鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その4

2013-03-28 05:40:22 | Weblog
「白髭神社」がなぜ記憶にあったかというと、眞尾(ましら)源一郎さんの『毛武と渡邊崋山に関する新研究』(非売品)に、岩本茂兵衛(崋山の妹茂登の夫)と白髭神社の関わりについて触れられているところがあったからです。それによると堤(つつみ)村の産土神である白髭神社に、岩本茂兵衛は石造常夜燈一対を奉献しており、その常夜燈の正面には「常夜燈」と刻まれ、そして右側面に「天保七年丙申九月吉日」、左側面には「岩本茂兵衛」と刻まれているという。「天保七年」といえば、西暦でいえば1836年のことであり、崋山が桐生を初めて訪れた天保2年(1831年)の5年後のことになる。崋山はこの年、田原藩江戸留守居役となっており、年齢は数えで44歳。岩本茂兵衛はその没年(安政2年)と没年齢(71歳)から、崋山より8歳ほど年上であったと考えられるから、この「天保七年」当時はおよそ52歳。そしてその妻茂登が42歳で、長男喜太郎が17歳。この「天保七年」の秋9月に、茂兵衛は「白髭神社」に一対の石造常夜燈を奉献し、それが残っているというのです。岩本茂兵衛は堤村の谷(やつ)仲右衛門の二男として生まれており、茂兵衛は自分が生まれ育った堤村の産土神(鎮守様)である白髭神社に、桐生新町の新興の絹買継商として成功を果たし繁栄するに至ったことを感謝して一対の石造常夜燈を奉納したのです。その常夜燈が現在でも残っているかどうか、その思いから白髭神社には機会があったらぜひ立ち寄ってみたいと、前々より考えていました。 . . . 本文を読む

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その3

2013-03-27 05:25:42 | Weblog
崋山の歩いた道筋をたどるために、『毛武游記』の該当部分から抜き出した地名などは、順番に、次のようになりました。折石山→元宿→赤岩橋→新田宿→芦中(足中)村→アザミ(阿左美)→生品(いくしな)の森→牛の塔→ヌマ(天沼新田)→中嶌(高島)→藪塚→大原→山の神→下村田→中村田→木崎、太田の間→尾嶌→刀利川(利根川)→天神の御堂(前小屋天神)→高島(伊丹新左衛門宅に泊)→二子屋(二ツ小屋)→尾嶌→岩本氏家(桐生新町)。これをたどっていけば、一泊二日の小旅行のルートをおさえることになります。田んぼの中を歩いて見えた山は、広沢山・吉沢山・金山といった近くの小高い山々はもとより、日光・足尾・赤城・浅間といった遠くの山々も手にとるばかりによく見えました。道案内をしてくれたのは義兵衛といい、妹お茂登が気を利かしてわざわざ付けてくれた者。義兵衛は下村田まで道案内をしてくれました。そこまではやや迷いやすいルートでしたが、あとはおそらく分かりやすい道であったのでしょう。大原には松並木があり、中村田には酒造家が多数ありました。また尾島は宿駅のように人家が並び、飲食店や旅籠(3軒ほど)もありました。前小屋の書画会の会場は前小屋天神であり、その書画会の会主は青木長次郎。その家にはすでに岡田東塢(とうう)が来ていて、崋山の到着を今か今かと待ち構えていました。10月23日に五十部村(よべ)の岡田宅で別れて以来の再会でした(六日ぶり)。この前小屋天神の書画会に崋山を手紙で誘ったのは岡田東塢であり、崋山がこの旅の最大の目的としている三ヶ尻調査のために便宜をはかるという、足利本坂町の旅籠「蔦屋」の一室で交わした約束を果たすためのものでもありました。東塢の崋山に対する厚情がわかるというものです。 . . . 本文を読む

