鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その6

2013-12-31 05:05:29 | Weblog
当時の人的ネットワークは、「俳諧」や「書画」によるものだけに止まらない。「蘭学」や「蘭方」による人的ネットワークもある。それがわかるのが、崋山の『毛武游記』で言えば榛沢(はんざわ)郡高島村の伊丹家での場面。伊丹家に金井烏洲(うじゅう)の案内で到着した崋山は、そこで伊丹新左衛門が蘭方医であることを知り、またその伊丹家に逗留している仙台出身の「洋学生」佐々木雄逸なる者と出会います。崋山は自分が知っている蘭学関係の人々の名を挙げて、雄逸に知っているかどうかを聞いてみたところ、雄逸はそれらの名をみんな知っていました。『客坐録』には、雄逸のことを「蘭学ヲナスイシ也」とあり、伊丹新左衛門と同じく「蘭方医」であったことがわかり、また長崎の末次忠助が洋学者としてあらゆる分野にすぐれていることを崋山に語ったらしいことも記されています。この天保2年(1831年)の秋、実は高野長英(1804~1850)が佐位郡境町の蘭方医村上随憲(1798~1865)のところに来遊しており、境町から高島村を経て10月22日に江戸に帰着しています。村上随憲は武蔵国久下(くげ)村(熊谷市)に生まれ、江戸に出て吉田長淑(ちょうしゅく・1779~1824)に学び、長崎に遊学してシーボルトに学んだ人であり、長英にとっては兄弟子となる人物。文政11年(1828年)上野国佐位(さい)郡境町に開業し、上州では「西に宗禎(福田宗禎)、東に随憲」と称された蘭方医。長英が高島村を経由して江戸に向かったということは、長英が伊丹新左衛門を訪ねた可能性を示すもの。以上のことは、伊丹新左衛門・佐々木雄逸・村上随憲・高野長英・上州および江戸の蘭方医や蘭学者の人的つながり(ネットワーク)をうかがわせるものです。『夢魂の人 高野長英私論』千田捷熙(ぎょうせい)によれば、佐々木雄逸は高野長英の門人であり、野田(群馬県北群馬郡吉岡町)に開業し、天保3年(1831年)7月28日(旧暦)にそこで客死しているとのこと。崋山と伊丹家で出会った翌年の夏のことになる。 . . . 本文を読む

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その5

2013-12-30 05:45:43 | Weblog
古沢喜兵衛(号槐市〔かいち〕)は大麻生村の名主であり、酒造業も営む豪農でした。持田宗右衛門(号逸翁)も押切村の名主。古沢槐市の俳諧の師匠は三ヶ尻の豪農黒田平蔵で、幽鳥の号を持つ。崋山は『客坐録』で、「三尻名主」と記しています。黒田幽鳥は、大里郡上新田(かみしんでん)村の代官柴田又兵衛の次男であり、三ヶ尻村の黒田家に養子に入った人物。俳諧の師匠であり門人は500人を数えたという。伊丹新左衛門(号水郷)は高島村の豪農。金井烏洲(うじゅう)の案内でその門前に至った崋山は、その屋敷の大きな門塀と広い敷地に驚いています。この新左衛門は「西医の法をこのミ、人を療す」る蘭方医でもありました。その新左衛門の弟が唯右衛門で、号を溪斎という。俳諧をよくし、江戸の桜井梅室の門人でした。桜井梅室は、前小屋天神社の書画会に招かれ、はるばる江戸からやってきて伊丹家に逗留していましたが、書画会が延び延びになってしまったため、ほんの数日前に江戸に帰ってしまったとは崋山の記すところ。伊丹渓斎は桜井梅室の有力門人の一人であり、かなり親交が深かったのでしょう。この伊丹家も名主を勤める家柄であり、利根川堤防改修工事などで大きな功績を残したらしい。金井家は佐位郡島村の豪農で養蚕長者。金井左忠太の号は烏洲(うじゅう)。この烏洲の父は文八郎と言って、号は万戸。俳諧に長じ、その俳諧は文政期に頂点に達し、「上毛俳壇は、ほとんど万戸の手中にあったといってよい」といわれるほどでした。天保2年(1831年)にはまだ62歳で存命中(天保3年死去)。万戸の長子忠雄(文八郎)は莎村(しゃそん)の号をもち、古賀精里の高弟でもあった人。五十部村(よべむら)の岡田立助(号東塢)と親しく、一緒に長崎に旅したこともある。文政7年(1824年)に31歳で亡くなるが、東塢との親交は弟烏洲に引き継がれる。その財力で質屋を経営するが、天保年間に伊勢崎藩への莫大な貸金が貸し倒れになり、その財産を失っています。烏洲は江戸で谷文晁の写山楼に出入りして絵を学び、崋山とは旧知の間柄。というふうに見てくると、岡田東塢・金井烏洲・伊丹渓斎・古沢喜兵衛・黒田平蔵・持田逸翁らは、文化的ネットワーク(とくに俳諧や書画)でつながる地方人脈を構成しており、しかも多くが豪農であり名主あるいは代官であったというように、地方農村の上層階級(名望家)であったのです。 . . . 本文を読む

