鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.3月「三島宿~沼津」取材旅行 その8

2008-03-31 07:30:36 | Weblog
広重が『東海道五拾三次』で描く「三島」は、早朝、朝霧の立ち込めた三島宿。場所は三嶋大社の鳥居前の東海道、やや新町橋寄り。三嶋大社の鳥居前、東海道から左折(南へ折れる)と下田街道が、韮山・修善寺・湯ヶ島・天城峠を経て下田へと続いています。画面の中央には山駕籠に乗る客(男性)やその山駕籠を担ぐ駕籠かきたち、馬に乗る旅人(女性・居眠りをしているようだ)が描かれている。三島宿の旅籠を早朝出立し、これから新町橋を渡って「西坂」を登って箱根峠越えをするものと思われます。左端に描かれている旅人は、場所から考えて(旅籠などが集中する本町周辺は、左画面の奥となるから)、これから西(沼津方面)へ向かうというよりも、三島宿から下田街道に入っていくようにも思われます。さて同じく「沼津」は、中央画面に行く手の沼津宿の家並が描かれ、その上に満月が輝き、その町並みの下から手前にかけて狩野川の流れが延びています。その狩野川の右手(北側)を東海道が走り、その東海道を母娘と、箱に入った大きな天狗面(天狗の面の奉納額)を背中にしょった白装束の男が、沼津宿に向かって歩いています。時は夕刻。やがて橋があり、橋を渡るとその両側には白壁の土蔵が見えてきます。この絵を見る限りでは、旧東海道は、狩野川の土手の上を行く道(土手道)であるようです。実際はどうだったのでしょうか。沼津宿は東海道の宿場町(日本橋から13番目)であるとともに水野氏(5万石)の城下町でもある。という点では小田原と共通しています。本陣は3軒、脇本陣1軒、旅籠屋55軒ばかり。総家数は1230軒余。宿内人別は5300人余でした。 . . . 本文を読む

2008.3月「三島宿~沼津」取材旅行 その7

2008-03-29 03:51:00 | Weblog
「うなぎ」というと、私は、高校生の頃だったか、父に連れて行ってもらった福井市内の小さなうなぎ屋さんを思い出します。福井駅から南に通りを進んで左手に入ったところに、そのうなぎ屋さんはありました。6、7人座れば、いっぱいになるような、小さな掘っ立て小屋のような店でした。店に入ると、蒲焼きの煙が充満し、店主であるおじいさんがいて、赤い炭火の上の網に白く開いたうなぎを置き、たれを塗っては、頃合いを見て、それを繰り返し引っくり返していました。ごはんはどんぶりに盛られ、やがてうなぎの蒲焼が目の前に置かれ、その熱々のうなぎに山椒をふりまき、おはしで細切れにして食べたのです。何回かそこで食べた思い出がありますが、そこで食べているのは父と私だけで、ほかの私の家族はいませんでした。父はジョッキ一杯のビールを飲んでいたかも知れない。ある時、福井に行った時、そのうなぎ屋が今でもあるだろうかと思って、記憶をたどって、その店があったあたりを探してみたことがありますが、ついに見つかりませんでした。店主はご老人でしたから、すでに亡くなって店を閉めてしまったのかも知れません。暑い夏、もちろんクーラーもない掘立て小屋のような店で、炭火で焼かれたうなぎを、父と隣り合わせで年輩のお客たち(おじさんたち)に混じって食べた思い出は、大人の仲間入りをしたような思いを味わったということもあって、懐かしい思い出の一つです。 . . . 本文を読む

2008.3月「三島宿~沼津」取材旅行 その6

2008-03-28 06:37:44 | Weblog
 緒明菊三郎と緒明圭造がどういう関係にあるのか。緒明家に入ってきた西郷隆盛の子孫という女性は誰か。その女性は緒明家の誰と結婚したのか。といったことを調べるには緒明(おあき)家の系図があれば一番便利なのですが、その系図というものの所在(あるかどうかということも)を私はまだ知りません。となるとよく知られている西郷隆盛ないし西郷家の系図から見ていくしかありません。西郷隆盛の妻というと、2人の女性を思い浮かべます。1人は、西郷が大島に流された時に結婚した島の女性アイガナ。もう1人は、西郷が赦免された後結婚した薩摩藩士の娘糸子。この2人の女性との間に子どもが生まれていて、その子孫がいることは私も知っていました。その子孫の1人(女性)がどういう経緯があってか緒明家に入っているということになります。ということで、帰宅して調べたのは、まず『西郷隆盛』田中惣五郎(吉川弘文館)でした。 . . . 本文を読む

