鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

今年1年を振り返って

2006-12-31 22:57:26 | Weblog
 今年1年は、「一念発起」の1年でした。3月下旬には、露天風呂をこよなく愛する友人仲間と年一回、温泉旅行をしているのですが、その際、Iさんの、職場から駅まで(帰り道)、毎日50分のウォーキングをしていて、日曜日などは、多摩川べりを奥さまと一緒にサイクリングをしていて、「とっても調子がいいよ」との言に発奮して、5月のゴールデン・ウィーク明けから、本格的にウォーキングをやり始めたのが、何よりよかったことです。 「メタボリック症候群」という言葉をいろんなところで聞いたり、見かけたりして、生活習慣病に一歩足を踏み入れている自分を振り返って、「ここはしっかりやらなければ」と決意して、早朝80分のウォーキングをするようになりました。 . . . 本文を読む

2006.冬の取材旅行「東海道二川宿本陣資料館」

2006-12-31 09:33:02 | Weblog
 この二川宿本陣と本陣資料館を知ったのは、テレビの番組でした。どこのチャンネルで何の番組であったかは失念しましたが、住んでおられたのは馬場さんという方で、雨漏りなどがひどく、維持費がかかるため、その屋敷を豊橋市に譲り、市では大規模な改修工事を行って、本陣資料館として一般に開放することになった、との内容でした。それで、是非、訪れたいと思っていたのです。その番組では、豊橋市内を走る市電も登場していた記憶があります。ということで、田原市中央図書館を出た後は、豊橋市にある東海道二川宿に向かいました。 . . . 本文を読む

2006.冬の取材旅行「三州田原」 その3

2006-12-28 21:04:46 | Weblog
田原城は、文明12年(1480年)頃、戸田宗光が、渥美半島統一の拠点として築城。今川氏により攻略され落城。慶長6年(1601年)から戸田尊次1万石で、寛文4年(1664年)には1万2千石で三宅康勝が入城。本丸を中心に、その回りに二ノ丸と三ノ丸、また曲輪(くるわ)を6つ(腰曲輪三つ・藤田曲輪・帯曲輪・出曲輪)備える堂々たる城でした。ただし本丸に天守閣はなく、二層建の二ノ丸櫓(やぐら)が天守閣に代わって城のシンボルの役目を果たしていました(入口の説明板による)。現在、本丸跡が巴江(はこう)神社、二ノ丸跡には再建された二ノ丸櫓(内部は田原博物館の分館)と田原市博物館、三ノ丸は護国神社、出曲輪の一つは崋山神社と崋山会館になっています。廃藩置県後の明治5年(1872年)、田原城の建築物は取り壊されましたが、石垣や堀がほぼ昔のままに残っています。 . . . 本文を読む

2006.冬の「三州田原・二川宿・赤坂宿・御油宿」取材旅行

2006-12-26 20:51:00 | Weblog
 23日(土)・24日(日)・25日(月)の3日間(月曜日は仕事は休みをとりました)、2泊3日で取材旅行に行って来ました。天気にも、取材旅行としては久しぶりに恵まれ(今日は一転土砂降り)、充実した取材旅行になりました。  メインは、渥美半島の真ん中にある城下町田原。江戸時代、三宅氏が治める田原藩がありました。田原の訪問は、二度目。初めて訪れたのは、ずいぶん前(15年ほど前になります)のことです。友人のIさんと待ち合わせ、車で、田原・伊良湖・足助(あすけ)などを回りました。  この田原藩の藩士(後に家老になります)であったのが渡辺崋山。崋山は江戸の藩邸で生まれ育ち、この城下町田原にはあまり縁がないのですが、蛮社の獄で罪を得て、この田原に蟄居を命ぜられ、自刃するまで最晩年を過ごします。  前回、崋山神社を訪れたものの、田原市博物館はなく、今回はこの田原市博物館と田原市中央図書館を、ぜひ訪ねてみたいと考えていました。  私の住んでいるところの最寄駅は、小田急線の本厚木駅ですが、その厚木と関係のある人物の一人が渡辺崋山なのです。10月の「お銀さまの里」取材旅行で触れましたが、小園村の「お銀さま」を訪ねた崋山は、その日の宿を、相模川を渡って、厚木神社の側にあった旅籠(万年屋平兵衛)に泊まっています。その旅籠の跡の前に、そのことを示す石碑が立っており、仕事の帰りに本厚木駅前の有隣堂(本屋)や厚木市中央図書館に寄る時は、必ずこの石碑の前を車で通るのです。  その崋山が最晩年を蟄居(ちっきょ)という形で過ごした田原の町を、ゆっくりと回ってみたいという願望は、ずいぶん前からあったのです。  ついでに、伊良湖岬や、東海道の宿場町である二川(ふたがわ)の本陣資料館、そして時間が許せば、赤坂宿、御油(ごゆ)宿、御油の松並木、吉田宿(豊橋市街)なども見てみたいと思っていたのです。  取材旅行を終えて、特に印象に残ったところは、田原市博物館・伊良湖岬の(戦没者)慰霊碑・田原市中央図書館・二川宿本陣資料館(本陣の屋敷も含めて)でした。いずれも、また機会があれば、是非行ってみたいと思いました。  前置きは、以上にして、これから、城下町田原・伊良湖岬・二川宿・赤坂宿と御油宿・豊橋(吉田城址公園)に分けて、取材報告をしたいと思います。  長くなりますが、よろしくお付き合いください。 . . . 本文を読む