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その4

2013-12-29 05:06:38 | Weblog
天保2年(1831年)11月7日(旧暦)、「前小屋の渡し」で利根川を越えた崋山の懐中には、おそらく高島村の伊丹渓斎(唯右衛門)からもらった大麻生村名主古沢喜兵衛(槐市)宛紹介状が入っていたものと思われます。それには崋山が、江戸の俳諧の宗匠太白堂弧月(江口弧月)と親しい者であること、そしてもしかしたらあの写山楼谷文晁(ぶんちょう)先生の高弟の一人であるといったことも記されていたかも知れない。江戸俳諧の宗匠と親しく、さらに江戸画壇の中心人物谷文晁の高弟ともなれば、その紹介状の効き目はてきめんであったはず。崋山をその別邸に招き入れた古沢喜兵衛(槐市)は、自分の身近な知り合いたち(俳句仲間)に対して、自分の家には江戸からそういう人がやって来て滞在している、といったことを自慢げに知らせたことでしょう。その知らせを受けた一人が、荒川南岸の押切村(下押切)に住む名主持田宗右衛門(逸翁)であったのです。持田宗右衛門はさっそく大麻生村の古沢家に滞在する崋山を訪ね、そしてその宗右衛門の人柄に惹かれた崋山は、ある晩秋の一日、荒川を徒歩で越えて押切村の持田家を訪ねることになったのです。 . . . 本文を読む

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その3

2013-12-28 05:16:41 | Weblog
『毛武游記』には、前小屋村の天神社書画会の会主「青木長次郎」家でのこと、「前小屋天神社」での書画会のようす、その夜泊まった「伊丹新左衛門」家でのことなどについての記述が詳しい。翌10月30日(晦日・旧暦)、崋山と梧庵は、二ツ小屋の渡しで岡田東塢(とうう)と金井烏洲(うじゅう)の二人に見送られて利根川を越え、桐生へと戻って行きます。崋山は、東塢と烏洲の二人に「深谷の事ねもごろにたのミ」別れを告げました。「深谷の事」とは、深谷の近くの三ヶ尻村の調査のことであり、その調査の協力を二人にねんごろに要請して別れたということであるでしょう。利根川を渡ってから、おそらくもと来た道へ戻ろうとして尾島へと向かった二人でしたが、途中で道に迷い、尾島には昼頃に到着。そこで昼食を摂った後、もと来た道をたどって桐生新町の岩本家にたどり着いたのは、その日〔天保2年(1831年)10月30日(旧暦)〕の夜、「戌のとき」すなわち午後9時頃のことでした。二人の帰着を知った侠医奥山昌庵(しょうあん)が早速訪ねてきたため、前小屋天神社の書画会のようすなどについていろいろと話し、寝たのは夜遅くになってから。この場面で『毛武游記』の「上冊」は終わっており、「下冊」の内容が、ではどういうものであったかは全く不明です。 . . . 本文を読む

