昭和19年(1944年)5月25日の午後、「行きあたりばつたり」に入って泊まった深浦の「秋田屋旅館」に、太宰は翌昭和20年の7月末にも、家族と一緒に宿泊しています。昭和20年(1945年)7月6日、疎開先の甲府(妻美知子の実家石原家)で空襲に遭い、やはり疎開のために金木の生家へ家族で向かう途中、遠回りをして深浦の「秋田屋旅館」に立ち寄り、そこに宿泊しています。この秋田屋旅館の主人は、太宰の兄、津島英治の中学校時代の同級生であるということが、初めて泊まった日の翌朝にわかり、その主人はアワビのはらわたの塩辛(アワビのウロ漬け)を、酒の肴として出してくれたのですが、それがよほどおいしいものであったようだ。「塩辛は、おいしいものだつた。実に、いいものだつた。」「珍味もひとしほ腹綿にしみるものがあつた。」と太宰は記しています。秋田屋旅館の主人が兄英治の知り合いで、太宰をもてなしてくれたこと、また出されたアワビのはらわたの塩辛が、はらわたにしみるほど美味であったことが、わざわざ遠回りをして深浦の秋田屋旅館にふたたび立ち寄った理由であったかも知れません。 . . . 本文を読む
深浦駅で列車を下りた太宰が、まず向かったところは、町のはずれにある円覚寺でした。駅前から「大間越街道」を歩いて、深浦の町並みを抜け、円覚寺の仁王門の前に至ると、「国宝に指定せられてゐるといふ」薬師堂に参拝しました。「それにおまゐりして、もう、これで、この深浦から引上げようかと思つた」と記しているから、太宰の深浦訪問の目的は、「国宝」の円覚寺薬師堂を参拝することであったようだ。深浦の街道筋の町並みは、「完成されて」いて、「旅人に、わびしい感じを与へるもの」でした。参拝した後、まだ日は高かったため、海浜に下りて岩の上に腰掛けて、このまま帰ろうか帰るまいか大いに迷っているうちに、東京の子どものことなどをふと思い出し、町の郵便局に入って留守宅への短い便りを認め、それから、「行きあたりばつたりの宿屋」に入って、その夜は深浦に泊まることにしました。その旅館が、「大間越街道」沿いの「秋田屋旅館」(現ふかうら文学館)でした。 . . . 本文を読む
「津軽独特の佶屈(きっつく)とでもいふやうな」「難解の雰囲気」がある「津軽外ヶ浜北端の海浜」の様子とはどのようなものであったのか。太宰は、三厩(みんまや)の宿を出発して、義経寺(ぎけいじ)に立ち寄り、「海岸伝ひの細い路を歩いて」2時間ほどのあたりから、あたりの風景が異様さを増してきたことを感じます。「あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。…この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。強ひて、点景人物を置かうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。…絵にも歌にもなりやしない。ただ岩石と、水である。」 この海岸の情景は、竜飛へ至る途中のものでした。この「点景人物の存在をゆるさない」本州北端の海岸の情景とは異なって、鰺ヶ沢から深浦に至る津軽半島西海岸の姿は、「全国到るところにある普通の『風景』になつてしまつて」いると、太宰は直感しています。 . . . 本文を読む
津軽に生まれ、津軽に育ちながら、ほとんど津軽の土地を知らなかった太宰は、津軽の日本海に面する西海岸には、小学校二、三年生の頃に「高山」に行ったきり、一度も行ったことはありませんでした。「高山」というのは、金木からまっすぐ西に三里半ばかり行ったところにある車力(しゃりき)を過ぎて、すぐにある海浜(七里ヶ浜)の小山で、そこには高山稲荷神社があり、古くからの難所だった周辺の海路、陸路の守護神であったとのこと。太宰には、「この機会に、津軽の西海岸を廻つてみようといふ計画」が、以前からありました。金木を出発した太宰は、五所川原駅で五能線に乗り換え、木造(きづくり)に立ち寄った後、午後1時に木造駅から汽車に乗り、西海岸の深浦へと向かいました。汽車は鳴沢、鰺ヶ沢を過ぎ、そのあたりで日本海の海岸に沿って走り、「右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々」や、「右の窓に大戸瀬の奇勝」などを眺めながら、やがて深浦駅に到着しました。深浦は、藩政時代、「津軽四浦」の一つとして町奉行所が置かれるほどの重要な港町であり、風待ちや嵐から避難する廻船などで賑わう「津軽第一の港」でした。 . . . 本文を読む