2006.12月の「神奈川宿」取材旅行 その4

2006-12-26 08:51:46 | Weblog
 天気には恵まれなかったものの、さすがに東海道「神奈川宿」は歴史が詰まっていて、取材のしがいがありました。神奈川湊に出入りする大小の船の様子、人々が行き交い茶屋の女たちが客を呼ぶ街道筋の賑わい、湊で働く筋骨たくましい男たちの姿、寺に滞在する西欧人とそれを警護する神奈川奉行所の役人の姿など、さまざまな情景が髣髴(ほうふつ)として蘇(よみがえ)るようでした。  さて、「神奈川宿」の取材報告も、思わず長くなりましたが今回で終わりになります。本覚寺を出ても、雨は降りやむどころか、雨脚がいよいよ強くなり、100円ショップで購入したばかりの折り畳み傘は、初めての使用であったにも関わらず、もろくも「骨」が折れてしまいました。 . . . 本文を読む

2006.12月の「神奈川宿」取材旅行 その3

2006-12-21 21:37:25 | Weblog
 幅の広い「第一京浜」を越える陸橋を渡り、少し戻って「滝の橋」を左折して、すぐにまた左折すると、そこにあるのが宗興(そうこう)寺。曹洞宗のお寺です。境内にイチョウの古木があり、高さ1メートルくらいのところで二股に分かれています。地面は鮮やかな黄色のイチョウの落葉に覆われています。今回は、この宗興寺から上台橋(かみだいはし)に向けての旧東海道を辿(たど)ります。 . . . 本文を読む

海援隊文司・長岡謙吉について その2

2006-12-17 16:25:13 | Weblog
 「医術の如きは従来の草根木皮で人命を預かることは覚束(おぼつか)ない。我が身、家声を上げんと欲すれば必ずや長崎に遊学して蘭医の教えを受け、泰西(たいせい)の医術を修むるにしくことなし」(『史外史伝』)。すなわち今までの「漢方」はすでに時代遅れであり、人命を助けるためには「蘭方」を学ぶべきであると考えた純正(長岡謙吉)は、「蘭医」に就いて「蘭方」を学ぶために、「出奔」(脱藩)して長崎に向かいます。「蘭医」とは、シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)であったことは、「その1」で触れました。  この長崎で、純正は、西洋医学を学ぶことにただひたすら打ち込んでいたか、というと、実は必ずしもそうではないのです。  そのことが、後に長崎にやってきた岩崎弥太郎との間に確執を生むことになるのです。 . . . 本文を読む