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その2

2013-12-28 05:09:35 | Weblog
『客坐録』(かくざろく)〔天保二年八月〕には、「廿九日 前小屋天神」とあるが、これは天保2年(1831年)10月29日(旧暦)に前小屋天神社の書画会に参加したということを示すもの。「高島村伊丹新左衛門 号水郷 弟唯右衛門 号溪斎」とあるのは、この日の夜、高島村の伊丹新左衛門(号水郷)宅に泊まり、その弟唯右衛門(号溪斎)とも会ったということ。「佐々木雅逸 蘭学ヲナスイシ也」とは、当時伊丹家に滞在していた蘭方医が「佐々木雅逸」(正しくは「佐々木雄逸」)であり、この蘭方医に伊丹家で会ったということを示すもの。「長崎末次忠助度学ニ好ム」とは、おそらく佐々木雄逸が長崎の末次忠助(すえつぐただすけ・1765~1838)のことを語り、蘭学者として多方面にわたるすぐれた学者であるとしたことを記録したもの。「土屋万右衛門 深谷のはたごや」とは、おそらく、崋山が天保2年11月7日(旧暦)、中山道深谷宿で泊まった旅籠屋の名前が「土屋万右衛門」であったことを示すもの。「國濟寺 薬師堂」とは、深谷宿から熊谷宿方面へ中山道を歩いた時、右手にあったそのお寺へ立ち寄ったことを示すもの。「新堀森田佐治右衛門 古き家なり」とは、熊谷宿へ向かう途中、新堀(にいぼり)という土地で立ち寄った家が、森田佐治右衛門家であったことを示すもの。崋山は佐治右衛門と会っています。「黒田平蔵 三尻名主 俳諧を好 清水幽鳥」とは、三ヶ尻村の名主が黒田平蔵という者であり、俳諧を好んで「清水幽鳥」とも称している、ということを示すもの。「九日 桐生産物 葉ワサビ 鮎 赤腹ハヤ 下仁田葱 鰍 ツグミ」とは、よくわからないが、桐生や下仁田の名産をある人から聞きそれを示したものか。その話を聞いたのが11月9日(旧暦)のことであり、「ある人」とは、古沢喜兵衛(槐市〔かいち〕)か、あるいは槐市によって紹介された三ヶ尻の黒田平蔵(幽鳥)の可能性も考えられる。11月9日には、崋山と高木梧庵は、大麻生村か三ヶ尻村に到着していたことを示すもの。「廿七日 大麻生村 紅花 藍花 物産」とは、大麻生村の名産が紅花・藍花であったことを示すもの。「廿七日」とは、11月27日(旧暦)までは大麻生村の古沢家に崋山が滞在していたことを示すものか。であるなら、崋山が大麻生村から江戸へと向かったのは、天保2年の11月27日以後のことになる。 . . . 本文を読む