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その2

2013-03-26 05:57:01 | Weblog
旧道をたどることは、地域によってはとても難しい場合があります。なぜかと言えば、かつては田んぼや畑の中の一本道や、雑木林や山林の中の一本道であったものが、まわりが宅地化したり、平行するバイパスができたり、トンネルや幅広の切り通しができたりして、道それ自体もその周辺の環境も激変しているところがあるからです。私がそのことをもっとも痛感したのは、東京湾岸(神奈川県の根岸や富岡、金沢あたり)を歩いた時でした。まず海岸線が埋立によってかつてとはまるで異なっており、その広大な埋立地に工場や住宅地ができたことによって、かつての景観はすっかり失われてしまっているからでした。富士山の山すそも縦横に林道や農道、県道・国道が走り、かつての道筋(人々の生活道)を探すのは容易なことではありませんでした。今回、崋山が歩いたであろうルートを辿ろうとした時に、道に迷ってしまったのも、かつては田んぼの中や雑木林の一本道であり、そこからは周辺の山々が手にとるように見えたであろうはずなのに、現在はほとんどが住宅が密集する地域となり、新しい道路が縦横に走っており、JR線や東武線、また北関東自動車道やバイパスなどによってあちこちで道路が分断され、そして宅地化されていることにより歩いていても視界が大きくひらけないからでした。結局は下調べをしっかりとしておかなかったのが原因ですが、旧道のかつての面影や雰囲気が残るところをたどりながら、自分の勘を働かせて、行き当たりばったりで道をさぐっていくという自分のやり方(これが結構面白いのです)が通用しない場合があるんだ、ということを改めて実感する羽目になりました。 . . . 本文を読む

2013.2月取材旅行「桐生~阿左美(あざみ)岩宿」 その1

2013-03-25 05:50:05 | Weblog
2月の取材旅行は、天保2年(1831年)10月29日、崋山が利根川の南にある「前小屋」というところへ「書画会」をみるためにわざわざ出掛けた、そのルートを辿ってみることにしました。崋山は桐生の岩本家に滞在していた時、いくつかの小旅行を試みています。一つは「大間々要害山」への旅、一つは「足利学校」への旅、そして最後に「前小屋書画会」への旅。彼は半蔵門外三宅家の隣の井伊家と深い関わりのある「根本山神社」にも行く計画を立てていましたが、雨のために断念しています。この最後の「前小屋書画会」の小旅行もきわめて面白く、興味深い内容をもっています。崋山はこの日、妹お茂登(もと)が朝早く起きて用意してくれた弁当を携帯し、また道案内として依頼した義兵衛、そして高木梧庵を伴って、桐生新町二丁目の岩本家の門を出立します。「前小屋」というのは、当時においては「上野国新田郡前小屋村」であり、現在においては「深谷市前小屋」というところ。地図を見ると利根川の南で、小山川と利根川の間に挟まれた一帯になる。その小山川は、前小屋からやや東の熊谷市域において利根川に合流しています。2月の取材旅行においては、道筋をしっかりと調べておかなかったために、道をいろいろと迷い、結局桐生市内の美和神社前からJR岩宿駅近く(かつての新田郡阿左美〔あざみ〕村)までのルートを確認するにとどまりました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その最終回

2013-03-23 05:35:13 | Weblog
私は以前このブログで、津波被災地に桜の木を植える取り組みおよび私の“夢想”を紹介したことがあります。津波が押し寄せた山の斜面の、その津波到達点に沿って桜を植えていく試みですが、それは大地震が発生した時、そこを目指して避難する(山の斜面を登る)ための目印であると同時に、津波で亡くなった人たち一人ひとりの慰霊のためのものでもあり、さらに毎年春に咲く満開の桜を観ることによって、2011.3.11の津波被災の記憶を風化させないためのものでした。しかし実際、広大な更地が広がる平野部の被災地を見た時、近くに走って逃げていくことのできる山がなく、そのような被災地においては私の“夢想”は実現できるものではないということを知りました。たとえば仙台市郊外の若林区荒浜がそうでした。もとはおそらく広大な水田地帯であり、それが仙台の発展とともに郊外の新興住宅街と化した地域です。私はまだ岩手県の三陸海岸の被災地を見てはいませんが、背後の山が近いところにおいては、津波発生後にそこへ避難することはそれほど難しいことではなく、山の斜面に桜樹が横一列に並んでいて、それを目印に上へと逃げていけば助かる可能性が高いものと思われます。問題は閖上(ゆりあげ)や荒浜、東松島などの海岸に面した広い平野部の場合。今のところ、私にはコンクリートの防潮堤ではなく、宮脇昭さんの提唱する、震災「瓦礫」を活かした「森の防波堤」を海岸部につくることの方が、百年単位、千年単位の長期的かつ生態系的な観点から考えた場合、もっとも経済的であり、子々孫々の「命を守る」ものであると考えています。その「森の防波堤」には、ところどころに一定の高さで桜樹が植えられ、春になるとそれぞれが爛漫と咲き誇るのがいい。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その14

