鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その7

2015-01-29 05:54:30 | Weblog
崋山は赤羽根村に入ったところで、比留和山をめぐって起こった延宝年間頃の山論について触れています。比留和山というのは頭注によると、「三河国渥美郡野田村日留輪・赤羽根村日留輪。野田村の草刈場」であり、崋山は「比留和山」と記していますが、正確には「日留輪山」であるのでしょう。野田村と赤羽根村の境界をなす山であり、それぞれの村の入会地であったと思われます。崋山は「比留和山ハ延宝の頃野田村清右衛門といえるひが男の界を論、終(つい)にその身は国刑に逢いて、長くこの地をして荒野となしぬ」と記しています。「野田村清右衛門」についても頭注があり、「野田村組頭河合清右衛門。日留輪山の草刈場を確保するために越訴し、その罪により延宝二年斬首されたが、野田村が勝訴した」とあります。「延宝二年」とは西暦では1674年にあたり、崋山がこの赤羽根村に足を踏み入れた天保4年(1833年)からは160年近く前のことになりますが、崋山はこの「山論」のことについてどこで聞いたのだろう。赤羽根村に入って初めて人から聞いたのだろうか。それとも有名な事件であって、以前からよく知っていて、赤羽根村に入った時にそれを思い出したのだろうか。私にはどうも後者のように思われる。「越訴」というのは、「一定の順序を経ないで、直接上級の官司に訴えること」であり、「律令制以降、全時代を通じて原則として禁止され、特に江戸幕府はこれに厳罰を与えた」と辞書にあるように、江戸幕府は「越訴」については厳しい罰を与えました。おそらく野田村の清右衛門は村の代表として江戸に出て、藩(田原藩)を越え幕府に訴えたのでしょう。その結果、野田村はその山論に勝訴したものの、越訴をした清右衛門には斬首という厳罰がなされたのです。越訴された田原藩としても立場は危うく、場合によっては廃藩の憂き目に遭う可能性もあったはず。であるならば、この事件は160年も昔の事件ではあるものの、藩内(特に上層部)ではよく知られた事件であったに違いない。赤羽根村に入った崋山は、赤土が広がる土地のようすや右手に見える山稜の姿、狭い段丘上の街道沿いに連なる集落などを見て、その過去の有名な事件(「山論」)と斬首になった野田村清右衛門の名前を思い出したのではないか。そう私は考えます。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その6

2015-01-27 05:51:04 | Weblog
田原城下を出立して、高松村の冨士見茶屋で遅めの昼食を摂った崋山は、そこから1里ばかりを歩いて赤羽根村に至ります。この赤羽根村で海岸に出た崋山は、そこで最近設けられたという「遠見番所」を見学し、それをスケッチしています。このスケッチは『渡辺崋山集 第2巻』のP261に掲載されていますが、『近代デジタルライブラリー』の『参海雑志』で見てみると、そのスケッチはその主要な一部分であって、原画はそれが建っている場所などもわかるもっと大きなスケッチであることがわかります。その原画によると、赤羽根遠見番所は、かなり高い崖っぷちの上にあり、もう1棟、小さい東屋のような吹き抜けの建物も近くにあったことがわかります。浜辺にあったのではなく、「遠見」ができる高台(崖っぷち)にあったことが、この原画からわかるのです。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その5

2015-01-24 06:43:34 | Weblog
前回、崋山の『参海雑志』のスケッチを全て見ることはできないものか、と書きましたが、「渡辺崋山 参海雑志」でインターネットで検索してみたところ、「近代デジタルライブラリー」において『参海雑志』(大正9年、米山堂)を見ることができることを知りました。これはとても嬉しいことでした。原本は関東大震災で焼失してしまいますが、ここに出てくるのは、大正9年(関東大震災の3年前)に稀書複製会から刊行された、原本の写真版であるでしょう。もちろん崋山が描いた全てのスケッチを、写真版ではあるもののこれで見ることができるわけです。これがインターネットのすごいところ。自宅にいながらにして崋山のスケッチに触れることができるからです。印刷も可能なので、さっそくそのスケッチをすべて印刷することにしました。印刷すると全部で56枚になりました。特に私は、彼が描いた街道筋の風景画や立ち寄った人家や神社仏閣の絵に興味関心があり、次から次へと出てくるそれらの絵に接して強い興奮を覚えました。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その4

2015-01-20 05:51:29 | Weblog
『参海雑志』の旅の時、崋山は数えで41歳。前年の天保3年(1832年)の5月(陰暦)には、年寄役(家老)末席に抜擢され(禄100石、役料20石)、海防事務掛を兼任することになりました。今まで私が追ってきた崋山の旅は、文政8年(1825年)の「両総常武への旅」(『四州真景』の旅)、天保2年(1831年)の『毛武游記』と『訪瓺記(ほうちょうき)』の旅、同じ天保2年(1831年)の『游相日記』の旅ですが、芳賀徹氏が『渡辺崋山 優しい旅びと』で指摘しているように、「これまでの旅上の体験は一つ一つ、危機に対決する藩政の指導者崋山のなかに生かされ、彼の熱誠と判断の成熟を培っていた」ものであると私も推察しています。『参海雑志』の旅をした天保4年(1833年)の頃、崋山は小関三英・高野長英・幡崎鼎(はたざきかなえ)ら蘭学者と共に西洋研究グループ「尚歯会」を結成してその中心人物(「大施主」)となり、また翌年には農政学者大蔵永常を田原藩に招請して殖産興業を推進します。したがって彼の生涯最後のスケッチ旅行である『参海雑志』の旅においては、彼の「これまでの旅上の体験」に基づく強烈な問題意識や興味関心がいたるところで放射されているに違いない。彼は何に目を留め、観察し、スケッチし、出会った土地の人々にどういったことを聞き、何を書き留めたのか。今までの旅は藩領外でしたが、今度は藩領内ないしその近辺の旅。今や年寄役末席(家老)であり海防事務掛でもある崋山は、温かくも冷徹な目をその旅先において注ぐはずです。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その3

