日本文キャプションを書いた「少なくとも4人の協力者」の一人として、清水さんは中江兆民を挙げていますが、それを証明するものとして、『トバエ』24号(明治21年2月1日刊)の「外国熱の流行」という作品に付された長文が紹介されています。その長文は、ドイツという一外国に熱狂する政府要人たちの愚かさを諷刺したものでした。ほかに清水さんが挙げられている協力者は、酒井雄三郎と小山久之助。しかもこの2人は、「ビゴーの水彩画スケッチにこの2人と思われる人物が描かれている」という。その水彩画スケッチこそ、同書P4に掲載されている「中江兆民の仏学塾」の水彩画の下に掲載されている「仏学塾の書生」という絵。この2人が、清水さんが推定されているように小山久之助と酒井雄三郎であるとするならば、どちらかが小山久之助であり、どちらかが酒井雄三郎ということになりますが、私には、白帯を締め、右肩にかなり力が入った状態で何かものを書いているらしい左側の人物こそ、小山久之助ではないかと思っています。小山久之助については、昨年夏の小諸方面の取材旅行で触れましたが、兆民の愛弟子の一人で、きわめて純粋・直情で、愛すべき人物であったようです。 . . . 本文を読む

2010.4月取材旅行「番町・麹町界隈」 その3

2010-04-21 06:52:06 | Weblog
私が市ヶ谷駅から向かっているのは、「仏学塾」の最後の所在地である「麹町区五番町二番地」。「最後」ということは、「最初」があるわけで、その最初の「仏学塾」は「仏学塾」とは言わず「仏蘭西学舎」と言いました。兆民はフランスから明治7年(1874年)6月に帰国しますが、同年8月、東京府知事に対して「家塾開業願」を提出しています。これは、東京府の「第三大区三小区中六番町四五番地」に仏文学の家塾を開きたいというもの。間もなく許可がおりて10月頃には開塾していますが、これが「仏蘭西学舎」。そして遅くとも明治10年(1877年)には「仏学塾」と改称しています。この間に、家塾が手狭になっていったため、「上六番町三十四番地」に移り(明治8年5月)、次に「三番町二十九番地」に移り(明治9年)、さらに明治10年2月、「麹町区五番町二番地」の元旗本屋敷に移ったのです。この旗本屋敷はかなり広大なもので、敷地面積は462坪、建坪は165坪もありました。最初の「仏蘭西学舎」は、帰国後の兆民が居を構えたところに開いたもの(家塾)で、その後も同様でしたが、明治15年(1882年)の9月には「赤坂区青山南町三丁目三十五番地」に住むようになっています。その年、仏学塾は新築落成し、さらに100坪ほど増築をしていますが、その増築を機に別に自宅を求めたようだ。ということはそれ以後、兆民は、この「青山南町三丁目三十五番地」の自宅から「五番町二番地」の仏学塾に通ったということになる。徳富蘇峰は、この兆民の青山の自宅と、五番町の仏学塾の両方を目にしているようで、「君は当時青山墓地の傍に大なる長屋門のある家に住し、一方には番町に仏学塾などを開きて、門戸を張つてゐた」と記しています。蘇峰が見た「五番町二番地」の「仏学塾」は、新築されたばかりで、しかも100坪ほど増築されていくといったありさまで、その発展振りは驚くべきものであったのです。この「五番町二番地」の「仏学塾」を描いたのが、「仏学塾」のフランス語教師として雇われたジョルジュ・ビゴー。その絵が載っているのが『明治の面影・フランス人画家ビゴーの世界』清水勲編集(山川出版社)で、そのP4に、1885年(明治18年)10月8日にビゴーが描いた「中江篤介塾」すなわち「仏学塾」の絵が掲載されています。さらにその下には「仏学塾の書生」2人の後姿を描いた絵も掲載されています。 . . . 本文を読む

