鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年・「露研」の旅─「焼津、そして由比」 その2

2009-03-31 07:08:31 | Weblog
「あさぎり号」は松田より御殿場線に入ります。この御殿場線はかつての東海道線。国府津(こうづ)駅を出た蒸気機関車が牽引する列車は、松田→山北→小山→御殿場などの駅を経て、沼津駅から静岡方面へ向かったのです。かなりの急傾斜であるため、蒸気機関車が複数以上で車両を引っ張ったようです。小山駅などはそのための拠点となる駅であって、かつては鉄道関係(国鉄)の人々が居住するところとして、たいへん賑わったところであるようですが、まだ私は街中を歩いたことはありません。歩けば、その名残りを見出すことができるかも知れません。かつて東海道線で東京(新橋)~大阪間をしばしば利用した中江兆民も、この沿線風景を眺めています。しかし夜行であれば、このあたりを走っている時には兆民はすでに眠っていたかも知れません。 . . . 本文を読む

2009年・「露研」の旅─「焼津、そして由比」 その1

2009-03-30 06:03:53 | Weblog
かつての同僚6名(私も含めて)で構成している「露研」については、以前に触れたことがありますが、「露研」とは、「ロシア(露西亜)研究会」ではもちろんなくて、「露天風呂研究会」ということ。同僚仲間で、仕事疲れのリフレッシュのために箱根の「天山(てんざん)野天風呂」という「立ち寄り湯」に、小田急線を利用してしばしば出掛けたことが、「露研」結成に至るルーツになっています。3年間の仕事を終え、仕事仲間で、春3月に白骨温泉の「元湯新宅旅館」に泊まったことがありますが、みんなで朝風呂に出かけた時、ちょうど雪が舞い降ってきました。まわりの山々の白い雪に囲まれ、また渓谷のせせらぎの音を聴きながら、白濁する露天風呂に浸かった時、期せずして、こういう露天風呂の楽しみを共有するつながりを、今後とも継続していきたいね、という感情がメンバーの中に湧き起こりました。それをきっかけに、勤める職場はバラバラになっていきましたが、うち6名が現在まで、毎年のように「露研」として忘年度旅行を続けてきたわけです。一昨年は熱海温泉、昨年は伊豆長岡温泉、そして今年は、というと、目的地は「焼津黒潮温泉」。以下、その報告を簡単に。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その最終回

2009-03-25 06:03:17 | Weblog
江の島に関するアーネスト・サトウの記述は詳しい。銅製の鳥居から南側にある岩屋に至るまでの道沿いには三つの古い社があり、またおもに仏教関連の付属的な御堂がいくつもあったものの、神仏分離のために取り払われてしまったということも記しています。「仏教関連の付属的な御堂」は、弘法大師が開いた真言宗の僧侶たちによって営まれていたこともしっかりと付け加えています。彼は次のように記述しています。「一八六八年の維新までは、江ノ島は日本の『七福神』の一人として親しまれている女神の弁天様を祀る島であったが、現在は神道の三人の女神、多紀理比売(たぎりひめ)、市寸島比売(いつくしまひめ)、田寸津比売(たきつひめ)を祀っている。」 現在多紀理比売を祀るのが「奥津宮」、市寸島比売を祀るのが「中津宮」、田寸津比売を祀るのが「辺津宮」ですが、古くは「本宮(もとのみや)」(御窟)、「上之宮(かみのみや)」(中津宮)、「下之宮(しものみや)」(辺津宮)の三宮で、「本宮」(弁天)はもともとは御窟にあって、年2回の例祭時に御旅所(おんたびじょ・現在の奥津宮)に遷座していたという。神仏分離まではこれらの三宮には別当寺である岩本院・上之坊・下之坊があって、旅所経営や札配りに力を発揮していたものの、明治元年(1868年)にこれらは廃寺になった、ということが註に記されています。サトウは、「当地の洞穴は一番の見もの」だとしています。「奥行き一二四ヤード(約110m弱)、入口の高さは少なくとも30フィート(約9m)あるが、中を突き進むにつれて低くなっていく。それは以前弁天様の『本宮』であった。この堂宇から先の入口付近はランプがともっている。」 サトウも、たしかに江の島の「一番の見もの」である岩屋の中に入っているのです。サトウは、洞穴付近の磯で観光客や参拝者を相手に、島の人たちが「あわび」などを取るために海に潜っていたことや、江の島の参道沿いのお店で、ほかの土地からここに運び込まれた貝や珊瑚細工、またその他の海の珍物がたくさん売られていたことなども記しています。ベアト一行が江の島を訪れた幕末の元治元年(1864年)においては、江の島はまだ神仏分離の前で、別当寺(岩本院・上之坊・下之坊)が三宮を管理し、旅所経営(岩本院)や札配り(上之宮・下之宮)に「力を発揮していた」のです。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その8