2008.3月「三島宿~沼津」取材旅行 その5

2008-03-27 05:57:20 | Weblog
このパンフレットには、桜の絵で有名な日本画家、中島千波さんの「うなぎ秋日」や「散櫻花」といううなぎを題材にした絵が掲載されています。「うなぎ秋日」は真っ赤に色づいた紅葉の下を一匹のうなぎが泳ぎ、「散櫻花」の方は、散った桜の花びらが浮かぶ川(池?)の中を二匹のうなぎが泳いでいます。ほかにも「鰻画の世界」として、三枚の日本画が掲載されています。「水にこだわって、この地、緑町で営業」しているのだという。広小路駅からも歩くとかなりあります。ここの地下40mから伏流水を汲み上げて、その伏流水にうなぎを十分に曝(さら)してから調理にかかるのだ、とパンフレットにあります。三島市内の地下にはいたるところに富士山の伏流水が流れているのでしょうが、ここの下にも伏流水が流れていることになります。 . . . 本文を読む

2008.3月「三島宿~沼津」取材旅行 その4

2008-03-26 05:58:26 | Weblog
三島にはおいしいうなぎを食べさしてくれる店がある、ということを聞いたのは職場の同僚からでした。うなぎといえば「うなぎパイ」、「うなぎパイ」といえば浜松、ということで浜松については知っていましたが、うなぎと三島はそれまでまったくつながっていませんでした。聞くところによると三島には富士山の伏流水が湧き出ていて、その関係でうなぎがおいしいのだという。「その関係」がどういう関係かはよくわかりませんでしたが、おいしい店が何軒かあって、行くといつも行列が出来ているのだという。仲間の友人たちと伊豆へ行く場合、ぜひ、寄ってみたいものだとは思っていました。ということで、先月、箱根から三島に向かう途中で、土地の方に「三島でうなぎの美味しい店は」という質問を何度もしてみました。土地のことは土地の人に聞くのが一番だからです。「出来れば穴場みたいなところで」ということを付け加えて。しかし土地の方の誰に聞いても、返ってくるお店の名前は同じ。数軒の名前が出てくるのですが、そのうちの一つが「元祖うなよし」さんでした。私としてはほかにもきっとあるはずだ(穴場が)、ということで、三島駅前の市の総合観光案内所で係の方にいろいろと教えてもらい、またパンフレットをいろいろといただきました。「せせらぎの街・三島に漂う蒲焼きの香り うなぎグルメガイド うなぎ横町」という立派なパンフレットや、「みしま飲食店マップ」、「三島名物うなぎ横町」、そして「うなよし」(元祖うなよし)のパンフレットなどなど。「三島名物うなぎ横町」に紹介されているお店は、2軒は閉店しているものの、なんと32軒もあるのです。今回歩いてみて、これに載っていない店も見つけましたから、うなぎを食べさしてくれる店はもっと多いはず。こんなに多いとは思いませんでした。観光案内所でもらったパンフレットに「水の街 三島 歴史の道」という私好みのものがありましたが、それによると、古くから、うなぎは「三嶋大社のお使い」とされ、三島では食用とされなかったために、桜川などには沢山のうなぎがいたという。なぜ、三島のうなぎはうまいのかと言えば、それはやはり富士山の雪解け水、それも「化粧水」と呼ばれる軟水と関係があるという。内容として一番面白かったのは、「うなよし」のパンフレットに記載されていた「三島とうなぎ」という「うなよし店主」のまとめられた文章でした。 . . . 本文を読む