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その1

2013-12-23 06:36:35 | Weblog
天保2年(1831年)の11月7日(旧暦)、利根川を前小屋の渡しで越えた崋山は、深谷宿に泊まり、翌日か翌々日、中山道を熊谷宿方面へと向かい、途中で右折して秩父街道へと入り、大里郡大麻生村居住の名主、古沢喜兵衛(槐市〔かいち〕)宅を訪ねます。『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』の嶋野義智さんの「武人と文人とに生きた崋山」によれば、崋山に大麻生村の古沢喜兵衛(槐市)への紹介状を書いてくれたのは伊丹渓斎でした。伊丹渓斎とは、10月29日(旧暦)の前小屋天神書画会の夜、崋山・岡田東塢(とうう)・金井烏洲(うじゅう)らが泊まった武蔵国榛沢(はんざわ)郡高島村の伊丹家の、当主新左衛門〔水郷・名主〕の弟で俳人であった唯右衛門(1805~1870)のこと。伊丹渓斎は、当時江戸に居住していた桜井梅室(1769~1852・加賀藩の研刀御用掛で俳人)の門人でした。おそらくこの嶋野さんの説はその通りであったと思われる。岡田東塢は、「前小屋の書画会に出掛けたなら、深谷や三ヶ尻に近いから、きっと三ヶ尻調査のつてを見付けることができるはず」と、崋山を前小屋天神の書画会に誘ったのですが、その前小屋村で崋山や東塢を待ち受けていたのは、上野国佐位郡島村の金井烏洲(東塢の友人であり、崋山の知人でもあった)でした。金井烏洲の父である文八郎(万戸)は俳人でもあり、「上毛俳壇は、ほとんど万戸の手中にあったといってよい」と言われるほどの実力者でした。また谷文晁とも親しく、文晁は何度か島村の金井家を訪れたことがありました。烏洲はその万戸の次男。この近辺の俳壇事情についても詳しかったものと思われる。烏洲は、10月29日の夜、自ら案内して高島村の伊丹家へ崋山や東塢を連れて行き、崋山に新左衛門の弟である唯右衛門(溪斎)を引き合わせたものと思われる。伊丹渓斎は、崋山に大麻生村の名主で俳人であった古沢喜兵衛(槐市)の名を挙げ、その槐市への紹介状を崋山に書き与えるとともに、もしかしたらその槐市の俳諧の師匠であった三ヶ尻村の名主黒田平蔵(幽鳥)の名を挙げたかも知れない。溪斎は崋山に、「古沢槐市のもとに行ったら、三ヶ尻村の黒田幽鳥を紹介してくれるはずですよ」とアドバイスしたかも知れない。今回の取材旅行は、前小屋から大麻生まで、崋山が歩いた道をたどってみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

『毛武游記図巻』第16図の庭の構造物

2013-12-19 05:49:05 | Weblog
図巻の最後の風景スケッチ「第16図」については、私はこれは大里郡押切(おしきり)村(現在は熊谷市押切)の持田宗右衛門(そうえもん)家から、庭越しに南方向に広がる田園風景を描いたものではないか、と推測しました。では、この風景スケッチの中の、左側の中央、板屋根があって丸石積みの基礎のある構造物は何なのか。その手前のやや四角い切り込みのある長方形の構造物についてはよくわからない。しかし、板屋根のある構造物については一つの仮説を提示できるのではないかと思っています。では、それは何なのか。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その最終回

2013-12-17 05:45:45 | Weblog
私が『毛武游記図巻』(天保2年)の全てを観たのは、『渡辺崋山と弟子たち』(田原市博物館)においてです。第一図から第十六図まで、全部で16のスケッチからなるもの。第十二図は「尾島」であり、第十三図は阿左美の「生品森」、第十四図は「赤岩」で第十五図は「前小屋渡」というように、旅の行程順にスケッチが並んでいるわけではありません。崋山はこれ以外にも旅先でさまざまなスケッチを描いていることは、『毛武游記』の原本(コピー)から分かるところ。そのスケッチを、私は桐生駅での『渡辺崋山写真展』で見ることができました。天保2年(1831年)10月29日(旧暦)の前小屋天神書画会の旅に限れば、「法篋印塔」(ほうきょういんとう・牛の塔)と「前小屋天神図」がそれ。では、第十六図はどこなのか。これは第十二図からあとのスケッチの中で、唯一、どこを描いたものかの書き入れがありません。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その14