十三湖を過ぎ、日本海に沿ってしばらく走ったバスは、お昼少し前に小泊港に着きました。小泊は「本州の西海岸の最北端の港」であり、「この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛」であって、「西海岸のは、ここでおしまい」でした。現在は、中泊町大字小泊。私は、竜飛から、「竜泊(たつどまり)ライン」(国道339)を雄大な海岸風景や日本海を見ながら走って小泊港に立ち寄ったのですが、太宰は、津軽鉄道の終点中里駅から満員のバスに揺られ、約2時間かかってこの小泊港に到着したのです。 . . . 本文を読む
太宰は午前8時発の津軽鉄道の汽車で五所川原駅を出発。金木駅、芦野公園駅を過ぎて終点の中里(なかさと)駅で下車。中里駅前からバスに乗って小泊へと向かいました。バスは満員で、太宰は立ったままで約2時間を小泊まで乗車しました。太宰は中里までは幼年時代に来た記憶がありましたが、それより以北は「生れてはじめて見る土地」でした。バスは山道を上って北へと進み、揺れる車内で、太宰は網棚の横棒をしっかりとつかみながら、背中を丸めて、バスの窓から外の風景を覗き見ました。山道を下り、やがて左手に見えて来たのが十三湖でした。 . . . 本文を読む
『津軽』における太宰の行程は、次のようなものでした。上野→〈東北本線・夜行列車〉→青森→〈バス〉→蟹田→〈徒歩〉→今別→〈徒歩〉→三厩→〈徒歩〉→竜飛→〈徒歩〉→三厩→〈バス〉→蟹田→〈定期船〉→青森→〈奥羽本線〉→川部→〈五能線〉→五所川原→〈津軽鉄道〉→金木→〈徒歩〉→高流→〈徒歩〉→金木→〈徒歩〉→鹿の子川溜池→〈徒歩〉→金木→〈津軽鉄道〉→五所川原→〈五能線〉→木造→〈五能線〉→深浦→〈五能線〉→鰺ヶ沢→〈五能線〉→五所川原→〈津軽鉄道〉→中里→〈バス〉→十三湊→小泊→〈バス〉→蟹田→〈バスか定期船〉→青森→〈東北本線・夜行列車〉→上野。このうち、青森・鰺ヶ沢・深浦・十三湊(とさみなと)の四つが「津軽四浦」と呼ばれる、海上交通の要衝地でした。太宰はまず津軽半島の東海岸(外ヶ浜)を北上して、その先端近くにある竜飛まで行き、故郷金木に戻ってから、五所川原から五能線に乗って、津軽半島西海岸の深浦と鰺ヶ沢を訪ねた後、五所川原から津軽平野を北上して、津軽半島西海岸の十三湊を経由して小泊という日本海に面した小さな漁村に至ったのです。その小泊において太宰は30年ぶりで「越野たけ」と再会しました。この場面で、小説『津軽』は終わります。 . . . 本文を読む
太宰治が『津軽』を書くために、上野駅を出発したのは昭和19年(1944年)5月12日の午後5時半でした。夜行列車で青森に到着したのは翌日13日の午前8時。6月3日まで、20日間ほどを津軽各地の旅に費やしました。東京に向けて出発したのは6月4日。青森発午後8時の急行に乗り、翌5日午前10時50分に上野駅に到着したようです。この津軽の旅で、太宰は、青森・鰺ヶ沢・深浦・十三の「津軽四浦」を訪れています。私は、竜飛と深浦で、太宰が泊まった旅館(現在は旅館としては営業していないが現存する)と文学碑を見て、太宰がこのあたりを訪れていることを知り、それが『津軽』を書くための旅の途上であったことを知りました。それがきっかけで、ずいぶん前に読んだことのある『津軽』を読み返し、太宰が「津軽四浦」をどのように描いているのかを知りたいと思うようになりました。 . . . 本文を読む