2009-03-24 05:37:41 | Weblog
1872年(明治5年)の8月、金沢→鎌倉を経て、江の島を訪れたジョルジュ・ブスケ(日本政府お雇いフランス人法律家)は、江の島でどういう行動をしているか。ブスケ一行(外国人は総勢6名)は、馬で七里ガ浜の波打ち際を駆け、小動崎(こゆるぎさき)の鞍部を越えて腰越の集落を抜けて片瀬に到着。ここが彼ら一行の宿泊予定地でした。宿泊したのは、サトウが紹介している角屋か柏屋のどちらかであったでしょうか。宿屋に落ち着いたもののまだ日が高かったため、ブスケ一行はふたたび馬に乗って砂洲を進み、江の島の麓で馬から下り、徒歩で銅製の鳥居を潜り、島の頂きに通じる両側にお店が並んだ階段を登っていきました。この階段の途中にあるたくさんのお寺で、ブスケたちは、祈祷をしている多くの巡礼たちに出会いました。ようやっとのことで頂上にたどりついたブスケらは、そこにあった茶屋の茣蓙に座って出されたお茶を飲みながら、北の鎌倉湾と南の小田原湾の広い景色を楽しみました。ブスケはこの江の島を歩いてみて、母国フランスのブルターニュやオーベルニュの町々の様子を想起しています。島の漁師である人々は、彼ら外国人一行に、貝類や海藻、奇妙な海草類を持ってきてくれましたが、道中で出会った腰の低い農民たちよりも、「何とはなしに仕草がもっと力強く態度がもっと堂々としている」ように、ブスケには思われました。その頂上部の茶屋からの展望を楽しんだブスケ一行は、もと来た道を戻り、江の島の海岸部でふたたび馬に乗り、片瀬の宿屋に戻りました。それでもまだ夕食まで時間があったので、ブスケたちは片瀬の海岸で海水浴を楽しみました。以上がブスケ一行の片瀬や江の島での行動の内容です。おそらく片瀬の宿では、新鮮で豪勢な魚料理に舌鼓(したづつみ)を打ったことでしょう。その翌朝、ブスケ一行は馬に乗って早朝に片瀬の宿を出発。朝6時には藤沢に到着し、そこからは東海道を小田原・箱根方面に向かって進んでいきました。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その7