2013-03-22 05:47:25 | Weblog
『毎日新聞』2013/3/10(日)の読書欄に「好きなもの」として環境考古学者の安田喜憲さんの文章が出ていました。①が「旅」で、②が「自然」、そして③が「本」であったのですが、その②の文章の中に、次のようなことが記されていました。「ところが、今、その森の防潮林にかわって、宮城県ではコンクリートの防潮堤が延々100キロメートル以上にわたって海岸に作られ始めた。コンクリートの防潮堤を支える矢板によって、地下水の循環系が遮断され、宮城の海が死ぬだけではない、50年もすれば海岸のコンクリートはボロボロになる。これが本当に子供たちに残すべきものだったのだろうか。」つまり宮城県の海岸部ではコンクリートの防潮堤が作られ始めているということですが、「なぜ、そうなってしまうのだろか」というのが正直な感想でした。詳しいことは何もわかりませんが、コンクリートの防潮堤を延々と海岸部に作ることを提案したのは誰で、決定したのは誰なのか。なぜコンクリートの防潮堤を望ましいと考えたのか。地域住民はその決定に参画しているのだろうか。コンクリートの防潮堤のメリット、デメリットについては十分に検証されたのか。デメリットがあるとしたら、それについてはどのような対策が行われることになっているのか。子々孫々、ずっと将来のことまで様々な面から考えた上での決定であり、着工であったのか…、といろいろな疑問がわいて出て来ました。どういう力学が働いて、こういうことになっていくのか、そこのところがよくわからない。こういう対策(私から見れば短絡的で近視眼的な対策)が莫大な復興予算を掛けて易々と行われていくということは、その後、完成した防潮堤の内側にどのような景観が作りだされていくかを私に予感させるものです。高層マンションや高層公共施設を中心としたコンクリートの「箱モノ」が、いかにも環境にやさしいかのように広い緑の中に(かつては津波にのみこまれて出来た更地であったところに)ニョキニョキと立ち並ぶ、そういった景観。建築家である伊東豊雄さんや隈研吾さんの考え、また植物生態学者の宮脇昭さんの提案を見てきて、それに共感を覚えてきた私にとっては、そのような景観が「本当に子供たちに残すべきもの」であるとは到底思えません。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その13

2013-03-21 06:01:25 | Weblog
常緑広葉樹林は何かと言えば、日本でいえば、タブノキ、スダジイ、カシ類、シイ、ヤブツバキなど。特にタブノキは、日本の土地本来の常緑広葉樹の原点ともいえる木であって、かつては海岸沿いや川沿いなどの一番条件のよい土地に生育していたものでした。しかし、日本人が水田による農耕を始めるようになると、タブノキを中心とする常緑広葉樹林は伐採され、尾根筋は、マツ、モミ、ツガなどの針葉樹、二次林のクヌギ、コナラなどの夏緑広葉樹林に置き換えられていくことになりました。このタブノキを中心とするかつての常緑広葉樹林がわずかに残っているところが、北海道、東北北部を除く日本列島の低地にある古い社寺林や一部の屋敷林であって、古い神社の「鎮守の森」などは主にそれらの常緑広葉樹林で構成されています。私はかつて根岸・金沢・鎌倉あたりの旧海岸線付近を歩いた時に、そこに点在する古い社寺林が、タブノキやスダジイ、ウラジロガシなどの常緑広葉樹林で構成されているのを目にしたことがあります。そしてそれらの多くはきわめて貴重なものとして神奈川県や横浜市の天然記念物や名木古木に指定されていました。たとえば根岸八幡神社、金沢の瀬戸神社、富岡八幡宮、長谷の御霊神社(権五郎神社)などの社叢林ですが、特に御霊神社の石鳥居左手前にそびえ立っていたタブノキは、高さ20mほどもある見事なものでした。またスダジイは、根岸八幡神社境内や横浜の本覚寺(史跡アメリカ領事館跡)の山門右側、また箱根の早雲公園にあったものが記憶に残っています。かつては関東地方の海岸沿い、土壌条件が豊かな斜面に生育していたタブノキやスダジイを中心とする常緑広葉樹は、県や市が「天然記念物」あるいは「名木古木」として指定しなければならないほどにきわめて貴重なものとなってしまっていることを、私はそれらの地域の取材旅行の際に知ることになりました。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その12

