鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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2008.2月「元箱根~三島宿」取材旅行 その5

2008-02-29 05:53:42 | Weblog
川添裕さんの『江戸の見世物』(岩波新書)によると、「舶来動物の見世物は、庶民を楽しませ続けた近世後期の見世物の柱のひとつ」でした。例として長崎ルートの「ヒクイドリ」や横浜ルートのインド象(文久2年〔1862年〕、アメリカ商船によって運ばれてきて、幕末期の動物見世物で最大のヒットとなる)、長崎ルートの雌雄つがいの「ヒトコブラクダ」が挙げられていますが、面白いのは、いずれもたんなる見世物としてではなく、見ることによって「疱瘡」「麻疹」除けになるという効能、つまり「ご利益」「眼福」になるのだ、ということが強調されていること。「見世物の動物はみな霊獣、聖獣、神獣なのであって、そのご利益は諸般におよぶ」とされていたのです。「疱瘡」や「麻疹」は、可愛い子どもを襲う最も恐ろしい病気であったから、世の親たちは、舶来の(西方からやってきた)珍しい動物の見世物があると聞けば、子どもを引き連れて見物に出向いたことでしょう。実際、ヒクイドリやラクダや象の見世物には、幼い子どもを連れた親たちが近在近郷から大勢集まってきました。ということは、この享保14年(1729年)の「象道中」(長崎~江戸)にも、幼い子どもを引き連れた人々がたくさん見物にやってきたことが推測される。見物人の中には多くの幼い子どもが含まれていて、親は、街道を通過する象を子どもたちに見せて、子どもが「疱瘡」「麻疹」といった恐ろしい病気に罹らないように、また、よし罹っても軽く済むように、強く祈っていたのかも知れません。雌雄つがいのヒトコブラクダは、文政4年(1821年)にオランダ人によって長崎にもたらされています。アラビア産というこのラクダは、長崎にしばらく滞在した後、大坂・京都・紀州・伊勢などで興行。その後、江戸へやって来ますが、東海道ではなく中山道を歩いて、板橋宿から江戸市中に入っています。各地での評判は早くから江戸に伝わり、板橋宿に到着した時は、待ちわびる群集で大騒ぎであったという。箱根を越えた象が、江戸品川宿に到着した時も、おそらく同様であったことでしょう。 . . . 本文を読む
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2008.2月「元箱根~三島宿」取材旅行 その4

2008-02-28 05:33:51 | Weblog
この長崎から江戸までの74日にわたる「象道中」には、通過する各藩や各領地の武士たちや各宿場の人々がいろいろな形で総動員されたに違いない。また沿道の子どもたちからお年寄りにいたるまで多くの人々の好奇の目を集めたに違いない。生きた象の渡来は、石坂昌三さんの『象の旅』によれば6代目。1代目は応永15年(1408年)6月22日(旧暦)に若狭の小浜に南蛮船でやってきたという。小浜から京都まで運ばれています。2代目は天正2年(1574年)で博多。3代目はその翌年で豊後国。4代目は慶長2年(1597年)でマニラから平戸に上陸し、京都まで運ばれて豊臣秀吉に贈られる。5代目は慶長7年(1602年)に交趾(こうし)国(ベトナム)から徳川家康に贈られたものというが、その記録は何も残っていないらしい。生きた象が長崎から山陽道を通り、大坂・京都を通過して東海道を通って江戸まで歩いていくなどということは、前代未聞のことであったのです。沿道の人々にとっては最高の見世物であったでしょう。しかしこの象は見世物として渡来したものではない。将軍吉宗のたっての希望で運ばれてきたものであり、将軍の上覧に供するものでした。しかもこの象の位はなんと従四位(じゅうよんみ)で一般の大名よりも格が上(宿場で泊まったところは本陣でした)。