鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

木下(きおろし)河岸 その6

2011-05-31 06:03:10 | Weblog
北総は石造物の宝庫であり、各種講中の文字塔や刻像塔などが数多く残されています。特に「百庚申(ひゃっこうしん)」の造塔は、水戸街道や木下街道など重要な街道筋に、文政年間の終わり頃から天保年間の初め頃にかけて始められていました。利根川や江戸川に沿った地方に集中しているということは、江戸地廻り経済圏の水運の隆盛と深い関係があるものと思われます。また文化・文政期は、江戸市民を中心とした遊山講の隆盛に伴い、木下河岸の旅人船(木下茶船)の需要が多くなった時期でもありました。すなわち香取・鹿島・息栖の三社詣や銚子遊覧の旅人が利用する河岸として大変な賑わいを見せたのが、この木下河岸でした。また木下河岸は、鮮魚輸送の要衝地でもありました。8月から4月にかけて、銚子で水揚げされた鯛・すずき・こち・ひらめ・鰹・鮪などは、「なま船」(猪牙船)に載せられて夕刻に銚子を発し、利根川を遡って翌日未明に木下河岸や布佐河岸に到着。そこからは馬の背に載せられて木下河岸の場合は、木下街道で下総の行徳河岸まで運ばれて、そこから「行徳船」で江戸川→新川→小名木川→日本橋川→日本橋へと運ばれました。銚子を夕刻出船した鮮魚は、日本橋の魚市において3日目の朝売りに間に合うようにするのがしきたりであったのです。木下河岸の河岸問屋吉岡家は木下茶船の船主であり、茶船利用者の食事や宿泊は吉岡家(問屋)を利用することになっていたし、また吉岡家は鮮魚荷物の口銭を取ることでも大きな利益を上げていました。とみてくると、文政8年(1825年)頃の木下河岸は、江戸市民を中心とする遊山客で大変賑わい、また江戸地廻り経済圏の隆盛と深く関係していたことがわかるのですが、ちょうどその時期に崋山一行がここを通り、また新吉原の遊女を招いての「飯盛女」設置の動きがあったことになるのです。 . . . 本文を読む

木下(きおろし)河岸 その5

2011-05-30 05:15:18 | Weblog
では、木下河岸における「飯盛女」設置による商売繁盛が順調に進んでいったかというと、実はそうではなく、文政9年(1826年)にいきなり関東取締出役(八州見廻り)による一斉検挙が行われて失敗に終わりました。近在から多くの男たちが集まるようになって風紀上の問題が生じるようになったり、他の宿場などからお客を取られるようになったことによる苦情が多発するようになったりしたことが、その関東取締出役による一斉検挙が行われた理由だと思われます。では旅籠に置かれていた多くの「飯盛女」たちは、その後、どうなったのだろうか。ふたたび新吉原に戻っていったのか。それとも他の遊郭地に散らばっていったのか。「たけ」「かめ」「すが」「はる」「ふく」「さく」「きよ」「志ま」など、竹袋稲荷神社の常夜燈に寄進者として名前を連ねている女たちのその後がどうであったのかは、もちろん記録には何も残されていません。 . . . 本文を読む

木下(きおろし)河岸 その4

2011-05-29 05:29:13 | Weblog
渡辺崋山一行が、河岸問屋の吉岡家で休憩をして、木下河岸から茶船に乗ったのは文政8年(1825年)の7月朔日(旧暦)のこと。木下河岸の旅籠に「飯盛女」を置くことの「聞き流し」(許可の内意)があって、村役人らが願書を出したのが同年6月23日のことで、河岸問屋の吉岡七之助と村方名主半右衛門、組頭五兵衛の3人が出府した(江戸に出た)のが7月3日のこと。出府する道筋は、もちろん木下街道で下総の行徳河岸まで歩き、行徳河岸(新河岸)から「行徳船」に乗って、江戸日本橋の小網町三丁目の行徳河岸に至るものであったと思われます。木下河岸に戻ってくる道筋は、その逆コース。そしてその年の7月下旬以降、木下河岸に「飯盛女」のいる旅籠が次々と開業していき、最初に開業したのが「三喜屋」で8~9人の「飯盛女」がいたようだ。榎本正三さんの「木下河岸の人々のくらし─後編─」によれば、「飯盛女」(遊女)の提供地は江戸の新吉原であったらしい。新吉原の遊女たちが、どういう経緯で、この木下河岸にやってくることになったのかはよくわからないが、七之助らが江戸に出た時にその手続きがなんらかの形で行われたものであるようです。新吉原から遊女たちの集団が木下河岸へと向かったコースは、やはり「行徳船」(河川)と木下街道(陸路)を利用するものであったに違いない。「三喜屋」の女たちも、また「新若松屋」の「すが」や「はる」などの女たちも、「布川屋」の「ふく」や「さく」などの女たちも、江戸の新吉原からやってきた遊女たちでした。その「飯盛女」たちの名前が刻まれた常夜燈が、翌文政9年(1826年)5月27日(旧暦)に竹袋稲荷神社に寄進され、それが現在も拝殿の左側に立っているという。 . . . 本文を読む