2009-03-23 06:19:18 | Weblog
『明治日本旅行案内』のアーネスト・サトウは、腰越の満福寺を右手に見て片瀬の龍口寺に立ち寄っています。片瀬には角屋(かどや)と柏屋というお薦めの旅宿があり、その「角屋と柏屋の間を通り抜ける小道をわずかに右に曲がりながら砂山を突っ切ると、江の島と本土をつなぐ細長く延びる砂浜」に出ることができました。「江の島」は「島」ではなく、砂浜によって陸地とつながっていて、完全に海に囲まれるのは満潮時だけだ、ということもしっかりと記してあります。この「江の島」についての記述も詳細を極めていて、「江の島」の歴史や文化についてサトウはかなり調べたであろうことがうかがえます。この江の島は、横浜居留地に住む外国人が金沢・鎌倉方面の旅行を企てた時の最終目的地。ここからの景色を見なければ、旅行の最大のポイントを押さえなかったということになり、「画竜点睛を欠く」とでもいうべきものでした。サトウによれば、江の島の外国人へのお薦めの宿は「岩村」。「旅宿─岩村は富士、箱根、大山方面の眺めがよい」と記されていますが、この「岩村」とは、おそらく「岩本」(「岩本楼」)のことだと思われる。この「岩本」でまず小憩をして、そこから案内人を頼んで、お店が両側に建ち並ぶ石段を登っていき、頂上まで上がって「山ふたつ」に下り、そこからいったん下ってさらに登ってから下之宮(奥津宮)のところで左折。そこからぐんぐん崖際を下って稚児ヶ淵に出て、岩伝いに岩屋に至り、その洞穴の奥の弁才天を見るというのが、当時の一般的コースでした。江の島に行ったら、その相模湾側の岩屋を見る。この岩屋巡りを欠かしたら、やはり江の島見学の「画竜点睛を欠く」というもの。しかし、波の荒い時には岩屋に行くのは大変危険で、せっかく稚児ヶ淵までは来たものの、岩屋見学を断念せざるをえないという場合もしばしばありました。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その6

2009-03-22 07:19:59 | Weblog
こまめに沿道の寺社を訪ねているアーネスト・サトウが小動(こゆるぎ)神社に足を踏み入れているかというと、腰越村の入口にある、義経の「腰越状」で有名な満福寺(真言宗)には立ち寄っていますが、小動神社には立ち寄ってはいないようです。稲村ガ崎付近で七里ガ浜に出て、砂浜の波打ち際か人の踏み跡を、前方に江の島や富士山を眺めながら進んでいくと、その突き当たりが小動崎で、小動の小さな藁葺き屋根の集落に入ります。その集落の間の坂道を上がると、小動崎の鞍部を越えて腰越の集落に出るのですが、その道筋の左手にあるのが小動神社。しかし、小動神社となったのは明治維新となって神仏分離令が出てからのことで、それまでは八王子社という名前であったようです。腰越には、小動崎の海岸側を岩伝いに行けないこともなかったようですが(現在は腰越漁港が工事中のため海岸は通れない。昭和5年〔1930年〕11月28日夜半には、太宰治が田辺あつみという女性とここの岩場で睡眠薬を大量に飲み、心中未遂事件を起こしています。太宰は一命をとりとめたものの、田辺あつみは亡くなりました)、馬に乗った外国人は、当然に小動の藁葺き屋根の集落の間を進んで坂道を上がり、左手に小動神社の参道、右手に満福寺の参道を見て、片瀬や江の島に向かってゆるい坂道を下っていったのです。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その5

2009-03-21 05:57:29 | Weblog
『神奈川の写真誌 明治中期』を見てみると、P174に七里ガ浜側から見た稲村ガ崎の写真が載っています。これは明治20年代後半か30年代頃の写真であるらしい。この写真の解説を読んで見ると、面白いことがわかりました。次のようなことが書かれています。─稲村ガ崎の一部が切り開かれたような格好に見えるのは、長州藩が造った台場の跡であるため。その平坦地に建っている家は、明治の政治家井上馨の別荘である─たしかに写真を見ると 、平坦地に家があります。先ほど立ち寄って私が小憩したところ、江の島と富士山と七里ガ浜が見える絶好のビュー・ポイントであったあの稲村ガ崎海浜公園は、かつては(幕末)、長州藩の砲台が設けられていたところであり、また明治になってからは長州閥の「親玉」の一人であるあの井上馨(聞多)が別荘を構えていたところであったというのです。砲台というと、小動(こゆるぎ)崎にも砲台があったらしい。『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 鎌倉』のP107に「小動岬」という写真が載っているのですが、その解説によると、この小動崎の鼻には黒船騒ぎの頃は遠見番所兼用の小さな砲台があったという。相模湾に現れる「黒船」に備えて、稲村ガ崎にも小動崎にも、相模湾を見晴るかすことができる地点に砲台が設けられていたことがわかるのです。この「小動岬」の写真は、明治4年(1871年)に撮影されたものであるらしい。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その4