したがって、沿道の人々には厳しい制限がなされることになりました。『象の旅』では府中(現静岡市)の先触れが紹介されていますが、それには、一、象が通るまで通行禁止 一、暖簾は外し飛び出ている看板は外す 一、見物は店の内かまたは遠くから騒がずに見る 一、犬猫は道に出すな 一、鳴物を鳴らすな 一、道には一丁(およそ100m)おきに水を入れた桶を置くように 一、横町の出入り口には竹の柵を設けて閉じておくこと といったことが書かれていました。つまり沿道に鈴生(すずな)りになって見物することは固く禁じられていたのです。しかし物見高い庶民のこと、沿道の家々には1階にも2階にも窓から通りを見詰める人々がひしめいていたことだろうし、沿道の小高い丘の街道を見下ろせる場所にも、近在近郷からやってきた老若男女が人々が弁当持参で集まっていたことでしょう。私が今回歩いた西坂から三島宿にかけての街道沿いの村々の人々も、その象の通過をそのようにして興奮して待ち、興奮して見詰め、そして興奮して見送ったに違いない。 。 . . . 本文を読む
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2008.2月「元箱根~三島宿」取材旅行 その3

2008-02-25 06:23:57 | Weblog
この箱根峠を越えた象の話をどこかで読んだことがあることを思い出して、本棚を探したところ、『象の旅 長崎から江戸へ』石坂昌三(新潮社)を見つけました。これを読んでみると、象を連れた一行が、長崎から山陽道・東海道を経て箱根峠西坂を登って箱根峠を越えたのは享保14年(1729年)5月17日(旧暦)のこと。朝から調子の悪かった象は茨ヶ平(ばらがたいら)で口から泡を出してついにダウン。酒を気付け薬として飲ませるとようやく歩き出し、やっとのことで箱根峠を越え、箱根宿の本陣に新築されていた象小屋に入りました。そしてそのまま寝たきりになってしまうのです。ようやく元気になって箱根宿を出立するのは21日の朝。箱根宿に4泊5日の逗留でした。ということは箱根峠を越える時、象はそこで草を食むような余裕はなかったということになる。「象不快」のことは江戸に注進され、また象の好物である、まんじゅう(小田原から)・竹の子(宮城野より)・九年母(江戸から)・酒などが特注されます。この象はオス象で当時8歳。長崎で計測した時には、長さは一丈(約3m)、高さ五尺五寸(約1m65cm)、胴回り一丈五寸(約3m15cm)。箱根峠を越える頃はひとまわり大きくなっていたはず。江戸までの「象道中」の宰領(責任者)は、長崎代官高木作右衛門忠任(ただより)の手代である小舳田(おへだ)八左衛門と福井雄助。その2人の宰領のもと、象使の潭数(安南人・男性・46歳)・漂綿(安南人・女性・33歳)・宇助・吉兵衛。警護通事は清川永左衛門。それに下人や足軽などを入れて総勢14名。このオス象がもう一頭のメス象とともに中国広南港から長崎に南京船で運ばれてきたのは前年の享保13年(1728年)6月13日。メス象は9月11日に死去。オス象が江戸へ向けて長崎を出立したのは享保14年の3月13日でした。象一行は、長崎街道→小倉→山陽道→大坂→京都→東海道を通って、箱根峠を越え、六郷川(多摩川)を急拵えの船橋で渡り、5月25日に浜御殿に到着。長崎を出て74日、総行程354里(約1400km余)の長旅でした。象を見たいと言いだしたのは実は8代将軍吉宗。オス象は5月27日に浜御殿を出立して、桜田門を潜り、江戸城本丸の大広間車寄せで将軍吉宗に謁見しました。並み居る老中以下諸役の中には、あの南町奉行大岡越前守忠相も加わっていました。 . . . 本文を読む
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2008.2月「元箱根~三島宿」取材旅行 その2

2008-02-22 06:28:46 | Weblog