木下(きおろし)河岸 その3

2011-05-27 04:47:31 | Weblog
文政8年(1825年)から文政9年(1826年)にかけて「飯盛女事件」に関係して登場してくる人物は、河岸問屋吉岡家当主七之助、竹袋村名主半右衛門、同村組頭五兵衛、大森代官斉藤幸五郎、押戸屋勘右衛門、布川屋嘉助、遊女の、すが、はる、ゆき、とき、さん、ふく、さく、きよ、なか、みや、すみ、志ま、たい、といった女性たち。事の発端は、文政8年の4月上旬、大森陣屋(山城国淀藩の稲葉家陣屋)の代官斉藤幸五郎が、問屋七之助などに対し、「淀では飯盛女を置いたことで大変繁盛している。この木下河岸でも飯盛女を置いてみてはどうか」と提案したことにあるらしい。それで七之助や名主半右衛門らが動いたところ、6月20日に「聞き流し」(許可の内意)があったので同23日に願書を提出。7月4日には、七之助、名主半右衛門、組頭五兵衛が江戸に出て、深川新地の百歩楼と「飯盛女」のことなどについて談合を行っています。7月20日の帰国後、まず「三喜屋」が飯盛女を8~9人置き、その後、「布川屋」、「丸亀」、「海老須屋」、「松本屋」、「新若松屋」などが次々と飯盛女を置くようになったようです。すが、はる、ゆき、とき、さん、は「新若松屋」の飯盛女たち。ふく、さく、きよ、なか、みや、すみ、志ま、たい、らは「布川屋嘉助」方の飯盛女でした。 . . . 本文を読む

木下(きおろし)河岸 その2

2011-05-26 05:28:37 | Weblog
「木下(きおろし)」という地名は、竹袋村より利根川へ木を下(おろ)すということから由来しているらしい。ということは竹袋村というのは木材の産地であったということになり、ここからかつては利根川の渡し場であった木下へと木材が村人によって運ばれ、そこから利根川を利用して各地に運ばれたということになるのだろうか。木下河岸の発展のきっかけとなったのは、もとは竹袋村にいた吉岡家でした。竹袋村にいた吉岡家が、元禄8年(1695年)に木下に居を移し、享保年間(1716~1735)に河岸問屋としての仕事に専念するようになってから、木下河岸は、利根川水運の要衝地として発展していきました。渡辺崋山がこの木下河岸に立ち寄ったのは文政8年(1825年)の7月朔日(ついたち)のおそらく午後のこと。手賀沼遊覧の「さっぱ舟」から下りて、利根川を航行する「茶船」に乗り換えたのですが、そのためには河岸問屋である吉岡家で茶船に乗る手続きをしなければなりませんでした。ここで手続きをしている時に、休憩かたがた、湯浴みをしてその日の汗を落としてさっぱりとしてから、吉岡家を出て、「落堀(おとしぼり)」に架かる「土橋」を渡って、利根川の川岸に碇泊する「茶船」の一艘に乗り込んだのです。その文政8年頃の吉岡家の当主は誰であったのか、吉岡家の屋敷のようすはどうであったのか、木下河岸の当時のようすはどうであったのか、等々を印西市立図書館で調べてみました。 . . . 本文を読む

木下(きおろし)河岸 その1

2011-05-25 05:48:33 | Weblog
木下(きおろし)河岸についてさらに調べるべく、印西市立図書館へ足を向けたのはゴールデンウィークも後半の土曜日でした。JR成田線木下駅に到着したのは8:10。図書館の開館時間にはまだ間があるので周辺をしばらく散策し、また図書館を出てからは、調べたことで気になったところを訪れてみることに。またそこから木下河岸をふたたび訪れようとした時、「吉岡まちかど博物館」のボランティアの解説員の方とお会いすることができ、いろいろと詳しい話を聞かせてもらうことができました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その最終回