『北前船 寄港地と交易の物語』の福井県関係の記事としては、若狭・越前敦賀・大野藩の大野丸・河野村の右近家・九頭竜川水系の水運・韃靼漂流記などが出て来ます。このうち大野藩や大野丸については、「2007年.夏の越前福井・取材旅行『大野城下 その1』」および「その2」で取り上げたことがあります。興味深く思ったのは、幕末期に藩政改革を行った家老内山七郎右衛門良休とその弟隆佐の二人。「旧内山家」には、隆佐の護身用であったらしいル・フォショウ式レボルバという六連発回転式弾倉を持つピストルが展示されていました。また洋式帆船「大野丸」の模型も展示されていました。この「大野丸」は、2本マストの西洋型帆船で、安政5年(1858年)の6月に竣工。長さは18間(約32m)、幅4間(約7.2m)、深さは3間(約5.4m)ありました。大野藩は、安政年間に蝦夷地経営にも乗り出し、また殖産興業のために藩直営の「大野屋」を全国的に展開するという事業にも乗り出しますが、この改革を推進したのが、家老の内山良休とその弟隆佐であったのです。時の藩主は土井利忠。この土井利忠が蘭学なり西洋学を学んだ人物として、杉田成郷や鷹見泉石などの人物が出て来ます。鷹見泉石は、利忠の成長に大きな影響を与えたという。福井滞在中の横井小楠も、この大野藩の藩政改革には大いに注目し、門弟の河瀬典次を大野に派遣しています。良休は小楠を訪問して、二人はその後懇意になったという。 . . . 本文を読む
『北前船 寄港地と交易の物語』における笏谷石に関する記述は、以下の通り。「北前船の主要商品は米とニシンだが、奥羽や蝦夷地へと向かう下り船は、必ずと言うほど石を積んだ。空船では安定が悪いので、バラスト(重し)代わりに船底に積み込んだのである。中でも、濡れると青みをおびる石が大量に運ばれた。笏谷石という。墓石、灯籠、敷石、建物の土台石と、実に多様に使われた。この石が見つかれば、文献などがなくても、北前船が来た港だと考えていい。」 この部分の写真の中に、足羽山に立つ継体天皇像の写真があり、それは、継体天皇が越前にいた頃、笏谷石の採掘を奨励したという伝説に基づき、福井の石工が明治16年(1883年)に建立したものであるという。私は少年の頃に足羽山に登ったことが何度かあり、そこでこの継体天皇像を見ていますが、明治16年に石工が、そういう伝説に基づいて建立したものだとは知りませんでした。その像が向いている方向は、北北西の三国港であるという。 . . . 本文を読む
往年の名女優高峰秀子の『わたしの渡世日記』を読んだ時、秀子の祖父平山力松(秀子の父平山錦司の父親であり、養母〔秀子の伯母でもある〕志げの父親)が、函館で「カフェマルヒラ」や「蕎麦屋料亭マルヒラ砂場」、「マルヒラ劇場」を経営する実業家であったことと、その力松の生まれが福井県であり、日露戦争後に、家族五人と女中二人を連れて函館に渡ったことを知りました。つまり高峰秀子の先祖(祖父や祖母)は福井県生まれであることを知ったのですが、家族を連れて福井から函館へ赴いたということに、当時(明治末)の福井と北海道の結びつきを感じました。平山力松が、どうして北海道へ家族を連れて渡ろうとしたのかはよくわかりませんが、北海道(函館)に何らかの伝手(つて)があったものと思われます。私は、そこに「北前船」の存在を背景として考えてしまうのですが、おそらく、当時の福井を含め北陸の人々にとって、北海道は、距離的にはともかくも、心理的にはそれほど遠いところとは思われていなかったような気がします。 . . . 本文を読む
私が「北前船」について興味関心を持つようになったきっかけは、明治の自由民権思想家中江兆民(「東洋のルソー」と言われる)の、北海道西海岸の旅を追って、小樽から稚内まで車で旅行をした時の見聞にあります。兆民が、北海道西海岸の旅を行ったのは、明治24年(1891年)の9月。兆民は9月2日、北門新報社の社員宮崎伝とともに、小樽港から増毛(ましけ)行の汽船に乗り、増毛から西海岸を北上して稚内へ、そして北海道最北端の宗谷岬まで赴きました。この旅行の記録を、兆民は「西海岸にての感覚」として残しており、それにもとづいての私の取材旅行でした。その取材旅行の報告は、「2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行」としてまとめてあります。