鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その最終回

2008-12-17 06:17:37 | Weblog
『金沢の古道』(横浜市金沢区役所)によると、金沢には、六浦道(鎌倉道)・金沢道(保土ヶ谷道)という重要幹線のほかに、白山道・浦賀道・野島道という古道がありました。このうち野島道は、現在の町屋神社の前、金沢小学校の前を通って野島へ至るもの。この野島には湊があって、三浦半島の大津・浦賀方面ばかりか房総半島の富津(ふっつ)方面へも船で行くことができました。琵琶島弁才天の突堤にあった渡し場(ベアトの写真が残っています)からは、船で洲崎村の渡し場へ行くことができましたが、そこから野島湊はほんのしばらくの距離でした。幕末になって異国船が頻繁に江戸湾に接近するようになると、三浦半島沿岸の防備対策がとられるようになり、文化年間に幕府が会津藩や白河両藩に三浦半島や房総半島の防備を命じたのをきっかけとして、金沢の地は、保土ヶ谷道と三浦半島・房総半島への海上交通を結ぶ中継点として重要性を帯びることになり、急速に活況を呈するようになりました。江戸から東海道を通って保土ヶ谷宿まで来て、そこから金沢道に入り、町屋村から野島道に入って野島の湊から船に乗ったのです。金沢にやって来る人々は、もちろんそういった江戸湾防備に関わる人々たちだけではなかったことは、今まで見てきた通りで、「金沢八景」を楽しむために、すでに江戸時代中期の元禄時代から大都市の江戸やその近郊の人々たちがここにやって来ました。とくに文化・文政期以降になると、全国的な経済発展を底流として多くの庶民が物見遊山に出るようになりましたが、江戸から一日で行くことができる景勝地として「金沢八景」の人気は高まり、多くの人々が訪れるようになりました。さらに開国が行われて横浜に外国人がやってくるようになると、やはり横浜から手軽に行ける景勝地の一つ(鎌倉・江ノ島への中継点でもある)ということで、金沢にやってくる外国人も多くなりました。さらに金沢の地を行き来したのは観光客ばかりではない。大山詣(もうで)の人々が「夏山」の登拝期間中に白い装束姿で金沢の道を往来していました。彼らは房総半島からやってきた信者たちで、対岸の上総国富津から船に乗って野島浦に上陸し、鎌倉道(六浦道)→鎌倉→東海道藤沢宿経由で大山に向かったのです。海陸交通の接点であった野島浦や町屋村には、海上交通や海上交易などに携わる人々も数多く居住していたということです。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その10

2008-12-16 06:49:25 | Weblog
「武陽金沢八勝夜景」は、内川入江干拓後の能見堂からの眺望を描いたもので、広重の晩年の絶品ですが、「広重のみならず江戸時代に描かれた金沢八景の風景画の最高峰と見られる作品」であるとされています。この作品は広重晩年の安政4年(1857年)に描かれました。広重はその6年前の嘉永4年(1851年)の初夏、阿波藩士武谷氏の妻らと鎌倉・箱根方面に写生旅行をした時に、ここ金沢に立ち寄っていますし、またそれをさかのぼる11年ほど前、天保11年(1840年)頃に、金龍院(ビューポイントの一つ「九覧亭」のあるお寺)の求めに応じて「金沢八勝図」(2種類・各8枚ずつ)を描いています。またその4年前の天保7年(1836年)頃には、8枚セットの連作である大錦版「金沢八景」を刊行しています。この「金沢八景」や晩年の「武陽金沢八勝夜景」は、金沢八景を題材にした浮世絵のうちもっとも代表的なもので、称名寺の金沢文庫へと通じるトンネルに飾られていたのは、この「金沢八景」でした。天保7年(1836年)から安政4年(1857年)の20年余の間には、金沢八景の景観はかなり変貌しています。というのは3度目の新田開発が九代永島段右衛門の主導により弘化4年(1847年)より着工され、嘉永2年(1849年)にはいわゆる「泥亀新田」が復興していたからです。