鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「生誕250周年 谷文晁」展について その3

2013-08-28 05:21:11 | Weblog
文晁の養子である文一が気になりました。カタログの年譜や解説などを総合すると、文一が生まれたのは江戸薬研堀(やげんぼり)。父は宮津侯の侍医であった利光寛造で、その次男として文一が生まれたのが安永6年(1777年)のこと。通称文一郎。寛政6年(1794年)の頃(18歳頃)、文晁の長女である宣を娶り文晁の養子となったと伝えられる、という。享和3年(1803年)には文晁・星野文良・蒲生羅漢とともに「石山寺縁起絵巻」の模本制作に参加しており、文晁が文一の絵師としての才能に大きな信頼を寄せていたことがわかるという。作品としては「花鳥人物画帖」のうち「四人物図」(文化8年)、「扇面画帖」のうちの一枚、「柏樹若鷹図」(享和3年)、「花鳥図」(文化3年)が紹介されています。谷文晁の最初の妻は幹々(1770~1799)で江戸の生まれ。姓は林で字は翠蘭。幹々は号。幹々の母は文晁の母とは姉妹にあたるので、文晁と幹々はいとこ同士であったとのこと。天明5年(1875年)、16歳の時に7歳年上の文晁のもとに嫁ぎ、お宣という女子をもうけますが、このお宣に婿養子として文一を利光家からもらったということになる(寛政6年頃)。お宣がいつ生まれたかはわからないが、文晁が幹々と結婚して寛政6年まで9年。ということは文一とお宣の婿養子として迎えた時、お宣は9歳以下ということになり、これは文晁と幹々が、文一のすぐれた画才と人柄を見込んでの婿養子縁組であったということを示しています。崋山が文晁の写山楼に入門した時には、すでに幹々は病死しており、文晁の傍らには後妻である阿佐子がいました。「文晁夫妻影像」の女性はしたがって最初の妻の幹々ではなく、後妻の阿佐子を描いたものということになります。 . . . 本文を読む

「生誕250周年 谷文晁」展について その2

2013-08-21 05:45:19 | Weblog
崋山の「退役願書稿」(天保9年〔1839年〕46歳)には、「文晁、文一、菅原洞斎というものが私を憐れみ画道へ取立ててくれた」と述べられているという。芳賀登さんの『士魂の人渡辺崋山探訪』によれば、「菅原洞斎」という人は秋田佐竹藩士で、文晁の妹(紅藍)の婿となった人であるという。また「文一」は文晁の養子で、江戸薬研堀の医師(利光寛造)の子であり、円山派と折衷して妙手と言われたが、病弱であり、文政元年(1818年)に32歳で早世しているとのこと。文政元年に崋山は26歳。崋山が文晁の画塾「写山楼」に入門したのが文化6年(1809年)17歳の時だから(文晁はその時47歳、文一が23歳、洞斎は48歳ほど)、おそらく崋山が「写山楼」に出入りし始めた頃、崋山の画才を認め、引き立ててくれた青年であったものと思われる。文晁を初めとして、その養子の文一、またその文晁の義弟であった菅原洞斎と、「写山楼」の主だった人たちが崋山の画才を認め、彼を引き立て、彼を薫陶してくれた人たちであり、崋山からすれば非常に恩義のある人たちであったことが、この記述からわかるのです。しかし文一は将来を嘱望されながら文政元年(1818年)32歳で夭逝し、また菅原洞斎も文政4年(1821年)に60歳で亡くなっています。崋山の師である谷文晁が下谷二長町の自宅で亡くなったのは天保11年(1840年)の12月14日のこと(78歳)であり、崋山が幽居中の田原城下で自刃したのは翌天保12年(1841年)の10月11日のことでした(49歳)。 . . . 本文を読む

