鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.1月取材旅行「麹町~隼町~青山通り」 その1

2014-01-30 06:00:53 | Weblog
崋山は文政13年(1830年)から天保4年(1832年)にかけて日記『全楽堂日録』を著しています。しかし途中の天保2年(1831年)9月19日(旧暦)から12月3日までが空白になっています。というのは、その間、9月20日から『游相日記』(ゆうそうにっき)の旅に出掛け、それから帰って間もなく10月11日から『毛武游記』(もうぶゆうき)の旅、そして三ヶ尻村への調査旅行(その調査の記録をまとめたものが『訪瓺録』〔ほうちょうろく〕)があったからです。『全楽堂日録』の12月4日の条に「帰家」とあり、三ヶ尻調査を終えて中山道経由で帰宅したのが12月4日であることがわかります。日記『全楽堂日録』は、崋山の書斎の机の上にでも置いてあったのでしょうか。帰宅した時の『全楽堂日録』への記述は久しぶりのものでした。9月18日の夜、旅支度を終えた崋山は、明日からの旅のことを思いながら眠りに入ったものと思われる。江戸巣鴨の下屋敷に若隠居としての生活を送っていた三宅友信(1807~1886・25歳)は、顔も知らない生母の消息を知り、もし存命ならば江戸に迎えたいという意向を持っていたらしい。その意向を受けて、崋山は相州高座郡早川村の生まれという友信の生母「お銀様」を尋ねて、相州への旅に出ることになったのです。無事に暮らしている「お銀様」に面会し、宿をとった厚木を出立してからは、江の島・浦賀を回って江戸に戻っているから、太平洋に出て浦賀湊に立ち寄ることも、旅の一つの目的となっていたのかも知れない。9月18日、崋山は門弟である高木梧庵を伴って日本橋に至り、革袋・竹筐・尺・小嚢・遠眼鏡・柄袋などを購入し、また「金華堂」に立ち寄って、夜に帰宅しています。旅は順調に進み、厚木を出立して「金田の渡し」で相模川を越えたのが9月24日。江の島を経由して浦賀に立ち寄り、9月末頃には江戸へと戻ったものと思われる。その崋山の『游相日記』の旅を、いよいよ私も追体験することになりました。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む

定信と文晁、そして「真景図」について   その3

2014-01-29 06:38:27 | Weblog
『房総の幕末海防始末』山形紘(崙書房出版)によれば、江戸湾防備の構想は松平定信が老中に就任した頃から始まる。ラクスマンの根室来航に危機意識を覚えた定信は、江戸湾を江戸の「喉元」と捉え、防備が手薄であるとの危機感をもって捉え、寛政5年(1793年)の1月から3月にかけて、部下を江戸湾沿岸検分のために派遣。その報告書を受けた定信は、3月から4月にかけて自ら相模から伊豆を視察。その結果、伊豆・相模にくらべると房総の地理が不案内であるとして、やはり部下を安房や上総に派遣。しかし定信の江戸湾防備の計画は、同年7月の定信の老中辞任で立ち消えてしまう。しかし文化3年(1806年)のロシア船による松前藩会所襲撃、文化4年(1807年)の択捉(エトロフ)襲撃事件は、再び北方海域の緊張を激化させ、幕府は江戸湾の防衛に対処せざるをえなくなる。文化7年(1810年)、幕府は江戸湾岸の警備体制を、白河・会津の2藩に割り当てることになる。この年初めて房総海岸の警備についたのは松平定信を藩主とする白河藩であり、白河藩は、洲ノ崎・竹岡に台場・陣屋を設け、房総富津~洲ノ崎の海岸の防備を担当することになる。しかし文政6年(1823年)、白河藩は伊勢桑名に転封されることになり、房総御備場御用を免ぜられることになる。定信が亡くなったのはそれから6年後の文政12年(1829年)のこと。というふうに見てくると、定信の老中就任以来、白河藩は江戸湾防備に深く関わっており、それは定信の晩年まで継続されていたことになる。定信は老中辞任後白河藩主として藩政を担い、文化9年(1812年)に家督を嫡子定永に譲るまで藩主であり続けたが、江戸湾防備への強い関心と取り組みをずっと持ち続けたことになる。老中辞任後、定信は「浴恩園」や「三郭四園」、「南湖」などの五つもの庭園を築造し(一代のうちに五つもの庭園を手掛けた大名は、江戸時代を通して定信ただ一人)、これらの庭園において、随筆・和歌・詩文・絵画・博物学等の様々な文化を創り出したが、一方で、藩の殖産興業や江戸湾防備(房総)への積極的な取り組みを展開していたことになる。 . . . 本文を読む