内川入江の一部は干拓されて大規模な新田が生まれていたのです。また嘉永4年(1851年)には平潟新田が整備されて塩田が復活していました。広重は、金沢八景の情趣あふれる美しい風景に魅せられた一人でしたが、その変貌にも敏感な人であったと思われます。嘉永4年(1851年)の初夏、金沢を訪れた広重の目には、干拓が行われて内川入江に生まれた新田や、また新田が整備されて復活した平潟の塩田の風景が写っていたことでしょう。かつての金沢八景を知る広重にとって、その光景は感慨深いものであったに違いない。彼には、その後の金沢八景の急速な変貌も予感されていたのかも知れない。晩年の作品である「武陽金沢八景夜景」は、そういう予感のもとに、金沢八景を愛した広重の渾身の作であったと言えるでしょう。この広重は、金龍院の求めで金沢八景の風景を、一枚ずつ小判の浮世絵に描きました。手軽な土産物(みやげもの)として普及したと思われますが、それを描くために広重が滞在した宿は「千代本」か「東屋」だったでしょうか? . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その9

2008-12-15 05:17:09 | Weblog
風景画・絵地図が大量に刊行された景勝地として、金沢八景の右に出るところは少ない、といわれます。『図説かなざわの歴史』(金沢区制五十周年記念事業実行委員会)の最初のところには、谷文晁(ぶんちょう・1763~1840)の『公余探勝図』「武州金沢昇天山九覧亭旧跡眺望」という絵が掲載されています。これは寛政5年(1793年)に描かれたもので、九覧亭のやや北寄りの地点からの風光を描いています。左には瀬戸大明神があり平潟湾に突き出ているのが琵琶島弁才天社。瀬戸橋が描かれていますが、瀬戸大明神と瀬戸橋の間には茶屋(旅宿)のようなものも何もない。洲崎村の右手に野島があり、その洲崎村と野島の間にある松原は古くからの砂洲。洲崎村の奥には称名寺のある稲荷山などの丘陵が描かれています。野島の背後右手に重なる島は夏島。白帆の浮かぶ江戸湾の向こうにうっすらと見えるのは房総半島。今から200年以上前の九覧亭からの眺望が見事に描かれています。『図説かなざわの歴史』の記述によると、今から約7500年前、海面は今よりもおよそ15mほども低く、野島や夏島は陸地が突き出た岬の先端であったという。また洲崎村から野島へと延びる松原は、縄文時代にできた砂洲で、古い平潟湾はここが開いていたのだとも。この文晁の絵には、洲崎村から町屋村を経て左手丘陵に入っていく「金沢道」も、また町屋村から野島湊へと続く「野島道」も描かれています。 おそらく文晁は、江戸から東海道保土ヶ谷宿→「金沢道」経由か、東海道藤沢宿→江ノ島→鎌倉→「鎌倉道(六浦道)」経由で、ここ金沢にやってきたのでしょう。このどちらかの道を歩いて金沢にやってきた絵師の1人に歌川広重がいます。彼は「金沢八景」を見て歩き、有名な『金沢八景』を描きました。この作成年は天保7年(1836年)頃とされています。時に広重39歳の頃。広重はそれからもたびたび金沢を訪れています。嘉永4年(1851年)には、阿波藩士武谷氏の妻女や友人一行とともに写生旅行のために箱根まで東海道を往復していますが、その際、この金沢にも立ち寄っています。また安政4年(1857年)には『武陽金沢八勝夜景』(蔦屋版)を描いています。これは能見堂から野島方面を眺めた風景で、中央に野島、その左に烏帽子岩、さらにその左に夏島や猿島が描かれています。つまり広重はたしかに「金沢道」を歩いているのです。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その8

2008-12-14 08:11:22 | Weblog
