鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その最終回

2017-04-26 06:44:01 | Weblog
大田南畝は文化6年(1809年)2月13日、拝島の近く中神村を通過した時、中神久次郎という富豪の家で休憩しています。そして久次郎について次のように記しています。「すべて八王子の辺より出る絹布の類をひさぐ。都下の呉服あきなふものゝ家にわたすといふ。」 中神村の久次郎は八王子近辺の農家の女性たちが織った絹織物を買い集め、それを江戸の呉服商に売ることを生業(なりわい)としているということであり、いわゆる絹買継商(きぬかいつぎしょう)であったということです。おそらく八王子周辺の農家を回って絹織物を手に入れ、それを江戸に運んで、取引している呉服商にそれを持ち込んでいたのでしょう。久次郎のような絹買継商は、中神村ばかりでなく、八王子はもちろんのこと八王子周辺の村々にはあちこちにいたものと思われます。「此村の豪家」とあるから、久次郎はその商いにより大きな利益を上げて財産家になっていたのです。八王子周辺は絹織物の生産地であり、またその生産地のかなり広範囲にわたる周辺地域は養蚕(生糸生産)の盛んなところでした。いわゆる三多摩地方はもとより八王子周辺の山間地域は古来養蚕が盛んな地域であり、それを背景に八王子周辺の絹織物生産は成り立っていたのです。勘定所の役人である大田南畝は、文化5年の暮れから翌6年の4月に至る100日間にわたって多摩川(玉川)流域の村々を巡回した時、そのような実状をあちらこちらで目にしたはずです。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その12

2017-04-25 06:54:02 | Weblog
八王子の横町に入った大田南畝は、左に極楽寺、右に大善寺を見て、八王子の甲州街道添いの町並へと入ります。「人家賑(にぎ)はゝし」く、門のところではなく道(甲州街道)の中に松飾がしてあって、真向いの家の松飾と向かい合っていることに、南畝は江戸との違いを感じています。八幡宿、八木宿を経て千人同心の組頭の屋敷前を過ぎ、久保宿の分かれ道で右折して島の坊宿に立ち寄り、案下という川を越えて本郷村、中野村などを見回ってから八王子の横山宿に戻っています。そして南畝は八王子について次のように記しています。「すべて八王子の町は十五組あり。」 これは八王子が十五宿で成り立っているということ。特に横山宿と八日市宿が八王子の中心でした。「四八の日に市あり」とは、横山宿で「四」の日に、八日市宿で「八」の日に市が立ったということ。南畝は「横山宿、八日市宿に市たつなり」と記しています。また八王子近辺の村のことについてであると思われますが、「男は耕し、女は機(はた)を織る。上田島ことによし。一人にて六日に一疋(ひき)織也。青梅島は一日に一端(いったん)ぐらゐ織を上手とす」と記しています。「島」とは「縞」のことで「上田縞」や「青梅縞」が近辺の村々の女性たちによって織られていることを南畝は記録しています。もちろん四・八の「縞市」にはそれらの絹織物が売買されていました。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その11

2017-04-24 06:26:27 | Weblog
「縞市」で繁栄した八王子を訪れた一人に、狂歌師・戯作者として著名であった大田南畝(なんぽ・1749~1823・直次郎のち七左衛門)がいます。大田七左衛門は、文化5年(1808年)の暮れから文化6年(1809年)の4月にかけて、およそ百日間に及ぶ玉川(多摩川)の巡視を行っています。彼は勘定所に勤務し支配勘定にまで上り詰めた有能な幕府官僚でした。還暦を迎えても、百日間近く家を離れて巡視を行うという仕事ぶりであったわけですが、その巡視中にも筆まめな南畝は、日記や記録などを書き続けていました。それが『調布日記』『玉川砂利』『玉川披砂』『向岡閑話』であり、『大田南畝全集』第九巻に載せられています。彼が江戸小石川の自宅を出立したのは文化5年12月16日(旧暦・以下同)。出張を終えて帰宅したのは文化6年の4月3日のことでした。彼が羽村を経て八王子にやって来たのは文化6年正月の5日のことでした。彼は浅川を渡って、まず八王子の横町へと入っています。広重が八王子を通過した天保12年(1841年)より32年ほど前のことでした。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その10