定信と文晁、そして「真景図」について   その2

2014-01-28 05:36:27 | Weblog
渡辺崋山が生まれたのは寛政5年(1793年)。この年、松平定信は筆頭老中として江戸湾岸巡視を行っています(35歳)。文晁はこの巡視に随行し、『公余探勝図巻』を完成させます(31歳)。崋山が文晁の画塾「写山楼」に入門するのが文化6年(1809年)で、この年文晁47歳。崋山17歳。定信は当時白河藩主でしたが、文化9年(1812年)には家督を嫡子定永に譲って隠居します(54歳)。家督を譲った定信は、江戸築地の下屋敷「浴恩園」で隠居生活を過ごしますが、文政12年(1829年)の3月、江戸神田より出火した火事は下町一帯を焼き尽くす大火となり、下屋敷「浴恩園」も、八丁堀の上屋敷や蠣殻町の中屋敷も全焼。その年の5月、定信は避難先の三田松山藩邸で亡くなっています(71歳)。文晁と定信の関係をみてみると、文政3年(1820年)の11月26日、定信は松江松平家の大崎別邸に遊び、それに文晁も随行していることを知ることができます。文政12年(1829年)5月の定信の死に際して、文晁がどうしたのかは「谷文晁略年譜」からはわからない。定信が死んだ時、文晁は67歳で崋山は37歳。すでに崋山は文政8年(1825年)に「四州真景図」という傑作を描いています。ところで、白河に生まれた星野文良は16歳で江戸詰になってから定信の命で文晁に入門。文政5年(1822年)には定信の嫡子定永の側役となり、同10年(1827年)には御小姓に昇進しています。この文良は文政5年(1822年)頃に「浴恩園真景図巻」を完成させ、また浴恩園と六園内の春秋園に植栽されていた桜や梅、桃などの植物図譜を描いています。文晁に代わって晩年の定信に仕えた優れた絵師でしたが、『江戸絵画と文学』(今橋理子)によれば、定信が死んだ文政12年(1829年)に48歳で亡くなっています。文良は文晁や崋山(登)とともに、文政4年(1821年)の「文晁一門十哲図」に自画像を描いており(合作)、当時29歳の崋山とも親交があったものと思われる。筆頭老中時代や白河藩主時代の定信に仕えた文晁に師事し、そしてまた晩年の定信に仕えた星野文良を兄弟子の一人として持った崋山は、松平定信という文人政治家を身近に意識することが多かったのではないかと思われる。文政12年(1829年)の定信の死に際して、崋山がどういう感慨を抱いたかはよくわからない。 . . . 本文を読む