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の「横浜」を閲覧してみると、「能見堂」・「金沢八景」・「金沢」・「金沢の瀬戸神社」・「野島の集落」・「九覧亭からの平潟湾」・「渡し舟(6)」などの古写真が多数出てきます。撮影者は、小川一真・ステルフリード・鈴木真一・臼井秀三郎・ベアトなど。多くは撮影者未詳になっています。「渡し舟(6)」は彩色写真ですが、これは『F.ベアト幕末日本写真集』P45下の写真と全く同じもの(これに彩色したもの)ですから、「撮影者未詳」となっていますが、フェリーチェ・ベアトが撮影したもの。「年代未詳」となっていますが、おそらく幕末のものと推定されます。この写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』では、「金沢の渡し舟。平潟湾を渡るものであろう」となっていますが、『F.ベアト写真集2』では、「琵琶島弁天の護岸を利用した船着場。平潟湾を野島まで渡す舟であろう。乗船客の多くは房総方面からの大山詣などの旅人だった」と詳しい説明になり、さらにこの「メタデータ・データベース」では、それに加えて、「琵琶島弁天は今も、金沢シーサイドラインの終着駅、金沢八景駅の近くに、写真に写っている白い幹の柏槙の木ともども現存する」とさらに詳しい説明になっています。いずれにしろ、琵琶島弁天の突堤の護岸を利用した船着場であることは間違いない。『F.ベアト幕末日本写真集』P44の写真でいえば、中央の琵琶島弁天のある突堤の向こう側(この写真からは見えない)の岸辺寄りに、この船着場があったと思われます。ベアトはこの写真を、旅宿「千代本」の前の砂浜(干潮で干潟になっていた)から撮ったものと思われます。背後に見える丘陵や人家は、六浦方面のものであるに違いない。見えませんが、船着場のある突堤の向こう側には入江があり、その向こうが金龍院(この境内に九覧亭がある)などがある陸地であったのです。「乗船客の多くは房総方面からの大山参詣などの旅人と考えられる」とありますが、服装から考えてみると、私にはそのようには思われない。「金沢八景」や、あるいは鎌倉・江ノ島方面への旅行を楽しんだ裕福な家族たちや僧侶、また渡し舟の船頭たちではなかったか。ベアトは彼らに依頼して、船着場に集まってもらい、それぞれの座り位置・立ち位置などを細かく指示して、ポーズを取ってもらったのでしょう。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その7

2008-12-13 06:46:33 | Weblog
「金沢八景」とは、野島水道から入り込んだひょうたん形の入り江(平潟湾・内川入江)を中心に選ばれた八つの景色のこと。この「金沢八景」を楽しむために、江戸から数多くの人々が訪れるようになったのは江戸中期の元禄年間(1688~1704)頃からだという。この「金沢八景」を描いた風景画や絵地図は大量に刊行され、その量としては「金沢八景」の右に出るところは少ないとされています。この「金沢八景」を見るために金沢に足を運んだ人々の中には、広重もいれば、五雲亭貞秀もいれば、フェリーチェ・ベアトもいる。またアーネスト・サトウもここを訪れています。広重や貞秀は浮世絵を描き、ベアトは銀板写真を撮り、サトウは旅日記を書き、後に『明治日本旅行案内』をまとめました。この「金沢八景」を望む絶好のビュー・ポイントとして、二つの地点が知られていました。一つは能見堂。ここは「金沢道」の沿道にあって丘陵の上であり、「金沢八景」の全体を遠望することができました。「八景ハすべて能見堂にあり」(鎌倉志)と言われました。もう一つは九覧亭。瀬戸の金龍院という禅宗のお寺の境内にあった展望台のことで、ここからは真下に平潟湾を望むことができました。瀬戸橋・琵琶島弁天・瀬戸明神(神社)・野島などを間近に見ることができ、何よりも瀬戸の旅宿や茶屋から散歩感覚で手軽に行ける。金沢随一の展望台として賑わったところでした。広重もベアトも、おそらく貞秀もサトウも、この両方を訪れているはずです。サトウ編著の『明治日本旅行案内』には、次のように記されています。