2013-12-16 05:35:13 | Weblog
案内人義兵衛が、下村田で役目を終えたということは、あとの行程はもう間違えることはないだろうという判断と、桐生へと戻る時間とが併せ考えられていたものと私は考えます。おそらく義兵衛は、「この街道を西へと進んで、中村田のあたりで左へ折れる道があるから、その道を南へと進んで行けば尾島に至り、そこからは前小屋の渡し(利根川)はもうすぐです」とでも言って、崋山らと別れたのでしょう。中村田からともかく南へ南へとひたすら歩いて行けば利根川にぶつかるはず、そう義兵衛は崋山に教えたのです。彼が崋山に教えた道は尾島経由で「前小屋の渡し」に至る道であり、「二ツ小屋の渡し」へ至る道ではありません。「尾島から右手の二ツ小屋の方向ではなく、左手の前小屋の方への道を行くんですよ」と、義兵衛は念押ししたかも知れない。ということは義兵衛は、桐生も含めて利根川流域あたり(尾島や前小屋あたりも含めて)の地理についても詳しい人物であったことになる。ということから推測すると、この義兵衛なる人物は、絹買継商を積極的に展開する岩本茂兵衛家に勤める小者(使用人)の一人であり、絹売買のために桐生周辺を歩き回っていた者ではないか、という考えが出て来ます。その使用人で信頼できる人物を、茂登は選んで、崋山と梧庵に道案内人(「導者」)として付けたのはないか。と考えるならば、この義兵衛はそれほど若くはなく、また老人でもなく、四十前後の男ではなかったか。義兵衛が「下村田」の下駄屋で選んだ新品の下駄は、妻や娘(あるいは息子)のためのものであったのかも知れません。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その13

2013-12-15 05:22:14 | Weblog
案内人の義兵衛を「下村田」で見送った後、崋山と梧庵がしらない道をたどりたどり歩いて行くと「中村田」というところに至ります。そこには酒造家がなんと12軒ほどもありました。この「村田」とい村は大村で、「上」「中」「下」に分かれ、治安もよさそうである。「村田」の間は一里ばかりあり、その道はすべて田んぼや人家の間を通っていました。道すがら、浅間山やその周辺の山々が木々の間から見ることが出来ました。一般に、浅間山の噴煙は、伏している時は風で、立ち上っている時は凪(なぎ)。その噴煙の状況を見れば、風晴の兆(きざ)しを間違えることはない、という。「けふハ風なり」と崋山は記す。西方向に見える浅間山の噴煙は、伏していたことになります。あとで前小屋天神の書画会の記述からわかる通り、この日は強い西風か西北の風が吹いていたものと考えられます。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その12

2013-12-14 05:28:24 | Weblog
下村田(しもむらた)で義兵衛は、下駄を作る家に腰掛けて楽しんでいます。通り沿いに下駄を作る商家があって、そこの縁先に「腰掛けて楽しむ」というのは、おそらく往来する人々に向けて展示してある女物や男物のさまざまな下駄を、どれにしようかと選ぶことを楽しんでいたものと思われる。若妻に買って帰ろうとしているのだろうか。それとも愛娘(まなむすめ)に買って帰ろうとしているのだろうか。それとも自分のために…。義兵衛なる案内人がどれぐらいの年かさであったのかわかりませんが、ともかく嬉々として選んでいる男の様子が、崋山の「下駄作る家にこしかけてたのしむ」という一文に、簡潔に表現されています。案内人として依頼された時に、岩本茂登(もと・崋山の妹)からそれに見合った駄賃は受け取っていただろう。義兵衛にとっては降ってわいたような話で、思いがけぬ臨時収入。そのお金で義兵衛は新しい下駄を買うことにしたのです。その嬉々として選ぶ姿を見て、崋山は道案内のお礼の心も込めて、「百文」を追加して取らせたのでしょう。義兵衛は桐生への帰り道を、手にどういう下駄をぶらさげて、どんな表情で歩んでいったのだろう。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その11