定信と文晁、そして「真景図」について   その1

2014-01-26 07:18:16 | Weblog
崋山は文政8年(1825年)の6月(旧暦)、日本橋小網町三丁目行徳河岸で船に乗り、両総常武の旅に出発しました。その時に描いたのが「四州真景図」でした。崋山の風景画の中でも傑作とされているもので、それについては『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日新聞社)に詳しい。天保2年(1831年)の10月(旧暦)、崋山は武蔵国三ヶ尻村の調査を目的として上野国桐生への旅に出発します。この時の日記が『毛武游記』であり、この時描いた風景画をまとめたものが『毛武游記図巻』。そして三ヶ尻調査をまとめたのが『訪瓺録』であり、そこには多数の風景画がおさめられています。私の取材旅行は、その風景画が描かれた場所を探して、その場所に立ち、崋山の旅行を追体験していくことが目的でしたが、崋山が短い時間に、精緻で正確な、しかも伸びやかな清新さを感じさせる風景画を描いていく、その見事な手際に感動していくことになりました。利根川の河口から銚子の町を描いたもの、雷電山の上から桐生新町を描いたもの、十山亭の跡地から関東平野を眺めた風景を描いたもの、観音山の中腹から足利の町を描いたものなどに、特にそのことを感じました。その彼の「真景図」は誰の影響によって生まれたものであるかと言えば、師である谷文晁の「真景図」によるものであることはまず間違いありません。若き日の崋山は、下谷二丁町の画塾「写山楼」にせっせと通い、文晁の絵手本の模写に努めましたが、その絵手本の中には文晁の風景画(真景図)もあったはずです。同じく文晁門下の立原杏所もすぐれた風景画を残していますが(たとえば「佃島秋景図」)、この立原杏所の風景画も文晁の影響を強く受けています。では、文晁の「真景図」はどのようにして生まれたのか。それが私の関心事になりました。サントリー美術館で『谷文晁』展を観た時、文晁は松平定信のお抱え絵師として活躍し、定信と深い信頼関係で結ばれていたことを知った時、定信のことを知らなければ文晁の画業のことについても深く知ることはできないと思い至り、定信のことについて理解を深めるために奥州(福島県)白河まで足を運ぶことになりました。「真景図」をポイントにおいて、定信と文晁について考えることになったのですが、取材旅行の報告を終えたところで、以下、そのあたりのことについて何回かに分けてまとめてみたいと思います。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その最終回

2014-01-24 05:39:45 | Weblog
いよいよ文晁が描いた「楽翁下屋敷真景図」について触れることになります。この文晁の真景図を初めて見たのは、サントリー美術館で行われた「生誕250周年 谷文晁」展においてでした。カタログにはP85に掲載されています。「楽翁」とは松平定信のことであり、「下屋敷」とはこの場合白河小峰城の三之丸御殿のことになる。絵図には「甲寅冬十月寫於小峰山房 文晁」とあり、この絵が「小峰山房」において「甲寅冬十月」、つまり寛政6年(1794年)の10月(旧暦)に描かれたものであることがわかります。「作品解説」には、定信は寛政5年(1793年)に老中を辞職して翌年白河に戻り、文晁もそれに随行してしばらく白河に滞在したこと、そして本図は白河城三の丸内に最初に造営された南園を描く真景図であるといったことが記されていました。「真景図」であるから、文晁は実際に「南園」を実際に目にして描いているわけですが、ではこの絵はどのあたりから描いて、何が描かれているのか。それについて詳しいのは『定信と庭園』の「白河城下の大名庭園-三郭四園の復元-」(佐川庄司)という論文。借景として描かれる印象的な山稜は那須連山。画面中央やや下に描かれるのは茶亭「不喧斎」(ふけんさい)。「不諠斎」の奥に広がる泉水は「太清沼」。手前にコの字型に池(得月池)を取り囲むのが「柳の堤」(金糸堤)で、雁行形式の木橋が「燕子橋」。では文晁は「南園」のどのあたりからこの景色を描いているかというと、「南園」の東端「松月亭」あたりから描いていることが推定されます。しかもやや鳥瞰的な視点(やや上空から見渡すような視点)に立って描いています。なぜならこの地点に高所はないからです。鳥瞰的に真景図を描くというのは、天明7年(1787年・文晁25歳)に描かれた「松島真景図巻」にすでに見られるところであり、文晁にとっては「お手の物」であったことになります。この寛政6年(1794年)の秋、文晁は定信に中秋の名月を松島で見たいとの申し出をして、これが許され、定信の家臣の塩竈神社代参に随行するという形で松島旅行が実現。その時のスケッチをまとめたものが「谷文晁東北地方写生図」であり、「松島画紀行・松島日記」であり、翌年に描かれたのが「松島雨霽図」(まつしまうせいず)。これらも「小峰山房」で描かれたものであり、サントリー美術館の「文晁」展で観て興味深いものでした。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その9