箱根峠にあった「傍示杭」(「境木」「境杭」とも呼ばれる)がどういうものであったかをうかがわせるのは、昨年5月に通過した武蔵国と相模国の国境にあった「武相国境之木」。場所は保土ヶ谷の権太坂の「境木立場(さかいぎたてば) 跡」。ここからは西に富士山、東に東京湾(江戸の海)を望むことができる景勝地で、「牡丹餅」が売られ休憩をすることができる茶屋が並んでいました。ここに広場があるのですが、その中央に「武相国境之木」という木柱がある(復元されたもの)のですが、これが「傍示杭」(「境木」・「境杭)で、「京都百十七里」、「日本橋九里九丁」とある。おそらくこれと同様のものがここ箱根峠に立っており、その周辺の広場には数軒の茶屋が並んでいたことでしょう。今、ここには国道1号線が通り箱根新道が入り込み、また熱海への道路が延びているということで、かなり元の姿は失われていますが、それでもそこから見える景観はそれほどむかしとは変わっていないと思われる。上方方面から初めてここにたどり着いた旅人は、いよいよここから関東なのだという感慨を懐いたに違いない。江戸まではここからおよそ3日の行程。地方からやってきてここを越えた人物としては、このブログで触れた人々に限定しても、横井小楠・中浜万次郎・吉田松陰・松浦武四郎・坂本龍馬・橋本左内・林忠崇(ただたか)などを思い起こすことができます。ほかに西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・江藤新平なども。日本人だけでなく外国人も通過しています。長崎出島のオランダ商館長一行(ケンペルやシーボルト)、朝鮮通信使節一行、琉球国使節一行や宣教師シドッチなども。人間ばかりでない。動物も通過しています。舶来の象です。享保14年(1729年)の5月17日(旧暦)、長崎からやってきた一頭のオスの象がここを江戸に向かって通過しています。その象は、象を運んできた役人や人足たちとここで休憩し、えさを食(は)んだことでしょう。それほど大きな象ではなかったようですが、この象にとっても箱根路の峠越えはそうとうにきついものであったことでしょう。石畳が敷いてあるとはいえ、あの急な坂道を湯本へ向かって下りていくことを考えると、その象を引っ張っていく役人や人足たちの心持ちはいかばかりであったか。というのも、その象は時の征夷大将軍徳川吉宗(8代将軍)の上覧にあずかるはずのものであったから。 . . . 本文を読む
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2008.2月「元箱根~三島宿」取材旅行 その1

2008-02-19 06:01:39 | Weblog
 小田原駅前から箱根町行きの「伊豆箱根バス」に乗ったのは6:45。バスは小田原郵便局を右に見て本町で右折して国道1号線に入ります。昨年12月に歩いた道を走り、板橋見附を過ぎて箱根湯本へ向かいます。前方に雪をうっすらかぶった二子山が見え、背後より射して来るまばゆいばかりの朝陽が、行く手の路面にバスの影を長く伸ばしています。車窓から見上げる空には一辺の雲もない。絶好の取材日和です。箱根戊辰戦争の激戦地である山崎を過ぎ、早川橋に架かる三枚橋を左手に見て、湯本駅到着が7:01。「土木遺産」の旭橋を渡り、まもなくバスはエンジン音を響かせながら左右にカーブを繰り返しながら国道1号線をぐんぐん登っていきます。小湧園辺りになると除雪された雪が道端に残る景色が見られるようになり、猿の茶屋辺りから道の両側の白さが目立つようになりました。先週の金曜日から土曜日にかけて降った雪がまだ消えずに残っているのです。芦ノ湯を過ぎるとここが国道1号線の最高地点で標高874m。二子茶屋を過ぎると前方左手に芦ノ湖が現れる。坂を下り左折。箱根神社の一の鳥居を潜りますが、その右手に「賽(さい)の河原」。元箱根港、恩賜公園前を過ぎて終点箱根町に着いたのは7:35でした。今回はここから三島宿までを歩きます。以下はその報告です。 . . . 本文を読む