2013-03-20 05:50:02 | Weblog
宮脇さんの著書に戻ります。宮脇さんは言う。「現在の科学・技術の粋を集めたどんなに丈夫な建造物であっても、鉄やセメント、石油化学物質などの“死んだ材料”だけでつくられた人工物」は「脆弱」であると。たとえば世界最大水深(マイナス六三メートル)の湾口防波堤としてつくられていた釜石湾口防波堤も、大津波の脅威の前では無力と化し、完全に破壊されないまでも、津波のエネルギーが平面的なコンクリート面に激突することで倍加して、さらに大きな力となって防波堤を越え、数百メートルから場所によっては二〇〇〇メートルほども内陸まで押し寄せる結果となった、と宮脇さんは指摘する。さらに今まで見てきたように、コンクリート構造物そのものが品質的に大丈夫か、というとそうではないらしいこともわかってきました。特に東京オリンピック以後の高度経済成長期に急ピッチで造られたコンクリート構造物がそうであり、大きな地震があれば崩壊してしまう可能性が十分にあるのです。いくら膨大な費用をかけて頑丈な湾口防波堤や防潮堤を鉄筋コンクリートで造っても、その耐用年数はたかだか100年程度であって、長期的に使用し続けられるものではないことを考えると、「森の防波堤」が、それを皆伐・破壊しない限りは次の氷河期まで9000年は地域経済と共生した「いのちの森」として持続するものであるならば、我々が子々孫々のためにどちらを選択していくべきかは明らかです。「緑の防波堤」の基礎となるマウンドはできるだけ高くする。そうすることによってかなりの高さの津波を防ぐことが可能となる。もし巨大津波がマウンドを越えた場合でも、その土地本来の高木性常緑広葉樹で覆われた豊かな森が「緑の壁」となって津波を波砕し、その効果により津波のエネルギーを減少させ、水位と速度を下げ、私たちが助かる可能性を高めてくれる、と宮脇さんは言うのです。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その11

2013-03-19 05:43:39 | Weblog
そもそもコンクリート構造物の耐久性はどれぐらいなのだろうか。小林さんによると、わが国に現存する最古の鉄筋コンクリート構造物は、1903年(明治36年)に完成した、現在の京都市山科区日ノ岡の琵琶湖第一疎水路上に架けられたメラン式弧形桁橋(橋長7.3m)であるという。他にJR内房線の江見~太海間に架けられている山生橋梁(1924)、福島県会津の只見線の大谷川橋梁(1939)が挙げられていますが、いずれもほとんど無傷の状態で使われているとのこと、「要するに、第二次大戦前につくられたコンクリート構造物は、メンテナンスフリーの状態で、六〇~七〇年間を経過した現在でも、その機能を維持している」というのです。しかし戦後、とりわけ東京オリンピック以後の高度経済成長期につくられたコンクリート構造物は、山陽新幹線の高架橋のように十数年しか経っていないのに、早期劣化を示してしまったのです。小林さんはその原因や背景を、「高度成長の負の遺産」としてまとめています。その中で特に興味深かったのは、ゼネコンの徹底的に分業化されたコンクリート構造物製造工程において、「コンクリート打ちこみ」(ポンプ圧送業者が行う)に使われる「コンクリートポンプの登場がコンクリートの品質に与えた影響ははかり知れないものがある」との指摘でした。ポンプ施工は急速施工を可能にするものですが、輸送管の中をコンクリートを滞りなく圧送するために、現場で生コンに水を加えることが横行したというのです。これを読んで私が想起したのは家屋外壁のペンキ塗りでした。業者の話によると、下請け業者がペンキにたくさんの水を入れて塗ったとしても、素人目にはそのことがわからない。しかし何年か経つと、その手抜きがわかってくるという。それと同じではないか。隈さんが言うように、「不気味さ」は、素人目には「その中身」(品質)が「見えない」ことなのです。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その10