2014-01-23 05:21:09 | Weblog
『定信と庭園』によれば、「三郭四園」は白河小峰城の三の丸(三郭)に造られた庭園。造園が開始されたのは寛政6年(1794年)。定信は寛政5年(1793年)の幕府老中辞任と同時に、江戸築地に「浴恩園」の造園を開始しており、江戸と白河両方で庭園造りが行われていたことになる。寛政6年(1794年)に三の丸に御殿と「南園」を造営、次いで「南園」の西側に「西園」(寛政8年)、同10年(1798年)には東側に「東園」を造営して、池泉回遊式庭園である「三郭四園」を完成させました(しかし「北園」はない)。参勤交代で帰藩した際には、定信はこの庭園を利用して家臣らと琴碁書画会・歌会・茶会(茶室「不諠斎」において)などを催すほか、舞楽演奏会の開催や、柔術・砲術・弓術などの稽古、また藩内の領民を敬老する尚歯会では90歳以上の農商の老人を園に招き入れるといったことを行っていた、という。その「三郭四園」があったところは、『定信と庭園』のP25に白線で示されています(推定区域)。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その8

2014-01-21 06:00:49 | Weblog
江戸築地の「浴恩園」を描き、白河小峰城の「三郭四園」を描いている文晁は、この「南湖」は描いているのだろうか。そう思って調べてみると、『定信と庭園』所収の論文「白河城下の大名庭園-三郭四園の復元-」(佐川庄司)の「註8」(P105)に次のような記述を見つけました。「谷文晁が文化三年に描いた『南湖勝覧図』(模本、国立国会図書館蔵)の画中には十五勝の漢名のみが付けられている。後の十七勝十六景の漢名とは名称を異にする。」 「文化三年」とは西暦で言えば1806年。「南湖」が完成したのが享和元年(1801年)のことであるから、完成して5年後に描かれたことになります。しかし『生誕250周年谷文晁』の「谷文晁略年譜」を見てみても、享和元年から文化3年にかけて文晁が白河を訪れた記録はない(翌文化4年(1807年)に、「この年、大野文泉とともに奥州旅行」という記述はある)。実はこの文化年間には、あの「浴恩園真景図巻」を描いている星野文良が、「南湖名勝図」を描いています。この絵は『定信と庭園』のP14に掲載されており、裏表紙にも掲載されています。表紙は文良の「浴恩園真景図巻」の一部(定信の居住していた「千秋館」を描いた部分)が掲載されているから、この図録の表も裏も文良の絵が飾られてあるということになる。文良は白河の「南湖」を実際に訪れているのだろうか。この絵を見てみると岡本茲奘の「奥州白河南湖真景南面之図」がそうであるように、「関山」が実際よりかなり高さが誇張して描かれており、真景図とは言い難い。文晁の「南湖勝覧図」を目にしていないので何とも言えませんが、文晁も文良も、誰かの絵を参考にして実際には見ていない「南湖」を描いたのかも知れません。「文晁略年譜」の享和3年(1803年)の事項に、「この年の7月~11月、松平定信の命を受けて、侍臣・岡本茲奘の監督のもと、文晁の養子および弟子である文一、星野文良、蒲生羅漢の3人が『石山寺縁起絵巻』5巻の模写を行う」との記述があり、その岡本茲奘との関わりから考えれば、もしかしたら茲奘の描いた南湖真景図のスケッチをもとに、文晁と文良が実際には見ていない「南湖」を描いたのではないか、とも考えられます。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その7

2014-01-19 07:23:34 | Weblog
「奥州白河南湖真景北面之図」「奥州白河南湖真景南面之図」の原画が描かれたのは天保11年(1840年)。定信の侍臣であった岡本茲奘(しそう)が、定信の事績をまとめた『感徳録』の副帖として描いたもの。茲奘は、文化13年(1816年)の初冬、定信とその嫡子で藩主の定永が一緒に南湖で遊覧した際に随行して、その南湖での遊覧の様子を目撃しており、その情景を描いています。『定信と庭園』には、ほかにも岡本茲奘の描いた庭園の絵(模本)が掲載されています。P26~P29の「白河三郭四園」を描いたもの。その跋文によれば、定信は完成した三郭四園を白河藩絵師大野文泉に命じて「写真」(真景図の作成)させたとのこと。しかし茲奘は文泉の真景図を見る立場になかったため30数年後に記憶をたどって描いたのだという。P40~41の「浴恩園真寫之図」も茲奘が描いたもの。「真寫之図」とはあるけれども絵地図的な作品。「浴恩園」については文晁も描き、文晁の弟子星野文良も描いているが、その西洋的遠近法や描き方の巧みさにおいては格段に劣る。P58の「大塚六園館全図」も茲奘が描いたもの。絵地図的ではあるが、「浴恩園」を描いたものよりもずっと「真景」に近づいているようだ。これらの茲奘の庭園画をみてみると、その精細さにおいて後に記憶をたどって描いたものとは必ずしも思われず、何らかのスケッチが残されていて、それをもとに描いたものではないかと思われます。この定信の侍臣岡本茲奘は、谷文晁や星野文良、大野文泉のようにお抱え絵師ではなかったようですが、かなり絵心があり、定信に連れられて遊覧した庭園などについてこまめにスケッチをし、記録として残していたのではないだろうか。もしかしたらそのような「記録係」の一人として、定信は茲奘を身近に侍らせていたのかもしれない。「白河三郭四園」や「浴恩園」の絵も、そして「大塚六園」の絵も、「白河南湖」の絵と同じく天保11年(1840年)に描かれたもので、それは定信が亡くなった文政12年(1829年)から11年後のことでした。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その6