「金沢という地名は十三の村落を一つにまとめた総称であり、洲崎はその一つである。村田屋のすぐ先に小さな瀬戸の神社があるが、これは東海道沿いの宏大な三島神社の祭神を祀っているもので、頼朝が創設したといわれている。さらに少し先へ進むと左側に小さな仏寺があり、六浦の入江の有名な風景を望むことができる。」この「小さな仏寺」というのが金龍院で、「六浦の入江の有名な風景(金沢八景のこと─鮎川)を望」める地点が、その境内にあった九覧亭でした。さてここに出てくる「村田屋」というのは、どこにあったのか。「洲崎村のはずれ」にあり、外国人を宿泊させることに難色を示さず、さらに「すぐ先に小さな瀬戸の神社がある」。となると、瀬戸橋と扇屋の間に新しく建てられていたあの擬似洋風の2階建ての旅宿ではなかったか。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その6

2008-12-12 06:33:55 | Weblog
『明治日本旅行案内』に「橋の手前にある吾妻屋の主人は外国人の受け入れを喜ばない」とある「吾妻屋」というのは「東屋」のことで、『F.ベアト写真集2』のP33下の写真右端中央に写っている茶店(旅館)がそれ。写真で見る限りでは道(「金沢道」)に沿って板塀があり3棟ばかりが並んでいます。真ん中の建物に玄関が見えます。2階建てで、この2階の窓からは平潟湾およびその周辺の美しい風景を望むことができたはずです。2階家であるのは「扇屋」も「千代本」も同様。『明治日本旅行案内』の編著者の一人はアーネスト・サトウ。サトウは生麦事件直前の1862年9月(西暦)に初めて来日。英国公使館のきわめて優秀な通訳官また書記官として激動の幕末・維新期を過ごし、1869年(明治2年)に第1回目の日本での勤務を終えました。しかし翌1870年(明治3年)に再び来日。それから途中2年間の帰国期間を含むものの1883年(明治16年)まで英国公使館に勤務しました。この日本滞在中に、サトウは日本各地を積極的に旅行しました。1870年から1882年までの旅行回数は35回、延べ日数にすると実に約450日に及ぶという。この旅行での見聞をサトウはこまめに日記に書き留めていました。1879年10月29日、サトウは親友であるディキンズ宛ての手紙で、「私が見聞したことや、日記に書き留めた記録などをもとにガイドブックの草稿を書いていますが、大変に疲れます」と記していましたが、この作業によって完成したガイドブックが『明治日本旅行案内』でした。ということは、「関で最良の旅宿は石川屋である」「洲崎村のはずれにある旅宿村田屋にたどり着く」「吾妻屋の主人は外国人の受け入れを喜ばない」といった記述は、1879年(明治12年)以前の情報(自らの体験にもとづいた)であるということになる。ベアトがP33の写真をいつ撮ったのかは確定できませんが、明治に入ってからのものであることは確かです。ベアトは明治17年(1884年)11月29日に離日しているので、ベアトの日本を写した写真はすべて明治17年以前のもの。斎藤多喜夫さんは『幕末明治 横浜写真物話』で、ベアトの「写真家としての日本での活動は、1871年くらいで終わると考えてよい」とされています。であるならば、金沢を写したベアトの一連の写真は明治の初期に撮られたものであると絞り込むことができそうです。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その5