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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その9

2008-02-09 08:56:25 | Weblog
龍源院の境内に入って右手に折れ「弁財天参道」の矢印の通り進むと、弁財天の祠(ほこら)があり、その裏手が湧水地(龍源水)。背後の河岸段丘の崖には竹林。戻って本堂前から参道へ向かって進むと、門の手前左手に赤い帽子を被(かぶ)り赤い前掛けを垂らした六地蔵。参道を進んで石柱の立つ門を出て右折。突き当たりをさらに右折すると石が飛び石風に敷かれた細道があって、奥に「鈴鹿の泉」と刻まれた石碑がある。これもきれいな湧水地。中には柵があって入れない。戻って龍源院の石門のところで右折すると藤沢街道に出ます。石碑に「藤沢街道」と刻まれています。小田急線座間駅に通ずる「梨の木坂」を上り藤沢方面に向かう道。おそらく「鎌倉街道」の一つではないかと思われます。この通りを北に進み、右手に白壁の土蔵を見て道祖神(右隣に「力石」)のところを右折。すぐに「湧水と歴史の里 鈴鹿長宿(ながじゅく)」と刻まれた石碑と「散策マップ」にぶつかります。右へ行くと「龍源水」、左に行くと「番神水」。番神水も湧水地で日蓮上人ゆかりのところ。湧水の流れる用水路に沿ってこぎれいな道を進むと黒板塀が見えてきますが、これも日蓮ゆかりの円教寺というお寺の塀。その手前を右折するとそこが番神水公園。養蚕が盛んな頃にはこの番神水の流れで「えびら」や蚕棚の材料の竹などを洗う風景が見られたという。ここのお堂の前を左折すると平和坂・座間公園(右手は米軍座間キャンプ)を経て座間神社へ。西に大山や丹沢山系を望むことができる見晴らしのいい散策路です。土地の人に聞いてみると、かつては街の中を用水がいたるところに流れていたという。用水を流れる湧水は夏は冷たく冬は温かい。土地の人々はその用水で米や野菜や養蚕関係の道具を洗ったりしていたとのこと。今はその多くが埋められてしまったけれど、残っていたら今よりずっと風情があっただろうとおっしゃっていました。あの「戊辰(ぼしん)箱根戦争」の脱藩大名林忠崇(ただたか)が、どういう経緯でここ座間市(当時は村)の龍源院にやって来たかはわからない。明治13年(1880年)頃、30半ば近くの忠崇が着流しでこの付近を散策し、夏には龍源院の境内や用水の上を飛ぶホタルを眺めていたりしたかと思うと、面白い。この付近には「街なみ景観協力賞」の土蔵や門など古い建物も点在し、土地の人々が「街なみ」の歴史的景観を大事にしているのが嬉しい。 . . . 本文を読む
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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その8

2008-02-08 06:30:22 | Weblog
龍源院は神奈川県座間市にある曹洞宗のお寺。「忠崇(ただたか)は画号を如雲と称していたが、みずからも木更津、東京、函館、座間と職を変えながら各地を転々とし、あてどなく流れる雲のような存在と化して」(『脱藩大名の戊辰戦争』)いました。明治13年(1880年)には「植木屋の親方とか、寺男とかの名目」でこの龍源院に住み込みながら、「別に仕事をするのでもなく近所の人々とも殆ど接触せず、身分姓名は一切極秘で」「彼を招いた山口曹参住職夫人さへ知らなかった」らしい。この龍源院には忠崇筆の大黒天図が伝わっていて、それには「明治十三年甲子日」と横書きで記入されているとのこと。住職の山口曹参だけはこの忠崇の身分姓名を知っていたのかも知れない。この龍源院へ行くには小田急線座間駅を利用するのがいい。