2015-01-18 05:54:14 | Weblog
『参海雑志』の原本は大正12年(1923年)の関東大震災で焼失してしまったという。この関東大震災において焼失してしまったと言えば、あの『游相日記』の原本もそうでした。『游相日記』に描かれていたスケッチは20図。それに対して『参海雑志』に描かれていたスケッチは全部で61図で、『游相日記』の約3倍。『渡辺崋山集』第2巻の『参海雑志』には、そのうち13図が掲載されています。内訳は、①「赤羽根村の山景」と思われるもの、②「赤羽根遠見番所」、③「フウトウ、風藤、本草藤部」、④「小(古)山ノはな」、⑤「稚海布(わかめ)を取る道具」、⑥「燈明山建物」、⑦「村落風景」、⑧「神島渡海」、⑨「畠村螺(にな)ヲ捕ル」、⑩「(五輪塔)華蔵寺殿円山成公大居士」、⑪「芸妓」、⑫「弘法大師像」と思われるもの、⑬「彼岸(彼岸花)」。このうち私にとって興味深いのは、②の「赤羽根遠見番所」と⑥の「燈明山建物」、そして⑦の「村落風景」。②は赤羽根において、⑥と⑦は「神島」において描かれたもの。和地村で泊まった「医福寺」、「和地川尻」、堀切村の「小久保三郎兵衛住居」、同じく堀切村の「常光寺」、伊良湖の「彦二郎(屋敷)」、「伊良湖明神」、「神島海岸を望む」、「相崎」、「戸(豊)島池」、「神嶌、船ヲアグル図」、「神島風俗」、「畠村陣屋」、「街道風景〔四図〕」などのスケッチも興味あるものですが、ここには掲載されていません。『江戸後期の新たな試み-洋風画家谷文晁・渡辺崋山が描く風景表現』(田原市博物館)には、「医福寺」、「常光寺」、「神島」)、「本宮山」のスケッチを見ることができます。私は『参海雑志』に描かれていたすべてのスケッチを見たいと思っているのですが、それはどのようにしたら可能なのか。『渡辺崋山集』には、「大正九年に稀書複製会から写真版が刊行された」とあり、おそらくそれに目を通せば全スケッチを見ることができると思われますが、まだ目を通してはいません。今のところ、私が見ることのできるスケッチ(風景・建物・お寺などの絵)や読むことのできる日記をもとに、その舞台を実際に歩いて訪れてみるというのが私の基本的なスタンスです。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その2

2015-01-17 06:41:37 | Weblog
崋山は、田原から伊良湖に出て神島を訪問し、さらに佐久島や吉良を訪ね、東海道藤川宿に出て、岡崎宿から吉田、豊川、鳳来寺なども訪ねる予定でいたようですが、実際は藤川宿から吉田宿(豊橋)経由で田原へと戻り、岡崎や鳳来寺などを訪ねる予定を切り上げています。予定を切り上げた理由はよくわからない。同行者は鈴木喜六と供(荷物持ちか)の二名。神島へはその二人と船子の三人、崋山と合わせて六人で伊良湖から船に乗っています。天保4年4月15日(陰暦)の天気は曇。出立した時刻は「午(うま)の刻」(正午頃)。田原のどこから出立したのかは書いてありませんが、おそらく田原城内から出発したものと思われます。「高松の冨士見茶屋にてぞ飯す。田原よりこの村までハ二里なり」とあり、崋山ら三名は田原からまず高松に至り、その村の道筋にあった「冨士見茶屋」で、休息を兼ねて遅めの昼食を摂ったことがわかります。 . . . 本文を読む

渡辺崋山『参海雑志』の旅-田原から伊良湖岬まで-その1

2015-01-15 05:35:45 | Weblog
渡辺崋山は天保4年(1833年)の4月(陰暦)に、滞在地である田原城下から、「御系譜の御用」と「巣鴨老公の三河志の御用」を兼ねて、渥美半島や、神島、佐久島、そして吉良などを訪ねる旅に出ます。4月15日(陰暦・以下同じ)に田原城下を出立して、4月の20日過ぎには田原に戻っているようであり、4月25日には田原を出立して江戸へと向かっています。その1週間ばかりの旅日記が『参海雑志』であり、崋山の旅日記としては最後になるものです。私が田原を訪ねるのは今回がおそらく6回目。田原城下は歩いたことがありますが、あとは車で移動しており、崋山の『参海雑志』の足跡を実際に歩いたことはありませんでした。理由は遠距離であることが一番大きい。高速を使っても片道5時間ほどはかかります。しかし、『毛武游記』や『游相日記』の旅を終えたところで、崋山の最後の旅日記となる『参海雑志』の旅をしないことには、「崋山の旅」を締めくくることはできず、1年ほどをかけてじっくりと三河地方を私も歩いてみることにしました。今回(第1回目)は、田原から伊良湖岬までを崋山の足跡を追って歩きました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2015.元旦のあいさつ

2015-01-01 05:46:25 | Weblog
新年、明けましておめでとうございます。皆さまの今年一年のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。                                                 2015年正月元旦  鮎川俊介 . . . 本文を読む