2009-03-20 06:51:39 | Weblog
ベアトが江の島に親友のワーグマンら5人の仲間とともに訪れたのは、元治元年の10月22日(西暦では1864年11月21日)でした。この日の朝、鎌倉の旅宿を出発した6人(馬に乗る)は、長谷の大仏を見学し、極楽寺の切り通しを抜けて七里ガ浜の砂浜に出て、そこから砂浜の波打ち際に馬を進めて小動や腰越、そして片瀬の集落を抜けて江の島に至ったのです。この旅行はベアトにとっては写真撮影のためのものであり、ワーグマンにとってはスケッチのためのものでした。『F.ベアト幕末日本写真集』のP42からP57にかけての一連の写真の多くは、おそらくこの時に撮影されたもの。したがってP56、P57の「江の島」の写真も、この旅行の時、元治元年10月22日に撮影されたものである可能性が高い。そうであれば、この2枚の写真は、今から145年近く前(すなわち幕末)の江の島を写したものだということになり、おそらく江の島を写したもっとも早い(すなわち古い)貴重な写真であるといえるでしょう。このベアトの写真撮影旅行から7年後、すなわち明治4年(1871年)の夏に、やはり江の島まで撮影旅行をした外国人カメラマンがいます。その名はミハエル・モーゼル。オーストリア生まれで、明治2年(1869年)の秋に来日し、当時、横浜で発行されていた英字隔週新聞『ザ・ファー・イースト』の発行者兼編集人ジョン・レディ・ブラックの専属カメラマンでした。彼が日本で撮った写真の多くは、『神奈川の写真誌 明治前期』(有隣堂)におさめられています。このP243に「江の島と腰越」「七里ヶ浜の砂浜」と題された写真がありますが、その説明に、「視界にはあっても富士は遠すぎてカメラには映像を結ばなかった、とブラックは説明している」という記述があります。当時の写真機や薬品の性能では、遠くにうっすらと見える富士山を写し撮るのは難しかったということで、ベアトの銀板写真機ではなおさらであったということになります。モーゼルも、幕末・明治に江の島を訪れた外国人の多くがそうであったように、極楽寺の切り通しから七里ガ浜の砂浜に出た時、そこから見える景色に魅了された一人でした。「七里ガ浜の砂浜」がその景色を写した1枚で、中央やや右手に小動(こゆるぎ)崎が写り、その右側海岸に小動の集落があるのも見える。P242の「腰越の浜」には、その小動村の近景写真が掲載されています。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その3

