鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その1

2012-09-30 04:49:24 | Weblog
崋山が桐生に到着したのは天保2年(1831年)10月12日(旧暦)の深夜。その3日後の15日午後、崋山は「桐生町より西なる山」に登り、「雷電山」という山の頂から桐生町およびその周辺を眼下に見下ろし、その風景を写生しています。同行者は、岩本茂兵衛(妹である茂登の夫)・高木梧庵・岩本喜太郎(茂兵衛の長男)。そしてその翌日の16日には、大間々にあるという要害山に登るために、弁当を用意して岩本家を出立しています。同行者は、岩本茂兵衛と喜太郎の親子・高木梧庵・庄次郎・弥助(崋山の下僕)。堤村や小倉山を経由して要害山に登り、そこから眼下の風景を眺め、その日のうちに桐生へと戻っています。今回はその2日続けての日帰り登山のルートをたどるべく、崋山のルートそのままではありませんが、水道山公園(雷電山)への道筋と大間々への道筋の両方を歩いてみました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「鶴ヶ城(会津若松城)」 その6

2012-09-26 03:45:21 | Weblog
その地域の景観を形づくっていた「もの」は、そのほとんどが大津波によって呑み込まれ、破壊され、流されて、「震災瓦礫」となりました。散乱していた「震災瓦礫」は、この1年半の間に撤去され、集積されて「震災瓦礫の山」となりました。「震災瓦礫の山」は、相馬市原釜の相馬ポートセンターのまわりで目の当りにし、また東北電力原町火力発電所の近くや、JR常磐線山下駅の近くでも見掛けました。「震災瓦礫」が撤去された海岸部の津波被災地は、水田であったところは津波の塩害などによって耕作不能となり、夏草が茂り赤茶けた土地が一面に広がる草っ原のようになり、住宅地であったところも夏草が茂って、コンクリート基礎の部分がその間に露出していました。震災前まではあたりまえの日常生活が繰り広げられていたその地域は、長い歳月の中で培われたその「景観」のほとんど一切を大津波によって失ってしまい、「震災瓦礫」が撤去された後は、流されずに残った神社の石造物やお寺の墓地、また共同墓地などが、わずかにその地域の景観をしのぶよすがとなっているばかりでした。私が訪れた時は早朝ということもあって、その地域ではほとんど人の姿を見掛けることはなく、道路を走る車もほとんどありませんでした。たまたま墓地を見掛け、車を停め、お盆の直後ということから、まだ新しい花や供え物、燃え残ったお線香の束が目立つお墓を見て回りましたが、そのお墓の傍らの「法名碑」に新しく追加されて刻まれた戒名や没年月日、俗名、没年齢を見た時、大津波が押し寄せた時の一瞬の光景を、たしかな現実のものとして想像せざるをえませんでした。この墓地のまわりの集落においても、震災以前においてはごく普通の日常生活が営まれていたはずです。しかし今は区画されたコンクリート基礎がむきだしになった雑草の茂る「更地」となってしまっています。たまたま立ち寄った墓地の「法名碑」に刻まれた名前を、手を合わせながら何枚か写真に収めましたが、特に若くして無念にも亡くなったその人たちの名前を決して忘れずにいたいと思う。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「鶴ヶ城(会津若松城)」 その5