2010.4月取材旅行「番町・麹町界隈」 その2

2010-04-20 06:29:19 | Weblog
新井巌さんの『番町麹町「幻の文人町」を歩く』の、裏カバーに記されている「本書に登場する主な文人たち」の名前を見るだけでも、この「幻の文人町」にかつて住んだ多彩な人たちに圧倒される思いになる。ここに登場する人たちを丹念に追っていっただけでも、日本の近現代史が叙述できてしまうような気持ちになってくる。【文学・言論関係】で56名、【教育関係】で5名、【音楽関係】で10名、【美術関係】で9名、【演劇・邦楽関係】で12名。さらに「その他政治家、経済人も多数登場」とある。ちなみに「中江兆民」は、北村透谷・島崎藤村・永井荷風・国木田独歩らとともに【文学・言論関係】で名前が出てきます。ページをめくると、まず冒頭に「本書に登場する主な『文人』スポット」という地図が現れ、そこには「文人たち」の旧居地(一部「推定」場所も含む)が●で記されていますが、この数にも圧倒される。本郷菊坂や根岸周辺も一葉・啄木・鴎外・漱石関係でなかなか興味深いところでしたが、この「番町麹町」もそれに負けず劣らず興味深い。そこには、もちろんジョルジュ・ビゴー旧居地や、中江兆民の「仏学塾」跡地も●で示されています。兆民の「仏学塾」は、千鳥ヶ淵公園の近く。東隣には「斎藤秀三郎・秀雄」とあり、西隣には「高浜虚子」とある。南隣はイギリス公使館の広い敷地。東側の皇居へ向かえば、「千鳥ヶ淵」があり、その南側には「半蔵濠」がある。その半蔵濠とその南側の桜田濠を分けるのは半蔵門に続く土手。今までの取材旅行から興味ある人物旧居地を探してみると、国木田独歩のそれが三番町にあり、半井桃水(なからいとうすい)のそれが平河町にある。一葉が本郷菊坂から人力車で桃水を訪れたのは、この平河町の桃水宅。それに関連して「樋口一葉、恋の通い路」というのが本書のP44~52にあり、その道筋がP49の略地図に載っています。時は明治25年(1892年)の2月4日、みぞれまじりの雪の日でした。さて兆民については、P160~162にかけて、「気骨ある言論人たち」の一人として、かなり詳しい記述がされています。これを読むと、新井さんは最後の仏学塾の所在地の確定にかなり苦労されたようです。最後の仏学塾の所在地は「麹町区五番町二番地」ですが、新井さんは、この場所は英国大使館の敷地内であると思い込んでいたのですが、原敬の日記から、ついにその場所を確定するに至ったのです。 . . . 本文を読む

2010.4月取材旅行「番町・麹町界隈」 その1

2010-04-19 07:16:22 | Weblog
東京にひさしぶりに戻ります。本郷菊坂など樋口一葉(奈津)を中心に取材旅行をしていましたが、ひょんなところから一葉の両親の出身地、甲斐国(山梨県)に関心が移り、その両親が江戸へ出る際にたどった道筋、御坂みち→御坂峠→河口湖→富士吉田→籠坂峠→足柄道→足柄峠→関本→酒匂川を歩くことになりました。それらの一連の取材旅行で関心が深まったのは、甲府道祖神祭の幕絵を描くために甲州街道を往復した歌川広重、黒駒の勝蔵など幕末に動き回った博徒たち(アウトロー)、富士山の宝永大爆発とその被害からの復興、富士山御師(おし)と富士講、富士山東麓を歩き回った徳富蘇峰、富士登山など甲州街道や三多摩地方を歩いて松方デフレ下の農村状況をつぶさに見た北村透谷、そして三多摩地方の自由民権運動と困民党事件との関わり、などでした。よくよく考えるともともとのきっかけは、川崎の日本民家園でいちはつの花の咲く旧清宮家住宅に感動し、それから旧広瀬家住宅のもともとの所在地が塩山上萩原村であることを知り、一葉の両親の出身地が中萩原村であることを知って、「萩原村」というところはどういうところか、ということに興味を抱くようになって、上萩原の広瀬さんのお宅を訪問したことにありました。それから「御坂みち」や「足柄道」を歩くことになったのです。と考えると、東京を本格的に取材しようと思っていたのが横道に入ってしまった原因は、「日本民家園」にあるといっていいかも知れない。東京の取材旅行は、もちろん中江兆民の生活した場所や足跡を実地に探ることにありますが、まだ直接、その場所を取材したことはありません。10年以上前に、深川や木場の界隈や青山霊園などを歩いたことはありますが、取材旅行というほどのものではありませんでした。今回からは、兆民の活動した場所を中心に、しばらく東京の取材旅行をしていきたいと思います。何ごとも「先達(せんだつ)」となる人なりものが必要ですが、『復元江戸情報地図』(朝日新聞社)と『切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩』(人文社)、それに『明治・大正・昭和をめぐる東京散歩』(成美堂出版)をベースに、今回は『番町麹町「幻の文人町」を歩く』新井巌(彩流社)です。特に新井さんの著書は、今回の取材旅行では常に手に持って移動し、大いに活用させていただきました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2010.「露研」の旅─富士河口湖温泉 その最終回