2013-12-13 05:48:58 | Weblog
崋山一行は、「笠懸野」の原野の中の、松並木がある道を歩いてやがて「下村田」(しもむらた)というところに入ります。この「下村田」というのは、『渡辺崋山集 第2巻』の後注によれば、「上野国新田郡村田村(新田郡新田町村田)」であり、現在は太田市新田村田町(にったむらたちょう)のあたり(の一部)に相当します。かつての「新田郡〇〇村」は、現在は「太田市新田〇〇町」となっている場合が多いようだ。地図で見ても周辺には、「新田〇〇町」となっているところが多い。かつての「新田郡」の「新田」はどうしても入れたかった、というこだわりを感じます。やはり「新田義貞」や「新田氏」を強く意識した、郷土意識というものがあるのではないか。私が生まれた福井の家から歩いて、田原町という駅から京福電鉄に乗り、三国(みくに)方面へと電車に乗って向かうと「新田塚」(にったづか)という駅があり、子ども心に「新田塚」(「しんでんづか」ではなく「にったづか」)とは何だろうという疑問がありましたが、長じてから、それが新田義貞が戦死したところであるということを知りました。中学校や高校の歴史の教科書には「新田義貞」という武将の名前は必ず載っており、ある時、その「新田塚」を訪れたこともあります。崋山は、「新田郡」から、新田義貞や新田氏を想起していることは確実ですが、岡田東塢(とうう)が待つはずであろう書画会が開かれる前小屋村へと急ぐために、寄れば寄れたはずの、本家本元の「生品神社」には立ち寄ることはしませんでした。案内人義兵衛は、生品神社近くの「下村田」というところまで崋山と高木梧庵を案内し、そこで自分の道案内の仕事は果たしたと判断したのか(桐生へと戻る時間も考慮に入れたかも知れない)、桐生へと引き返すことになります。崋山はその義兵衛に、案内してくれたお礼として「百文」を取らせています。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その10

2013-12-12 05:27:12 | Weblog
新田市野倉町の区画はなぜ45度ほど傾いているのか、という疑問は、なぜ熊谷陸軍飛行学校新田分教場の敷地は45度傾いていたのか、という疑問と同じことになります。陸軍飛行学校は、前にも触れた通り、陸軍が戦闘機(私は零戦や隼などをすぐに思い浮かべます)の操縦士(パイロット)を養成するための練習用学校としてつくったものであり、そこには当然のこととして飛行場がありました。練習機は「九十三式中間練習機」。通称「赤とんぼ」と言われるものでした。少年飛行兵はこれに乗って操縦・飛行訓練をするわけです。この上州における崋山関係の取材旅行をしてきて、地域農村部の景観として特徴的なものの一つは、敷地の北西部に高々と繁る屋敷林でした。これは有名な「赤城おろし」(北西風)から屋敷を守るためのもの(防風林)でした。屋敷林を伴う農家はかなり減り、新建材の家が圧倒的に多くなってはいるものの、農村部を歩いているとそのような屋敷林(防風林)をもつ農家を、今でもあちこちに見ることができます。飛行場が45度傾いているということは、滑走路は南東から北西方向に向けて延びていたということ。つまり「赤城おろし」「上州の空っ風」を考慮したものであったということになります。新田市野倉町のほぼ正方形の区画の一辺は約1.5km。ということは新田分教場の滑走路の長さは1kmほどであったのかも知れません。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その9