2009-03-19 06:27:29 | Weblog
神奈川や東京近辺を歩いていると、思いがけないところで遠く富士山の姿が現れて、こんなところから富士山が見えるんだと感動を覚えることがある。その地点は、ビルや人家が建ち並ぶ街中の通りであったり、山道であったり、坂道であったり、田んぼ道であったりとさまざまですが、その富士山が白く雪でおおわれていたり、夕陽をバックに黒くシルエットで浮かびあがっていたりすると、なお感動的です。富士山は、独立峰で、しかも流麗ないわゆるコニーデ型の山であるだけに、それが見えた時にはとりわけ印象的な山なのです。横浜から江の島に向かう途中、富士山が見えるビュー・ポイントはいくつかありましたが、その富士山はすべて陸地の上に見えました。しかし、極楽寺の切り通しを抜けて七里ガ浜に出た時に、サトウの言葉を借りれば「唐突に」見える富士山は、海の上に見えました。しかも、白く波が次々と打ち寄せる海岸から少し飛び出すように江の島が遠望できるのです。そして左手には青い相模灘が広がり、その向こうに伊豆半島の陸地が左右に連なっているのが見える。江の島はこの広々とした景観の中でやはり重要な一点景で、これがなかったらちょっと間の抜けたような景観になるかも知れない。しかし江の島があることによって、近景・中景・遠景の構図がきっちりと引き締まります。横浜からはるばるやってきた外国人にとって、確かに感動的な景観であったであろう、と思われました。もっとも、天気がよく、空気が澄み切っていて、富士山がよく見えていた、という前提のもとですが。この極楽寺の切り通しを抜けて、稲村ガ崎の浜辺に出た時に見える景観への感動は、あのフェリーチェ・ベアトも共有したものでした。それがわかるのが『F.ベアト幕末日本写真集』のP57の写真。左手前から右手中央へと延びるのが七里ガ浜で、右手中央に飛び出している岬が「小動崎(こゆるぎさき)」。小動崎の海岸には小動の小さな集落が見えます。中央左手に浮かぶのはもちろん「江の島」で、その形は現在のそれとそんなに大きくは変わらない。やはり集落が海岸にあるのがわかります。30秒ほどの露出時間があるので、打ち寄せる波は白く広がって見えます。右端には砂山の一部が見えています。さて富士山はどうかというと、伊豆半島へと続く陸地はうっすらと見えるものの、富士山そのものは見えない。しかし実際は見えていたはずだと、私は思います。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その2

2009-03-18 05:49:08 | Weblog
明治5年(1872年)の8月(西暦)のある日、仲間4人とともに鎌倉の大仏を見学したジョルジュ・ブスケの記述は、大仏からいきなり七里ガ浜に移りますが、これがアーネスト・サトウとなるとさすがに記述が詳しい。サトウの場合は、大仏から七里ガ浜に出るまでに、御霊神社(「権五郎さま」)・極楽寺坂・星の井・虚空蔵菩薩・成就院・極楽寺についての(それらにまつわる話題等も含めて)詳しい記述があります。サトウは、それら一つ一つを丹念に見て回っているのです。極楽寺の門前から砂浜、すなわち七里ガ浜まで、サトウの記述によるとおよそ200ヤード(約180m余)。砂浜に出るともう「俥」は使えませんでした。「俥」とは人力車のこと。人力車に乗って鶴岡八幡宮や長谷の大仏からやってきた場合、七里ガ浜に出たらもう人力車では走れなかったというのです。「『俥』は使えないが波が低いときは徒歩が気持ちよい。このあたりで富士が江ノ島のこんもりとした森の背後に唐突に姿をあらわす。ここの砂浜は七里ヶ浜と呼ばれ、昔は一里は六町あるとされていた」とサトウは記します。そこからサトウは砂浜を進み、行合(ゆきあい)川→腰越村の満福寺→片瀬の龍口寺を経て、角屋と柏屋(両方ともサトウお薦めの宿)の間を通り抜けて江の島へと続く砂浜に出ます。ブスケの場合は、七里ガ浜についての記述はどうなるか、というと以下の通りです。「我々は遂に太陽に輝く、細かい砂の海岸に出る。海は静かである。そして我々はあまり埃っぽくなくまたあまり不安定でない地面を求めて我々の馬を波うち際まで進ませ、この厳しい太陽の下で馬の足が我々の顔にはね上げる水しぶきを心地よく吸いこむ。一時間ほどこの骨の折れる行進をつづけた後に、我々は今日宿泊すべき『カタシュ』(片瀬)に着く。」ブスケら外国人一行5人は、明治5年の夏、七里ガ浜の波打ち際を、馬に乗って水しぶきを上げながら片瀬の宿まで向かったのです。サトウの記述を見ても、ブスケのそれを見ても、極楽寺から七里ガ浜に出ると、その砂浜を腰越村の入口まで徒歩ないし馬に乗って進んだことになり、別にほかのルートがあったとは思われない。おそらく砂浜上に人の踏み跡らしきものがあって、そこか、あるいは波打ち際(その方が歩きやすいので)を、かつての旅人は利用したものと思われます。 . . . 本文を読む