2008.3月「三島宿~沼津」取材旅行 その3

2008-03-25 06:19:58 | Weblog
駅前から本町交差点に向かって歩くと、左手に楽寿園という市立公園があります。今回は立ち寄りませんでしたが、ここは明治23年(1890年)に小松宮彰仁親王の別邸として造営されたもの。ここには楽寿館や小浜池、流れ出た富士山の溶岩と深い森がつくる庭園があるのですが、そのほかに遊園地や動物園、郷土資料館などがあります。このうち遊園地は、ある時、伊豆からの帰り道に、「こんなところに遊園地があるのだ」ということで立ち寄ったところ、こじんまりしたとてもレトロな遊園地で、その頃はまだ幼かった子どもたちも大喜び。それから2回ほど訪れた記憶があります。あのタイムスリップしたような雰囲気は今も残っているのでしょうか。この楽寿園の南側から流れ出ている川があります。これが源兵衛川。楽寿園の湧水を水源としています。この川は街中を流れ、途中に、時の鐘・三石神社・水の苑緑地などがあるのですが、この川に沿った散策路がすばらしい。この散策路を今回歩く予定ではなかったのですが、ひょんなことから歩くことになり、そのすばらしさに感嘆しました。やはり歩いてみるものです。 . . . 本文を読む

2008.3月「三島宿~沼津」取材旅行 その2

2008-03-24 06:03:28 | Weblog
三島市には「三島市眺望地点」というのがあります。何の眺望地点かというと、もちろん富士山。富士山の眺望がすぐれているところを三島市が指定したもの。たとえば旧街道沿いでは、西坂の「三島市立坂公民館」のところを北へ少し入ったところに、その「眺望地点」がありましたし、大場川(だいばがわ・通称:神川)に架かる「新町橋」(三島宿の東側の出入り口)の中ほど右手(北側)にも、その「眺望地点」があります。それ以外にも市内各地に「眺望地点」があるようです。つまり三島市内からはどこからでも富士山が見えるということ。今はビルが建ち並んでいますが、かつては高くてもせいぜい2階。かつては今と比べものにならないくらい各所から富士山が望めたということになる。軒の間から、通りの突き当たりに、森の間から、せせらぎの上に……、といった風に思いがけぬところから富士山が顔をのぞかせるというのは、やはり感動的です。とくに今日のような雪でまっしろな富士山がくっきりと見えるような日には。桜の咲く頃・新緑の頃・紅葉の頃・新雪の頃、四季折々の富士山の姿が望めるというのは、三島はぜいたくな街だと思います。ぜいたくと言えば、三島市内にはせせらぎがある。「暦師の館」へ向かう途中にも、かわいいカワセミの描かれた「街中がせせらぎ」と書かれた道案内が各所に立っています。その道案内には「暦門のみち」などと書かれ、「→」などの矢印がついています。このせせらぎは富士山から流れ出る伏流水が湧き水となって現れたものを用水としたもので、やはり市内各所を流れています。このせせらぎが湧き水ということもあって、なんと清冽なこと。今回歩いたところでは、源兵衛川沿いが感動的でした。市内にこのようなせせらぎの道があるということは、やはりぜいたくなことです。「眺望地点」と「せせらぎ」、これからも大切にしてほしいものだ、と思いました。 . . . 本文を読む

2008.3月「三島宿~沼津」取材旅行 その1

2008-03-23 06:23:51 | Weblog
前月は、三島の本町交差点で右折し、三島駅より帰途に就きました。三島宿の東側(江戸・箱根側)の入口は新町橋。この橋を渡ると三島宿。橋の西詰には見付木戸がありました。ここから長谷町・金谷町・伝馬町と続いて三嶋神社の大鳥居があり、この大鳥居の正面から南に延びる街道が下田街道。神社の西側から北へ延びるのが佐野街道。この鳥居前から西側の東海道沿いが三島宿の中心部分であり、大中島と小中島に本陣2軒と脇本陣3軒がありました。本町の東海道の両側には、旅籠が80軒ほどあり、その7、8割が飯盛女を抱えていました。いわゆる「三島女郎衆」と呼ばれる女性たち。木賃宿は30軒ほど。東木戸から西木戸まで、18町20間あったということです(『あるく・見る 箱根八里』田代道彌〔かなしんブックス〕)。今回は、三嶋神社周辺を探索した後、本町交差点を渡って、沼津城下(宿場町でもある)まで歩きます。実は吉原宿まで歩くつもりでしたが、諸事情があって、沼津駅より帰途に就くことになりました。 . . . 本文を読む

