鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.10月取材旅行「『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山)」 その最終回

2014-12-05 06:05:23 | Weblog
渡辺崋山の『游相日記』をもとに、大山街道を赤坂御門から厚木まで歩き、さらに崋山は歩いていない厚木から大山まで私は歩いてきたわけですが、すでに述べたことがあるように、崋山が歩いた道をそのルート通りに歩くことはもちろん今となっては不可能となっています。幸いに『ホントに歩く大山街道』という本があって、かつてのルートになるべく沿うような形で歩くことができましたが、崋山が歩いて眺めた景観と現在のそれとは著しく異なっていて、崋山が眺めた景観を想像しながら歩くことはきわめて困難です。しかし実際に歩いてみて、坂道や下り道の傾斜、土地の高低、道の屈曲、道沿いにある神社仏閣、遠くに見える山並の景観、次の宿場までの距離感、道端の石造物の様子などから、歩いている崋山の息遣いや周囲へのまなざしをうかがい知ることができたのは貴重な体験でした。これはやはり歩いてみなければ得られないものであるでしょう。幸いに崋山は『游相日記』において、当時の大山街道沿いの景観や街道沿いに生きる人々の姿を活写してくれましたが、大山街道を歩いた人々は遠い昔から無数におり、崋山はそのたった一人に過ぎません。大山街道は、その名前の通り、「大山」に向かう道であり、確かに江戸から大山詣でをする道として、現在の国道246号に沿う大山街道は代表的な「大山道」の一つでしたが、今まで見てきたように「大山道」は一本ではなく無数にありました。大山講の分布(明治初期)は関東地方はもちろん、東北地方南部や甲信越地方、また静岡県にも及んでおり、それぞれの地域から大山に向かう道はすべて「大山道」でした。それぞれの地方の大山講の人々が毎年夏ともなれば集団になって大山をめざしたわけだから、「大山道」は大変な賑わいを見せたわけです。特に大山のある現在の神奈川県の主要道は、そのほとんどが「大山道」であったといっても過言ではありません。その「信仰の道」を歩いた人々がどういう思いを抱いて大山へと向かったのか。また道中においてどういう景観を眺め、また道中どういう人々との出会いがあったのか。そういったことを想像しながら歩くのも楽しいことでした。特に大山が次第に近づいてその全貌が間近に見えてくると、その想像はよりたくましくなっていきました。いつか自分なりの『游相日記』をまとめてみたいものだ、と思うようになりました。 . . . 本文を読む