2010-04-18 07:05:40 | Weblog
谷村(やむら)で血縁の人の墓参りをしたり買い物(何を買ったのだろう)などをしたりした透谷は、余りの暑さのために小沼のある茶屋で寝転がって小憩。午後2時頃に茶屋を出立し、上吉田の金鳥居を潜って4、5軒先の羽田穂波宅に到着。ここが予定されていた上吉田の宿泊先でした。ここに一泊した透谷は、翌28日(原文では「二十《六》七日」とあるが私の計算では28日となる)の早朝、強力(ごうりき)とともに宿を出発して、北口本宮浅間神社の高い鳥居を潜って北口(吉田口)登山道に取りつきました。道連れとなったのは「甲府当りの書生連中」でした。原っぱの真ん中にある「中の茶屋」を過ぎてまず「馬返し」まで。馬返しの茶屋ではうどんやそばを出してくれるけれども、それから先の茶屋ではうどんやそばはもう出ない。一合目は登りの取り付きで「三十三度大願成就、何の国何村某」とか「百八度登山」と刻まれた多くの「登山の紀念碑」や、「北口開山眞行大人」とか刻まれた「紀念碑」が、透谷の目を引きます。彼はここで「富士講」の隆盛に思いを致します。二合目を経て三合目へ。ここには中食堂がある。透谷はここで強力が運んできた弁当を食します。四合目を経て五合目に。五合目には立派な小御岳神社へと続く道がある。この神社は富士講の人々が必ず参拝するところ。ここからは上はもう樹林は姿を消して岩石が露出するようになり、わすがに「いたどり」が植生するのみ。また雲の中へと入ります。六合目の穴小屋で休憩。七合目を過ぎると烏帽子岩神社が見えてきますが、ここは食行身禄が断食入定したところで富士講の人々にとっては最大の聖地。七合目から八合目にかけては透谷がもっとも困難辛苦を覚えたところで、登山道もこの年は登山者(富士講の人々など)が少ないために十分に踏み固まっておらず、登りにくいことこの上ない。ついに八合目の「大行合」に到着した透谷は、そこの石室に宿泊することにしました。翌未明、登山の準備に忙しい人々を横目に、透谷は月光の下、相模や甲斐の山々が黒々と集まっている景色を眺めています。富士講の人々は、御来光を見つめて合掌し一斉に経文を読む。強力の携えてきた切餅を焼いて、それを朝飯の代わりとしていざ頂上に向けて出発。そして午前8時頃にようやく頂上に到着。小憩の後、「お鉢めぐり」をした透谷は、砂走道を五合目まで下り、馬返しから馬に乗って上吉田へと下山したのです。 . . . 本文を読む

