鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その5

2012-05-31 05:32:53 | Weblog
地図を見ると、棚倉から勿来(なこそ)・平潟(ひらかた)方面へ延びる道路は国道289号線であり、標高797mの朝日山の南側の峠を越えて、勿来へと出ます。その南側にあるのが平潟であり、さらに南にあるのが大津。この大津港へは、JR常磐線の大津港駅で下車して訪れたことがあります。目的は文政7年(1824年)に起きた「大津浜事件」の現場を見るため。その大津浜から五浦海岸を経て平潟までを歩きましたが、それについては「2007.冬の常陸茨城取材旅行 大津浜から平潟港 その1~その4」にまとめてあるのでご参照ください。その中で、平潟は棚倉藩領であること、大津は水戸藩領の飛び地であり、その周囲は棚倉藩領であるといったことが確認されています。また平潟には「主水(もんど)屋敷」(鈴木主水の屋敷)があって興味を惹かれたものの、水戸へと向かう時刻の関係で残念ながら寄ることなしに、平潟からJR大津港駅へと道を急いだことも記録されています。つまり私は平潟港を訪れたことがあるのですが、その時は、崋山の銚子への旅は全く意識されておらず、そして崋山が銚子で滞在した行方屋大里家と棚倉藩とのつながり(廻米の関係から)も全く知らなかったため、その観点から平潟港をゆっくりと探索することはありませんでした。その時は、平潟の北側にある勿来(福島県)へも訪れることはありませんでした。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その4

2012-05-30 06:34:25 | Weblog
『磐城平藩政史』の鈴木光四郎さんによれば、江戸の浅草に納入するのを「廻米」、その他に納入するのを「詰米」、諸藩から大坂蔵屋敷へ運ぶ場合は「蔵米」、大坂において商品化する場合を「納屋米」、米穀を天領から江戸へ運ぶ場合を「城米」というのだという。総称して「廻米」というが、その運送先は江戸と大坂であり、江戸時代後期には江戸への廻米量が増大した、と記されています。また『阿武隈川の舟運』竹川重男(歴史春秋出版)によれば「廻米」とは、幕領や藩の年貢米を江戸や大坂など大消費地に送ることであり、その米は換金されて家臣の俸禄や幕府・諸藩の財政支出にあてられたとのこと。阿武隈川の舟運も、最大の消費地江戸に米を輸送する必要から生まれたものであり、河口の「荒浜」は、米を海船に積み込み江戸へと送る積み出し港でした。「外海(そとうみ)江戸廻」というのは、冬廻しで房総半島を廻り直接江戸に入港するものであり、「内川(うちかわ)江戸廻」というのは、銚子で陸揚げし再び川舟で利根川を遡り江戸に入るコースであって、その「川舟」とは、もちろん「利根川高瀬船」という日本の川舟の中で最も巨大な運送船でした。この「内川江戸廻」コースの要衝地こそ銚子であり、崋山が滞在した荒野村の「行方屋(なめかた)大里家」は、銚子に存在した6軒の「御穀宿」(東北諸藩の廻米を取り扱う業者)の1軒であったのです。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その3

2012-05-27 05:06:32 | Weblog
磐城平藩の「廻米」については、『磐城平藩政史』鈴木光四郎(磐城平藩政史刊行会)に、それに関する記述がありました。それによると磐城平藩の廻米ルートは、江戸時代前半期においては、小名浜→那珂川口(那珂湊)→涸沼(ひぬま)川→涸沼→海老沢河岸→吉影河岸→巴川→串挽(くしびき)河岸→北浦→利根川→江戸川→小名木川蔵屋敷→浅草御蔵、というものであったらしい。小名浜→海老沢間、串挽河岸→江戸浅草間は水路(海路も含む)、海老沢河岸→串挽間は一部陸路、一部水路となる。しかし後半期になると、小名浜→銚子→利根川→江戸川→小名木川→江戸浅草という水上ルートになり、利根川高瀬船への積み替え港である銚子の重要度がにわかに増してきます。江戸後半期においては、奥州白河領や磐城領の廻米は、平潟や小名浜などから銚子へと運ばれ、そこから利根川・江戸川経由で江戸へと運ばれています。「御城米浦役人」として、小名浜においては御代(みよ)鴨左衛門(五人扶持)、平潟においては鈴木主水(もんど・五人扶持)の名前が挙げられていました。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その2

