伊良湖明神下の彦次郎宅に到着した崋山は、ここでスケッチを3図描いています。ひとつは彦次郎の屋敷を描いたもの、二つめは伊良湖の村人を描いたもの、そしてもう一つは伊良湖明神を描いたもの。伊良湖明神を描いたスケッチを見ると、小山のふもとから参道(段々)が上へと曲がりくねって延びており、その頂上付近に小ぶりではあるが立派な社殿が鎮座しています。麓の参道が始まるあたりには一軒の農家らしい家が建っていますが、これが崋山らが立ち寄った彦次郎の屋敷であるかどうかはわからない。彦次郎の家は、背後に松林のようなものがあり、二階建ての建物が二棟並んでいます。左側の小屋には大きな桶が横に並べられています。庭には牛に乗った人がおり、また薪を組んで積み上げたものや、茣蓙が敷かれてあったりします。庭の前に広がるのは田んぼだろうか。伊良湖の村人を描いたスケッチは、彦次郎家における客の接待の様子を描いたもののように思われます。牛の背に乗ってやってきた客人に、女中が湯茶の接待をしようとしている場面が描かれています。崋山は、「里人」は多く牛を飼っていて、田んぼに行く時も牛に乗って往来するなど馬の代わりにしている、と記しています。村人が、伊良湖明神に参詣する遠来の旅人を牛に乗せて駄賃をとるというようなこともあったものと思われます。彦次郎宅を描いた絵に描かれる牛は簡略ですが、伊良湖の村人を描いた絵に描かれる牛はかなり精密です。村人たちが牛を馬の代わりとして利用している土地の風俗に、崋山は大きな興味関心を抱いたのでしょう。今回の取材旅行で、伊良湖明神に立ち寄ることは残念ながらできなかったので、この伊良湖明神や彦次郎家のことなどは、次回に詳しく取り上げてみたいと思います。 . . . 本文を読む
堀切村を出立した崋山は、神島へと至るためにまず伊良湖村へと向かいました。崋山が記す「堀切山」とは、常光寺の背後にあった山、「大字堀切字和名山」にあった「寅之神社」(江戸期においては「堀切大明神」)の案内板に記してあった「城山」のことであるに違いない。その「堀切山」を過ぎると、「縦横一里の大砂漠」となったと崋山は記しています。西方には伊良湖の山がまるで塀のように連なり、南方には日出(ひい)村の岡が見えました。人家がある伊良湖明神の山下へは、松原の中の道を進みましたが、地面はみな砂地であり、ズボズボと足が沈んでまるで深い雪の中を進むよう。和地村あたりから、村人たちは馬の代わりに牛を養っていて、田んぼなどに用事がある時もその牛に乗って往来するのが常でした。伊良湖の山はみな放牧地でしたが、山の麓には人家がところどころにあり、その多くは瓦屋根でした。瓦屋根である理由は、海風がたいへん激しいからであるとのこと。伊良湖明神の山下へ至った崋山らは、かつて伊良湖明神に参った時に宿泊したことのある、彦次郎という半農半漁の富農の家へと向かい、そこでいったん休憩し、神島へと向かう船の準備が出来る間に、急いで伊良湖明神に参詣したのです。 . . . 本文を読む