2010.「露研」の旅─富士河口湖温泉 その6

2010-04-17 07:57:37 | Weblog
「富士山遊びの記憶」によれば、透谷と富士講の道者の一団との接触は次のようなものでした。透谷が「道者のむれ」に「旅は道連(みちづれ)」と近づいていったのは鶴川宿を過ぎて野田尻宿が間近になった頃のこと。透谷はその一団に親しく話しかけ、話を交わしているうちに次第にお互いは打ち解けて、今夜の相宿(あいやど)を約束するほどになりました。富士講の人たちの宿泊予定先は(おそらくその富士講社の常宿であったと思われる)犬目宿の「えびす屋」という旅籠。その旅籠は折からの不景気のために、客が着いてから風呂を沸かすような始末。しかし道者たちは物見遊山のように浮かれて大さわぎ。しかしやがて大先達(せんだつ=富士登山と信仰のリーダー)が衣服をあらためて正面に立ち直ると、もう一人の先達がその右側に座り、5人の講員が丸くなって集まりました。そして大先達が礼儀正しく三拝して先達が経文を読み上げると、他の講員たちも一斉に読誦し始めました。透谷はというと、「宗教熱心の人々の、心の程」を思いながら茶を飲みつつ、彼らが経文を読誦している光景を興味深げに眺めています。式が終わると、道者たちはしばし雑談に時を過ごし、やがて夕食の膳が並んだものの、その粗末な内容は粗食に慣れている透谷もあきれ果てるようなものでした。夏ということもあって、寝る時は蚊帳の中に透谷も含め8人が入りました。この数から、透谷が出会った富士講の一団は7名であったことがわかる。大先達と先達、そして5人の講員。もちろんすべて男であったでしょう。まるで雑魚寝のようなもので、透谷もその中で眠ったものの、いびきがものすごくて途中で目覚めてしまい蚊帳の外に出て横になる。透谷はそのまま眠ることができずにいろいろと物思いにふけったようだ。そして翌未明、透谷は道者たちとともに犬目宿の旅籠を出立。道者たちの腰の鈴の音が響く中、彼らが歌う「田舎歌」を楽しみながら透谷は犬目峠を越え、夜明け頃に鳥沢宿に到着。「兜造り」の養蚕農家に目を引かれつつ、さらに猿橋を経て大月宿を出たところで甲州街道から左に折れ、谷村に入ったところで、透谷は長安寺というところに血縁の人のお墓があったため、その墓参りのために富士講の一団と別れます。つまり野田尻宿の手前から谷村までの道中を、透谷は富士講の一団と行動をともにしたことになる。どういう会話が彼らとの間でなされたのか、興味あるところです。 . . . 本文を読む

2010.「露研」の旅─富士河口湖温泉 その5

2010-04-16 06:36:35 | Weblog
北村透谷の「富士山遊びの記憶」は、『透谷全集』の第三巻に収められています。それによれば透谷の富士登山のコースは以下のようなものでした。東京→府中(甲州屋で昼食)→日野→八王子→川口村(秋山国三郎宅・二泊)→小仏峠→小原→吉野(鈴木屋で休憩)→関野→上野原→鶴川→野田尻→犬目(えびすやに宿泊)→犬目峠→鳥沢→猿橋→大月→谷村(やむら)→小沼(休憩)→下吉田→上吉田(羽田穂並宅に宿泊)→北口浅間神社→馬返し→烏帽子岩→八合目の岩室(宿泊)→頂上→お鉢めぐり→砂走→六合目→馬返し→上吉田。上吉田から東京への帰路は、ふたたび谷村を経て大月から甲州街道を利用したものと思われます。富士講の場合は、富士登頂後の下山コースは、一般的に須走口登山道を利用するものであり、足柄峠を越えて大山街道へと入るものですが、透谷の場合は往復とも甲州街道を利用するものでした。透谷が富士登山をしたのはいつのことであったかと言えば、この「富士山遊びの記憶」を書いた明治18年(1885年)夏のちょうど1年前のこと。7月24日に東京を出発して川口村の秋山宅に2泊。26日の朝、秋山宅を出発して犬目宿に泊。27日の朝、犬目宿を出立して上吉田に宿泊。28日、上吉田を出発して北口登山道に取り付き八合目の石室に宿泊。29日に登頂を果たしてお釜を一周し、上吉田に下山。上吉田に一泊して帰路に就いたということであれば、甲州街道を利用して八王子まで行き、そこから川口村の秋山宅にふたたび立ち寄った可能性は十分にある。上吉田から川口村までの道中で一泊していると考えるならば、透谷の「富士山遊び」は7月24日から31日にかけてのことになる(東京→富士山→八王子)。透谷が7年ぶりで川口村の秋山国三郎宅に赴いたのは明治25年(1892年)の7月27日から下旬にかけて。ということは8年前に富士登山をした時期とちょうど重なります。川口村までの道中、透谷は8年前に初めて登った富士山やその道中のことについても必ずや思い出しているはずだと私は考えます。なぜ彼は富士登山を志したのか。富士登山は彼にどういう意味を持ったのか。道中において道連れとなった富士講の道者たちとの語らいはどういうものであったのか。道中、彼が見た甲州街道筋のようすはどういうものであったのか。また道中彼が興味・関心をもったのはどういうものであったのか等々、とても興味あることです。 . . . 本文を読む