「生誕250周年 谷文晁」展について その1

2013-08-20 05:05:25 | Weblog
用事で東京に出る機会があり、その帰途、サントリー美術館の「谷文晁」展に立ち寄ることにしました。谷文晁(1763~1840)は、渡辺崋山(1793~1841)にとっては絵の師であり、また崋山の絵の才能をよく見抜き、その才能を育てた人。崋山は文政6年(1823年)31歳の時の「心の掟」で、「書画の益師友」として、谷文晁・市河米庵(1779~1858)・桧山坦斎(1774~1842)・立原杏所(1785~1840)の4人の名前を挙げています。崋山31の時、文晁は61、米庵は45、坦斎は50、杏所は39。米庵は書家で漢詩人。坦斎は国学者で書画に詳しいが画家ではない。杏所は文晁門下で南画家。であるからこの4人の中で崋山にとって絵の師と言うべき人(しかも「益師」である人)は文晁のみということになる。それほどに崋山は、文晁に薫陶を受け、影響を受けたということです。サントリー美術館で「谷文晁」展があるということを知って、是非行ってみたいとかねてから思っていましたが、東京に行く用事があったので、六本木の「東京ミッドタウン」へと足を延ばすことにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その最終回

2013-08-16 05:08:05 | Weblog
「訪瓺録」に収められている崋山の絵の中で、私にとって興味深い絵は何といっても「下宿図」と「上宿」という街道筋の風景を描いた2枚と、「三宅屋敷堀ノ内笠原清七宅」を描いた1枚です。街道(秩父街道・熊谷道)を描いた2枚を見ると、街道には水路が流れ、その水路には水路側の各家に入る板橋や石橋が架けられています。水路の壁は板壁になっています。水路には洗い物など用を足すための段々が設けられているところもある。その水路はカルガモの親子のような水鳥が泳ぐ水路でもある。街道筋には板葺(重しとして丸石が置かれている)や茅葺の商家や人家が建ち並び、また瓦葺や板葺の大きな土蔵(白漆喰塗りか)のある人家もある。「下宿図」には茶店が描かれ、その店内で飲食をしている旅人や馬方がいる。右隣の板葺の家の軒先には草鞋(わらじ)が束になって吊り下げられています。茶店の前で憩う馬の背に載せられているものはその大きさからいって炭俵だろうか。「上宿」図では、道端で遊ぶ三人の子どもと、水路ばたで赤ん坊を前抱きにして屈んでいる若い母親が描かれています。三ヶ尻村の街道筋の日常がよく伝わってくる興味深い絵であり、また三ヶ尻村に「桃源郷」を見た崋山の思いが伝わってくるような絵です。「笠原清七宅」で注目されるのは、赤子を抱いた清七の妻が、黒田平蔵や崋山らが訪れた時に糸車を動かしていたことがわかること。「清七宅」は2階建てですが、2階は居住空間ではもちろんなく、養蚕が行われていた空間(天井裏の)であったでしょう。「秩父太織」と同じような絹織物がどの家においても女性の手で作られており、それは「清七宅」においても例外ではなかったのです。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その8