2012-09-24 05:32:52 | Weblog
では東日本大震災の被災地はどうだったか。車で通過したのがほとんどで、ほんのわずかばかり車から下りて歩いたに過ぎないので、一概には言えませんが、国道6号線を走っている限りにおいては、1年半前の大震災で深刻な被害を受けたことによる傷跡は、外面的にはほとんど見ることはできませんでした。大地震の強い揺れによって倒壊した家屋はわずかであり、屋内は足の踏み場もないほどに物が散乱したものとは思われますが、それらも撤去されたり片づけられたりしたことによって、1年半後の現在は、平穏さを取り戻しているように見受けられました。外見的には、そんな大地震があったのが嘘であるかと思わせるほどに、日常的な生活が営まれているように思われました。しかしその国道6号線から海岸部へと入っていくと、海岸に面した平地においては無惨な光景が広がりました。東日本大震災の深刻な被害は、圧倒的に、巨大津波が押し寄せた海岸部の平地において集中するものであったことを、まざまざと見せつけられる光景でした。しかも地形や海流などの影響が重なって、同じ平地であっても津波の高さが異なり、したがって生じた被害は大きく異なります。三陸海岸の場合は周囲に山が迫っており、避難する高台が近くにあることから、津波から逃げ延びることも可能でしたが、海岸部の広い平地の場合は、山や高台まで遠く、津波から逃げることは容易ではないように思われました。それを特に実感したのは、JR常磐線の山下駅のホームから周囲の光景を眺めた時でした。津波はJR常磐線を越え、西方遠くに見える国道6号線の手前まで押し寄せていったはずです。津波が押し寄せたところが「更地」となっている地域で、過去の景観の手がかりとなるものは、流されずに残った石碑や石造物がある神社の跡地と、同じく流されずに残った墓石が集合している共同墓地やお寺の墓地、そして鉄筋コンクリート造りであるためにかろうじて残った建物ぐらいのように思われました。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「鶴ヶ城(会津若松城)」 その4

2012-09-23 06:26:40 | Weblog
今年の夏の取材旅行は、崋山が訪れた頃の銚子が、海路からの東北地方の年貢米や海産物の流入口(そして大消費都市江戸およびその周辺へと運ばれる)としてたいへんな繁栄を見せていたことから、その海路による運送ルートへの関心と、そして東北地方の被災地の現在の様子を自分の目で見ておきたいという気持ちから、茨城県北部、福島県の南部と北部、宮城県南部の海岸地帯を車で走り、また図書館を訪ねて「廻米」関連を中心に資料にあたってみたわけですが、現地を訪ねることにより、銚子からだけではわからなかったことを知ることができました。崋山は銚子に半月ばかりを過ごしたわけですが、銚子海岸を写生して歩いたり、また大里庄次郎(桂麿)との風流の交わりを楽しんでいただけではなく、おそらく多くの人々との接触から、銚子の繁栄が何によってもたらされているのかについての情報を集積していったものと思われますが、彼の日記などからはそれを具体的に知ることはできません。多くの人々から具体的な情報を崋山が集積していったとして、ではそれはどのようなものであったのか、それを推測していく手がかりは一応、今回の取材旅行で得られた気がしています。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「鶴ヶ城(会津若松城)」 その3

2012-09-21 06:02:11 | Weblog
今回は会津若松藩や「中通り」の諸藩の「廻米」ルートについては、阿武隈川流域を除いては、詳しく調べることはできませんでしたが、内陸部であればあるほどその「廻米」業務は負担の大きいものであっただろうことが推察されました。会津若松藩に限ってみても、その「廻米」ルートは大きく4つもあったのであり、あるルートに何か不測の出来事が生じた時には、他のルートを最大限利用して年貢米を運んだものと思われる。海岸部に面した諸藩の場合は、「廻米」ルートは絞られていますが、それだけに、そのルート上において何か不測の出来事が生じた時には、その年貢米の運送に困難が生じたであろうことは容易に推測されます。「廻米」は、幕領(天領)においても諸藩においても、毎年定期的に行われるべき重要業務であり、大消費都市江戸の経済はその「廻米」が毎年安定的にもたらされることによって成り立っていたとも言うことができる。特に銚子を経由して入ってくる東北地方の年貢米は、大消費都市江戸にとってきわめて重要なものではなかったか。江戸城はもちろんのこと、江戸に集中する諸藩邸の経済も、基本的にはその地方からの「廻米」によって成り立っていました。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「鶴ヶ城(会津若松城)」 その2