2017-04-21 07:47:54 | Weblog
天保12年(1841年)、甲府城下において、広重は幕絵としてどのような江戸名所を描いたのだろうか。高橋修さんは「甲府道祖神祭礼と歌川広重の関わり」において、「佐野屋喜兵衛版『江都名所』」を候補として挙げています。このシリーズは11枚で、緑町一丁目で飾られたとされる幕絵11枚と、枚数が合致します。私はまだその「佐野屋喜兵衛『江都名所』を確認していませんが、依頼主である甲府城下緑町一丁目の商人たちの要望もあったはずであり、広重の希望する絵柄との調整も当然にあったものと推測されます。どの絵にするかはお互いの相当の付き合わせがあったのではないか。依頼主の要望や立場は強く、広重としても妥協せざるを得ない場面もあったのではないかと思われます。現存する広重の作と見られる幕は「東都名所 目黒不動之瀧」一点のみ。井澤英理子論文によれば、それ以外の幕絵としては、「東都名所 両国大花火」、桜の名所である隅田堤あるいは上野不忍池や飛鳥山の花見の絵、そして「東都名所 洲崎汐干狩」(二代広重作の幕絵として現存)が考えられるとのこと。私としては、それらに加えて「日本橋」「湯しま天満宮」「吉原」「芝神明増上寺」「浅草金竜山」「亀戸天満宮」「御殿山」「永代橋」などを画題として挙げたくなりますが、もとより確証はありません。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その9

2017-04-20 06:52:02 | Weblog
「甲府道祖神祭幕絵の制作」(井澤英理子)によれば、広重の甲府到着3日後の4月8日の朝に江戸から荷物が届き、9日には細工所、つまりアトリエが決まっています。準備期間を経て、実際に広重が幕絵の制作に取り掛かるのが4月18日で、その3日後には幕絵の下書きを完成し、その後下書きに彩色を施していったようです。幕絵が1枚出来上がるごとにそれを掲げていき、11月にも甲府にやって来て、計11枚を完成させていきました。広重の幕絵の題材は「東都名所」。天保3年の小正月、甲府城下および近在近郷からやって来た人々は、緑町一丁目の表通りに入れば、両側に展開する江戸の名所11ヶ所を堪能することができたことになります。江戸に行ったことがない人々でも(それが大半であったでしょう)、居ながらにして江戸の雰囲気を味わうことができたということです。その論文の末尾には、広重は「諸国祭礼尽双六」に、祇園祭や三社祭とともに、自分が描いた幕絵が甲府道祖神祭で飾られた様子を描いている、と記されています。広重が小正月に甲府を訪れて、自分が描いた幕絵を見たかどうかは定かではないと井澤さんは記していますが、私は、広重は甲府道祖神祭に出掛け、緑町一丁目の表通りに掛かる幕絵を実際に見ているものと推測しています。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その8

2017-04-19 06:19:22 | Weblog
小正月における甲府道祖神祭礼においては、甲府城下全体で数百枚以上の幕絵が飾られていたようです。しかし明治に入るとそれらの幕絵は布達によってその使用を禁じられ、ほとんどは廃棄されてしまったという。現在では、山梨県立博物館収蔵の二枚、個人所蔵の一枚、計三枚しかその存在が確認されていないようです。山梨県立博物館で収蔵される幕絵はいずれも緑町一丁目で飾られたもので、そのうち一枚は初代歌川広重が、もう一枚は二代目広重が描いたもの。画題は初代広重が「目黒不動之瀧」、二代広重が「洲崎潮干狩」。幕絵の飾られ方は、店の前に幕を飾るための棒(幕串)を立て、表通りの両側全体を幕絵で覆い尽くすというもの(裏通りには飾られない)。緑町一丁目の表通りの場合、東側ま約64.8m、西側が約63.9m、計128.7m。飾られた幕絵の数は11枚。1枚あたりの横幅は約10.7mほどでした。緑町一丁目の幕絵の画題は江戸名所であり、それは「目黒不動」や「「洲崎潮干狩」「両国大花火」などを含んだものでした。それらの幕絵は一年ごとに使い捨てされるものではなく、毎年、同じ店の前に恒常的(小正月)に飾られるものでした。甲府の道祖神祭礼に幕絵が飾られるようになったのは、同論文によれば天保13年頃。天保12年、広重はその準備のために甲府に出掛けたことになります。高橋氏は、その道祖神祭礼に幕絵を飾る契機になったのは、甲斐一国を巻き込んだ天保騒動(郡内騒動)にあり、その騒動によって破壊された城下の復興を願うものとして幕絵を飾ることになったと記しています。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その7

2017-04-18 06:08:07 | Weblog
天保12年の4月2日(旧暦)、歌川広重(安藤重右衛門)はなぜ甲府へと旅に出かけたのか。それについて詳しいのが、『報告書』に掲載されている論文、「道祖神祭礼と歌川広重の関わり」(高橋修)と「甲府道祖神祭幕絵の制作」(井澤英理子)。それらによると、広重が甲府へ出向いたのは、甲府道祖神祭礼に飾る幕絵の作成を、甲府城下の商人たちから依頼されたからでした。まず高橋氏の記述を紹介します。「甲府城下では、毎年小正月における道祖神祭礼の時期になると、巨大な幕絵を道の両側に飾るといったいわば町全体を浮世絵でくるむという全国でもあまり類をむみない独自の祭礼を執り行ってきた。道祖神祭礼幕絵は町ごとに工夫が凝らされ、様々な画家・画題によるものが存在していた。」 私はかつて甲府において、このような小正月の行事が大々的に行われていたということを、山梨県立博物館を訪れるまで知りませんでした。その論文に図1として掲載されている「柳町三丁目における道祖神祭礼の様子を再現したジオラマ」(山梨県立博物館常設展示)は、かつての甲府城下における道祖神祭礼の賑わいと、通りの二階建ての商家に幕絵がどのように掛けられていたかを知ることができるものです。広重に幕絵の作成を依頼したのは、緑町一丁目の商人たちでした。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その6