渋谷・「九条の会」講演会 その7

2008-03-20 07:55:21 | Weblog
3月17日の『毎日新聞』の夕刊(P4)に、「第75回毎日広告デザイン賞」の一般公募作品第2部/発言広告の部 最高賞 が掲載されていました。題は「ボケないで、若者。『平和な日本』は当たり前ですか?」というもの。大きく一人の老人の顔が出ているのですが、その方は服部幸利さん89歳。「第2次大戦中、3分の2以上が戦死したガダルカナル島からの生還者」とあり、左下に、その服部さんのコメントが載っています。他新聞の方のために、その全文をここに引用してみます。「私が今まで経験したことで、最も恐ろしかったのは戦争だった。敵に見つからないよう一週間夜のジャングルを歩いたり、米軍が撃った弾は未だに手と足に入ったままだ。米軍の2時間ごとにおこる射撃に耐え、壕に音を立てることもできず隠れていたこともあった。死ぬまで戦えといわれ、いざ撤退の時は歩けない者は捨てられる。捕虜になる前に自決させられる。私たち負傷者は夜の密林を一人一人手をつないで歩いた。食料もなくなり、どうせ死ぬならお腹いっぱい水を飲もうと飲んだ夜もあった。痛みに耐えられず自決した戦友を何人も見た。こんな状況で死ぬ思いを何度もした私だが、今一番恐ろしいことはほかにある。戦争を知らない、知ろうとしない若者がたくさんいることだ。私の経験が無駄になる前に、今、平和が当たり前になっているこの日本で、なにがあったのか知ってほしい。」服部さんのやや哀しげな目の奥の脳裡には、20代後半の若者の時に目撃した南洋の島の光景と、そこで繰り広げられた惨状が刻み込まれているに違いない。私がこの広告を見て思い出したのは、一昨年の12月24日に訪れた伊良湖岬でした。灯台に向かう道の途中に、「君今こゝに甦る」という石碑とその由来が記された碑、および「太平洋戦争激戦地の図」がありました。「君今こゝに甦る」は、海軍機動艦隊戦没者の招魂慰霊碑。「太平洋戦争激戦地の図」という金属板には、アジア・太平洋戦争の舞台の「戦没者ヲ示ス」数字が刻まれています。ガダルカナル島はそのうち「ソロモン海」(諸島)に属する。刻まれている「ソロモン海」の戦没者数は131、000人。高松宮妃の「惜しみても惜しみてもなほあまりあり今しこの世に君等ありせば」の歌は、それが皇族の方の歌であるだけに心に残るものがありました。それ以後、私は意識的にお寺の墓域にある戦死者の墓を見て回るようになりました。 . . . 本文を読む

渋谷・「九条の会」講演会 その6

2008-03-18 06:43:48 | Weblog
私は、今は私のブログにおいて「幕末・明治の日本を歩く」を続けていますが、一段落をつけたら「大正・昭和の日本を歩く」をやっていきたいと考えています。幕末から現代までを、出来るなら通しで考えてみたい。当然に、近代日本が経験した「戦争」の意味についても、しっかり考えていかなければならないと思っています。中江兆民の思想と行動を 追っていく時、自然に、憲法および「憲法9条」に込められた平和思想に行き着くのです。『波濤の果て』の第一巻「中江兆民の青春」の帯に、「犠牲を生むことなしに世の中がひとつにまとまるということはありうるか」という文中の一節を抜き出しましたが、私は、中江兆民が考えたことは、その一節に絞られるのではと勝手に考えています。兆民は、その課題・理想に向かって戦い続けた現実主義者(空想的理想主義者ではない)なのです。その課題・理想を、政治的現実のもとに、政治論のもとに、ゆがめてしまおうとする勢力、あるいはゆがめてしまった勢力に対して、私はやはり加担することはできません。 . . . 本文を読む

