鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その8

2008-05-25 06:48:14 | Weblog
富士市には工場がやたらと多い、というのが今回取材して得た一番の感想です。その象徴とも言えるのが、富士市農協元吉原支店を過ぎてしばらくしてから旧東海道の行く手に見えてきた白い煙を吐き出す紅白横縞の巨大煙突。東海道本線吉原駅手前の鈴川踏切を渡ったとき、それが「日本製紙富士工場鈴川」の巨大煙突であることを知りました。つまり製紙工場の巨大煙突だったのです。私が今回歩き始めた「ジャトコ社宅前」バス停近くにも旧東海道の沿道およびその両側一帯には大きな工場が密集していました。「ジャトコ」という耳慣れぬ会社(「ジャスコ」は知っていましたが)は、調べてみると、日産自動車グループに属する、自動車の変速機を生産する自動車部品メーカーだということでした。本社の所在地は富士市の今泉。「日本自動変速機株式会社」が社名変更して「ジャトコ株式会社」となったものらしい。その工場がここにあるのです。私の愛車はキューブですが、この車の変速機も、ここで生産されたのかも知れません。三四軒屋浜の北側にも多くの巨大工場がありました。かつては田んぼが広がり、その田んぼの広がりの向こうに富士市の市街が見えたといいますが、今やその面影はほとんど見られない。見えるのは大小の工場と新興住宅地。特に目立ったのは、「入道樋門(ひもん)公園」の西北側に見えた「ポリプラスティック(株)富士工場」でした。海岸に平行する、県道「水神田子の浦港線」の沿線にはそういった工場やそこで働く人々の社宅やアパートが密集しています。かつての富士郡宮島村字(あざ)三軒屋、四軒屋、川成島村新浜、鮫島村などは、高さ17(海抜)mもの巨大防波堤と、その「水神田子の浦港線」の間に、昔からの住民と新しい住民が入り混じるような形で、人々の暮らす地域となっています。かつてはやや小高くなっている松林から富士山の勇姿を望む画家の姿が見られたといいますが、今は工場が視界をさえぎり富士山の全貌を見るのはなかなか容易ではありません。ましてや浜辺からは、巨大防波堤が視界をさえぎり、白い防波堤以外ほとんど何も見えません。「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」という山部赤人の歌も、広重の『東海道五拾三次』の「吉原」に見られるような景色も、遠い過去のもの(といっても大正時代まではこれと同じような景色がまだ見られたのです)となってしまいました。 . . . 本文を読む

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その7

2008-05-21 06:12:44 | Weblog
「Wikipedia」によると、東海道本線の吉原駅が開業したのは明治22年(1889年)の2月1日。かつては吉原駅ではなく鈴川駅と称したという。市街地からはかなり離れた駅ですが、北側のロータリーから少し北に向かって歩けば、すぐに旧東海道の道筋に出ることができます。この駅前に富士馬車鉄道が開通したのは、鈴川駅(現吉原駅)開業の翌年、明治23年(1890年)の6月26日のことでした。この馬車鉄道は後に富士身延鉄道に移譲され、そして大正14年(1925年)に廃止されました。鈴川駅が開業した時に、大宮町(現富士宮市)にも新しい交通機関をという声が湧き起こり、その結果設立されたのが富士馬車鉄道でした。この富士馬車鉄道は、鈴川~大宮間12.4kmを結ぶもので、静岡県下初の馬車鉄道でした。この鉄道を利用したのは、この鉄道設立に大きく関わった地元の製紙会社の荷物車(貨車)が多かったということです。もちろん客車も走っています。明治45年(1912年)、この富士馬車鉄道は富士身延鉄道に買収され、やがてこの富士身延鉄道は富士~甲府間88.1kmを結ぶことになり、これが現在の「JR東海身延線」のもととなりました。さて富士馬車鉄道ですが、この鉄道は、製紙のための原料や製品を輸送する機関として造られたわけですが、この鉄道が開業した明治23年(1890年)1月に富士郡入山瀬村に創設されたのが「富士製紙会社」(第1工場=全国最初の洋紙製造工場)。この「富士製紙会社」の第8工場が新設されると、明治42年(1909年)に加島駅(現富士駅)が開業。それに伴って加島~長沢間(3.2km)に新たに馬車鉄道が敷かれ、先に敷設されていた鉄道と接続されることになりました。この馬車鉄道は大正2年(1913年)に富士身延鉄道に譲渡され、動力も馬車から蒸気に変更され、関東大震災後の大正15年(1925年)に廃止されました。ということは、明治23年(1890年)から大正2年(1913年)までのおよそ23年間、馬が貨車や客車を引っ張って走る光景が見られたことになります。製紙の原料である木材は、富士山の御料林から払い下げられた大量のモミ(樅)・ツガ(栂)・シラベ(白檜)・トウヒ(唐檜)などが利用されたとのこと。大宮から入山瀬や加島などには、それらの富士山からの木材が大量に馬車鉄道によって運ばれたことでしょう。 . . . 本文を読む