2011-05-23 05:32:19 | Weblog
木下(きおろし)河岸は、利根川と手賀沼の落堀(おとしぼり)の合流点に発達した河岸。河岸としての発達のきっかけを作ったのは竹袋村から出てきた吉岡家。吉岡家はこの木下河岸の河岸問屋として大きな勢力を、元禄の頃より明治・大正の初め頃まで持ち続けたようだ。木下河岸からは「茶船」と呼ばれる三社詣や銚子遊覧の旅人用の船が出ます(これを「木下茶船」という)。この茶船の乗船客は、食事や宿泊をする場合、河岸問屋の吉岡家を利用することになっていたという(山本忠良さんの「木下河岸と鮮魚輸送」による)。手賀沼遊覧の「さっば舟」から下りた崋山一行は、さっそく河岸問屋の吉岡家へと向かい(当時の当主は七之助)、そこで湯浴みをし、しばしの休憩をとってから、茶屋の一つで塩せんべい(十六文)を購入し、「土橋」を渡って茶船に乗り込みました。この木下茶船は長さ4間(約7mほど)の、中央に屋根がある屋根船で8人乗り。船の所有者は近在の百姓で、多くは夫婦による農閑稼ぎ。木下街道を利用して江戸方面からここまでやってきた旅人たちは、ここから茶船に乗って、三社詣(鹿島、香取、息栖の各社)や銚子遊覧などに、利根川を利用して向かいました。茶船に乗り込んだ崋山一行も、利根川筋の神崎(こうざき)経由で津ノ宮へと向かいますが、この津之宮は香取神宮へと向かうための上陸点でした。 . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その12

2011-05-22 05:28:54 | Weblog
崋山一行が亀成橋あたりから「さっぱ舟」に乗り、手賀沼遊覧を経て木下河岸の「土橋」下に到着したのは、文政8年(1825年)7月朔日のお昼過ぎ頃であったろうか。「土橋」下から土手を上がって利根川の悠々たる流れを見た一行がまず向かったのは、おそらく河岸問屋の吉岡家(その時の当主は七之助)であったと思われる。崋山の日記にも「問屋 七之助」とあります。木下河岸はもともとは竹袋村の新田であり、利根川を渡る「渡し場」があったところ。吉岡家はもとは竹袋村に居を構えており、手代に問屋的業務を任せていましたが、元禄8年(1695年)に木下に居を移し、享保年間(1716~1735年)には問屋業に専念するようになるとともに、旅人の宿泊や食事の賄いもするようになりました。この河岸問屋吉岡家を含む木下河岸のようすは、『利根川図誌』の「木下河岸三社詣出舟之図」(安政5年〔1858年〕)に描かれています。手前の利根川沿いの河岸場にずらりと並ぶ屋根付きの船が「木下茶船」で、利根川を帆を立ててて航行しているのが高瀬船。河岸場から上がった土手(向堤)に並ぶ建物が茶屋や旅籠で、そこから向こう側の土手(本囲堤)へと「落堀(おとしぼり)」を渡る橋が「土橋」。「土橋」を渡った土手上の堀際にも茶屋らしき小さな家が並んでいます。その「本囲堤」上の通りが木下街道で、その向こうの丘のふもとにある「問屋」と記された建物が、河岸問屋の「吉岡家」。門前の広場の左手には釣瓶井戸があり、街道に面したところには櫓形の高札場があります。その広場の右手には、茶屋四軒を隔てて旅籠の河内屋が建っています。崋山一行が手賀沼遊覧の「さっぱ舟」から下りたのは「落堀」に架かる「土橋」の下。この絵には描かれていませんが、「土橋」下の「落堀」には、多数の「さっば舟」が碇泊していたはずです。 . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その11

2011-05-21 06:26:38 | Weblog
弁天川は、寛永13年(1636年)に「弁天堀」として掘削されたもので、閉塞された手賀沼の水を利根川に落とすのが目的であったらしい。この新たに掘削された弁天堀の幅は7間(約13m)。享保12年(1727年)に12間幅(約22m)に広げられ、また「六間堀」が新たに掘削されました。この「弁天堀」と「六間堀」が一つに合流して、やがて利根川に注ぎ込むのですが、その合流点手前の両側が土手(堤)となっていました。利根川に面する左側の土手が「向堤」で、右側の土手が「本囲堤」。木下街道は、この「本囲堤」のところで終点となる(つまり「木下河岸」に到着したということ)。両側の土手の間には、「向堤」と「本囲橋」を結ぶ橋が架かっており、それが「木下土橋」(長さは12間で幅は2間〔約3.6m〕)でした。その「土橋」の下は、香取・鹿島・息栖の三社詣や銚子遊覧をする旅人を乗せる「茶船」、また手賀沼水運を担当する「さっぱ舟」が多数碇泊し、また頻繁に出入りするところでした。(『印西町の歴史 第二号』「木下河岸と鮮魚輸送」山本忠良による) . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その10