2006.12月の「神奈川宿」取材旅行 その2

2006-12-16 05:35:37 | Weblog
 「神奈川宿」はお寺が多い、というのが今回取材をする前に調べていて思ったところです。具体的に挙(あ)げてみると、東京(江戸)側から、長延寺(浄土真宗本願寺派)・良泉寺(浄土真宗大谷派)・能満寺(古義真言宗)・東光寺(新義真言宗)・金蔵(こんぞう)院(真言宗智山派)・成仏(じょうぶつ)寺(浄土宗)・浄瀧(じょうりゅう)寺・(日蓮宗)・慶運寺(浄土宗)・宗興(そうこう)寺(曹洞宗)・普門寺(真言宗智山派)・甚行(じんぎょう)寺(浄土真宗高田派)・本覚(ほんがく)寺(曹洞宗)・三宝(さんぽう)寺(浄土宗)。  長延寺は移転していて、今はその跡が「神奈川通東公園」になっていることは、前回に触れました。その長延寺を除くと、現存しているのは全部で12。慶応の大火で焼失した観福寿寺と移転した長延寺を入れると、幕末に神奈川宿にあった寺の数は14ということになります。「神奈川宿歴史の道」は神奈川区新町から台町までの約4.3km。その間に14もあったというのは、おどろきです。  「城下町」では「寺町」というのがあって、そこにお寺が集中しているものですが、「宿場町」にこれだけ集中しているのは珍しいのでは、と私は思ったのですが、そのような「宿場町」というのは、ほかにもあるものでしょうか。  前にも触れましたが、「神奈川宿」の人別はおよそ5800人。14で割るとおよそ410人強。もちろん檀家は、「神奈川宿」近辺の人々もいるのでしょうが、それにしても多い。  なぜ多いのか、私はそれも疑問の一つとして、神奈川宿を回ってみたのですが、ついにわかりませんでした。おわかりの方がいらっしゃったら、教えていただけれるとうれしいです。  先に列挙したところからもわかる通り、宗派は多岐にわたっています。浄土真宗3派、真言宗3派を入れると、全部で九つ。臨済宗がないのが、不思議なくらいです。   . . . 本文を読む

2006.12月の「神奈川宿」取材旅行 その1

2006-12-10 16:20:49 | Weblog
昨日は、雨の中、「神奈川宿」を歩きました。天気予報では、午後3時頃から雨、それまでは曇ということなので決行したのですが、出かける時、路面は濡れていたものの雨は降っていなかったのが、京浜急行子安駅に降りて少し歩き始めたあたりから、ポツポツと雨が降り始め、やがて傘を差さないではいられないほどの雨になりました。先月の取材旅行でも、桜木町を降りてしばらくたってから雨。二ヶ月続けて雨にたたられました。先月も、天気予報では午後から雨だったのです。ま、雨の時は、またそれなりに趣きがあるもの。そう思い直して、東海道「神奈川宿」を取材しました。事前に、ネット(「神奈川の旧東海道を歩く」「関東史跡散歩」「東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず) 」)で情報を集め、それらを参考にさせていただきました。「先達(せんだつ)はあらまほしきこと」(徒然草)を、今回も実感しました。 . . . 本文を読む

海援隊文司・長岡謙吉について その1

2006-12-10 11:23:39 | Weblog
慶応3年(1867年─この年の11月15日に坂本龍馬は京都で暗殺されます)の6月9日、坂本龍馬は、土佐藩船「夕顔」で、土佐藩参政後藤象二郎とともに長崎を出港し、兵庫に向かいます。この兵庫に向かう「夕顔」の船上で、「船中八策」と呼ばれる有名な意見書が作られます。この「船中八策」の二策目は、「上下議政職ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜(よろ)シク公議ニ決スベキ事」とされ、公議公論体制の採用を説くものでした。それは、薩摩藩や長州藩のように武力討幕ではなく、将軍に政権を朝廷に返上させて(「大政奉還」)平和的に幕府を廃し、その後に、公議公論にもとづく政治を実現させようというものでした。しかし、もしその論を将軍が呑まなければ、武力討幕も辞さないという武力的威嚇(いかく)を伴うものであったことも押さえて置く必要があります。  この土佐の藩船「夕顔」に乗り、龍馬の指示でこの「船中八策」をまとめたのが、海援隊文司(書記役)の長岡謙吉という人物でした。山田一郎さんは、その著『海援隊遺文』(新潮社)で、「謙吉は龍馬にとって最高のブレーン」であったとしています。  この「長岡謙吉」という人物について詳しく記したのは、管見の限り、この山田一郎さんの『海援隊遺文』であろうと思います。  山田さんは、もと練達の新聞記者ということもあり、自分の足で丹念に歩き回って取材されており、その取材にもとづく『海援隊遺文』には、したがって興味深い記事が多々あります。  同じ山田さんの著作である『坂本龍馬 隠された肖像』とともに、坂本龍馬や長岡謙吉を調べる際の必読文献だと私は思っています。  この『海援隊遺文』と『岩崎弥太郎日記』(岩崎弥太郎・岩崎弥之助伝記編纂会)をもとに、長岡謙吉について以下まとめてみたいと思います。 . . . 本文を読む