2013-03-18 05:20:56 | Weblog
コンクリートというものが気になって、つい先日、『コンクリートが危ない』(岩波新書)とい本を書店で見掛け、即、購入して目を通しました。出版されたのはもう12年以上も前の1999年5月。著者は当時、千葉工業大学教授で東京大学名誉教授の小林一輔さん。小林さんは1983年3月、山陽新幹線高架橋の劣化状況を確認するため、現地調査に出掛け、西明石駅から姫路駅周辺に至る約30kmの区間、さらに相生駅に至る20kmの区間を調査しました。すると高架橋の床板や柱のコンクリートなどに大きなひび割れが発生していたり、内部の鉄筋が錆びた状態でむき出しになっている箇所を随所で目撃することになりました。建設後わずか10数年しか経っていないのに山陽新幹線はなぜこのような無惨な状態になってしまったのか。その理由として、「海砂」がコンクリート材料として使われたこと。さらに構造物の「施工上の問題」や、「アルカリ骨材反応」、「炭酸化」といった問題がその原因として浮かび上がってきました。コンクリート構造物の「早期劣化」が社会的問題にまで発展することになったのが、この1983年。「早期劣化」とは、機能的耐用年数や経済的耐用年数に達する前に物理的耐用年数が来ることであり、山陽新幹線をはじめとした多発する「早期劣化」の現象により、高度経済成長期につくられたコンクリート構造物の耐久性に深刻な疑問が提起されることになったのです。小林さんによると、コンクリート構造物の品質の分かれ目は、「東京オリンピック開催年」つまり1964年であるという。小林さんは、コンクリート構造物の問題点を次のように指摘しています。「人間に進行性のがんがさまざまの場所に転移している場合、現代の医学はこれを確認できる。しかし、コンクリート構造物が同様な状況になっていたとしても、確認する手立てがない」ということ。また「コンクリート構造物の致命的ともいえる弱点は、完成後にその品質をチェックする方法がないこと」。だから予算の関係や施工管理の面で手抜き工事が行われたとしても、問題が出てくるまではわからないということになり、それを小林さんは「品質がブラックボックス状態のコンクリート構造物」と表現しています。この表現は、「コンクリートの不気味さは、その中身が見えないことである」とする隈さんの指摘と、全く相通ずるものを持っているのです。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その9

2013-03-16 05:55:28 | Weblog
宮脇さんの指摘でポイントとなるところは、「現在の科学・技術の粋を集めたどんなに丈夫な建造物であっても、鉄やセメント、石油化学物質などの“死んだ材料”だけでつくられた人工物」は「脆弱」である、ということです(P25)。強固に造られたはずの湾口防波堤であっても、あの巨大津波の前ではもろかったことはすでに実証済みのことです。後の実験でなぜ湾口防波堤が崩れたり沈んだり移動してしまったのか検証したテレビ番組を見ましたが、そのような事態をなぜ建築以前に実験で確認できなかったのか、しなかったのか、想定できなかったのか、私には疑問でなりませんでした。莫大な建造費を使う以上、あらゆる場合を想定して実験を行い、実際に起こったようなことが起きないように万全の対策をとるべきではなかったか。たとえ国土交通省が考えているような湾口防波堤への対策をとったとしても、実際の自然の脅威を前にしては想定外のことが十分に起こりうる。福島第1原発事故がそのことを露わに私たちに見せつけたのではなかったか。「生きものは厳しい環境にさらされた時に本性を発揮する」というのは、同じページにある「エコロジカルな例え」ですが、“死んだ材料”だけでつくられた人工物と、“生きもの”との決定的な違いを示すものです。「コンクリート」については隈研吾さんも、『自然な建築』でその特性をいろいろと指摘しています。コンクリートは突然に固まるが、固まった瞬間からもう後戻りがきかなくなる。そして「強い」はずのコンクリートは、実はきわめてもろいということ。コンクリートの不気味さは、その中身が見えないことである。強いはずのコンクリートは、永遠であるかに感じられても、数十年後には最も処理のしにくい頑強な産業廃棄物と化す。中身が見えないことにより、その劣化の度合いが表面からは見えにくいというのが何よりも問題なのだ、と隈さんは指摘するのです。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その8