2010.「露研」の旅─富士河口湖温泉 その4

2010-04-14 06:54:41 | Weblog
私が自由民権運動に強く関心を持つようになったきっかけは、色川大吉さんの『新編明治精神史』を読んだことにありました。読んだのは大学時代。今でもその時に購入した本を所有していますが、出版は「昭和五十一年二月五日九版発行」となっているから、「昭和五十一年二月五日」以後に購入したことになります。「昭和五十一年」というと、西暦では1976年。私は大学に1974年に入っていますから、大学2年の終わり頃か3年の初め頃にこの本を購入していることになります。この本で私は自由民権運動を詳しく知り、北村透谷を知り、困民党を知り、そして中江兆民について知りました。振り返ってみると、中江兆民や自由民権運動について関心を深めていくきっかけは、この『新編明治精神史』にあったといっていい。この『新編明治精神史』の冒頭の写真に写っているのは、「民衆憲法の草案が発見された深沢家の土蔵」。茅葺きの屋根は木組みが一部露出し、一階の漆喰壁は一部剥げ落ちています。土蔵の入口も壊れかけており、一階部分に張り出した屋根は右手にやや傾(かし)いでいる。その写真の解説には次のように記されています。「現東京都西多摩郡五日市町から北西へ3キロほど入った山村〔旧深沢村〕の奥にある。昭和43年〔1968〕、折から明治百年祭が行われようとしていた夏、私たちの手で八十余年ぶりに開かれた。」この土蔵から現れた憲法草案が『五日市憲法草案』と呼ばれるもので、その憲法草案をまとめあげた青年の名前が「タクロン・チーバー」こと千葉卓三郎(1852~1883)。彼が憲法草案をまとめあげたのは29歳の時で、当時、西多摩郡五日市町の公立小学校「勧農学校」の助教員でした。色川さんは、北村透谷について関心を深めていく中で、多摩地方の自由民権運動や困民党事件について調べることが不可欠であることを知り、それについて実地に調べていく中で「深沢家の土蔵」、そしその中に眠っていた『五日市憲法草案』や「千葉卓三郎」らとの出会いが生まれることになったのです。三多摩や津久井郡、愛甲郡、高座郡、また山梨県の北都留郡や郡内地方は、今、私が住んでいるところから車で日帰りで行くことができるところ。しかし、大学時代の私にとってはほとんど縁もゆかりもないところでした。今、『新編明治精神史』に出てくる地名のほとんどが身近である私にとって、その本は新しい魅力をもって迫ってきます。 . . . 本文を読む

2010.「露研」の旅─富士河口湖温泉 その3

2010-04-11 14:39:59 | Weblog
明治25年(1892年)7月27日、甲武鉄道の終点八王子停車場に下り立った北村透谷は、闇夜の中、桑畑の中を人力車に揺られて、南多摩郡上川口(かみかわぐち)村字(あざ)森下の秋山国三郎の家に向かいます。その2時間ばかりの車中、透谷の脳裡には7年間という歳月にあったさまざまなことが走馬灯のように次々と現れては消えていきました。彼が初めて上川口村に足を踏み入れたのは明治17年(1884年)7月24日のこと。その上川口村には、親友である大矢正夫が滞在し、脚気(かっけ)治療を行うとともに上川口学校の教員をしていました。上川口村の秋山宅に2泊した透谷は、甲州街道に出て富士登山に向かいます。そして登頂を果たしたあと東京に戻り、ふたたび上川口村の秋山宅を訪れて、そこに寄寓している大矢正夫に会ったのが同年11月の半ば過ぎ。それから翌年春までを秋山宅で大矢正夫と起居(たちい)をともにします。透谷が「富士山遊びの記憶」を執筆するのはその年の夏のこと。明治18年10月、大矢正夫に別れを告げに秋山宅を訪問してから明治25年7月の突然のような訪問まで、7年近くの歳月が過ぎていました。その7年間にあったことを次々と思い出しながら、透谷は人力車に揺られて午後10時頃に秋山宅に到着したのです。私が関心を持つのは、この7年間に透谷の周辺ではどのようなことがあり、また社会にはどのようなことがあったのか、ということですが、とりわけ透谷がなぜ富士登山を志し、その道中で彼が何を見聞し、それらの見聞から彼が何を思ったのかということ。上川口村の秋山宅から富士登山に向かったということは、甲州街道を小仏峠を越えて西へ進み、大月から左に折れて谷村を通過し、上吉田の浅間神社の脇から吉田口(北口)登山道を利用したものと思われる。時期は7月下旬。となるとこのコースも時期も、富士講の人々が白装束の一団となって富士登山をするコースおよび時期とぴったり重なっている。当時17歳(満年齢)の透谷は、どういう姿で富士登山をしたのか。下山コースは富士講と同じく須走口登山道であったのか(となれば足柄峠を越えて東海道に出たことになる)。どこで泊まったのか。途中の道々で彼はどういう農村風景を見、また人々からどういう話を聞いたのか。さまざまな興味深いところがあるのですが、その一端をうかがうことができるのが、彼の「富士山遊びの記憶」なのです。 . . . 本文を読む