2013-08-14 05:02:36 | Weblog
崋山の筆は荒川の鮎(「香魚」)についても詳しい。荒川での鮎漁は三、四月の交わりあたりから網漁を始める。秋になるともっとも盛んになる。鮎の大きなものは長さ一尺四、五寸(45cmほど)に及ぶものもある。味もまたよい。土地の人は最近新たに工夫を加えて、「張きり網」というものを考案してそれで鮎を捕っている。これは川魚の中でも最も知恵があるという鮎の習性を利用したもので、白い網(「一字張」)と黒い網(「袋網」)の2つの網を使って鮎の群れを一挙に捕るもので、その捕り方についての崋山の説明はとても詳しい。また荒川における鵜飼による鮎漁についての記述もある。鵜を2頭以上飼っている者の中には、農業をやらずにそれだけで収入を得ているものもある、としています。荒川で捕れる魚は、鮭やカジカ、ウナギ、マルタ(丸太魚)、マスなど。マスなどは江戸湾よりこのあたりまで上ってくるらしい。よく肥えていて膏(あぶら)がのっていて美味である。鳥では山鳩、キジ、スズメなどを捕獲して江戸へ出荷している。土地の人はイナゴを捕り、佃煮にして食べている。味はよい。秩父石は荒川に流れて出てきたものを利用しており、その大きなものについては筏に乗せて運んでくる。色は青色が多いが、白や赤、あるいは白黒の班文があるものもある。緻密なものは墓碑等に使われ、班文があるものなどは庭石や文房具などに使われている。以上のように、三ヶ尻村の産物に関する崋山の記述は詳しく、またそれぞれの食べ物をよく味わっていることが彼の記述からわかります。ただ出された地酒は崋山の口には合わなかったようであり、「酒はうすくて質も良くなく、飲めるものではない」とわざわざ崋山は書き留めています。ちなみに権田酒造の創業は嘉永3年(1850年)であり、崋山が三ヶ尻で飲んだ酒は、それ以前に造られていた地酒ということになり、権田酒造のものではないということを念のために断っておきます。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その7

2013-08-13 06:26:18 | Weblog
崋山が三ヶ尻村を桃源郷のようだというのには、物産面での理由もある。晩稲の米は粒が大きく玲瓏(れいろう)にして玉のよう。もち米、大麦、小麦、蕎麦(そば)も美味。水菜もたいへんよく、大根は大きくて味も甘美であり、都下の大根とは比べものにならない。人参、竹の子、なすび、芋もたいへんうまい。ネギなどもよく肥えていて大きくとてもおいしい。李(すもも)、梅、桃、杏(あんず)も多く、柿の実などはもっともうまい。産物はそれらにとどまらない。ケヤキ、松、杉の大木が多く、大工の棟梁が木材として使うような樹木が林を形成している。耕作地にならないようなところには竹やクヌギを植え、クヌギは薪材にしている。カヤはクヌギ林の下に自生しており、それを十月や十一月の頃に刈り取っている。これを三ヶ尻カヤと呼んでいる。このカヤを近在近郷より買いに来る者がおり、これを売ることで相当の利益を上げている家もある。他にも産物として、竹の子、西瓜(すいか)、マクワ瓜、ヘチマ、冬瓜などがある。カワラヨモギやノゼリなどは荒川の砂地に生育し、村人はわざわざ荒川に出掛けて行ってそれを採取している……。といった具合に、崋山は三ヶ尻村の産物や村人が利用する産物を次から次へと挙げ、三ヶ尻村が産物の豊かな村であることを強調しているのです。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その6

2013-08-12 06:11:27 | Weblog
三ヶ尻村の「風俗」や「物産」はどのようなものであったのか。「風俗」としてはいたって純朴であり、よく働き、飢えや寒さにもよく耐える。特に女性はとても純朴である。男は仲介人の世話で出稼ぎをしたりしているから、三ヶ尻村の風儀も以前と較べればだんだんと悪くなり、ぜいたくになっているようだ。近くの中山道熊谷宿では毎月六回、二と七の日に市があり、村人はこの市日に出掛けて行って物を売ったり買ったりしている。宿場の飲み屋などは料理や芸者を用意して、市日にやって来る客を待ち受けており、それが風儀の悪化につながっているようだ。それでも熊谷宿の場合は女郎を置くことは厳禁とされているが、深谷宿の場合はほとんどの宿が女郎を置いており、そのために村の少年たちの中には女遊びなど悪風に染まるものがいる。中山道の熊谷宿と深谷宿の二つの宿場があることによって、三ヶ尻村の男たちの中には女遊びや博打(ばくち)をするなど悪風に染まっている者たちがいる。この地は熊谷宿から秩父地方へ至る道筋にあたり、博徒の往来があって難渋したり、また農業の傍ら商業に従事する者たちもいたりする。「物産」としては、米や麦や畑の作物以外に、養蚕と織物が盛んである。女は織り男は耕す。女たちによる機織りは冬から春にかけてどの家でも行われている。その絹織物は秩父の名産と異なることなく、桐生などの高級絹織物と較べればデザインや意匠は見るに足りないが、その品質と耐久性については抜群である、と崋山は記している。織り上げた絹織物は、熊谷の市に出掛けて行って売却して現金収入を得ているために、村人たちは経済的に不足することなくみな幸せそうであり、一部の博徒や不良少年の存在を除けば、三ヶ尻村は桃源郷のようだとも崋山は記しています。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その5