2013-03-14 06:13:23 | Weblog
同書P41に「過去の震災にみる『緑の壁』の効力」という項目があり、「岩崎庭園」=現在の「清澄庭園」のことが出てきます。関東大震災の時、この清澄公園に逃げ込んだ市民は約2万人。その人々は、庭園にあったわずか幅2、3mの火防木(ひぶせぎ)〔タブノキ、シイ、カシ類の常緑広葉樹の防災林=「緑の壁」〕のおかげで一人も亡くなった人はいなかったという。ところがそこから2、3kmほどしか離れていない元陸軍被服廠(現在の墨田区横網公園)に逃げ込んだ約4万人の人たちは、そのほとんどが火災に見舞われて亡くなりました。元陸軍被服廠は、関東大震災が発生した時には、まわりを板塀で囲まれたグラウンド状の広大な空き地の状態で、周囲からの猛火が避難民たちを襲い、火が家財道具などに燃え移ったからでした。私は「江戸東京博物館」を訪れた時、この「墨田区横網公園」にたまたま足を踏み入れたことがありますが、関東大震災時において極めて悲惨な状況がここで展開されたことを知ることになりました。避難所では同様なことがどこでも起こっていたのだろうと思っていたところ、そこからわずか2、3kmの距離の「清澄公園」では避難民はみな助かっていたのだということを知るとともに、それが火防木(防災林=「緑の壁」)によるものであることを知ったのです。あと興味深かったのは山形県酒田市の大火(「酒田大火」・1976年10月)においても、この大火は町の中心部の1700棟以上が焼失する大火事でしたが、あの本間家という有名な旧家に屋敷林としてタブノキが2本植えられていて、そこで大火が止まったのだという。以来、酒田市長は「タブノキ一本、消防車一台」というスローガンを掲げて、タブノキの植樹を行ったとのこと。これらは、土地本来の樹木からなる本物の森が、きわめて防災力があるということを証明するものだと宮脇さんは言うのです。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その7

2013-03-13 05:27:14 | Weblog
宮脇昭さんが提唱する「森の防波堤」とはどういうものか。それについては本書のP13~14にまずかいつまんでまとめられています。①震災によつて出た大量のがれきを分別し、土に混ざった木質がれき、レンガ、コンクリートの破片などを有効な地球資源として活用する。②穴を掘って発生土とがれきをしっかり混ぜながら、その土地本来の常緑広葉樹の根群の充満したポット苗などの苗木を植える通気性のよいマウンド(植樹地)をつくる。マウンドの幅は10m~100mあるいはそれ以上。③その苗木は15~20年で多層群落の森に生長し、最終的には高さ20~30mほどの高さになり、安定度の高い多層群落の柔構造で堅固な「森の防波堤」となる。④この「森の防波堤」はCO2削減、温暖化抑制にも役立つ。⑤この「森の防波堤」は環境保全林や地域の観光資源となり、また生長した樹木を家具や建築材として活用すれば経済的な効果もある。防災・環境保全機能は、皆伐、破壊しない限り次の氷河期まで9000年は地域経済と共生した「いのちの森」として持続する。以上ですが、ではなぜ常緑広葉樹でなければならないのか。宮脇さんは震災が発生した3月11日の翌月である4月の7日から8日にかけて被災地に入り、主に海岸林の状況について調べています。それによってわかったことは、海沿いのマツ林は太い高木も幹が折れ、根が浅いためにほとんど根こそぎ倒れ、2キロも3キロも内陸まで押し流されていたという現実でした。その幹や枝が、家や車、人を押し流してさらに被害を大きくしたであろうと宮脇さんは推察しています。しかしそれに対して海岸林の下に自生していたマサキやトベラ、鎮守の森を構成していたタブノキなどの常緑広葉樹は生き残っていました。「総じてその土地本来のタブノキ、シイ、カシ類の樹木や、これらの森の構成種群の常緑樹は、大地震や大津波にも耐えて生き残っていた」というのです。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その6