2008-12-11 06:10:42 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』のキャプションによれば、金沢は、塩田があることと、近くでいろいろなおいしい魚が獲れることで有名でした。また1万石の大名である米倉丹後守の陣屋がある、とも書かれています。ここには六浦藩というのがあって、藩主は米倉氏でした。このあたりの唯一の大名で、したがって参勤交代で江戸への行き返りに利用した道(参勤交代路)は「金沢道」でした。あの泥岩が露出した「切り通し」のある山道を、大名を乗せた駕籠(乗物)を中心とした大名行列が通過していたということになります。同じくキャプションには、「横浜を訪れた人が数時間しかなければ、12マイルほど離れた景勝地、金沢へ馬で行くとよい」とあります。そこへは「外国人観光客がしばしば訪れることから開業した、居心地のよい茶屋」があり、その茶屋は「水辺にあるので平潟湾の美しい干潟がよく見える」という。その茶屋が写っている写真が3枚あります。『F.ベアト幕末日本写真集』のP44と、P45の上の写真、そして『F.ベアト写真集2』のP33の下の写真。『幕末日本写真集』P44のは瀬戸にある金龍院というお寺の境内にある「九覧亭」という展望台から琵琶島弁財天を中央に見たもので、その視点をやや右手に移したものが、『写真集2』のP33下の写真。しかし同じ時期に写されたものではありません。ということは、ベアトは少なくとも2回は金沢の「九覧亭」を訪れていることになります。2枚の写真を較べてみて、どこが違っているのか。まず平潟湾の様相が変わっています。後者の方は干潟が露出しています。これは引潮の時に写せばこうなるのかも知れない。二つ目は、瀬戸橋左手の茶屋の数が増えています。前者では、「千代本」と「扇屋」の2軒ですが、後者の写真では「扇屋」の右隣りにもう1軒、やや擬似洋風2階建ての茶屋が写っています。後者の写真の右端中央に茶店が見えていますが、これが「東屋」。これは前者の写真にはアングルの関係で写っていないだけで、安政5年(1858年)にここへ新築・移転したもの。三つ目は、瀬戸橋向こうに延びる堰堤の上に植えられている木の大きさが違う。後者の方が一回り大きく成長しているのです。以上から、『写真集2』のP33下の写真は、幕末のものではなく、明治に入ってから金沢にふたたび(?)訪れたベアトが撮ったものだと推定することができるでしょう。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その4

2008-12-10 05:57:11 | Weblog
金沢区役所発行の『金沢の古道』によると、金沢区には五つの古道が走っています。①六浦道②浦賀道③金沢道(保土ヶ谷道)④白山道⑤野島道の五つ。このうち「六浦道」は、鶴岡八幡宮から平潟湾に臨む金沢の瀬戸神社前まで。「浦賀道」は、平潟湾に流れ込む侍従川(じじゅうがわ)から三艘を経て浦賀まで。「金沢道」は、東海道保土ヶ谷宿~蒔田~上大岡~松本~関~雑色~田中~栗本~中里~能見堂~谷津(やつ)~称名寺~瀬戸神社を結ぶ道。「野島道」は、町屋神社から野島まで。「六浦道」は鎌倉道でもあり、この平潟湾にある六浦津(港)は、中世都市鎌倉(幕府の所在地)の外港として極めて重要なものでした。この六浦港には、房総半島や伊豆半島をはじめとした関東一円を結ぶ船が出入りするばかりか、遠く中国の宋(南宋)や元とを結ぶ船が出入りしていました。現在の金沢警察署六浦交番のあたりがかつての海岸で、上行寺のあたりに船着場があったという。この平潟湾は塩の産地でもありました。いつごろから塩が生産されていたかはわかりませんが、ここで生産された塩は武相各地に販路を持っていました。ということは、「六浦道」は鎌倉方面に塩を運ぶ「塩の道」でもあったわけです。この六浦港の中心にあったのが瀬戸神社。この神社は、治承4年(1180年)に鎌倉幕府を開いた源頼朝が伊豆の三島神社を勧請(かんじょう)したもの。平潟湾に臨み、航海の安全を守る神さまでした。したがって鎌倉幕府以来、鎌倉公方足利氏や小田原北条氏といった歴代の権力者により厚く保護されてきました。さてベアトの写真に戻ります。ベアトが平潟湾を写した写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』のP44とP45、そして『F.ベアト写真集2』のP33に掲載されています。