2017-04-17 07:00:40 | Weblog
前掲論文によると、歌川広重が作品を制作し始めるのは、文政元年(1818)頃から。その頃は役者絵や美人画、武者絵などを中心に制作していました。その頃、浮世絵界では美人画や役者絵に続く新しい分野として風景画が実験的に制作されていました。文政末から天保初年にかけて葛飾北斎が鵜がいた「冨嶽三十六景」が庶民の支持を得て、ようやく風景画が浮世絵の市場に萌芽したという。広重も天保初年に本格的な風景画に取り組んだ「東都名所」が評判となり、また天保4年(1833)頃に発表した「東海道五拾三次之内」が好評を受け、この頃から広重は画業の中心に風景画を置くようになりました。北斎はじめ名手といわれた多くの絵師が天保中期より風景画から離れてしまう中で、広重は北斎の後継者のように風景画を発展させ、なおかつ浮世絵師で唯一、生涯にわたり風景画中心で生計をたてることになったという。風景画家として、広重は各地を旅したはずですが、『甲州日記』で見られるように彼は旅先で日記を書き、そしてまた興趣ある風景に出会えば常にスケッチをしていたのでしょう。しかも気さくに出会った人々と語り合っている。その姿勢や態度、人柄に、私は渡辺崋山に共通するものを感じるのです。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その5

2017-04-15 07:24:56 | Weblog
『報告書』に入っている「天保年間の広重の画業と動静」(市川信也氏)によると、広重のスケッチはその多くが焼失してしまい、現在、四冊だけが知られているという。その四冊とは、『甲府行日記』、『鹿野山行日記』、『房総行日記』、そして『甲州日記写生帳』(内題「心おほえ」)。前者三冊は関東大震災の時に焼失してしまい、『心おほえ』だけが最近発見ということは前に触れた通りです。広重は寛政9年(1797)に父安藤源右衛門の子として生まれます。父源右衛門は津軽藩田中光右衛門の子で、八代洲河岸定火消同心。文化6年(1809)、父が定火消同心を引退すると、広重が家督を継ぎ、安藤重右衛門と名乗って定火消同心を継ぎます。その2年ほど後に広重は浮世絵師を志します。広重は定火消同心としての仕事をやりつつ、浮世絵師としての画量を磨いていったことになります。しかし天保3年(1832)、36歳の時、祖父の子である安藤仲次郎に、正式に定火消同心職を引き継ぎ、浮世絵師としてその仕事に徹することになります。広重が妻に先立たれたのが天保10年(1839)10月23日(旧暦)で43歳の時。広重が『甲府日記』の旅に出るのが天保12年のことであるから、妻に先立たれて2年後のことになります。天保13年の春に広重は八代洲河岸定火消同心屋敷を出て大鋸町に転居しています。ということは、『甲州日記』の旅に出る時、広重は八代洲河岸同心屋敷の自宅を出立したことになります。広重は「風景(名所)絵師」としてさまざまな名所地を訪れていますが、詳しいことはよくわからないようです。甲州や房州以外に、武蔵や相模地方、東海道筋、さらに奥州や阿波の鳴門まで足を伸ばした可能性もあるという。市川氏は、「広重は旅が好きで各地の名所旧跡を見学すると共に旅の途中で知り合った人達との会話を楽しみ、俳句を詠み、街道の途中にある茶屋で地元の名物を食し、お酒を呑んでいる。また目的地に着いてからも地元の人たちとほぼ毎日のように酒を飲み交わし地元の人たちと交友を深めている」と記しています。これは『甲州日記』に関するコメントですが、他の多くの旅においても同様であったでしょう。大変気さくで、酒飲みで、食べることが好きであったのです。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その4