2012-05-26 06:14:42 | Weblog
銚子で崋山が滞在したのは、荒野村の行方(なめかた)屋大里庄次郎家であり、その行方屋は銚子において「御穀宿」をやっていました。「御穀宿」とは、「東北諸藩の廻米を取り扱う」ものをいい、「諸藩から扶持を支給され、廻米の陸揚げ・蔵への出し入れ・江戸への回漕・濡米の売り払いなどを担当」していました。幕末、銚子にはそのような「御穀宿」が6軒あり、その1軒が行方屋大里家であり、幕末期において行方屋は、磐城平藩と棚倉藩の「御穀宿」をやっていたようです。安政5年(1858年)において、仙台藩・米沢藩・相馬中村藩は藩独自の蔵屋敷を銚子に持ち、笠間藩・棚倉藩・磐城平藩の場合は銚子の「御穀宿」の蔵を借り上げて使用し、毎年秋になると役人が銚子へ出張してきたという(以上は「港町銚子の機能とその変容」舩杉力修・渡辺康代、『歴史地理学調査報告 第8号』所収論文による)。ということは、行方屋は磐城平藩と棚倉藩に「御穀宿」として自家の蔵を提供していたことになり、毎年秋になれば行方屋には磐城平藩と棚倉藩の「廻米」担当の役人(藩士)が出張してきたということになります。その両藩とも現在の福島県に所在しており、行方屋は東北地方でも現在の福島県内の2つの藩と深いつながりをもっていたということがわかります。そのことが念頭にあったので、福島県立図書館に足を延ばして、その両藩に関する諸資料を調べてみたいと思いました。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その1

2012-05-25 05:21:06 | Weblog
東日本大震災とそれによる大津波の被害が起きる以前、その年(昨年)の夏に福島県の三春町にある自由民権記念館を訪れる計画を立てていましたが、3月11日に大震災と大津波が発生し、さらに福島第1原子力発電所の事故が発生したことにより、三春行きを断念しました。自由民権運動関係の記念館や資料館としては、東京都町田市に「町田市立自由民権資料館」があり、高知県高知市に「高知市立自由民権記念館」、そして福島県三春町に「三春自由民権記念館」(三春町立歴史民俗資料館に付設)があります。町田の「自由民権資料館」は比較的近いのでよく利用させていただいていますが、高知や三春は遠い。しかし高知は中江兆民の関係で何回か取材旅行に行き、「自由民権記念館」も2回訪れています。しかし、三春については気になってはいたものの行く機会は今までありませんでした。震災後の報道等で三春の滝桜のことを知り、また4月に花見をした時に三春の滝桜のこどもを見たりした(北本市こども公園と北本市高尾さくら公園)ことにより、ぜひ三春の滝桜を現地に行って見てみたいという気持ちが募り、その観桜と併せて、三春の「自由民権記念館」を訪れてみようと考えました。ということで、5月の連休後半を利用して、車中泊1泊2日で福島県に行ってきました。以下、その取材報告です。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その最終回

2012-05-23 05:46:42 | Weblog
『幕末の忍藩』(行田市郷土博物館)によれば、忍藩は天保13年(1842年)8月3日、房総半島沿岸警備を幕府より命ぜられました。川越藩は相模国三浦半島の沿岸を、忍藩は上総安房の沿岸で、具体的には、富津御台場、同陣屋、竹ヶ岡御台場、同陣屋、洲崎遠見番所、白子遠見番所の警備を命ぜられました。翌天保14年(1843年)2月1日、忍藩士は上総・安房に向けて出発し、2月5日に富津に到着。3月には藩主松平忠国が視察のため現地を訪れたという。上総安房には忍藩士が300人ほど滞在。富津陣屋と竹ヶ岡陣屋には常駐し、白子と州崎の遠見番所には交代で派遣されたとのこと。弘化4年(1847年)になると、忍藩は大房崎から白子にかけての房総半島先端に警備を集中し、北条村の陣屋を修築。そこを警備の拠点としました。北条陣屋には忍藩士150名とその家族たちが居住したとのことです。ペリー艦隊来航時、当時、房総半島を警備していた忍藩と会津藩が海上を警備し、三浦半島を警備していた彦根・川越藩が陸上を警備していました。忍藩は、幕末における江戸防衛に大きな役割を果たしていたことになりますが、荒川の「江川河岸」が、このような幕末の深刻な動静の中でどのような役割を果たしていたのか興味関心のあるところです。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その8

