鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島から佐久島まで-その4

2015-04-28 05:59:19 | Weblog

  「石垣古墳」の案内標示に従って野中の一本道を進み、さらに現れた案内標示に従って左へと折れると「石垣古墳」がありました。

 円墳で、表面の草木はしっかりと刈り込まれています。

 案内板によれば、佐久島には38基の古墳があり、これらの古墳は海部族の統率者の墓または海部族の有力者の墓と推察されるとのこと。

 その「石垣古墳」からは海がほんそばに見え、ちょっと下って浜辺に出ると、大浦と対岸(東港のあたり)を眺めることができました。

 「佐久島体験マップ」を見てみると、「石垣」は「いしがき」ではなく「しがけ」と呼ぶようです。

 左手の「大明神」と呼ばれる岩礁へとつながっているところの磯辺付近には、「江戸時代、千石船を停泊するために使っていた石の柱」とあり、このあたりはかつて沖合いに千石船(大型弁才船)が碇泊するところであったらしい。

 「石垣(しがけ)古墳」から道を「おひるねハウス」の標示に従って右折。

 先ほど「石垣古墳」前に広がっていた浜とつながっている浜辺に、その「おひるねハウス」がありました。

 これらを含む島のアート作品は、過去のアート・プロジェクトの成果としての展示作品を島内各地に設置したものであり、高齢化と過疎化の問題を抱える佐久島が、その活性化のために平成13年(2001年)度から推進している「三河・佐久島アートプラン21」の一環であって、スタンプラリーをしながら島巡りができるようになっているもの。

 この「おひるねハウス」は、2004年に制作され2013年に再制作されています。

 目の前の海(大浦)はかつて「弁才船」が碇泊していたところであり、その沖合いに浮かぶ大型船から小舟でこの浜辺に上がってくる船乗りたちもいたことでしょう。

 その浜辺から集落へと戻っていくと、さきほども見掛けましたが、屋根瓦を幾重にも積み上げて瓦塀としている人家がありました。

 下から30枚ほどは屋根瓦を積み上げており、それが道沿いに長い塀となっているわけだから、相当の枚数の屋根瓦を使用しています。

 かつて家の屋根一面に葺かれていた瓦を、塀として再利用したもの。

  「鬼瓦」の文様は「水」の字を配したもので、これは火事を防ぐためのまじないであったでしょう。

 水の少ない佐久島の人々は火事を何よりも怖れたのです。

 途中、庭先に出て働いていた中年の男性がいたので声を掛け、クリアファイルに入れてあるスケッチ(崋山が描いた村落風景のスケッチ)を見てもらって、これはどこのあたりを描いたものかお聞きすると、即座に「これは崇運寺(そううんじ)のあたりだね」と教えてくれました。

 「昔からこのあたりの人家は黒く塗られていたんですか」

 とお聞きしたところ、

 「いつから黒く塗られているかはわからないが、船に塗るコールタールを板壁に塗ったものだ」とも教えてくれました。

 神島においては板壁を黒く塗った家は見掛けることがなかったので、それほど神島から離れていない佐久島において、黒い板壁や黒い屋根瓦のために全体的に黒っぽく見えるこのような「黒壁集落」があることは、神島とは対照的でもあり、不思議に思われました。

 この集落内の路地を歩いていて、崋山のもう一枚の集落を描いたスケッチを思い出しました。

 板壁で瓦屋根の人家(母家)に付属する物置のような建物に沿って走る通りに、一羽の鶏と歩いていく後姿の女性(?)が描かれたもの。

 これと似たような集落の風景があちこちにありました。

 現在の人家の基礎部分も、崋山のそのスケッチと同じように、やや低めの石垣となっています。

 左手の人家の敷地内の庭で飼われている鶏が、たまたま通りへと出てきたものであるでしょう。

 道を行く人は、その身なりから貧しい庶民のようには見えない。羽織や着物を身に付けた裕福な女性であるように見受けられます。

 私は、崋山が崇運寺(そううんじ)のある佐久島の西集落の中を歩いていることは確実であり、おそらくこのスケッチはその時に描いたものであると推測しています。

 集落内の四つ角に現れた「東港。海水浴場。トイレ」の案内標示に従って、「東港」の方へと歩を進めていきました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」

・「佐久島体験マップ」



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