2014-01-18 08:33:02 | Weblog
『定信と庭園』によれば、寄せられた和歌や詩文を刻んだ「南湖碑」石は文政3年(1820年)に建立されたもの。定信は景勝地十七勝を選び、和名と漢名の二つの名称を定め、その十七勝を詠題として公家や大名に和歌を請い、諸藩の儒学者に漢詩文を請うたという。石は「仙台石」であり、石巻から海運で運ばれたとのこと。定信はこの「南湖」を何度か遊覧している。まず南湖完成の翌年である享和2年(1802年)9月3日に遊覧しているし、文化13年(1816年)、白河甲子温泉に湯治し、その後塩竈神社に参詣して松島を遊覧した後、白河へと戻った初冬のある一日、南湖を遊覧しています。定信の嫡子で当時の藩主である定永も参加しており、定信は夕刻まで遊覧の後、山路を通って屋敷(三の丸)へと帰ったという。文化13年初冬、定信が南湖を眺めた場所は茶亭「共楽亭」であり、それから家老吉村氏の別荘である湖月亭(共楽亭の右隣)でした。その時の南湖の風景が描かれているのが「奥州白河南湖真景北面之図」(模本)と「奥州白河南湖真景南面之図」(模本)。この原画を描いたのは、その日定信に随行した侍臣岡本茲奘。その2枚は、P10~P13に掲載されています。それをみると、「北面之図」は、「千世の堤」よりやや「有明崎」へと進んで行った「花月橋」あたりからの眺望であり、南湖の対岸「鏡の山」の麓には、茶亭「共楽亭」とその右隣の「湖月亭」(家老吉村氏の別荘)が描かれています。「南面之図」は、茶亭「共楽亭」からの眺望であり、対岸左側には「使君堤」(千世の堤)や「鹿鳴峰」(小鹿山)が描かれています。「北面之図」の中央、船頭がこぐ小舟に乗っている人々(定信が左から四人目か)は那須連山の方を眺めています。初冬の一日ということは、西方に那須連山の山並がくっきりと見えていたはずであり、その那須連山を借景とした南湖の眺望を、湖上に小舟を浮かべて堪能したものと思われます。「南面之図」には、左端の山(月待山)の麓の道を乗馬で駆けていく武士の集団が描かれていますが、その先頭から二番目を走るのが定信の嫡子である定永(藩主)。「千世の堤」に向けて走っているのですが、南湖を周回して白河城へ帰っていったのだろうか、それとも「水戸街道」を経由して帰っていったのだろうか。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その5

2014-01-17 05:20:20 | Weblog
南湖は白河城下の南方2Kmほどに位置しており、まわりは鏡の山・月待山・小鹿山などの丘陵によって囲まれています。もとは丘陵に挟まれた東西に広がる湿地帯であったところを、月待山と小鹿山の間に以前から築かれていた「大沼土手」を改修し(これが「千世の堤」)、その堤の普請強化と湿地の浚渫によって水を満面と湛える湖が完成したという。さらに定信の築庭思想を反映させて、まわりに松・楓・桜を植栽するとともに、茶亭「共楽亭」を建築し、また和名と漢名で17の景勝地を見立てたのだとのこと。「南湖」の名称は、白河城下の南に位置することと、中国唐代の詩人李太白が洞庭湖に遊んだ折りの詩文の一節に由来するとのこと。完成したのは享和元年(1801年)。当時の大名庭園は、城内または別邸などに築かれているのに対し、南湖は城下の郊外に塀や柵を設けず、藩主とともに士農工商の四民が楽しむためのものとして造られたものであり、茶亭「共楽亭」には身分を隔てる敷居が設けられず、四民に開放された茶亭であったという。さらに注目すべきは、この南湖の湖水は灌漑用として下流の荒れ地に水を注ぎ、湖の西・南・東側に藩校「立教館」運営のための新田が切り拓かれたこと、また南湖の造営自体が貧民救済のための失業対策事業を兼ねていたということ。灌漑用として、さらに失業対策も兼ねて建設されたものであるということが、松平定信の見識をうかがわせるものです(以上は『定信と庭園-南湖と大名庭園-』による)。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その4