2012-09-20 06:01:01 | Weblog
『図説 相馬・双葉の歴史』(郷土出版社)によれば、相馬地方の塩田において生産された塩は「相馬塩」といって、馬の背で、阿武隈山地を越える西(さい)街道を経て、二本松城下や会津城下に運ばれたという。また岩城地方で生産された「岩城塩」も、阿武隈山地を越えて同様に運ばれたという。会津や二本松に太平洋側から入る塩を「東入り塩」というのに対して、北前船で日本海側から入ってくる瀬戸内海産の塩を「西入り塩」といったとのこと。また『新しいいわきの歴史』によると、中之作の吉田忠右衛門は、会津・二本松・守山諸藩の年貢米を積極的に取り扱うとともに、阿波の斎田塩も取り扱っていたらしい。塩は「廻米」船の戻り荷として運ばれてくる場合が多いようですが、中之作に入ってきた阿波斎田塩は、平城下を経て会津にも運ばれたとの記述がありました。『北茨城市史上巻』などによれば、平潟の廻船問屋安満(あま)屋半兵衛は会津藩からも扶持を賜っていましたが、この安満屋(菊池家)はもともとが塩問屋であり、平潟随一の塩問屋でもありました(幕末に平潟には9軒もの塩問屋があった)。この安満屋など平潟の廻船が運んできた瀬戸内海産の塩は、棚倉・須賀川・白河方面へ売り捌かれたといいますが、さらに会津地方にも運ばれていた可能性があります。このように、「廻米」ルートはどうやら「塩の道」と重なっていたらしいこともわかってきました。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「鶴ヶ城(会津若松城)」 その1

2012-09-19 05:36:59 | Weblog
『企画展 江戸時代の流通路』(福島県立博物館)によれば、会津藩の「廻米」ルートには、以下の四つがあったという。①阿賀川舟運─西廻り航路の西ルート②下野街道─「南山通り」を南下する南ルート③脊梁山脈を越える東ルート④土湯峠を越えて福島に出る北ルート。この④には「原方街道廻し」と「平潟港廻し」とがありました。「原方街道」は、白河藩や二本松藩の「廻米」輸送に利用された街道であり、「米街道」とも言われました。平潟港や中ノ作から海上輸送するルートは、阿武隈山地を越えるものであり、この「岩城街道」も会津藩の重要な「廻米」ルートの一つでした。『新しいいわきの歴史』には、「中之作」には吉田忠右衛門なる者がいて、これが会津・二本松・守山諸藩の年貢米を積極的には取り扱っていたという記述があり、また『北茨城史壇12』の「平潟の豪商安満屋半兵衛の『商業之論』」の小松徳年さんの解説には、この安満屋(菊池)半兵衛は、棚倉藩から苗字帯刀御免の格式と扶持を賜るとともに、水戸・会津・仙台・泉・湯長谷・多胡の各藩からも扶持を賜っていたという記述がありました。現在の福島県の内陸最奥部にあった会津藩領の「廻米」ルートは、太平洋の海路を利用するものも含めて、複数(おおよそ4つ)あったことが以上からわかります。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「岩沼~丸森~名取」 その6

2012-09-18 05:00:54 | Weblog
「貞山(ていざん)堀」について私はまだ詳しい文献資料に目を通していませんが、ネットで検索した内容をまとめてみると以下の通り。この「貞山堀」の名前は、伊達政宗の諡(おくりな)の「貞山」をとったもので明治時代になって名づけられたもの。伊達政宗の命令により松島湾~阿武隈川河口を結ぶものとして慶長2年(1597年)より開削されたものだという。完成したのは明治22年(1889年)。阿武隈川河口~松島湾~旧北上川河口を結ぶ全長約60kmの「日本最長の運河系」であるとのこと。最初に完成したのは阿武隈川河口荒浜~名取川河口閖上(ゆりあげ)間約16kmの「木曳(きびき)堀」。そこから松島湾の塩釜港までは、江戸時代に開削されたらしい。この海岸砂丘に沿った運河は、年貢米(御城米や藩米)や材木などを積んだ舟が盛んに行き交うとともに、新田開発における灌漑用水路の排水路としての機能も有していました。海岸砂丘に沿って掘った堀は砂崩れしやすいため、それを防ぐために堤防には松が植えられましたが、その「貞山堀の松」はたいへん見事なものであったという。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「岩沼~丸森~名取」 その5