2011-05-20 05:06:37 | Weblog
「発作新田」の「発作」は、「ほっさ」と呼ばずに「ほっさく」と読む。この「発作」には、「海野(かいの)屋作兵衛頌徳碑」があるという。この海野屋作兵衛は江戸日本橋小田原町において鮮魚を扱う御用商人であり、天和2年(1682年)に亡くなっています。なぜこの「発作」に江戸の鮮魚商人海野屋作兵衛の頌徳碑があるかといえば、彼こそが手賀沼の干拓による水田開発を初めて行った人物であり、「発作新田」が、海野屋作兵衛によるその手賀沼水田開発の発祥地であったからです(『近世印西新田』山本忠良〔崙書房〕による)。同書によると、「発作新田」は、「手賀沼三九ヶ村開墾の発祥地」であり、ほかに勘定方役人井沢弥惣兵衛による新田開発や、天明年間の田沼意次による新田開発などが行われているとのこと。発作新田・浦部村新田・津幡新田・白幡新田などは代官支配所(天領=幕府直轄地)であり、亀成新田は浜松藩支配であったという。木下河岸のある一帯は、もともとは台地上にある竹袋村の水田があったところであり、木下河岸はもともとは利根川を渡るための「渡し場」があったところだという。その竹袋村に居住していた吉岡家が、元禄8年(1695年)に水田のある利根川の岸に居を移し、そこで問屋業を始めたのが木下河岸の起こりであり、その木下河岸は弁天堀や六間堀を通して、利根川ばかりか手賀沼水運とも緊密に結びついていました。亀成川からは「さっぱ舟」に乗って、布佐を初めとして手賀沼沿岸各地に行くことができ、また手賀沼と堀を経由して木下河岸から利根川に出ることもできたのです。その手賀沼周辺には、水辺を干拓して開かれた水田(新田)が広々と広がり、その広がりの向こうに丘陵があって、その丘陵のふもとやその丘陵の奥に集落が点々と存在していました。 . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その9

2011-05-19 05:12:42 | Weblog
『手賀沼の今昔』星野七郎(崙書房出版)によれば、浦部村新田・亀成新田・発作新田などでは、寛政10年(1798年)頃より鳥猟が始められています。鳥を獲るための網を張る場所のことを「張場(はりば)」といいますが、浦部・発作・亀成・布瀬などの各張場が手賀沼沿岸にあり、猟期は秋から冬にかけて。獲られた水鳥の出荷先は江戸千住の問屋であったらしい。もともと手賀沼沿岸一帯は水戸家の御鷹場であり、そこで獲られた鴨は、正月に将軍へ献上されるものであったようだ。この手賀沼で、鳥猟や魚を獲ったり、また藻や水草を採ったりする舟のことを「さっぱ舟」と言いました。全長は4mほど。この「さっぱ舟」は手賀沼の通い小船としても利用されていました。手賀沼沿岸で鳥猟や漁撈、また藻刈(「もくとり」)に従事したのは、浦部・発作・亀成・布瀬などの農民であったから、その「さっぱ舟」の持ち主はそれらの村の農民であり、秋から冬にかけては鳥猟に従事し、またそれ以外の農閑期には手賀沼の通い小船として「さっぱ舟」を操って、旅人や物資の輸送などに従事していたものと思われる(「農間稼ぎ」として)。木下(きおろし)街道と亀成川が交わるところ、つまり亀成橋のたもとには、そういった付近の農民が操る「さっぱ舟」が碇泊し、そこから亀成川や手賀沼を利用して、布佐などの対岸に渡ろうとする旅人などを待ち構えていたのではないか、そう私は推測しました。 . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その8