2014-01-15 04:53:44 | Weblog
文政4年(1821年)当時、崋山(1793~1841)は29歳。星野文良(1781~1829)は41歳。文良は崋山より12歳年上ということになる。崋山が「一掃百態」を描いたのが文政元年(1818年)。使番役に進んだのが文政3年(1820年)。この文政4年、崋山は「佐藤一斎像」を描いています。父定通が亡くなって家督を継ぎ、「四州真景」の旅に出たのが文政8年(1825年)であり、この頃から「崋山」の号を用い始めています。したがって「文晁一門十哲図」にはまだ通称の「登」が記されています。崋山は「心の掟」(文政6年)の中で、書画の益師友として、谷文晁・市河米庵・桧山坦斎・立原杏所(きょうしょ)の4人の名を挙げています。この中で画業となると、谷文晁と立原杏所の二人に絞られます。立原杏所(1785~1840)は文晁の門人であり、「文晁四哲」の一人に数えられる人(「文晁四哲」とは、立原杏所・高久靄(たかくあいがい)・渡辺崋山・椿椿山(つばきちんざん)の4人)。杏所は崋山より8歳年上。崋山にとって画業上の師は文晁であり、益友が杏所であったということでしょう。文晁の高弟には、養子となった文一(1786~1818)がいましたが、文政元年(1818年)に32歳で亡くなっている。隠居した定信の近くにいて、その厚い信頼を得ていた絵師が文良。崋山がこの文良とどれほどの交流があったかはわからないが、谷文一や立原杏所とともに、文晁一門の優れた兄弟子の一人としてそれなりの指導や影響を受けるとともに、文晁もそうであったように松平定信のお抱え絵師として活躍していた人物であったから、崋山は文晁や文良を通して、定信の存在を強く意識していたのではないかと思われます。その定信と文良が亡くなったのは文政12年(1829年)、崋山37歳の時でした。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その3

2014-01-14 05:32:34 | Weblog
文晁の高弟の一人であり、晩年の松平定信に仕えた絵師、星野文良(ほしのぶんりょう・1781~1829)について記したものは、管見の限りきわめて少ない。今橋理子さんは『江戸絵画と文学』において、星野文良作の『浴恩園真景図巻』について、「江戸時代後期に制作された絵画の中でこれほど力のある作品が、どうしてこれまでほとんど注目されずに広く知られることがなかったのか、画に見入れば見入るほど謎に思われてならない」としています。そして「いずれにしても本来の所蔵者であった松平定信その人の、意向のもとに制作され、編纂されたことは間違いない」と指摘しています。今橋さんは、星野文良その人について、①定信が『石山寺縁起絵巻』(全七巻)のうち欠巻であった第六、七巻の復元作業を命じたのが文晁とその一門であったとし、そのメンバーの一人が星野文良であったこと。②名を唯實、通称善輔と言い、白河に生まれた人物であること。③江戸詰となってから定信の命で谷文晁に入門したこと。④文晁の「文」の一字を与えられ、文良と号したこと。⑤文政5年(1822年)に定信の嫡子定永の側役となったこと。⑥文政10年(1827年)に御小姓に昇進したこと。⑦定信の厚い信頼を得て盛んに制作を行っていること。⑧師・谷文晁が達成した古典的な南宋画(南画)技法に、それまでに無かった清新な視覚で大和絵や洋風表現を織り込み描いた新しい風景表現の形を継承していること…等を指摘しています。これらが今のところ星野文良についての最も詳しい記述ではないかと思われます。『生誕250周年 谷文晁』を紐解いてみても、星野文良の作品紹介は1枚もなく、文良についての記述も全くありません。ただ「文晁一門十哲図」(P178)に、中央手前の文晁の右側に描かれているのが「文良」(左側が文晁の実子「文二」、文晁の背後左手にいるのが「登」=渡辺崋山)であり、「文」という一文字を文晁から与えられていることから考えてみても、文晁の門弟の中でも力のある人物であったことがわかります。これは「文政四年」の作であるから、文良が「浴恩園真景図巻」を描いた文政5年頃に近い作ということになり、「文晁を支える体制をより盤石にするため、一丸となる決意を固めた弟子たちの意気込み」を示すものとするならば、崋山は兄弟子星野文良をよく見知っていたのではないかと考えられるのです。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その2