2012-05-21 05:52:00 | Weblog
新川村は明治7年(1874年)に、下久下(しもくげ)村と江川(えかわ)村が合併して成立しました。下久下村は「新川上分」と呼ばれ、江川村は「新川下分」と呼ばれていたことが、案内マップや案内板などからわかります。江戸時代末期、下久下村も江川村は、忍藩松平家10万石管轄の村であり、忍藩の御用船(御手船)は主に、ここにあった「江川(えかわ)河岸」を使用しました。この「江川河岸」には、忍藩の「廻米」を初めとして近隣地域から、雑穀・野菜類・織物・酒、秩父の材木などが集まり、また江戸方面からは塩・油・日用雑貨類・肥料などが集まりました。それを運んだのは帆かけ舟であり、荒川を利用して江戸まで36里(144km)を往復しました。したがって、この河岸のそばには、回船問屋・塩問屋・油問屋・筏(いかだ)問屋・雑貨屋・質屋などがあり、また船主や船乗りなど舟運に関係する人たちが住んでいました。この両村は、寛永6年(1629年)に荒川が現在の流れに改修された時に堤によって分断されて出来た村であり、明治7年に合併して「新川村」となりますが、昭和25年(1950年)に全戸が移転するまで320年ばかりの歴史を有しています。移転してから60年ほどということは、70代以上の元村民たちはこの村で生まれ育った時代を記憶していることになります。「江川河岸」(明治になって「新川河岸」)の賑わいは、しかし鉄道の敷設によって次第に翳(かげ)りが見え始め、やがて村の主産業は養蚕業になっていったようです。河川敷には桑畑が広がっていったはずで、現在「屋敷森」の周囲に広がる畑は、かつてはほとんどが桑畑であったはずです。熊谷宿周辺で養蚕業が盛んになっていったのは、明治の半ば頃のことであったらしい。「名勝熊谷堤」には、昭和36年(1961年)に、熊谷市の蚕糸業を記念して建立された「蚕霊塔」がありますが、この周辺地域で養蚕業が一気に拡大したのは、幕末の横浜開港以後のことであったと思われます。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その7

2012-05-20 05:30:05 | Weblog
同じく『熊谷市郷土文化会誌』(熊谷市郷土文化会)の第59号「渡辺崋山ゆかりの『大麻生・松蘿園建物』考察』(馬場國夫)によれば、大麻生村の名主古澤喜兵衛(号:槐一〔かいち〕)は、蔵2棟を持つ「造り酒屋」を営み、「酒を水運で江戸へ運」んでいました。「松蘿園(しょうらえん)」は奥行二間半、間口四間の高床の建物であり、古澤家の来客用の離れ。この「松蘿園」の垣根の前を秩父街道が走っていました。崋山の「双雁図」(埼玉県指定文化財)は、この「松蘿園」で描かれ、村内の「龍泉寺」に寄贈されたものだという。この馬場氏の論考で私が興味を持ったのは、古澤家が「造り酒屋」を営み、「酒を水運で江戸へ運」んでいたという記述。水運で江戸へ運んだということであれば、当然、その水運とは荒川水運のことであり、その荒川の「河岸」の中でもっとも大麻生村から近い河岸は、荒川水運の最終基地であり、荒川筋でもっとも繁栄していたといわれる「江川河岸」(明治になって「新川河岸」)であったに違いない。つまり、古澤家で造られた酒を詰めた酒樽は、「江川河岸」に運ばれ、そこから舟に積み込まれて、荒川経由で江戸へ運ばれたということになる。来客用の離れ「松蘿園」を持ち、そこに渡辺崋山を宿泊させたこともある大麻生村の名主古澤家は、荒川水運を通して、江戸の地廻り経済圏の中に組み込まれるようになっており、それによって財力を蓄え、また文化力(古澤喜兵衛〔号:槐一〕は俳諧を楽しみ、近隣の俳友と親しく交流する教養人でもありました)を高めていたことになります。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その6