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その6

2008-05-19 04:57:34 | Weblog
この「三四軒屋緑道公園」の所在地は、富士市五貫島。三四軒屋の西側にあたり、また富士川河口部の東側になります。ここに野外展示されているディアナ号の錨(いかり)は、富士市有形文化財(建造物)になっています。錨の全長は4m余、爪長はおよそ3m、重量は約3トン。長い鎖が付いています。あらためてその大きなことに驚かされます。ロシア軍艦ディアナ号(フレガート型)は3本マストの木造帆船。通詞堀達之助の下田奉行宛の報告によれば、長さ175フィート(三十三間余・53m余)、幅46フィート(八間余・約14m)、深さ40フィート(七間余・約12m)というものでおよそ2000トンの大型帆船。大筒は52挺(緑道公園の案内板には大砲60門とある)を装備しており、その内訳は、上段22挺、下段30挺でした。この大筒52挺は、下田港での津波による破損で漏水が生じた時に、重量を出来るだけ軽くするために揚陸されました。したがって三軒屋浜の沖合いで沈没した際には、大筒はおそらく装備されてはいなかったと思われます。このディアナ号の錨は、昭和51年(1976年)の8月3日、富士市と田子の浦漁業協同組合によって、沖合240m、水深約24mのところに沈んでいたのを引き揚げられました。このディアナ号の錨は、地元漁民や住民から「唐人のねっこ」と呼ばれていたようです。というのは、「富士ニュース」の「ディアナ号来航8 唐人の根っこと錨」によれば、三四軒屋付近には、漁師が網を仕掛けると必ずといっていいほど海中の障害物に引っかかり、網が破れてしまう難所があって、漁師たちはそれを「唐人の根っこ」と100年ばかりも恨みをこめて呼んでいたというのです。漁師たちはその「唐人の根っこ」の除去を長年の願いとしていました。引き揚げられた当初、その錨はディアナ号のものとは確定できず、田子浦小学校の東隣りの忠霊廟に置かれていました。それから30年後、ディアナ号の沈没に興味を持っていた清水市のダイバー望月昇氏により、もう一つの大きな錨が発見され、専門家らの調査によってディアナ号のものと断定されたのだという。昭和62年(1987年)の7月には、「ディアナ号探査会」が立ち上げられ、翌年6月に調査船で探査が行われたものの、ディアナ号らしきものは見つからなかったという(「富士ニュース」の記事による)。木造船のためおそらくバラバラになったのでしょう。 . . . 本文を読む

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その5

2008-05-18 05:38:03 | Weblog
あとで「富士市立博物館」に立ち寄った時に、吉原湊と蒲原町を結ぶ「便道」と呼ばれる近道が、明治時代にあったことを知りました。この「便道」は、吉原湊から渡し舟で田子浦地区に渡り、鮫島村や新浜、三四軒屋などを通過して、富士川河口部を再び渡し舟で渡って蒲原に至るルートでした。東海道をそのまま通り、吉原本町を通過していくと、かなりの遠回りになるから、この近道が利用されたのでしょう。この道が現在の県道341「水神田子の浦港線」の原形、ないしそれに沿う道であるに違いない。この近道は、実は幕末にも使われていたのではないか。富士川河口部の渡し舟はともかくとして、元吉原から田子の浦港(「吉原湊」)を鮫島村に渡る舟はきっとあったに違いない。何せここは湊であって、対岸に渡れる舟はいくらでもあったはずなのだから。やはり、代官江川太郎左衛門も堀達之助も、プチャーチンらロシア人たちも、このルートをきっと利用したのだろうと思われてくる。何かそれを裏づける史料が見つかれば、すぐに解決することなのですが……。 . . . 本文を読む