2009.3月「長谷~七里ガ浜~江の島」取材旅行 その1

2009-03-17 05:56:08 | Weblog
前回の取材旅行では「由比ガ浜通り」を長谷まで歩きました。大仏を拝観した後に江ノ電の長谷駅より鎌倉駅に戻り、それから浄光明寺→亀ヶ谷の切り通し→建長寺→鎌倉市観光協会というコースを取ったのは、鶴岡八幡宮の休憩所で、スタンプ4個でエコバッグを手に入れることができることを知ったからでした。しかしそのおかげで、エコバッグをゲットできたばかりか、鎌倉市中央図書館で幾冊かの写真集から貴重な情報を手に入れることもできました。「由比ガ浜通り」は長谷観音の参道前にぶつかり、道はそこで左右に分かれますが、右折すると大仏へ向かい、左折すると江ノ電の長谷駅へ至ります。今回は、この長谷駅より極楽寺の切り通しを経て、前回の最終目的地(予定では)であった江の島までの取材の報告を行います。 . . . 本文を読む

2009.2月「鶴岡八幡宮~長谷大仏」取材旅行 その最終回

2009-03-09 05:32:23 | Weblog
『神奈川の写真誌 明治中期』(有隣堂)のP184に掲載されている写真で、明治24,5年頃の六地蔵付近のようすをうかがい知ることができます。その写真の右端の板囲いの小屋(今はない)には6体のお地蔵さまが並んでいて、その傍らに、束ねられた藁(わら)が積まれています。左の家の小障子には「すし」という文字が書いてある。長谷観音の方へ歩いている洋装で帽子をかぶった男が写っています。この道が下馬四ツ角から六地蔵の前を通って、長谷の大仏や江の島方面へ向かう道。この六地蔵が並んでいるところは「芭蕉の辻」とも呼ばれました。というのは、天明8年(1788年)、松尾百遊というものが「芭蕉を追憶し、あわせて諸霊を弔うため句碑を立てた」から。『鎌倉・逗子・葉山今昔写真帖 保存版』(郷土出版社)によると、この六地蔵の付近はかつては「飢渇(けかち)畠」とも言われ、家が2軒あるだけで、あとは一面原っぱであったという。しかし大正初期になると、長谷寺の参道は鎌倉一の賑わいを見せるようになっており、それへと続く下馬四ツ角からの道筋は、「長谷小路(はせこうじ)」といってたいへん賑やかな通りになっていました。昭和初期には、この通り(由比ガ浜通り)は、長谷・大町に次いで賑わいを見せる通りとなっていて、六地蔵の交差点のところには鎌倉銀行の由比ガ浜出張所が設けられるほどでした。この銀行の建物は現在も残っていて、「今も付近のランドマークになって」います。現在はもう銀行ではないのですが、「THE BANK」という名のお店になっています。明治後期から、この六地蔵の前を通って長谷観音の方へ向かう道(由比ガ浜通り)の両側には人家が建ち並ぶようになっていくのですが、明治中頃までは、このあたりは田んぼや畑や野っ原が広がり、人家が数軒ほどしかないようなところであったということになります。長谷村の名主幸左衛門が、六地蔵の茶店を過ぎたところで、自分を追い越していった騎馬の外国人二人が、四つ角付近において二人の侍にいきなり襲撃されるのを目撃しますが、六地蔵付近からは、若宮大路とぶつかる下馬四つ角あたりまですっきりと見通すことができたということです。この六地蔵のそばにあった茶店に老婆が住んでいました。名前は「その」。事件発生直前、「その」は店先を竹ぼうきで掃いており、その傍らを馬に乗った外国人二人が通り過ぎていくのを目撃していました。 . . . 本文を読む