2013-08-11 05:56:32 | Weblog
黒田平蔵(観流亭清水幽鳥)の屋敷は、崋山が描いた「瓺尻全図」でいえば、「三宅屋敷」の北、「清水」と記してあるあたりにあったことになる。崋山の描く「三宅屋敷堀ノ内笠原清七宅」の、石が置かれた板葺屋根の向こう(北側)に、立派な蔵などいくつかの建物のある人家が見えますが、もしかしたらそのあたりが黒田平蔵宅であるのかも知れない。馬場國夫さんの「渡辺崋山の調査協力者『三ヶ尻村黒田平蔵』考察」によれば、大麻生村の古沢喜兵衛(槐市)から紹介された三ヶ尻村の豪農黒田平蔵(黒田家7代目)は、喜兵衛にとって俳句の師匠であり、門人は500人に及んだという。大里郡上新田村の代官柴田又兵衛の次男であり、天明4年(1784年)に生まれ、天保13年(1842年)に亡くなったとのこと。崋山が三ヶ尻村を訪れた天保2年(1831年)当時は48歳であったということになる。同じく馬場國夫さんの「渡辺崋山の足跡」によれば、三ヶ尻村には各所に湧水があり、黒田家の屋敷内にも湧水が流れていて、「観流亭幽鳥」の号の「観流亭」はそれに由来するものだという。古沢喜兵衛から崋山を紹介された黒田平蔵は、すぐに崋山と意気投合したものと思われる。平蔵は崋山に三ヶ尻調査の協力を約束し、すぐに檀那寺でもあり藩祖三宅康貞公の菩提寺とも伝えられる幸安寺のもとへ崋山を連れて行ってその住職と引き合わせ、さらにその住職とともに三宅屋敷跡に住む笠原清七宅にも連れて行ったのです。さらに重要なことは、平蔵と幸安寺の住職が、幸安寺が管理している「運派塚」へ崋山を案内していること。その「運派塚」の上には桜が植えられ、その前には秩父青石で造られた石碑が立っていました。その石碑には「永禄十歳次丁亥 幸安寺殿福源禅光居士 三月晦日寂焉」と刻まれており、崋山は、藩祖三宅康貞公(三宅惣右衛門)の縁辺である「小笠原運派」という人物のお墓とその没年を確かめることができたのです。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その4

2013-08-09 06:04:41 | Weblog
三ヶ尻村に馬場というところがある。土地の人は「バンバ」と呼んでいると崋山は記す。村の中央にあり、藩祖康貞公がここで調馬をしたことからこの名前がある。三宅屋敷の跡と言われているところはその馬場の南隣にある、と崋山は記しています。三ヶ尻の宿場の長さは「凡(およそ)五六町」(5、600mほど)で、上宿・中宿・下宿と分かれる。この三ヶ尻宿は藩祖康貞公が屋敷を造った時から始まったと言われている。清水は馬場と境を接し、ここは清水が湧き出ていて、三宅屋敷の堀の水はこの清水を引いていたらしい。三宅屋敷跡は、馬場の北、清水の南に、「堀ノ内」と呼ばれる溝で囲まれた区画があって、そこには代々笠原清七という名の農民が居住している。「堀ノ内」は大部分が水田になっているが、その畔(あぜ)に古い井戸があって(埋もれてしまっているが)、それは「三宅井戸」と言われているとのこと。堀ノ内に居住する笠原清七は、もともとは三宅吉兵衛と名乗っていたが、3代目か4代目あたりで男子がなく婿養子を迎えたことで現在の名である笠原清七に改めたのだという。清七の家には守り神があって、それを「勝(すぐる)明神」というのだが、それは三宅康貞公が勧請したものだとのこと。しかし現在はその社の跡が残っているだけ。この年(天保2年)の正月に火事で全焼し、今は板葺屋根の家が幾つか建てられて、わずかに雨露をしのいでいるといったありさまである。崋山はその笠原清七の板葺屋根の家や、その近くの田んぼの畔にある「三宅井戸」、その田んぼのまわりの「古溝」、そして近くの山林のなかにある「清水井」などをしっかりと描いています。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その3