座間駅を下りて改札口を右手に折れ、階段を下りると突き当たりに「座間ふるさとマップ」があって、それで龍源院へ至る道筋を知ることができます。左折して駅前の通りに出て右折。信号のある交差点を突っ切って真っ直ぐ進むと、正面に大山の頂きが見え、道は下り坂になります。左手に「梨の木坂」と刻まれた石碑があります。江戸時代には「梨の木諏訪坂」とも呼ばれていた古くからある坂道で、坂の途中左手には「市指定史跡 梨の木坂横穴群第一号・第二号」というものもある。坂の左手下はかつては沼地や水田であったところで、現在は住宅やマンションが集中し、また高校・養護学校・小学校が並んでいる文教地帯でもある。右手に諏訪神社の参道(石段)の登り口である石鳥居や臨済宗の心岩禅寺という古刹(こさつ)を見て歩道橋を渡ると左手に「散歩マップすずなが」というのがあって、ここにも龍源院はしっかりと描かれています。それで道筋を確認して静かな道を入っていくと、「湧水と歴史の里 鈴鹿・長宿」散策マップの前に出ます。「鈴鹿の小径」の石碑(道標)を確認して石畳のある趣のある通りに入っていくと、通りの右側に清流の美しい細い用水路。この清流にはホタルのえさになるカワニナが生息しているとのこと。突き当たり右手にミニ公園があって「湧水と歴史の里鈴鹿・長宿」の案内板。この清流は龍源院境内の崖下より湧き出ているもので、ここの奥が龍源院。参道は藤沢街道から真っ直ぐに本堂へとのびています。ここに林忠崇が、植木屋とか寺男という名目で明治13年頃に滞在していたとは驚きでした。 . . . 本文を読む
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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その7

2008-02-06 05:52:38 | Weblog
遊撃隊と小田原藩兵との戦闘は慶応4年(1868年)5月26日に山崎で始まりました。山崎は、入生田(いりうだ)と早川に架かる三枚橋との間、塔ノ峯の支脈が早川に向かって張り出した部分にあたり、東海道はその張り出した部分(山崎)を乗り越える形になる。遊撃隊がここに胸墻(きょうしょう・敵の射撃をよけ攻撃に便利なように胸まで土などを盛り上げたもの)を築いたのは地形的に当然のことであったでしょう。遊撃隊の激しい抗戦に小田原藩の戦果は上がらず、ついにしびれをきらした問罪軍が加勢して山崎の敵陣地を突破。遊撃隊は箱根の関所に退却していくことに。つまり箱根のあの石畳道を日没前後に関所に向かって歩んでいったことになる。退却していく遊撃隊の中には負傷者が多数いましたが、その中に第二軍隊長の伊庭(いば)八郎がいる。伊庭は三枚橋の上で腰に被弾してよろめいたところを背後から斬られ、左手首がぶらぶらの状態となる。左手首より血か迸(ほとばし)る状態で右手一本で奮戦。味方に助けられ戸板で石畳道を運ばれて畑宿にいた林忠崇(ただたか)ら第四軍と合流。そこでぶらぶらになった左手首の切断手術を受けたという。翌27日、遊撃隊は箱根の関所に入って軍議を行い、全軍退却を決定。その日九つ時(正午)頃より箱根から間道を通って夕刻に熱海に到着。ここから船3艘に分乗し相模灘を横断。房総半島の館山(たてやま)港に入り、そこで人数を縮小(およそ140名)して旧幕府海軍の長崎丸で奥羽に向かうことになりました。それが6月1日夕刻のこと。この「戊辰箱根戦争」で死んだものは、小田原藩および問罪軍側で34名(切腹した小田原藩家老2人を含む)、遊撃隊側で32名であったという。伊庭のように負傷したものも多かったと思われます。慶応4年(1868年)の初夏、上野の彰義隊戦争に呼応する形で、箱根旧街道を舞台にこのような戦争があったことを私はほとんど知りませんでしたが、小田原から箱根までを歩くことによって、それへの関心を深めることができました。脱藩大名林忠崇(ただたか)が、また左手首を失った伊庭八郎らがその後どういう人生をたどったかは、中村彰彦さんの『脱藩大名の戊辰戦争』をぜひお読みください。一点、興味深かったことを挙げると、林忠崇が明治13年(1880年)に座間の龍源院に住み込んでいたこと。昨年の秋に、ここを私は訪れたことがあったからです。 . . . 本文を読む