2012-05-19 06:26:10 | Weblog
『熊谷市郷土文化会誌』(熊谷市郷土文化会)の第65号所収の「渡辺崋山訪瓺の道すじ」(井上善治郎)によれば、崋山が桐生を出立したのは天保2年(1831年)の11月6日(旧暦)のことであり、その日は深谷の旅籠屋土屋万右衛門宅に泊まっています。その翌日である7日、崋山は一路、武州大麻生村へと向かっています。その道筋は、深谷→中山道→新堀→久保島→大麻生というものでした。そして目的の地、三ヶ尻村に赴いてその地を初めて調査したのがその翌日である8日のこと。崋山の江戸帰着は12月4日であったから、遅くとも12月初旬には三ヶ尻調査を終えたものと思われます。同じく『熊谷郷土文化会誌』第63号の井上善治郎氏論文「渡辺崋山と毛武のこと細見」によれば、崋山は大麻生村の名主古澤槐一(かいち・喜兵衛)宅に宿泊していますが、その古澤を崋山に紹介したのは足利五十部(よべ)村在の丹南藩足利代官の岡田東塢(とうう・立助)でした。大麻生村の名主古澤槐一(喜兵衛)は俳人でもあり、彼は崋山に俳人仲間である三ヶ尻村の「黒田幽鳥」を紹介します。この「黒田幽鳥」については、同会誌第64号の「渡辺崋山の調査協力者『三ヶ尻村黒田平蔵』考察」(馬場國夫)に詳しく、それによれば、三ヶ尻村の豪農黒田平蔵(黒田家7代目)は、古澤槐一(喜兵衛)の俳句の師であり、「観流亭幽鳥」と号して門人500人を有していたという。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その5

2012-05-18 05:29:19 | Weblog
「屋敷森」の周囲に青々とした畑が広がる。その畑の多くは、今でも人の手がしっかりと加えられている。「屋敷林」の近くに、あるいはその中に墓地がある。新しいお墓は少なく、多くは古いお墓であってそれが群集しています。村人たちが立ち去った後も、そのまま畑は広がり、墓地はそのままに残っています。もともとそこに住んでいた住民の子孫は、今でもここにやってきて畑を耕し、先祖のお墓の前でお線香をあげ、仏花を供えています。この畑や墓地は、いつ豪雨による水位の上昇で濁流の中に沈んでしまうことがあるかも知れない。しかし雨が上がって水位が下がれば、畑や墓地は泥をかぶりながらもふたたび姿を現し、人の手が入り、またもとの畑や墓地が復活する。しかし考えてみれば、この村にかつて住んでいた人々は、長い歴史をずっと、そのような水害の危険性と隣り合わせで過ごし続けてきたことになる。いつ田畑が水害を受けるか知れない。いつ家屋や人が濁流にのまれて流されてしまうかも知れない。いつ墓地が水に浸かってしまうかも知れない。それでもそこに住み続けてきたのはなぜかと言えば、それはやはり荒川の「河岸」に立地していることの経済的な魅力であり、それによって生業(なりわい)を継続していけることの魅力ではなかったか。被害を受ける危険性を意識しながらも(特に大雨や長雨の時には)、自分たちが住んでいる土地(村)への捨てがたい魅力なり愛着なりが村人たちにはあったものと思われます。家は立ち退いても、先祖のお墓はそのままかつての村の共同墓地や屋敷内の個人墓地に残したのは、それがゆえであるでしょう。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その4

2012-05-17 05:31:49 | Weblog
「廻米」という言葉がある。「廻米」とは、幕府領(天領)や藩の年貢米を大坂や江戸へ送ること。送られた米は換金されて、家臣の俸禄や幕府・諸藩の財政支出にあてられる。江戸時代の後半になると、それまでの大坂から江戸への廻米量が多くなる。米を安く大量に輸送するには、海や河川を利用すること、つまり船を利用するのが当時においてはもっとも適しており、海に面した藩や天領は海上交通を利用し、内陸部の藩や天領は河川交通をメインに利用しました。関東地方内陸部の場合、その河川交通が活発であったのは、まず何よりも利根川水系であり、そして荒川水系でした。今の私に関心があることの一つは、関東地方内陸諸藩の「廻米」は具体的にどのように行われていたか、ということですが、荒川沿岸で最も栄えたという「江川河岸」(明治になると「新川河岸」となる)が、忍藩の御用船(御手船)が主にこの「江川河岸」を使用していたことを考えあわせてみると、「江川河岸」と忍藩の関係(「廻米」の観点から)を探究していくことがまず肝要かと思われてきました。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その3