2013-08-08 05:40:51 | Weblog
「延命寺」について、崋山は次のように記しています。「宮島にある。新義真言宗。榛沢(はんざわ)郡針谷(はりがや)村にある弘光寺の末寺。宝珠山地蔵院と号する。本尊として地蔵を安置している。鐘は近年鋳造したもので鐘楼はない。」同じく宮島にある田中神社の別当寺であったことは、「田中神社」に関する記述の中の「別当延命寺」でわかります。この「延命寺」の全貌を崋山は描いており、『渡辺崋山集 第2巻』のP94~95に掲載されています。水路を小橋で渡って小さな門を潜ると、正面に茅葺屋根の本堂があり、門から続く塀の一部は同じく茅葺屋根の蔵らしきものになっている。門の左側は竹林があるようです。門の前を流れている水路は、奈良堰から分水された農業用の灌漑用水路であると思われる。奈良堰から分水されたこのような小さな用水路はいたるところに、縦横に張り巡らされていたようであり、その名残は現在でも各所に見られます。延命寺の門は南を向いているから、右側画面の奥に描かれている山は奥日光あたりの山々ではないかと思われます。「田中神社」も田んぼの中にありますが、その別当寺である「延命寺」も田んぼの中にあったことが、この崋山の絵からわかります。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅱ」 その2

2013-08-04 05:00:11 | Weblog
「宮島」について崋山はどのように記しているか。「南は大里郡の大麻生村に接し、北は古屋および上宿と境を接している。この地は田中神社があるために宮と名付けたものであり、島というのはかつて荒川がこのあたりを流れていたから、このように呼んだのだと思われる。押切村東楊寺(とうようじ)が所蔵する聖護院慶長二年の年行事の書状に、大里郡小嶋郷宮嶋とあることから見ても、その頃は大里郡に属し、荒川に沿った村であったことを知ることができる」と「宮島」について説明しています。「延命寺」や「田中神社」(延喜式内社)、「下天神」(梅の木天神)も宮島にあると記しています。「古屋」は「古家」であって「幸安寺」があるところだから、「宮島」は「延命寺」「田中神社」を含む「奈良堰」の東側および南側一帯であったということになる。現在、上越新幹線の高架の南側に熊谷市内循環バスの「三尻宮島」バス停があり、そしてさらに南進すれば「武体」のバス停がある。そのあたりがかつての「舞台村」ということになり、それは荒川北岸に沿った「大麻生村」の西側に位置している小さな村でした。崋山は大麻生村の古沢喜兵衛(槐市)宅からその舞台村および宮島を経由して奈良堰に架かる小橋を渡って三ヶ尻の上宿ないし中宿へと入ったのです。絵図とは異なって、本文の場合は「上宿」(そして「下宿」も)の位置や記述は正しいことが、この「宮島」の記述からわかります。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その最終回