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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その6

2008-02-05 06:13:40 | Weblog
 5月20日、小田原藩主大久保忠礼(ただのり)の招きにより遊撃隊は小田原城に入城します。箱根の関所から石畳道を下って早川に架かる三枚橋を渡って板橋口から小田原宿に入り、おそらく箱根口門から二の丸御殿に入ったのでしょう。ところで林忠崇(ただたか)の行動はどうであったか。人見らの行動は独断専行であったことは前に触れました。忠崇らが人見らの独断専行を知ったのは19日の巳の刻(午前10時頃)。衆議により、第一軍(隊長人見)および第三軍(隊長和多田)を追うことに決定。林忠崇は第四軍の隊長で隊員は請西(じょうざい)脱藩兵60名によって構成されている。第二軍隊長は伊庭八郎。隊員は徳川脱藩兵60名ほど。第五軍は36名ほど。これに第一軍と第三軍などを合わせるとおよそ270余名。これが遊撃隊の総力でした。林や伊庭らの率いる遊撃隊は19日中に箱根宿に到着して人見らと合流しますが、その時にはすでに箱根関所に立て篭もる小田原藩兵との銃砲撃戦が展開されていました。しかし20日未明、小田原側からの銃砲撃が停止され、小田原藩の藩論が「佐幕」に一変したことを知ることになりました。林ら遊撃隊たちは歓声を上げたことでしょう。一方、箱根関所が「賊徒」により占拠されたというゆゆしき事態は、小田原から海路江戸に逃れた佐土原藩士の軍監三雲為一郎(種方)により大総督府に伝えられ、長州・鳥取・津・岡山の各藩兵からなる総勢二千五百人余の問罪軍が小田原に派遣されることに。問罪軍は25日に小田原に到着。それ以前に小田原藩主大久保忠礼はふたたび新政府への帰順を決めて菩提寺である本源寺に謹慎。小田原に到着した問罪軍は、「小田原藩恭順」を確かめるため小田原藩に独力で遊撃隊を討つことを命令。それにより翌26日、湯本の台の茶屋に本陣を置いて小田原寄りの山崎に布陣した遊撃隊との戦い、すなわち「戊辰(ぼしん)箱根戦争」が始まることになりました。 . . . 本文を読む
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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その5

2008-02-02 08:35:33 | Weblog
 5月17日、上野の彰義隊戦争が起こって江戸が大騒ぎであるとの知らせが遊撃隊の人見勝太郎らの耳に入ります。人見勝太郎率いる第一軍と和多田貢の率いる第三軍は、なぜか独断専行し、彰義隊が江戸で奮戦しているうちに東西相呼応すべきとして箱根の関所の占拠をめざし、三島の新政府軍の関所を突破して箱根宿に到着したのが19日の夕刻前。関所を固めている小田原藩兵はおよそ300。人見たちは関所の通行を求めるものの交渉は決裂。小田原藩兵は関所に籠もり、遊撃隊は宿場内に散開して大砲と小銃で銃撃戦を展開。小田原藩側は箱根宿に火をつけて建造物を焼き尽くそうとする手段に出ますが、遊撃隊はそれでは不利になるため消火に努めるという一幕も。この関所争奪戦は翌20日の未明、小田原藩側が突如発砲中止を請うたことにより終結しました。なぜ発砲中止(停戦)を請うたのかと言えば、実はこの戦いの最中に、小田原藩の藩論が「佐幕」に一変したのです。これにより人見らは箱根の関所を掌握。この日の夜明け前には、小田原から関所を目指していた因州(鳥取)藩出身の軍監中井範五郎(正勝)ほか2名が、芦ノ湖近くの権現坂下で遊撃隊士により斬殺され、また小田原城下では土佐出身の軍監吉井顕蔵が佐幕側の小田原藩士により斬殺されていました。