2012-09-17 07:18:09 | Weblog
阿武隈川の河口の荒浜港(亘理町)まで「ヒラタ舟」で運ばれてきた幕領(天領)の「御城米」や各藩の「藩米」は、そこからどのように松島湾の「寒風沢(さぶさわ)島」まで運ばれたのか。私は荒浜から寒風沢まで海路運ばれたものと思いこんでいましたが、『伊達町史3』には、「小廻船」(100石積)で運んだとあり、『桑折学のすすめ─郷土愛を育むために』桑折地区歩いて楽しめる地域づくり懇談会桑折学部会(福島県北建設事務所企画管理部企画調査課)には、より具体的に荒浜から「小廻船」で「貞山堀(ていざんほり)」を利用して寒風沢まで運んだことが記されていました。『伊達町史3』によると「ヒラタ舟」は米80俵ほどを積むことができました。それに対して「小廻船」は100石積。この「小廻船」は「海船」ではなく「川船」であったから、荒浜で「ヒラタ舟」から「小廻船」に積み替えられた年貢米は、「貞山堀」を利用して松島湾に浮かぶ「寒風沢島」まで運ばれたことになります。『梁川町史第2巻近世通史編Ⅱ』によると、「寒風沢湊」には「御城米蔵」や「御番所屋敷」があり、また標高22.5mの「日和山(ひよりやま)」がありました。「小廻船」から下ろされて蔵に入り、そして「千石船」(海船)に積み替えられた「廻米」は、日和(ひより)を十分に見計らって、ここ「寒風沢湊」より海路那珂川の河口である那珂湊や利根川の河口である銚子を目指したのです。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「岩沼~丸森~名取」 その4

2012-09-16 06:43:30 | Weblog
「買積船営業と平塚八太夫」(石垣宏)という論文でほかに興味深い指摘は、「尾州廻船」の内海船に関することでした。「尾州廻船」の内海船は、知多半島を拠点として十八世紀末ごろから出現した海運業集団であって、江戸から瀬戸内にかけて太平洋側で活動したとのこと。最盛期には90艘の船を所有し、仲間組織として「戎講」(えびすこう)を結成。瀬戸内から江戸間の各地に進出して、南海路に就航した菱垣廻船や樽廻船とは異なる「買積取引」を行ったという。つまり、知多半島を拠点に、18世紀末頃より瀬戸内から江戸間において「買積船営業」を活発に展開した海運業集団であるということになります。「菱垣廻船」や「樽廻船」は教科書にも必ず載っていて有名ですが、「尾州廻船」という海運業集団の活動については、私はこの論文で初めて知りました。知多半島と言えば、田原藩の領地のある渥美半島の内海(三河湾)を隔てた対岸ではないか。「買積船営業」は、「北前船」と同様に、遠隔地間の価格差を利用して利潤を得ようとするものであり、各地で様々な産物を積み下ろししながら広範囲に移動していました。利益を得るのに重要なことは、各地のさまざまな産物の相場情報を素早く的確に把握すること。「戎講」という仲間組織を結成しているのも面白い。この「尾州廻船」の実態についても、もっと詳しく知りたいと思いました。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「岩沼~丸森~名取」 その3