2009.2月「鶴岡八幡宮~長谷大仏」取材旅行 その6

2009-03-08 05:39:40 | Weblog
鶴岡八幡宮(明治維新までは「鶴岡八幡宮寺」)の入口にあった「三の鳥居」から「段葛」が「二の鳥居」を越えて下馬の四ツ角まで続いていましたが、その「二の鳥居」までの通りの両側には藁葺き屋根の人家が並んでいました。「二の鳥居」から下馬までの通りの両側には人家がなく、下馬の四ツ角を長谷観音の方へ右折したところ両側に人家が2軒ありました。江戸期から明治初期にかけてこの下馬には鶴岡八幡宮寺の番所もあったようですが、これがどこにあったかはよくわからない。この四ツ角の段葛がちょうど尽きるところには柵もありました。これが「駒止めの柵」であり、ここで乗馬の者は馬から下りるのが昔からの慣わしでした。鶴岡八幡宮の神域に入る礼儀ということでしょう。一般に、「鳥居」は神域と俗世界を分ける装置であって、「一の鳥居」から鶴岡八幡宮の境内まで「若宮大路」を含めた地域は神域であり、そこに馬で乗り入れることは、神を怖れぬ不届き至極の行為であるとみなされたのです。この駒止めの柵と四ツ角を右折したところにある2軒の家を撮影したのが、『F.ベアト幕末日本写真集』P53上の写真。この写真には外国人男性が4、5人ほど写っています。もちろん撮影したのはベアト。写真中央やや右側に立て札が見えますが、これには「段かつらのうへ馬駕籠乗踏めず」という文字が墨で黒々と記されています。「乗踏めず」とは「乗り入れることは出来ない」という意味。またこの四ツ角には石の道標があって、「右 はせ 左 みうら」といった文字が刻まれていたらしいのですが、この写真ではその石柱を確認するこしはできません。その前のページの写真に、石塔らしきものが手前の石橋(佐助川に架かる下馬橋)を渡った右手に見えますが、これがその道標なのかも知れません。さてこのP53上の写真には英語で「第20連隊の二人の士官が殺害された現場」というキャプションが載っています。「第20連隊の二人の士官」とは、英国第2大隊第20連隊のジョージ・ウォールター・ボールドウィン少佐とロバート・ニコラス・バード中尉のこと。この写真の2軒の家の付近から下馬橋の間にかけての路上で、この両名の士官は二人の侍により襲撃され、ボールドウィンは間もなく死亡、バードもその日の夜には息絶えたのです。この事件については、以前に触れたことがありますが、『鎌倉英人殺害一件』岡田章雄(有隣堂)がもっとも詳しい。 . . . 本文を読む