「板橋の地蔵尊」にある「官軍」慰霊碑には、この中井範五郎と吉井顕蔵、それに佐土原・大村・荻野山中の藩士合わせて5名の名が刻まれています。ではなぜ小田原藩は藩論を「佐幕」に変えたのか。『小田原市史 通史編近世』によると、ある情報が小田原城内に伝達されたという。それは、「慶喜が軍艦で伊豆下田に上陸し、やがて小田原城に到着。その軍艦に大久保彦左衛門の指揮する脱走隊3000人が乗り込んでいる。奥羽の諸大名11家9万人の軍勢が北から江戸を攻撃。小田原にいる3000人が南から江戸を攻撃して、大総督府に占拠された江戸を挟み撃ちにするらしい。林昌之助(忠崇)の遊撃隊は、上方の諸大名や沼津藩・韮山勢とともに富士川で防戦している」という情報(これは明らかに「デマ」と言っていい)でした。このデマと、官軍軍監が領内に対して軍用金の差し出しを命じたことが、小田原藩の藩論を一気に「佐幕」へと転換させるきっかけになったようです。 . . . 本文を読む
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2008.1月「箱根湯本~元箱根」取材旅行 その4

2008-02-01 06:40:38 | Weblog
わずか1万石の小藩請西(じょうざい)藩がなぜ徹底抗戦論でまとまったのか。それには徳川家と林家の深い歴史的関係があったということが、『脱藩大名の戊辰戦争』に述べられています。足利六代将軍義教(よしのり)の時代に鎌倉公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)に仕えた林家の祖光政が、鎌倉に参勤していた時に世良田有親(せらだありちか)・親氏(ちかうじ)父子と親しくなる。ある時光政は持氏の家来の讒言(ざんげん)により信州林郷(松本市)に蟄居(ちっきょ)を余儀なくされる。やがて永享(えいきょう)の乱が起こり、将軍義教から追われた世良田有親・親氏父子は、諸国を放浪するうちに永享11年(1439年)12月に林郷にやってくる。光政は父子を泊め年を越させようとするが饗応する食べ物がない。そこで12月29日、光政は弓矢を手に猟に出かけ、田んぼの畦(あぜ)を駆けていく一匹の兎を射ちとり、それを吸物にして父子に対する年賀の膳としたというのです。この世良田親氏はのちに松平姓となって三河国に名をなすことになるのですが、あの兎こそ瑞兆(ずいちょう・栄えるようになったきっかけ)であったと信じて、光政に林姓を与えて侍大将として抱えるとともに、毎年元旦には松平一族よりもまず最初こ光政に兎の吸物と盃(さかずき)を与えることを常としました。林家においても12月29日には兎狩りを行って兎を松平家に献上するのが恒例となりました。この松平親氏の子孫として後に家康が生まれ、征夷大将軍として江戸に幕府を開くことになる。この松平家と林家との間に行われた「献兎賜盃(けんとしはい)」の行事は光政六代の子孫の時に途絶えてしまったものの文政8年(1825年)に林忠英(ただふさ)が貝淵藩1万石を立藩した時に老中に願い出て復活。林家の領地である上総国望陀郡上根岸(かみねぎし)村で獲られた兎五匹は林家から江戸城に運ばれ、それが吸物に仕立てられて元旦の朝に年賀登城してきた徳川御三家、松平一門以下の諸大名に振る舞われるようになり、以後林家当主は江戸城白(しろ)書院において時の将軍から他に先んじて盃を受け、兎の吸物をともに祝う光栄に浴しつづけた、というのです。このことは『江戸の知られざる風俗』渡辺信一郎(ちくま新書)にも「元旦の兎のお吸物」として触れられています。「林の中で押へたを御献上」の川柳の句の「林」とは、「林家」を指してもいるのです。 . . . 本文を読む
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