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その4

2008-05-14 06:01:33 | Weblog
ディアナ号の乗組員たちが上陸したあたりは、もう少し絞っていくとどのあたりになるか。その手掛かりは、富士郡伝法村の伊藤練次郎という者の手記の中の記述にある。この練次郎は、ディアナ号の座礁と沈没、そしてロシア人上陸の情報を耳にして、それを見物に出かけた多くの老若男女の一人であるらしい。「これまで見たことも無き物ばかりなれば、富士郡の老若男女、我身(わがみ)の居所(いどころ)も未(いま)だ定めなきこと〔安政の大地震のため家が倒壊してしまったことによる─鮎川註〕を忘れ、毎日見物に行く、髪も乱れ、着物も着替えず、そのまま〔見物に─鮎川註〕押し出し」たのです。伝法村の練次郎もその大勢の中の一人でした。三軒屋浜に出向いた練次郎が見た光景はどういうものであったか。それは、ロシア人たちが、海へ投げ込んだためにびっしょりと濡れてしまった荷物の中の剣付鉄砲やサーベル、横文字の書類などを「川原」に干している光景でした。また代官江川太郎左衛門が近村に命じて取り寄せた白米を炊き出し、それを馬の飼葉桶のような大きな桶に入れたものを、ロシア人たちがサジですくって食べている光景でした。さらに、一人だけ三軒屋の人家(倒壊していなかったのでしょう)に入っているプチャーチンが、昼夜、剣付鉄砲を持って見回りをしている姿と、ほかの大勢の(400人以上もの)ロシア人たちが、「浜の川原に犬のねる如く」横たわっている光景でした。練次郎は、その光景を見て「実に哀れなる有様なり」と感想を洩らしています。さて、手掛かりは、このロシア兵たちが露営している「浜の川原」であり、濡れた荷物の中身を干していた「川原」です。海岸ではなく「川原」なのです。川の河口部の原っぱで、沈没したディアナ号の多数の乗組員たちは、衣服や荷物を干しながら露営をしていたことになる。この「川」はどこなのか。富士川なのか。それとも別の川なのか。ディアナ号が沈没した頃のこのあたりの地形と、現在の地形とは、当然のことながら大きく変わっているはず。そのことを頭に入れて、彼らが露営した場所を絞ってみたい。富士川以外に、三軒屋浜に流れ込む川が、かつてあったのか、それともなかったのか。それを確認してみるために、富士川河口部から「水神田子の浦港線(県道341)を東方向に歩いてみたのです。 . . . 本文を読む