2014-01-13 08:35:55 | Weblog
今橋理子さんの『江戸絵画と文学』によれば、松平定信の造園への意欲は、定信が老中を辞める前年の寛政4年(1792年)にはすでに始まっているという。定信が、一橋家が所有していた築地の下屋敷の一部を、老中辞任後の生活を送る場所として手に入れたのは寛政4年2月のこと。その手に入れた築地の下屋敷に造園を始めたのが老中辞任後のことであり、その完成した庭園の名前が「浴恩園」(よくおんえん)でした。以後、定信は白河藩主であり続けながら、47歳頃までの10年間に、江戸と白河の双方に合わせて四つの庭園を整備・所有することになったという。「浴恩園」以外には、小峰城の「三郭四園」(さんかくしえん・三の丸内)、「南湖」(なんこ・白河城下南部)、「六園」(りくえん・大塚の抱屋敷)、「海荘」(はまやしき・深川入船町)の四つ。文化9年(1812年)、白河藩主の地位を嫡男に譲って隠居した定信は、「浴恩園」内の「千秋館」を住まいとし、花鳥風月を友として悠々自適の生活を送りますが、文政12年(1829年)3月に下町に発生した大火により、「下屋敷」(浴恩園)も全焼。芝愛宕山下の松山藩中屋敷に避難した定信は、その年の5月にそこで亡くなっています(享年71)。この「浴恩園」があったところは、現在の東京築地の中央卸売市場一帯。この定信最晩年に火事によって失われてしまった「浴恩園」がどういうものであったかは、谷文晁画模本「浴恩園図記」と、星野文良の「浴恩園真景図巻」によってうかがい知ることができ、特に星野文良の「浴恩園真景図巻」の一部はカラー写真で『江戸絵画と文学』に「口絵」として掲載されており(本のカバー絵も)、「文政六年」頃の最も「浴恩園」が庭園として豊かであった頃の姿を「真景図」として見ることができます。この絵の作者、星野文良(1781~1829)は、崋山(1793~1841)と同じく谷文晁(1763~1840)の弟子。星野文良は谷文晁らとともに『集古十種』(しゅうこじゅっしゅ)の編纂事業にも関わっており、文晁の高弟の一人であったものと思われますが、今までほとんどよく知られていない人物。同門の崋山と親交があったのかどうか、どういう影響関係があったのかなかったのか等、全く知られていませんが、「浴恩園内」の花を美しく描いた植物図譜も残されており、たいへん興味をひかれる人物です。 . . . 本文を読む

