鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その6

2015-04-19 06:30:13 | Weblog
前に挙げた参考文献『郷土志摩No44 神島特集号』によれば、戸数の六割は「小久保」という姓で、この姓は渥美半島にも沢山あるとのこと。崋山が訪れた渥美半島の太平洋岸の村、堀切村においても小久保姓が多く、実際、案内人の田原藩士鈴木喜六の縁戚ということから立ち寄った家も、小久保姓(三郎兵衛)でした。崋山を常光寺に案内してくれたのも小久保政右衛門(三郎兵衛の後見人)。また伊良湖村にも小久保姓が多かったようであることは、現在の伊良湖神社の参道沿いにあった「平成二十六年 初穂料奉納者」名簿から推測することができました。「小久保」姓以外に「藤原」姓も多く、それ以外は「寺田」「前田」「池田」「天野」の姓であるという。また島の旧家は屋号が「梅屋」「柏屋」「井筒屋」であり、そのどれもが「小久保」姓。この三家が「島の親方」であったという。ちなみに、三島由紀夫が神島を訪れた時、宿泊してお世話になったのは、当時漁協組合長の寺田宗一さんであり、この方は「寺田」姓。では、崋山が訪ねた「又左衛門」という「島長」の姓は何であったかというと、「網船の主」で「元〆」であり「旧家」でもあるということから考えて「小久保」であったに違いない。つまり「小久保又左衛門」であり、その弟は「小久保又右衛門」であったのです。もう一人の「旧家」で「網船の主」である「三四郎」もおそらく「小久保」姓であったでしょう。崋山は、「和地の威(医)福寺より消息せしかば、此家(又左衛門家)をたどり長流寺といふに宿からんと、先(まず)其(その)又左衛門が家」を訪ね、そして結局、長流寺には泊まらずにその又左衛門家に宿泊しています。この「長流寺」は堀切村の常光寺の末寺であり、明治初期には廃寺になっています。つまり曹洞宗のお寺でした。和地村の医福寺は、崋山一行がこの旅において第一泊目を過ごしたお寺であり、やはり曹洞宗のお寺。崋山はその医福寺の住職の紹介を受け、神島に渡ったら同じ曹洞宗の長流寺(堀切村の常光寺の末寺でもある)に泊まろうと思っていたのです。『郷土志摩 神島特集号』によれば、他の桂光院や海蔵寺(現在はない)も曹洞宗であり、堀切村の常光寺と関係が深い。ということであり、この神島に住む人々は、渥美半島太平洋岸の堀切村ないし渥美半島突端(伊良湖岬)の伊良湖村などとつながりのある人々が多いようだ、ということがわかってきます。 . . . 本文を読む