2017-04-14 06:36:50 | Weblog
広重の『甲州日記』の「旅中 心おほえ」は、18図のスケッチと11月13日(旧暦)から11月22日まで10日間の日記からなっています。その時の旅は、金櫻神社の参詣路である「甲州御嶽道」から始まり、スケッチはその途中にあった「太鼓岩」から始まっています。それから甲府盆地から富士川沿いに太平洋へと抜ける「身延道」に移り、次に「甲州道中」へと移っています。スケッチの15図は「高尾山本社」であり、境内のようすが詳細に描かれています。14図は上野原宿近くの「犬目峠」で、16図から18図までは勝沼宿付近や甲府の寺社を描いたものだから、このスケッチ帳は一つの旅で時系列にスケッチを描いたものとすると不自然です。解説によると、広重の日記には高尾山を参拝した記載はないということですが、このスケッチを見ると広重が高尾山を訪れたことはまず確かなこと。江戸へいったん戻ってから、また甲州道中をたどって甲府まで行き、その途中に道をそれて高尾山に参拝したとも考えられます。とするなら、広重は高尾山を参拝してから、尾根伝いに小仏峠へと歩き、そこで甲州街道に戻って、小仏峠を甲府方面へと下って行ったと考えられます。『甲州日記』の「天保十二丑とし卯月、日々の記」は、天保12年(1841年)4月(旧暦)の甲府への旅を記録したものであり、これを見ると、広重はその月2日に江戸の自宅を出立していることがわかります。「朝五ツ時」(午前8時頃)に出立し、その日は八王子まで歩いて八日町の山上重郎左衛門方に宿泊しています。翌3日、八王子の宿を出立して、高尾山へのわかれ道に差し掛かり、そこで高尾山まで「こゝより一里十八丁」(約5km)と記しています。駒木野関所を越したところに駒木野宿があり、そこで「ここにも高尾へ近道あり」と記しています。それから小仏峠へと広重は向かっているわけだから、この4月の甲府行きの時、広重は高尾山に立ち寄っていないことは確かなことです。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その3

2017-04-13 06:48:32 | Weblog
歌川広重の『甲州日記』は、天保12年(1841年)、甲府道祖神祭の幕絵を描くために甲府に滞在するのですが、その時の甲州旅行と甲府滞在のようすを書き留めた日記。写生帳のスケッチである『旅中 心おほえ』は、その時、広重が興趣を感じたり興味を持った景観を描いたもの。『調査研究報告書』には、そのスケッチ類と旅日記が全部掲載されています。スケッチは全部で18図。『甲州日記』は四月と十一月の二部からなり、広重は天保12年に、四月と十一月の2回、甲府に赴いたことがわかります。つまり甲州街道を、この年2回往復したということです。この『甲州日記』の写生帳は長らく行方不明でしたが、平成に入ってからアメリカで再発見されたという。国外へ流出し、アメリカにあったということです。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その2

2017-04-12 05:46:22 | Weblog
道行(みちゆき)の基本史料となる歌川広重の『甲州日記』が載っているのは、山梨県立博物館が発行した『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』。山梨県立博物館で見掛けて購入しました。樋口一葉の関係で塩山周辺を歩いた時だから、もう7年ほども前のことになります。その表紙に掲載されている絵は『旅中 心おほへ』より「甲州御嶽道 外道ノ原 其二」。右手前の山の向こうには白雪をかぶった富士山が顔を出し、中央やや左手にはやはり円錐形の独立峰が愛らしくそびえています。その山と右手前の山の間には峠道のようなものが「く」の字に屈曲し、よく見ると馬に荷を載せた商人らしき一行が坂道を上がっています。これはやや誇張と簡略化があるにしても真景図(しんけいず)と言っていい。この表紙以外にも多数の広重の「心覚え」としてのスケッチがこの本には掲載されていますが、それらはやはり優れた画力を持った絵師のスケッチ(真景図)として見応えのあるものです。 . . . 本文を読む

甲州街道を歩く-高尾から小仏まで その1

2017-04-11 07:02:40 | Weblog
故(ゆえ)あってしばらく休載していましたが、久しぶりにこのブログを再開します。甲州街道については、昨年、すでに東京日本橋から高尾(浅川)までは歩いていたのですが、高尾から西へは足を踏み入れていませんでした。車では国道20号線を何度も走っています。しかし甲州街道は高尾から先、途中で国道20号線から右へ折れています。甲州街道は私が住んでいるところから身近な「五街道」の一つであり、いつかは全道を歩いてみたいと思っていました。その道行(みちゆき)の基本となる史料は、『東海道五十三次』や『名所江戸百景』で有名な浮世絵師歌川広重の『甲州日記』です。街道を歩き通すという試みは、渡辺崋山の『游相日記』で大山街道を歩いて以来となります。崋山の『游相日記』の旅は天保2年(1831年)のこと。広重の『甲州日記』の旅は天保12年(1841年)のこと。崋山の『游相日記』の10年後のことになります。この間には、「天保の大飢饉」や「大塩平八郎の乱」、崋山が関係する「蛮社の獄」、甲斐一国を巻き込んだ「郡内(ぐんない)騒動」などがありました。それらのことを頭に入れつつ、甲州街道を歩いてみたいと思っています。 . . . 本文を読む