2013.冬の取材旅行「白河~南湖~須賀川」 その1

2014-01-12 06:46:48 | Weblog
「谷文晁展」を観たあたりから、松平定信が気になり始めました。松平定信(1758~1829)とは、「江戸の三大改革」として有名なあの「寛政の改革」を推進した人物。展覧会の図録「谷文晁」には、「2 松平定信と『集古十種』-旅と写生」があり、そこには寛政4年(1792年)、老中松平定信に認められて近習(きんじゅ)となった文晁が、翌寛政5年(1793年)、定信の江戸湾岸巡視に同行して各地の風景の写生を担当したといったことが記されており、また「松平定信自画像」や、文晁が描いた大名庭園の絵、「公余探勝図巻」(こうよたんしょうずまき・これが江戸湾巡視の際に描いたもの)、「那須眺望図」、「松島真景図巻」、「神奈川風景図」などの風景画などが掲載されていました。これらの風景画の多くは、主君である松平定信と関わるものであり、中でも、「楽翁公下屋敷真景図」は、白河城(小峰城)三の丸の「三郭四園」(さんかくしえん)と称された庭園のうち、「南園」を描いたものであり、文晁が実際に白河城に滞在してこの絵を描いたことがわかるもの。それは寛政6年(1794年)のことであり、老中職を辞して白河に戻る定信に随行した時に描いたものであるという。その白河城三の丸にあった「三郭四園」という庭園が気になって購入した本が、『江戸絵画と文学』今橋理子(東京大学出版会)であり、それには「第三章 『養生』の庭-大名の〈画〉と〈紀行〉」に、定信の庭園をはじめとした大名庭園のことと、それを描いた絵師の一人として谷文晁のことが、詳細に記されていました。「そうか、江戸という都市は大名や旗本たちの庭園にその多くを占められていたんだ」という発見。定信が造った五つもの庭園のうち、現在その姿をとどめているのは白河にある「南湖」(なんこ)だけであるということも知りました。文晁が描いた白河城の「三郭四園」も、「浴恩園」などの江戸の庭園もすでに失われてしまっています。文晁の描いた「三郭四園」は現在どうなっているのか、そして「南湖」はどういうところなのか、といった興味・関心が芽生えて、それらを実際に見てみたいと思うようになりました。また崋山の師匠である文晁がそのお抱え絵師であった、松平定信のことについても詳しく知りたいと思うようになりました。そこで年末に出掛けたのが福島県白河市。以下、その取材旅行の報告です。 . . . 本文を読む

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その最終回

2014-01-06 05:39:29 | Weblog
「書画会」の雰囲気はというと、崋山が前小屋天神書画会の貴重な記録を遺しています。利根川を前小屋の渡しで越えて、まず崋山と梧庵が至ったのは「会主」の青木長次郎の家。途中、田んぼの畦道のかたわらには「会所道」と記された紙が竹に挟んでありました。要するに案内標示。青木長次郎家の裏口から中へと入って行くと、土間では女たちが4、5人集まって、参集した人々をもてなすための夕食を用意しているところでした。すでに足利から岡田東塢(とうう)、江戸から漢詩人宮沢雲山が到着しており、座敷へ上がってみると膝を入れる隙間もないほど人々が参集しています。崋山はその人いきれの中で夕餉をしたためました。それから一同が向かったのが前小屋天神社の書画会会場。先導するのは羽織を着た男2人。東塢・雲山・崋山・梧庵の4人が武士姿であるために、村の子どもたちは物珍しそうに道端で一同を見送ります。書画会会場は神社と別当の住居が一つになったところであり(神仏分離令以前の神仏習合の姿か)、それほど大きくはないために、あふれた人々は境内にたたずんだり、階段の下にうずくまったりしているようなありさま。境内や参道には、集まってきた人々相手に、煮鳥や酒、柿やみかん、唐紙や扇などを商う露店が出ているほど。浅間山や妙義山から吹いてくる西風が強く、社殿や別当の住居の壁や柱に掛けてある書画は、空高く舞い上がるほどでした。会場には、参加する人々が紙に包んで差し出した銭の束が、雪をかぶった富士山のように白く積み上げられています。社殿に上がった崋山は、人々から求められるまま紙扇(絵を描いて扇に張り付ける紙)に絵を描いて行きました。その見事な手際を感嘆の声を上げて見守る人々は垣根のごとく、そして描くべき紙扇はまるで山をなしており、さすがにこれを全て描くのは大変だと思った崋山は、途中で座を外し、雲山・東塢らとともに夜食が用意されている青木長次郎家へと戻りました。崋山によると、書画会会場には「豊沢」という奥州南部生まれという画師や、「欣然」という書家もいたようであり、また崋山はここでは記していませんが、東塢の友人であり、そしてまた崋山の知人でもあった島村の金井烏洲(うじゅう)もいました。この前小屋天神社書画会の「会主」は前小屋村の青木長次郎。そして「看板」は江戸の宮沢雲山(漢詩人)と渡辺崋山(画家)、そして島村の金井烏洲ではなかったか。 . . . 本文を読む