渋谷・「九条の会」講演会 その5

2008-03-17 06:49:11 | Weblog
「水ぬるむ」という言葉がありますが、大気もぬるんできたことを感じます。桜や芝桜などが咲いてきます。新緑もいっきに広がってきます。春のウォーキング日和が楽しみです。さて、「憲法9条、未来をひらく」というパンフレットで、井上ひさしさんは、次のように述べられています。「私は、『平和を守る』『憲法を守る』という言葉を、『私たちのいま続いている日常を守ることだ』と言い直すようにしています。友達と会う。会ってビールを飲む。家族と旅行に出かける。いろいろお喋りして楽しく過ごす。勉強する。すべてこれ日常ですが、これができなくなる。そういうことを防ぐために、このまま続けるために頑張っていく。続けていくその先に子どもたちや孫たちがいて、その人たちが次の時代を受け取っていくのだ、そう考えています」。要約すると、ありのままの日常性を守る、ということでしょうか。ありふれた日常の中に実はさまざまなドラマがつまっているのですが、それを味わっていく、それを大事にしていくということ、そして味わう余裕を持っていくということ。すべて戦争は(「受験戦争」も含めて)、それと対極的なところに位置するものであるように私には思われます。たしかに戦争の場においても濃密なドラマがあるかも知れませんが、行きつく所が死であり殺人…であれば、それはなんとむなしいものか。同じパンフレットで梅原猛さんはこう述べられています。「私は仏教を血肉として生きてきましたが、人を殺してはいけない、生きとし生けるものを殺してはいけないという仏教の不殺生の戒律は、人類を破滅にいたらしめる核戦争を避けるための重要な指針になると思います。この『不殺生の思想』を内包している憲法を大事にしなければならないと考えます。」私は取材旅行の際に、ある時からお寺の墓地を見て回ることが多くなりましたが、それは戦死した兵士たちの墓に刻まれた「墓碑銘」を読むためでした。親や兄弟たちにより、いつ生まれ、どこで学び、どこの兵隊に入り、どこで戦い、そしてどこで、何歳で亡くなったかが刻まれています。生きていればどのような人生を送っていたか。とくにお腹を痛めた愛する息子の死に、母親の思いはいかなるものであったか。墓は戒名からすぐに判別できるようになりました。どこへ行っても、ほとんどの寺でそういった墓をいくつも見ることが出来ました。日常が戦争であった時代が確かにあったのです。 . . . 本文を読む

渋谷・「九条の会」講演会 その4

2008-03-15 07:00:58 | Weblog
小森陽一さんが紹介された梅原猛さんのメッセージの一節。「今、環境破壊や核戦争による人類滅亡の危機が叫ばれる時、やはり人類は戦争によって運命を決めるという業の愚かさを知り、永久平和の道を真剣に考えるべきだと思います。憲法改正論者の多くは、日本をもう一度19世紀の国家主義思想に戻そうとするものです。そうである限り、私は一生憲法改正の動きに反対を続けて行こうと思っています。」 . . . 本文を読む

渋谷・「九条の会」講演会 その3

2008-03-14 06:47:02 | Weblog
今回の講演会で、講師として予定されているのは、大江健三郎(作家)・加藤周一(評論家)・鶴見俊輔(哲学者)・三木睦子(三木武夫記念館館長)・井上ひさし(劇作家)・奥平康弘(憲法研究者)・澤地久枝(作家)の諸氏。これだけ錚々(そうそう)たるメンバーが一堂に会して講演するなんてことは滅多にないこと。しかも場所は東京・渋谷ということで、パンフレットを見て、即、出かけることにしたのです。最近のあるテレビ番組で、小田実さんが出て来られて、歩くことの大切さ、等身大の風景を見ることの大切さに触れられていました。またやはりあるテレビ番組で瀬戸内寂聴さんが出て来られて、井上光晴さんは面白い人だったがいやな思いをいっぱいしたけれど、小田実さんについてはいやな思いをしたことが一度もない、と言われていたのも記憶に残っていました。「小田実さんの志を受けついで」という追悼講演会であるからこそ、これだけ錚々たるメンバーが講師として集まったのでしょう。 . . . 本文を読む

渋谷・「九条の会」講演会 その1

2008-03-12 06:13:22 | Weblog
3月8日の土曜日、渋谷のC・C・Lemonホールで行われた「九条の会」講演会に行ってきました。開演は13:30ということで、午前中は、かねて行きたいと思っていた「たばこと塩の博物館」の企画展「幕末の浮世絵と絵師たち 世相を描いた幕末の浮世絵」(1/26~3/9)に立ち寄ることに。調べてみると、幸いに、C・C・Lemonホールと「たばこと塩の博物館」は目と鼻の先。開館と同時に入り、12:00前には出て、それからホールに向かうことにしました。 . . . 本文を読む