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その3

2008-05-12 05:52:40 | Weblog
プチャーチンをはじめとするディアナ号乗り組みのロシア人たちは、この吉原宿を通過したのか。それがどうもわからない。今回の取材旅行でもちょっと調べてみましたが、結局は判明しませんでした。原宿や沼津城下(一部)を通過したのは確実です。ところがこの吉原宿についてはよくわからない。現時点での結論としては通過しなかったのではないか、というのが私の推測です。その根拠の一つは、幕府側は、多数のロシア人が東海道の宿場を通過する事態を出来るだけ避けようとしただろう、ということにある。大地震の被害が甚大であったから、宿場の負担を出来るだけ減らす方向で対処しただろう。吉原宿を通過するとなれば(ロシア人だけでも計400人以上)、それなりの警備やロシア人への対応を宿場に要請せざるをえない。二つ目の根拠は、宮島村の三軒屋から東海道まではかなり離れていることにある。田んぼの中の一本道を北東に進んで、吉原宿まで一里(4km)ほどはある。かなり迂回するかたちで原宿方面へ向かうことになります(これは吉原宿が元吉原→中吉原→新吉原と所替えしたことによる)。それよりも、三軒屋から駿河湾の松林添いの道を東に進み、鮫島村を通過して、田子の浦港を船で渡り、元吉原から東海道へ入るのがもっとも手っ取り早い。江川太郎左衛門英龍は、ディアナ号座礁を聞いてただちに宮島村に向かいますが、原宿を通過してその日の夜に鮫島村に到着し、また堀達之助も深夜に鮫島村に到着しています。鮫島村へは、田子の浦港を舟で渡れば、元吉原(東海道)から目と鼻の先。江川も堀も、吉原宿を通過するわざわざ大回りのコースをたどらなくて、最短経路を選んだのではないか。となると、プチャーチンら一行も、田子の浦港を船で渡って東海道に入ったのではないか。そう思われてくるのです。これはあくまでも推測であって、実際のところはいろいろ調べていく必要がある。はじめのうち、プチャーチン一行は吉原宿を通過した、という書き方を当然の如くしましたが、ほんとうにそうであったか。確かめていくと、実ははっきりとはしないのです。安易に思い込みで書いていくと、大きなミスを犯してしまうことになりがちです。はたしてプチャーチン一行が吉原宿を通過したかどうか、これはひとまず保留にしておきたいと思います。ご存知の方がいれば教えていただけるとありがたい。 . . . 本文を読む

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その2

2008-05-11 06:32:04 | Weblog
万延元年7月23日(西暦1860年9月11日)の夕刻、暴風雨の中、この吉原宿に江戸方面から入ってきたおよそ100名ほどの、西洋馬にまたがった外国人を含む集団がいました。その一行の中心は、イギリス駐日大使のラザフォード・オールコック。西洋馬にまたがる外国人はすべてイギリス人で、オールコックを含めて8名。それに、護衛と道案内を兼ねた幕府役人(駕籠や馬に乗る)とその従者たち、通訳、駕籠かきや荷物運びの人足たち(乗馬や荷馬を曳く別当を含む)などがその集団を構成していました。オールコックらイギリス人たちは本陣に泊まったはずであり、多くの人足たちは数軒の旅籠に分宿したことでしょう。人足たちの賃金はオールコック(イギリス大使館)から出ていましたから、人足たちは、豪雨の吉原宿の旅籠で、豪勢な食事を摂ったと思われる。彼ら江戸や神奈川からやってきた人足たちは、護衛の侍たちと違って、富士山のふもとの吉原宿にたどりついたことで心は浮き立っています。なにしろ高い賃金がもらえて、しかも念願の富士登山(富士詣で)が出来るというのだから。台風の前触れのような豪雨ですが、台風が通過してしまえばきっと晴れる。人足たちは、その夜は互いに酒を酌み交わし、しこたま酒を飲んだことでしょう。 . . . 本文を読む

2008.5月「吉原宿・三四軒屋浜」取材旅行 その1

2008-05-06 04:17:10 | Weblog
連休を利用して、時期的にはいつもより早く、恒例の取材旅行に行ってきました。その報告です。行き先は、富士市の吉原本町(かつての吉原宿)と、同じく富士市の五貫島(ごかんじま)三四軒屋(さんしけんや)。三四軒屋は、かつては宮島村のうちにあり、駿河湾に面した半農半漁の小さな村でした。吉原宿からは南西の方向にあり、西側には富士川の河口が広がっていました。この三四軒屋の西側、三軒屋浜の沖合いに、安政元年(1854年)11月27日(旧暦)の早朝(午前3時30分)、ロシア軍艦ディアナ号が投錨。しかしほどなく座礁して沈み始めたため、29日の早朝から夕方にかけて、ディアナ号の乗員全員(プチャーチン、士官、水兵たち)およそ420名ほどが、波浪のなか上陸したのです。ディアナ号には4基の錨が付いていましたが、1基は小土肥沖で放棄、残る3基はディアナ号沈没(12月2日の夜か)とともに海底に落下。その錨のうち1基は、昭和26年(1951年)8月の大浪によって三四軒屋浜に打ち上げられ、地元漁民により引き揚げられて田子浦忠霊廟の境内に置かれ、もう1基は昭和51年(1976年)8月に田子浦漁協によって引き揚げられました。田子浦忠霊廟の1基は昭和53年(1978年)4月に富士市より戸田村に寄贈されて、郷土資料博物館前に展示され、もう1基の方は「三四軒屋緑道公園」というところに展示されているという。(※1基は、ディアナ号が小土肥沖に碇泊・投錨した際、錨を揚げることが出来ず放棄。昭和6年〔1931年〕5月、潜水夫田中源吉が引き揚げて土肥神社に奉納したものの、昭和17年〔1942年〕に戦時供出されたという)。戸田の郷土資料博物館の錨の方は以前に見たことがありますが、三四軒屋の方は、そこに錨が展示されているということも知りませんでした。ということで、ぜひ現地に行って、その錨と、ロシア人たちが上陸した「駿州富士郡宮島村之内、字三軒屋浜」(江川英龍の川路宛書簡/11月29日附)のあたりを見てみたいと思ったのです。ついでに、富士市立図書館と富士市立博物館にも寄ってみることに。吉原本町と三四軒屋はかなり離れているので、移動を考えて、今回も車(愛車キューブ)を利用することにしました。 . . . 本文を読む