2010.「露研」の旅─富士河口湖温泉 その2

2010-04-11 08:10:39 | Weblog
新宿に、日本鉄道品川線の停車場として最初の駅舎が建設されたのは明治18年(1885年)のこと。位置は現在よりもやや東寄りで、開業当時の利用者はごく少数だったという。馬場孤蝶は、新宿停車場ができる以前の新宿を目にしていますが、次のように記しています。「いわゆる馬糞の臭いと嘲(あざけ)られたのは余りに古い昔ではあるが、両側にある薄ぎたない暖簾(のれん)をかけて陰鬱(いんうつ)な大建物の間に、ぽつぽつと見る影もない小商店の介在していた時分から、今の繁華の街路までの発達は殆ど一足とびの観がある。」孤蝶が「今」としたのは大正12年(1923年)の関東大震災後。孤蝶は、新宿が「繁華の街路」になった理由として「停車場のお蔭、即ち、郊外開進の恩沢といはざるを得な」いとしていますが、確かに明治18年に新宿停車場ができたことにより、新宿はどんどん発展していったといっていい。甲武鉄道(現中央本線)の新宿~立川間が開通したのは、その4年後の明治22年(1889年)4月のこと(工事着工は明治21年6月)。営業開始は明治22年の4月11日でした。この甲武鉄道は同年8月には八王子まで延伸していますから、この時以後、新宿から八王子まで鉄道で行くことができるようになったということになります。この甲武鉄道を利用して、新宿から八王子まで明治25年(1892年)7月27日に乗車した人物がいる。その名は北村透谷。彼は「三日幻境」で次のように記しています。「この境(きょう=「幻境」のこと)、都を距(へだた)ること遠からず、むかし行きたる時には幾度(いくたび)か靴の紐をゆひほどきしけるが、今は汽笛一声新宿を発して、名にしおう玉川の砧(きぬた)の音も耳には入らで、旅人の行きなやむてふ小仏の峰に近きところより右に折れて、数里の山径(やまみち)もむかしにあらで腕車(わんしゃ)のかけ声すさまじく、月のなき桑野原、七年の夢を現(うつつ)にくりかへして、幻境に着きたる頃は夜も既に十時と聞きて驚きたり。」この日、透谷は八王子停車場に下り、そこから人力車で「幻境」すなわち「川口村字(あざ)森下」の秋山国三郎宅に向かったのです。夜の10時に秋山宅に到着したということは、透谷が新宿停車場から甲武鉄道の蒸汽車に乗り込んだのはおそらく夕刻であり、八王子停車場に着いたのが午後8時前後。そこから夜道を人力車で川口村へと向かったのです。 . . . 本文を読む

2010.「露研」の旅─富士河口湖温泉 その1

2010-04-10 06:17:37 | Weblog
20年来の、有志6名による恒例の「露研」の忘年度旅行が、今年も3月末に行われました。行き先は「富士河口湖温泉」。私が「御坂みち」を歩いた際、河口湖の産屋ヶ崎(うぶやがさき)を経由して富士吉田に向かった時に、そこから見える河口湖越しの富士山の姿に感動したことが大きい。その産屋ヶ崎から河口湖畔の遊歩道を歩いていった時に、左手の道路沿いに並んでいたのが「富士河口湖温泉」のホテル群であったのです。そのうち西寄りの数軒は、絶好のビューポイントとなっており、その部屋の窓からは河口湖の湖面越しに富士山のほぼ全容が見えるはず。露天風呂からも絶景の富士山を望むことができるはずだと確認しました。今回の「露研」は、メンバーの一人であるTさんが、勤続33年の定年退職を迎えるということもあって、いつもとはちょっと異なる特別企画をということで、初めて中央本線を利用し、富士山絶景露天風呂を味わえる富士河口湖温泉に行くことにしました。「富士山絶景露天風呂につかり富士山パワーで第二の人生を」、という企画です。以下、その一泊二日の旅の報告です。 . . . 本文を読む