2011-05-14 05:56:31 | Weblog
崋山を含む一行3名は、白井宿の「藤屋」で宿泊し、翌7月朔日(旧暦)の辰の刻(午前8時頃)、「藤屋」を出立しています。夏の日としてはかなり遅目の出立の時刻であるのは、椎名内村の弥右衛門との話が夜遅くまで続いたからだろうか。それとも木下河岸から「木下茶船」という夜船に乗ることを考えると、それほど急ぐ必要はないものと判断したからだろうか。この白井宿から浦部までは徒歩でおよそ1時間半ほど。長々と続いた下総台地上から、手賀沼や利根川沿いに広がる水田地帯へと木下街道を下り始めたのは、現在で言えば午前9時半前後であったものと思われます。成田街道の八幡宿を過ぎて左折し、木下街道に入ってから、崋山たちは下総台地上に広がる「小金牧」(うち「中野牧」と「印西牧」)という牧場の真っただ中を歩き続けてきました。途中、神崎川のところでいったん下ったものの、すぐに神々廻(ししば)坂を上がって、ふたたび台地上の牧場を歩いてきました。しかし浦部村を過ぎたところで、下り坂の向こうには広大な水田の広がりが見えてきました。その広がりの中には手賀沼や利根川(「坂東太郎」)の流れがあるはずです。水田が見られない下総台地上を長々と歩いてくると、この下り坂から見える水田地帯の景観の広がりは感動的です。ここを下れば木下河岸までは大森宿を経てもうあとわずかですが、崋山一行は、下ったところから街道をそれて左へと入っていったようだ。崋山の日記には、「右は大森、左亀成」とあり、それから「手賀沼、手賀島、布佐」などの地名が出てくるとともに、その地の由緒などが簡単に記されているからです。『渡辺崋山 優しい旅びと』の著者芳賀徹さんも、「昼にはまだ早いからと、崋山たちは浦部か亀成から手賀島のほうに迂回したかもしれないのだ」と推測されています。 . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その7

2011-05-13 05:52:03 | Weblog
「小金五牧」のうち「印西牧」は、今まで歩いてきた白井市神々廻(ししば)やこれから歩くであろう印西市浦部もそれに属し、現在の白井市と印西市にまたがる広大なものでした。牧場と村の境界には堀があり、その牧場側には高さ1~2m、村側には高さ2~3mの土手が設けられていました。堀を掘って出た土を、その両側に土手として盛り上げたものでしょう。その土手のことを「馬除土手(まよけどて)」といいますが、たとえばJRAの競馬学校の手前(市川側)を左手に入ったところに、「中野牧野馬除土手」の遺構があるようですが、今回はそれを見ることはありませんでした。村の飼い犬や野良犬が牧場に進入して馬に危害を加えることを防ぐ目的で造られたものであるらしい。しかしこの下総台地の幕府直営の広大な牧場は、明治維新になると開墾地として東京の窮民に開放され、開拓がなされていきました。「小金牧」「佐倉牧」内で一番最初に開墾されたのが「初富」で、十一番目に開墾されたのが「十余一(とよいち)」。「神々廻」に続く「十余一」一帯は、「十余り一」、すなわち11番目に開墾された地域であったのです。 . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その6

2011-05-12 05:17:55 | Weblog
『旭市史 第三巻』におさめられている史料から、文政8年(1825年)前後のものを絞って、名主に「弥右衛門」という者がいないか探してみました。すると文政8年の「八手網冥加分一に付下知書」に出てくる椎名内村の名主は「栄次」、組頭は「半蔵」となっていて、名主は「弥右衛門」ではありません。ほかに出てくる名主は「重右衛門」など。しかし文政12年(1829年)7月の「触書請書」の中に「彌右衛門」という名前があり、この人物が崋山が白井宿「藤屋」で話を交わした相手であったかも知れない。しかしその「彌右衛門」が文政8年の6月ないしそれ以前に椎名内村の「名主」であったかどうかは、結局確認することはできませんでした。 . . . 本文を読む

2011.5月取材旅行「鎌ヶ谷~白井~木下河岸」 その5

2011-05-11 06:50:37 | Weblog
崋山が木下(きおろし)街道白井(しろい)宿の「藤屋」という旅籠で話を交わした、弥右衛門の居住する椎名内村というのは、現在の千葉県旭市椎名内に相当します。『旭市史 第一巻』や『同第三巻』によれば、下総国海上郡椎名内村であり、東は野中村、西は足川村と接し、北は足洗村および東足洗村、そして南は九十九里浜であって太平洋が広がっていました。太平洋に面して約500mの海岸線を持つ村であり、村のほぼ中央から北側が「岡」と呼ばれて田んぼが広がり、南側が「浜」と呼ばれて漁業をもっぱらとし、「浜」には道沿いに漁家や商家が軒を並べて一つの集落をなしていました。幕末までの村高は318石。戸数は150ほど。地引網(一張)と八手網(七張)を所有して大量の鰯を獲るともに、小舟や手繰網を使ってひらめや赤えいなどを獲っていたようです。椎名内村の浜では主として地引網や八手網による漁業が行われ、「野浜高」や「船役」といった漁業年貢を納め、村の名主は地引網主でもありました。ということは、崋山が白井宿の「藤屋」で話を交わした弥右衛門は、椎名内村の名主であって地引網主でもあり、おそらく「浜」と呼ばれる海岸沿いの道筋にある集落に居住する者であったということになります。 . . . 本文を読む