2013-08-02 05:09:57 | Weblog
嶋野義智氏によれば、幸安寺は黒田平蔵(観流亭幽鳥)のお墓があるところでもある。つまり黒田家の菩提寺であるということですが、その関係もあって、黒田平蔵は幸安寺の住職とも親しかったものと思われる。幸安寺は「三宅康貞公の菩提寺である」という土地の人の話を得た崋山は、それを確かめに黒田平蔵とともに、「古家」というところにある幸安寺(黒田家の菩提寺でもある)を訪ねたものと思われる。住職は、「当寺は三宅公の菩提寺であり墳墓も本堂の前にあった」と答えたが、崋山は、幸安寺は小笠原紀伊守(康貞公がこの地を家康から賜った時、村長であった人物)がその父運派の菩提を弔うために天正19年(1591年)に創建したものと推測しています。小笠原運派の追号は「幸安寺殿福源禅光居士」であり、寺号はこれに拠っています。開山僧は「天徳祖瑞和尚」。深谷にある「国済寺」(深谷上杉憲英の開基)の末寺。小笠原運派やその子である小笠原紀伊守に関心を持った崋山は、幸安寺が実は深谷国済寺の末寺であることを知ったわけですが、崋山は深谷宿から大麻生村の古沢喜兵衛(槐市)宅に向かう途中、中山道沿いにあるその国済寺にたまたま立ち寄っています。それは天保2年(1831年)11月8日(陰暦)のことでした。崋山は小笠原紀伊守(その父運派も)は、寄居の鉢形北条氏の家臣であって、鉢形北条氏が滅亡した時、この三ヶ尻の地に逃れて住みつくようになったのではないか、とも推測しています。また崋山は、三宅康貞公の夫人の父である「小笠原佐渡守」は、その小笠原運派の兄弟ではなかったか、とも推測しています。もしそうだとすれば、三ヶ尻の地は藩祖三宅康貞公の夫人の縁者が住みついていたところであり、その地を康貞公が家康から領地として賜ったということになります。 . . . 本文を読む

2013.7月取材旅行「三ヶ尻 Ⅰ」 その6

2013-08-01 06:05:28 | Weblog
幸安寺について崋山はどのように記しているか。まず「三宅公ノ香火院ト申伝フ」としています。「香火院」とは頭注によれば「菩提寺」のこと。つまり三宅康貞の菩提寺と伝えられている、ということであるけれども、崋山は「天和書附」のほかは証拠がない、と注意深く付しています。幸安寺の住職の話では、墳墓が堂の前にあったが十五世の時に堂の後ろに改装し、共同墓地はその時無くなってしまったのだとのこと。康貞公の位牌は先年の火事で焼失し、またその家臣の位牌もあったのだがそれも無くなってしまったとのこと。幸安寺の住職や蓮沼忠兵衛、黒田平蔵(幽鳥)の話を総合すると、小笠原運派という人がこのお寺の開基であり、運派の子の小笠原紀伊守が小此木氏の先祖であるという。康貞がこの地を領地として家康から賜った時は、その小笠原紀伊守がこの三ヶ尻村の村長であったらしい。崋山は、証拠となる史料はないとした上で、康貞公の夫人は小笠原佐渡守の娘であり、その小笠原佐渡守というのが小笠原運派の兄弟であったのではないかと推測しています。また幸安寺は小笠原紀伊守がその父運派のために建立したものではないかとも推測しています。「小此木紀伊守」について記したところにおいては、崋山は、この小此木紀伊守(小笠原紀伊守)はもしかしたら「鉢形北条家臣」であって、「鉢形滅亡ノ後」に「此地二遁(のが)レ」て居住することになったのではないか、つまり鉢形(はちがた)北条氏の家来であったのではないかとも推測しています。ちなみに鉢形城跡は埼玉県大里郡寄居町にあり、その鉢形城に北条氏康の四男氏邦(うじくに)が入城したのが永禄7年(1564年)のこと。以来、鉢形城は北条(後北条)氏による北関東支配の拠点となりました。天正18年(1590年)、1ヶ月に及ぶ籠城戦の末、廃城となりました。 . . . 本文を読む