2009.2月「鶴岡八幡宮~長谷大仏」取材旅行 その5

2009-03-07 07:25:26 | Weblog
アーネスト・サトウ編著の『明治日本旅行案内 東京近郊編』の「鎌倉」に出てくる旅宿、「角屋」・「丸屋」・「川瀬」のうち、「角屋」がどこにあったかというと、鶴岡八幡宮の入口である「三の鳥居」の前、左角にありました。「角屋正左衛門」、略して「角正(かどしょう)」の名で知られた2階建ての旅籠屋でした。『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 鎌倉』によると、鎌倉にやってきた外国人は、この「角正」(「角屋」)の2階をよく利用したという。サトウもこの「角正」に泊まっていることでしょう。先に触れたように、朱色が目立つ「三の鳥居」は、外国人が集合地としてよく選んだ場所でした。ここから下馬の番所(鶴岡八幡宮が設置したもの)まで延びる「段葛」の両側には藁葺きの家が並んでいましたが、その家の前には通りと平行して溝が掘られており、通りと家の間にはそれぞれ溝に架かる小橋がありました。「段葛」には、今と違って、明治20年代末までは樹木は植えられていません。したがって、現在の「若宮大路」の景観とはかなり異なった景観であったことになります。『図説鎌倉回顧』に興味深い、古老の話が出てきます。それは、「西洋人が八幡様におまいりすると、その通った所はけがれたといって、砂利をそっくりとりかえた」というもの。いつごろまでのことかはわかりませんが、たしかにそういったこともあったかも知れません。「砂利をそっくりとりかえた」、西洋人の「通った所」とは、どこからどこまでの範囲であったのか。「三の鳥居」から鶴岡八幡宮の上宮(本宮)の間であったのか。それとも、そこを含めて、「段葛」のある若宮大路もそうであったのか。おそらく「三の鳥居」から内部の境内に限ってのことだと思いますが、西洋人が通ったところは「穢(けが)れた」ところであるという発想が、幕末・明治の頃にはあったということになります。『図説鎌倉回顧』には、もう一つ興味深い記述が出てきます。「角正」(角屋)の女中は、どんなに若くても丸髷(まるまげ)を結ってお歯黒(はぐろ)をつけていたというのです(鈴木由三郎談)。なぜかというと、西洋人対策であったとのこと。つまり西洋人は「お歯黒」の女性を嫌ったし、何よりも「丸髷」を結い「お歯黒」をしているということは既婚女性である証拠であったから。よほど西洋人が利用した宿屋であったのでしょう。 . . . 本文を読む

2009.2月「鶴岡八幡宮~長谷大仏」取材旅行 その4

2009-03-06 06:33:34 | Weblog
『神奈川の写真誌 明治前期』(有隣堂)という本がありますが、それによると鶴岡八幡宮入口にある「三の鳥居」は、横浜居留地在住の外国人が鎌倉にやってきた際に、彼らが集合地に選んだ場所だという。アーネスト・サトウ編著の『明治日本旅行案内 東京近郊編』にも、鎌倉街道(「六浦道」)を頼朝の墓の入口近くまでやってきて「数百ヤード先に見える赤い『鳥居』に向かって歩を進める。そこは八幡神社の入口である」とあり、かつて幕府があった大蔵(おおくら)あたりからは「赤い鳥居」すなわち「三の鳥居」がよく見えたことがわかります。その「三の鳥居」が、外国人の集合地として選ばれたということはよく肯(うべな)えることです。その「三の鳥居」に出たところで、右を眺めれば、鶴岡八幡宮の太鼓橋や下拝殿(舞殿・神楽殿)、その上の方に楼門が見え、その背後にある大臣山の木々の繁りが見えるわけですが、左を眺めれば、かつては中央に段葛(今も同様)、その両側の通り沿いに藁葺き屋根の家が並んでいました。段葛には、今のように樹木は植えられていませんでした。段葛に樹木が植えられるようになったのは明治20年代の末から30年代初めにかけてであって、今のように桜が植えられたのは大正時代に入ってからのことでした(『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 鎌倉』による)。段葛は「ニの鳥居」を越え、下馬(現在の下馬四ツ角)まで続いていました。下馬には江戸時代から明治の初め頃まで鶴岡八幡宮の番所があり、また「駒止めの柵」がありました。『F.ベアト幕末日本写真集』P53上の写真の右端の建物は、もしかしたらこの鶴岡八幡宮の番所であるのかも知れません。ここを右折すればすぐに佐助川に架かる石橋があり、その道は長谷寺や大仏、また江の島へと続く通りであったのですが、右折せずに真っ直ぐ進めば、写真に見るように両側には鬱蒼(うっそう)とした松並木が「一の鳥居」を越えて由比ガ浜付近まで続いていました。松並木は、この若宮大路ばかりか稲村ガ崎や七里ガ浜などにもありました。その若宮大路の松並木の両側には畑が広がり農家が点在するばかり。下馬を右折して六地蔵前を経て長谷寺や大仏へと向かう道筋も、六地蔵に人家が2軒ほどあるばかりで沿道には畑や原っぱが広がっているばかりでした(『目で見る鎌倉・逗子の百年』による)。 . . . 本文を読む