特に「増毛 その3」で、護国山龍渕寺(りゅういんじ)というお寺のずらりと並んだ石仏を見ていた時、隣の家で畑仕事をしていた年輩の女性から、おじいさんとおばあさんが福井から増毛にやって来たこと、かつて増毛の町には「越前町」というところがあったといったことを聞いたことが、強い印象として残りました。おじいさんという人は元治元年(1864年)生まれで、22歳の時に妻(おばあさん)と2人で福井を離れて北海道にやって来たらしい。ということは、2人が北海道に渡って来たのは明治18年(1885)頃。兆民が明治24年(1891年)に西海岸の旅をした時には、北海道に住みついて6年ほど経った頃であり、夫妻が20代後半の頃であったことになります。 . . . 本文を読む
三国や敦賀、越前海岸には海水浴場があり、幼い時に何度か家族で出かけたことがあります。もちろん目の前には日本海が広がり、静かな波が浜辺や磯辺に打ち寄せていました。夏の穏やかな日本海を知っていても、冬の荒々しい冷たい日本海は知ることはありませんでした。しかし、三国駅から、左手に九頭竜川の河口を眺めながら海水浴場や東尋坊、雄島などへ向かう道筋には、漁業や海産物中心の商売を営む家々が長々と並び、漁村集落の雰囲気が濃厚でした。海産物や昆布巻きを福井市内に売りに来る行商のおばちゃんたちは、あの三国かその周辺の村々から、行李を背負ってやって来たに違いない。あの「昆布巻き」の昆布もニシンも、もともとは北海道で獲れたものであったとすると、「北前船」が姿を消してしまっている戦後の時代に、どのような経路や流通網を経て、三国に運ばれてきたのだろう、といったことを考えます。江戸時代(後半)から営まれ続けている問屋や商店、そして江戸時代(後半)からの流通網(そして販売網)が、あの「昆布巻き」の背景にあったに違いないのですが、私は、あの三国の町の歴史や行商の歴史については、まだ詳しく調べていません。 . . . 本文を読む
五能線を走るディーゼル車の窓(進行方向右側の窓際の座席に、私は座っていました)からは、のこぎりの白いぎざぎざの歯が重なり合って動きつつ、どんどんと押し寄せてくるような冬の日本海が見えました。その時は、福井とこの深浦沖の日本海や深浦の湊が、「北前船」で結びついているとは知るよしもありませんでした。しかし後に、三国から京福電鉄に乗って田原町で下車し(おそらく)、背中に魚や昆布巻きなどの入った重そうな行李を背負った行商人のおばちゃんが、私の家の玄関先に座って、背中から下ろした行李から魚や昆布巻きを取り出した時、母親の傍らでその光景を見ていた幼い日の自分の記憶を思い出すことがしばしばあります。購入した大きな昆布巻きの芯として入っているニシンは、実は三国の周辺で獲れたものではなく、北海道あたりから運ばれてきたものであることを知った時(大人になってから)、福井と北海道の結びつき、そしてかつての「北前船」による物資輸送を介した深いつながりを知ることになったのです。幕末の福井藩の動きは、その「北前船」の存在を抜きにしては語れないのではないかとさえ思っています。深浦の「風待ち館」で、「越前屋」や「小屋」の屋号の入った看板を見た時、この深浦には、「越前」や「小浜」出身の船乗りか何らかの事情で住み着いて、船乗り相手の商店を営むようになった歴史の一コマがあったのではないかと想像してしまいました。 . . . 本文を読む
まだ学生であった頃に、岩手県三陸海岸の宮古や、青森県の五所川原の金木(太宰治の生家があるところ)、五所川原から五能線経由で能代に出て、秋田から戻るという一人旅をしたことがあります。どこに泊まったかも記憶が定かではありませんが、冬休みの旅であり、五能線の車窓から冬の日本海を眺め、深浦駅に車両が停まった時に、白い息を吐きながら土地の人が出入りしたことや、八森駅で途中下車して冬の寒風が吹きすさぶ砂浜を歩いた記憶があります。冬の日本海を見ながら五能線に乗ってみたいという、かねてからの願望の実現でした。さしてお金もない頃だったので、泊をそれほど重ねない、かなりの貧乏旅行であったはずです。津軽を訪問するのは、それ以来のことだから約30年ぶりということになる。 . . . 本文を読む