このうち瀬戸神社が写っているのはP44の写真のみ。この写真の前面に広がっているのが平潟湾で、その平潟湾に突き出ている突堤の先っちょにあるのが琵琶島弁天。この突堤の付け根のところ、木々がこんもりと繁る丘陵の中ほどに屋根が見えますが、これが瀬戸神社になります。この瀬戸神社の前には道が左右に延びており、これが「金沢道」(神社前から右手)と「六浦道」(神社前から左手)。画面右端中央に橋が見えますが、これが瀬戸橋。神社前から瀬戸橋へ至る道筋には、平潟湾に面して2軒の茶屋がありますが、それは左が「千代本」、そして右が「扇屋」でした。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その3

2008-12-09 05:59:11 | Weblog
『明治日本旅行案内 東京近郊編』によれば、関の先にある丘陵の頂きからは、背後に富士山を望む美しい風景が広がり、南方には江戸湾の一部を見ることができます。山道はその後しばらく稜線に沿って続き、少し離れた能見堂に向かって下っていきます。その能見堂の茶屋からは、金沢渓谷、六浦の入江、江戸湾の一部の美しい風景を望むことができました。その能見堂の茶屋から下を見れば、内側に引っ込んだ浜辺に沿って金沢の村が散在し、入江の入口にあたる部分には、樹木の繁った野島が突き出ていました。その左手に小さな烏帽子島(えぼしじま)と大きい夏島が見え、そのはるか先には猿島が見え、さらに左手の彼方には、観音崎や、江戸湾を隔てた対岸(すなわち房総半島)に、鋸山の頂きと二つの「双耳峰」を持つ安房の双子山が見えるという大パノラマが展開しました。また能見堂の少し上の方の左側にある「夏の小屋」からは、富士山の頂上を見ることができました。関から10町ほど進んだ、円海寺へと続く道が分岐する地点からすぐ先の丘からは、東海道沿いの平塚・大磯近辺の海(すなわち相模湾)や本牧岬をはじめとした根岸湾の風景、さらには上野(こうずけ)地方や伊豆半島の山々を見晴るかすことができましたが、この能見堂あたりからはそこまでの景色の広がりはありません。しかし足元(丘陵のふもと)には、浜辺に沿って金沢の村々が散在する美しい入江が広がっていました。そしてこの能見堂跡より先へ進むと、「道は急速に谷へと下っていき」、30分も進むと洲崎村のはずれにあった「村田屋」という旅宿にたどり着くことができました。橋(瀬戸橋)の手前には「吾妻屋」という旅宿がありましたが、その「主人は外国人の受け入れを喜ばない」人であったという。この「吾妻屋」というのは「東屋」のこと。後に触れることになります。当時、外国人の間では、夏島は「ウェブスター島」、猿島は「ペリー島」として知られていました。ちなみに、小柴沖は「アメリカ碇泊地」、横須賀湾は「サスケハナ湾」、根岸湾は「ミシシッピー湾」、走水岬は「ルビコン岬」、本牧岬は「条約岬」、伊豆大島は「フリーズ島」として知られていました。以上のうち江戸湾周辺の地名の多くは、ペリー(艦隊)により付けられたものでした。沖合いに小さく見える「猿島」を、外国人たちは「Perry Island」(ペリー島)として認識していたのです。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その2

2008-12-08 04:59:51 | Weblog
『明治日本旅行案内 東京近郊編』という本(東洋文庫/平凡社)があります。編著者はアーネスト・メイスン・サトウとアルバート・ジョージ・シドニイ・ホーズ。サトウというのは有名な幕末・明治期の外交官。ホーズというのは、『横浜周辺外国人遊歩区域図』の編集・作図者。2人ともイギリス人。この「東京近郊編」は、『明治日本旅行案内』の全ルート64の中から、東京近郊を巡る、ルート1、2、5、27、52を選んで構成したもの。その「ルート2」は「横浜とその周辺」であり、その中に「横浜から金沢、鎌倉、江ノ島へ」(P157~161)というのがあります。