2012-09-15 07:36:26 | Weblog
平塚八太夫が水主として入り、沖船頭として活動していた那珂湊の大内家は「濱屋」という屋号を持ち、廻船問屋・海産物問屋を営む、水戸藩の御用達商人でした。文政5年(1822年)には郷士に列せられ、翌文政6年(1823年)には三百五十石となりました。「濱屋」大内家は、宝来丸という船を所有して蝦夷地松前と交易を行っており、巨利をあげていたという。その沖船頭として信頼を得ていた平塚八太夫が、やがて大内家から独立し、「濱屋」大内家の名義を利用して蝦夷地との交易を展開し、幕末に仙台藩御用達(「蝦夷地産物取開方御用達」)に任じられるに至ったことはすでに触れた通り。ここで思い出されるのが『北茨城市史上巻』に出て来た平潟港の鈴木屋忠三郎という廻船問屋。この鈴木屋忠三郎は、寛政11年(1795年)には「蝦夷地産物取扱人」、享和3年(1803年)には「蝦夷地御用取扱人」を幕府から命じられ、蝦夷地の物産を平潟の地で一手に取り扱う特権商人でした。銚子には「気仙問屋」があって、鯡数子・鮭など松前藩の国産物も「御用荷物」として取り扱っていましたが、銚子に入ってくる蝦夷地の物産は、那珂湊の水戸藩御用達の大内家(濱屋)や平潟の鈴木屋忠三郎、また仙台藩御用達の平塚八太夫らがその運送に関わっていたものと思われます。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「岩沼~丸森~名取」 その2

2012-09-14 05:47:03 | Weblog
まず「買積船営業」とは何か。石垣さんの論文によれば、それは、「北前船と同様に、遠隔地間の価格差を利用」して「買積取引」を行うことによって「利潤を求める」海運業のこと。では「平塚八太夫」とはどういう人物か。論文からまとめてみると、次のような経歴をたどっています。最初、那珂湊の大内家に水主として入り、沖船頭として信頼を得て、大内家が蝦夷地との交易から撤退すると、それに替わって蝦夷地交易に乗り出します。この大内家から独立したのは嘉永2年(1849年)のことであるらしい。安政5年(1858年)には「濱屋八太夫」と称することになり、「濱屋大内家の名義を利用」して交易を行なっていたことがうかがわれます。文久元年(1861年)には、箱館で仙台藩より「蝦夷地産物取開方御用達」に任じられています。つまり仙台藩の「御用達商人」となったことになります。この平塚八太夫は、19世紀前半から石巻の田代島を拠点に、蝦夷地と那珂湊、江戸間の各地との取引を展開しており、東廻海運の航路を利用した海運業(買積船営業)を行うことによって、一介の「水主」より仙台藩の「御用達商人」にまでなりあがっていったことになります。蝦夷地~石巻(田代島)~那珂湊~江戸とを結ぶ蝦夷地交易を担っていたのが「平塚八太夫」であり、「那珂湊~江戸」の間には、当然のことながら、銚子および利根川・江戸川舟運が関係してくるであろうことが推測されるのです。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「岩沼~丸森~名取」 その1

2012-09-13 05:42:43 | Weblog
「阿武隈川の舟運について」(桜井伸孝)によれば、水沢・丸森・荒浜・玉崎には「御城米」を改める「御穀改所」が設置され、水沢・丸森・荒浜については、その「御穀改所」は幕末まで存続したという。このうち玉崎には、ヒラタ肝入の渡辺家があって、この渡辺家は、ヒラタ舟や高瀬舟を所持する運送業者であり、「国産方」の特権商人でもありました。阿武隈川・白石川沿岸の藩米はすべて岩沼郡の藤場蔵に集められたといい、渡辺家はこの藤場蔵から荒浜へ川下げする藩米の輸送や、阿武隈川、白石川沿岸の村々から藤場蔵へ収納する物成米の輸送にあたっていました。この渡辺家は、領主米輸送を主体としながらも、領主米輸送の特権を利用して商荷物(和紙・紬・煙草・茶・藍・紅花・蚕・竹材・こんにゃく・山芋など)の輸送に積極的に進出していました。また幕末期においては「下り荷」が大量に阿武隈川舟運に登場するようになりました。玉崎に着岸した荷物は、文化期においては、油粕・紙・菜種・大豆・小麦・楮(こうぞ)・こんにゃく・しいたけなどであり、近郊農村の副業生産として家内工業が行われていたことや、生産力を上げるための肥料投入が積極的に行われる生産形態があったことが指摘されています。このような幕末における阿武隈川舟運の状況は、関東平野(江戸地廻り経済圏)の利根川水系においても共通して見られたことであり、江戸時代後期から末期にかけて、農山村漁村地域における商品(特産品)生産が活発に展開されていたことを示しています。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「南相馬~相馬~亘理」  その10 