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その5

2008-05-05 06:21:47 | Weblog
話は少し戻ります。箱根の峠道でディアナ号座礁の注進を受けた英龍は、三島よりそのまま東海道を西進し、その日の夜、宮島村の近くの鮫島村に到着。手代たちを、上陸したロシア人救助のために三四軒屋浜に急行させます。上陸したロシア兵たちはそのほとんどが浜の川原に露営していましたが、プチャーチンとその士官の一部は、三四軒浜のかろうじて地震で倒壊しなかった一軒の人家に入っていました。手代たちは、さっそく近隣の村々に申し付けて白米を取り寄せ、三四軒屋浜の村人たちに炊き出しをさせます。その炊き出しのご飯を、馬の飼葉桶のような大きな桶に入れておき、いつでもロシア兵たちがすくいとることが出来るようにしました。薪や木材を集めて暖をとらせ、また小屋掛けを作らせたりもしました。付近の村々は「安政の大地震」のために大きな被害を受け、宮島村においても損壊を免れた家はほとんどなかったにも関わらず、村人たちは、上陸の時ばかりか上陸後においても、ロシア人たちの救援のために奔走しました。村人たちの自発的な行動もあったと思われますが、これらの救助活動一切を指揮したのは韮山代官江川太郎左衛門英龍であったでしょう。近隣の村々を始め、この地域の人々はみな江川代官のことを知っていたはずです。江川代官が出張ってきたこと、ロシア人たちの救助の指揮をとっていることを知った人々は、自らが、震災による、そして震災からの復興という難儀に直面しているにも関わらず、おそらく積極的にロシア人救援に当たったのではないかと、私は推測しています。それほどに、地域の人々からの厚い人望を、韮山代官江川英龍は受けていたのだと思うのです。 . . . 本文を読む

韮山代官江川太郎左衛門英龍の過労死 その4

2008-05-02 06:14:09 | Weblog
宮島村を出立し、東海道を沼津城下まで歩いた、沈没したディアナ号の乗組員であるロシア人たちの、その歩行のようすはどういうものであったのか。12月6日のプチャーチン以下210名の一行に付き添っているのは、勘定奉行川路が厚く信頼する部下である勘定組頭の中村為弥、オランダ語をほぼ同時通訳できる御普請役森山栄之助(長崎出身の元オランダ大通詞)、小人目付ら。それに警護の沼津藩兵200余名(ロシア人一人に一人の割合で警護についたのかも知れない)。彼らは、プチャーチンによれば、「京都から江戸へ通ずる平坦な大道」、つまり東海道に出て、原宿→沼津城下→市場の渡し(狩野川を越える渡し舟・現在の御成橋〔おなりばし〕の辺りにある)→江ノ浦(1泊)→西浦→真城(さなぎ)峠→戸田村というルートをたどっているから、東海道は、宮島村最寄の地点から沼津城下の現在の「本町」付近の「市場の渡し」の手前まで歩いたことになります。ということは本町の先や「川廓(かわぐるわ)通り」などは通過していないことになる。 . . . 本文を読む