2013-03-11 05:42:34 | Weblog
隈さんによれば、「純粋幾何学に基づく造形と、数学に基づく合理的な構造計算とを基礎とする二〇世紀のモダニズム建築」が生まれるきっかけとなったのは1755年11月1日のリスボン大地震でした。リスボン大地震以降の「大きな建築」へと向かう波は、イギリスやフランス、アメリカなどの欧米諸国ばかりか、日本にも押し寄せることになりました。それは関東大震災(1923年9月1日)を契機とした東京の復興以後のことでした。それまでの東京は、木造建築という制限によって「世界でもまれな美しい都市」として存在し、「たぐいまれな高密度都市であるにもかかわらず」「木のおかげで、美しく温かくやわらか」い都市であったと隈さんはいう。そのような隈さんにとって、東京は関東大震災以後、「ヨーロッパ・アメリカのコピー建築で埋め尽くされた、醜くて『大きな』都市へとなりさがっ」てしまったということになる。それは実は東京だけのことではない。伊東豊雄さんや隈研吾さんが言うように、津波被災地において「ミニ東京」(コンクリートや鉄で作られた「大きな建築」があちこち佇立するようなまち)を造ってはならないとしたら、あの津波によって全くの更地が広範囲に広がった地域においては、まずどのような津波対策が施されるべきだろうか。相馬・名取・岩沼・仙台・石巻・東松島・南三陸・気仙沼などの津波被災地の情景を前にして、私がまず考え込んだことはそのことでした。避難できる山が近いところと、避難できる山がずっと遠いところにある平野部とは、津波対策は厳然と異なる部分があるのです。その点において、私の目を開かせてくれた本が宮脇昭さんの『瓦礫を活かす「森の防波堤」が命を守る』(学研新書/学習研究社)でした。その「森の防波堤」とは、簡単に言えば、震災によって出た膨大な量の瓦礫を活用して幅10m~100m(可能なところはそれ以上)のマウンドを造り、その上にその土地本来の常緑広葉樹の苗木を植樹するというもの。そのような「森の防波堤」設置をまず大前提にして、広大な更地が広がる津波被災地の復興・復旧を構想すべきだと、私は考えています。 . . . 本文を読む

2013.1月取材旅行「馬頭広重美術館~足利・観音山~女浅間山・男浅間山」 その5

2013-03-10 07:12:52 | Weblog
隈さんの考える「小さな建築」とは、われわれにとって「さまざまな意味で身近でとっつきやすく、気楽な存在でなければならない」ものであり、それを探すときにまず考えなくてはならないのは、自分が一人で取り扱うことのできる「小さな単位」を見つけることでした。「小さな建築」とは実は「小さな単位」のことだと隈さんはいう。そこから隈さんが考えたのが「ウォーターブロック」であり「ウォーターブランチ(水の小枝)」(「ウォーターブロック」の発展型)というものでした。この「ウォーターブランチ」でつくった実験住宅(P54)は、「生物の個体が、自然の恵みを巧みに利用して、オカミに頼ることなく、自立しているように」、自然の恵みを巧みに利用した「自立した建築」になる可能性を有するものでした。これらは「小さな単位」を「積む」という作り方であるけれども、もっと手っ取り早いものとして「もたれかけ構造」の作り方というものがある。たとえば日本の住居の原型とされる竪穴式住居がそれ。作品としてはたとえば慶應義塾大学の学生たちと作った「森の休憩所」などが紹介されています(P80)。それは釘やボルトでがっちりと固めてしまう建築ではなく、大地にもたれかかり、そして部材同士がもたれあう建築。「二つの斜めの部材がもたれかかりあって、屋根ができ」「もたれあうことで、フラットな地面の上に、人間のための空間が立ち上げられる。」日本の竪穴住居をはじめとしたアジアの低層建築は、このような屋根を媒介にして人間と地面(大地)とが一つであったのであり、コンクリートや鉄を駆使した20世紀モダニズム建築とは異質なものであった、と隈さんは指摘しているのです。川崎の日本民家園で茅葺き屋根の古民家を見た時、私はその形や構造、土間を含めた間取りや庇(ひさし)の機能性というものに新鮮な感動を覚えたのですが、あれは縄文時代の竪穴住居の発展型というものであり、代々にわたり日々の生活を営々と送ってきたそれぞれの地域の人々の知恵が詰まったものでした。それはつまり「場所に根の生えた生産行為」の一つであったのです。 . . . 本文を読む