2012-09-12 03:22:29 | Weblog
「港町銚子の機能とその変容」によれば、幕末における銚子港の諸機構として、御穀宿・気仙問屋(廻船問屋)・仲買(穀屋問屋)・船宿などが存在しました。そのうち「気仙問屋」というのは、東北地方の廻米を除いた商荷物を扱う問屋のことで、扱っていた品物は、主として鯡数子・鮭(松前産)、鰯搾粕・小アカ粕・生鮪・鰹節・骨粕・干鯣・魚油・昆布(仙台・南部産)であり、松前藩や水戸藩などの国産物も「御用荷物」と称してこの「気仙問屋」が取り扱っていたという。廻船は、下りには古着・砂糖・荒物などの日用品を江戸から買い求めました。安政5年(1858年)の時点で確認できる銚子の「気仙問屋」は、新生村の豊後屋七郎右衛門、荒野村の江戸屋文治郎・越後屋治左衛門・広屋武左衛門・湯浅屋儀兵衛であるとのこと。銚子近辺が不漁であった時には三陸地方の海産物が銚子にとってはきわめて重要であり、18世紀末期には銚子と三陸地方は海産物において相互補完関係にあったこと、銚子で集荷された海産物は、銚子近在で使用されたり江戸深川の銚子場に運送されるだけでなく、関宿・境を通じて利根川流域に供給されていたこと、すなわち、「東北と江戸・関東農村との中継地にあたる銚子は、利根川や霞ヶ浦の水運を利用した広い後背地をもち、それらに向けて商品の差配を行なう物資の集散地であったといえよう」という指摘は、大変興味深いものでした。 . . . 本文を読む

2012.夏の取材旅行「南相馬~相馬~亘理」  その9 

2012-09-11 05:47:56 | Weblog
阿武隈川舟運は、中・上流域の幕領および諸藩の年貢米の輸送ルートとして整備され、江戸や上方からの物資や文化の流入路でもありました。「廻米」輸送を中心に活発な舟運が展開されましたが、利根川水系の舟運と異なる点は、高瀬船が年貢米輸送の主力ではないということ。福島~水沢間は「小鵜飼舟」が使用され、水沢~荒浜間は主に「ヒラタ舟」が使用されていました。ちなみに荒浜から寒風沢(塩釜)までの海上ルートは「小廻船」が使用され、そして寒風沢からは「大船」(「千石船」)が使用されていました。「小鵜飼舟」は「四十俵積」、「ヒラタ舟」は「八十俵積」であり、水沢で大型の「ヒラタ舟」(帆船)に積み替えられていました。江戸後半において、この荒浜までの阿武隈川全水路における「廻米」輸送を請け負っていたのは、江戸の廻船問屋上総屋幸右衛門。このことは、河川によって年貢米の運送手段や運送方法、運送の担い手などが異なるものであることを示しています。『丸森町史』によれば、明治新政府は旧来の年貢米輸送を明治4年(1871年)限りとし、貢租の金納化の進展により「廻米」輸送は姿を消していきました。しかし阿武隈川舟運が最盛期を迎えるのは、実はそれ以後の明治7、8年頃のことであり、「舟の係留地である丸森河岸は、料理屋や旅人宿が増えて大いに繁盛」したという。 . . . 本文を読む