ここでは2コース(経路)が紹介されています。一つは「横浜→関→金沢→鎌倉→大仏→江ノ島」というコースであり、もう一つは「横浜→根岸→杉田→関→金沢→鎌倉→大仏→江ノ島」というもの。ここで本文では次のように書かれています。「後者の経路では杉田と関の間は俥が通れない。また前者の場合は全般に俥が使えるが、関以降では俥から降りて約3マイルを丘陵を越えて歩いた方がよいかもしれない。関までの道は非常に平坦である。横浜から二里七町のところで鎌倉へ直接通じる道〔四里〕が右側に分岐する。関で最良の旅宿は石川屋である。」この耳慣れない「関」という地名はどこか。調べてみると、現在の京急上大岡駅から「笹下釜利谷道路」に沿って南下。笹下(ささげ)というところに「関」という交差点があるのですが、そのあたり一帯が「関」という「金沢道」に沿った集落であり、「石川屋」などの旅宿や店などが軒を並べていたらしい。この関から金沢へ至る道筋は俥で行けないことはないが、丘陵を越える道なので(つまり関までのように平坦ではないので)、俥から降りて、およそ3マイル(約5キロ弱)の道のりを歩いて行く方がよいというのです。この関より10町(およそ1キロメートル)ほど先に進むと峰の円海寺に通じる右へと分岐する道があるけれども、そのすぐ先の丘から見える景色は、「水平線いっぱいに広がるパノラマの展望が得られるが当地域では群を抜いて見事なものである」と記されています。この地点は能見堂跡よりも手前で、能見堂跡とは違うようです。この地点へ私はまだ足を運んではいませんが、能見堂から見える景色とならぶような絶景が展開するところであったようです。ちなみに「俥(くるま)」とは人力車のこと。 . . . 本文を読む

2008.12月「能見台~金沢八景」取材旅行 その1

2008-12-07 08:16:16 | Weblog
 先月の取材旅行では、JR根岸駅から京急能見台駅までを歩きました。この「能見台」という駅名や地名は、おそらく「能見堂」にちなんで付けられたものであるのでしょう。かつて「能見堂」というのは、それほどに有名でした。なぜ有名であったかいえば、そのお堂から「金沢八景」の絶景を見晴るかすことができ、当時(江戸時代後半)、江戸や横浜の近郊における絶好のビューポイントの一つであったから。そのことは横浜に居住する外国人の間でも広く知れ渡っていました。前にも触れたことがありますが、幕末に作成された『横浜周辺外国人遊歩区域図』の「凡例」の末尾に星印があるのですが、この星印は「Beautiful Scenery」(美しい風景)を示していました。星印は、町屋の北あたりに一つ、鎌倉の由比ヶ浜のあたりに一つ、江の島に三つ、丹沢の宮ヶ瀬のあたりに二つ、蓑毛に一つ、計八つあるのですが、このうち「町屋の北」というのが「能見堂」をさしています。「町屋」というのは、現在の金沢区町屋町(まちやちょう)。金沢の称名寺(しょうみょうじ)から洲崎町へ向かう途中にある町。ここには東海道保土ヶ谷宿から金沢の瀬戸へ至る「金沢道」が通っており、この「金沢道」を町屋から保土ヶ谷の方へ向かって進んでいくと、山道を登っていったところに「能見堂」があったのです。あの幕末の写真家フェリーチェ・ベアトも、ここを訪れ、ここからの景色を銀板写真で撮っています。さらに彼は、宿泊した金沢の瀬戸周辺の風景も撮影しています。浮世絵などにおいては、江戸時代の「金沢八景」を描いたものは、歌川広重の作品をはじめとして数多く残されていますが、江戸時代(といっても幕末)の金沢を写した写真となるとほとんど残っておらず、おそらく、このベアトが写した写真がもっとも古いものであり、しかも数少ないものであるといっていいでしょう。「金沢八景」として有名であった「金沢」は、かつてはどういうところであったのか。そして現在はどうなっているのか。そういったことを確かめに、取材旅行に行ってきました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む