2013-12-11 05:06:42 | Weblog
私はある土地を歩く時、大雑把な道筋については事前に頭に入れておきますが、事前に細かく調べて日程表を作るようなことはしません。現地に行ってから、現地で判断して歩くということが圧倒的に多い。だから道に迷うこともあるし、脇道や裏道にも入るし、興味をひかれて途中からある場所へと歩き、そのために遠回りをしてしまう時もあります。それはそれでいいと思っています。また訪れればいいからです(日帰りコースであれば)。しかし道に迷ったり、脇道や裏道に入ったことによって思いがけない出会いに恵まれることもあるし、また事前に綿密に調べないことによって新鮮な感動を覚えることも多い。綿密にたくさん調べておけば、多くの感動や収穫が得られるというわけでもないのです。特に「歩く」時はそう。今回の「陸鷲修練之地」の碑との出合いもそうでした。かつて私は、常陸の大津浜から五浦への海岸べりの道を歩いた時、「風船爆弾」の打ち上げ基地があった場所を通過しました。そこにはそのことを示す碑が建てられていました。あれを見た時とほぼ同様な驚きを伴う感動を、私はこの「陸鷲修練之地」の碑を見て覚えたのです。「ああ、かつてここはそういう場所だったんだ」という感動。その名残りは、まわりを見る限りどこにもほとんどありません。しかしその碑の存在によって、確かにここはそういう場所だったんだ、という認識を得ることができたのです。あの日本近代が経験した戦争が確かにあったということは、日本津々浦々にあるお寺の墓地を訪れれば、どこにおいても実感できることです。日本中を巻き込んだものであるということも、そのことから理解できることです。しかし日本国内における戦争関係の遺跡(戦争遺跡)となると、なかなか出合うことは珍しいのです。現地を歩いていて、そういう遺跡なり石碑なりにたまたま出合った時、私はその場所で、ある過去のある時期に展開されていた日常なり風景を想像します。そのあとで、もっと詳しくそのことについて調べていくと、その日常なり風景はさらに具体化していきます。「ああこういう日常なり風景が展開していたのか」という歴史認識の深まりを感じていく時です。もちろんそこには、その場所、その時期に生きていた人々がいる。その場所、その時期に生を営んでいた人々が、その後、どういう人生を送って行ったのか。私は、そこにも思いを馳せて行く必要があると思っています。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その8

2013-12-10 05:43:08 | Weblog
太田市山之神町(やまのかみちょう)あたりは、東方向に八王子丘陵(崋山が「広沢山」や「吉沢山」と記す丘陵)が見えますが、あたりは「笠懸野」(かさがけの)という平地の広がりであり、山がほんそばにあるわけではない。なぜ「山之神町」(かつては「山の神村」)という町名(村名)であるかというと、やはり町内(村内)にある「大山祇神社」に由来するものだと思われます。大山祇神社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の父である大山積神(おおやまつみのかみ)を祀ったもので、全国に10326社あるという。総本社は、愛媛県今治市にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)。「山の神」や「大山津見神」とも言われ、鉱山や林業、また農業の神さま。「山の神村」は幕府代官岡登景能により笠懸野の原野が開発された時、設けられた8つの村の一つであり、「大山祇神社」はその岡登景能によって勧請されたものと思われる。その神社の名前から「山の神」という村名が生まれたのではないか。崋山は次のように記しています。「藪塚といふ。此間たゞ田圃の間を行。又やぶ木などのおほひたる下を通り、終に山の神といふに出づ。達路あり。田家に入てたばこの火をかる。それよりして大原あり。松並多たち、林樾(りんえつ)径を覆い、行事一里ばかり、山の神に到。こは土岐山城守どのゝ領分といふ。」 藪塚から田んぼの間の道を進むと「山の神」という地点があり、そこは道があちこちへと通じ、迷いやすいところ。藪塚もそうですが、ここ山の神も迷いやすいところであり、崋山の妹茂登(もと)が義兵衛という案内人を付けたのも、そこで迷ってしまう心配があったから。「山の神」の分かれ道があるところで、崋山は一軒の農家に入り、たばこの火を借りています。そこから一里ほど歩いて「山の神」に至ったとしていますが、これは「小金井」(こがない)の誤りではないか。「小金井」で古河街道(国道2号線)とぶつかり、そこで右折すれば村田に至るからです。義兵衛は、下村田まで崋山らを案内し、そこから桐生へと引き返しました。 . . . 本文を読む