鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その9

2015-04-21 13:07:22 | Weblog
崋山が神島で聞き取ったさまざまな情報の中で、私が興味関心を持つのは、又左衛門や又右衛門が語った又左衛門家の生業(なりわい)の内容と、「おまつという女」の語った自分の経歴、海女や島の生活の様子です。この2つの話に共通するのは、島の生活が「諸物」の「交易」によって成り立っているということ。島で獲れた漁貝類を売買したり、生活必需品を手に入れる方法は、「諸物」を「交易」する又左衛門家や三四郎家が所有する「廻船」によって成り立っていたということです。その「廻船」は大型の「廻船」(長距離航海の船)ではなく、近・中距離を航行する小型の「廻船」。船の呼び名としては「いさば船」と呼ばれる100石積前後の船(帆船)であったと思われます。崋山は以下のように記しています。「この嶌にて三四郎、又左衛門といへるは、網船の主にて元〆といふものなり。先祖より遠沖に漁する事を禁じ、島の長としてたゞ猟の売買をなし、尾勢志紀参に往来して諸物を交易せるのミなり。」 「いさば船」に乗り込んだ船乗りたちが、伊勢湾や三河湾、熊野灘あたりを舞台に各地を往来して、漁獲物の売買をしたり、諸物の交易を行って、利益を上げていたことになります。東海岸の白い岩の上で日の出を眺めていた崋山たちを、「朝かれい(朝食)の用意が出来ています」と呼びに来た又左衛門家の「小もの」のように、又左衛門家には「いさば船」の船乗り(水主)など多数の「小もの」(使用人)がいたものと思われます。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その8

2015-04-21 06:10:34 | Weblog
崋山は又左衛門やその弟又右衛門、島の漁師や女たちからさまざまな情報を積極的に聞き取っています。「岩の花」のこと、「左野の井」という「目薬」のこと、海を吹く風のこと、「いせ海老」や「シマ海老」のこと、八代(やつしろ)神社に関すること、大津波のこと、「島長」としての生業(なりわい)のこと、履物のこと、女たちの服装のこと、「立網」を使っての沖合いでの漁のこと、ワカメや昆布の採取の方法や海女の漁の仕方のこと、家数や船数、産物や行事、八代神社の遷宮のこと、寛政年間(12年)の「トウリンボウ」と呼ばれる大風による大海難事故のこと…。とりわけ崋山が強い関心を持って聞いたことは、太平洋のはるか沖合に出た時に「いぎりすなどいふ黒船」を見掛けるようなことはないか、ということでした。翌4月17日(陰暦)の早朝、島の東海岸に出掛けて日の出を眺めた時も、崋山は太平洋の大海原の向こうに「アメリカ」という国を意識しています。「予云(よいう)」と、崋山がわざわざ自分から聞いたことをこの部分の日記に記しているのは、「この島人の漁ハ大洋二三十里外(実際は「三里」ほど南の沖合-鮎川注)にこぎ出で釣網する事なれバ、かのいぎりすなどいふ黒船ハ見かくる事あるや」と問うたことだけであり、それだけ崋山が強い関心を持っていたことを示しています。その問いに対して、島人はどう答えたか。「近年中国の船が漂着したことがあって、それについては長崎にその漂流船を送ったことがあるが、黒船というものは極めてまれであり、ただ遠い沖合いを航行しているのを見掛けることがあるばかりで、それがどういうものかはよくわからない」ということでした。「黒船」のことをよく知っている者は誰もいなかったということであったのですが、崋山は、この島を支配する鳥羽藩主の厳命があるものだから、島人たちは詳しくは知らないと言い張っているのであろうと推測しています。つまり、本当はいろいろと知っているのではないか、知っているのだけれども藩庁から厳しくお達しを受けているものだから言わないだけだ、と崋山は推測しているのです。崋山がなぜそのような推測をしたかはわからない。しかしそれなりの根拠があってそう推測したのでしょう。その根拠についてはよくわかりませんが、相州浦賀の近辺や渥美半島東海岸の村々を歩いた時に、どこかでそのような情報を耳にしたのかも知れません。 . . . 本文を読む