2012-05-16 05:27:59 | Weblog
『熊谷郷土カルタ』(熊谷市立図書館)に目を通していると、実はこの『熊谷郷土カルタ』のもとを作ったのは中島迪武(みちたけ)さんであったことを知りました。中島さんは平成14年(2002年)に94歳で亡くなっていることもその本で知りました。『熊谷郷土カルタ』の「に」は、「にぎわった荒川一の河岸の跡」であり、それには新川村の移住の歴史が記されています。「か」は、「雁の絵と訪瓺録は龍泉寺」であり、三ヶ尻村を訪れた渡辺崋山のことが歌われています。「こ」は、「この道は札所へ行くと道しるべ」であり、石原にある道標が歌われ、ここから中山道から分かれて秩父道へと進む巡礼者が描かれています。『熊谷郷土カルタ』は、熊谷の史跡や歴史を45枚のカルタにしたもので、中島迪武さんが市立図書館に持ち込んだ中島さんご自身が作られたカルタをもとにしたものですが、それ以外にも「郷土カルタ」が作られ、たとえば荒川の長土手筋に「カルタパネル」としてその数枚が設置されていたことは、今まで見てきた通りです。どうもあの「カルタパネル」の原型は、中島さんによって長年の郷土研究の蓄積から生み出されたものであり、それが市民の間に定着したものであるようです。私は図書館で、中島さんの『やさしい熊谷の歴史』という本を読み、そのまんべんなく行き届いた記述に、中島さんの郷土研究の深さを知りましたが、その中島さんがその研究の蓄積の上に「郷土カルタ」の原型を作られ、それが市民の間に広がって、「カルタパネル」としてたとえば荒川の長土手にその数枚が設置されて、道ゆく人々にその地域の歴史を知る手がかりになっていることを目の当りにし、郷土史家としての中島さんの大きな功績を認識しました。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その2

2012-05-15 05:22:03 | Weblog
『熊谷市史通史編』によると、荒川の流れが現在の流れに変更されたのは寛永6年(1629年)のこと。それによって分断された北側の下久下村と江川村に河岸ができたという。そして『やさしい熊谷の歴史』によれば、明治7年(1874年)、その下久下村と江川村が合併して新川村となり、江川河岸は新川河岸と呼ばれるようになったという。江戸時代、忍藩の御用船は主に江川河岸を使っており、江川村や下久下村は、船主・河岸問屋・宿屋などが集中し、大変繁盛したのだという。『熊谷郷土カルタ』(熊谷市立図書館)によれば、新川村が全村挙げて移住を決定したのは昭和15年(1940年)。その翌年の昭和16年から25年(1950年)にかけて約70戸が移住したというから、この地域から人家が全て無くなったのは今から60年ほど前のことであったということになります。 . . . 本文を読む

荒川水運「新川河岸」 その1

2012-05-14 04:59:48 | Weblog
荒川の堤を熊谷市街の方へと下って行くと、左手に「熊谷市久下公民館 熊谷市役所久下出張所」があり、その駐車場入口左手前角に案内マップがあったことは、前に記したことがあります。その案内マップには、「100年前の久下新川村は舟運と養蚕で栄えました!!」とあり、かつて荒川の広い河川敷に「久下新川村」という村が存在していたことを、歴史的な記憶として留めるものでした。手前の土手上には、3枚のカルタパネルが並んで立っており、左から、「と 灯籠も昔がたりの白蛇さま」、「む 昔栄えた新川の河岸」、「や 屋敷森のみが残りて昔を語る」とあり、そのうち最後ののカルタパネルから、広い河川敷に島のように点在している森が、かつてそこに屋敷があり、そのまわりを囲んでいた森であり、あるいはその家の庭にあった木々であること、すなわち「屋敷森」であることを知りました。そしてその真ん中のカルタパネルからは、その屋敷のかつての繁栄は、どうやら「新川の河岸」によるものであるらしいことも知りました。「久下公民館」敷地の街道沿いに立つ案内マップは、そのことをわかりやすいイラストと文章で示したもので、私にとって、土手上から見た「屋敷森」とともに、妙に忘れがたいものでした。あの「屋敷森」の屋敷の跡地はどうなっているのか、新川河岸のあたりは現在どうなっているのか、かつての村の墓地はどうなっているのか、それが気になって、「熊谷市立図書館」へと調べ物に行く途中に立ち寄り、かつての「久下(くげ)新川村」を歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

石戸の蒲ザクラ その最終回

2012-05-08 05:27:10 | Weblog
インターネットの「Wikipedia」で「渡辺崋山」を見てみると、天保6年(1835年)5月に琴嶺が亡くなった時の馬琴と崋山にまつわるエピソードが載っています。このエピソードは、馬琴の『後の為の記』によるものであるらしいのですが、私はまだその原文に目を通したことはありません。天保6年当時、崋山は43歳。その3年前(1832年)に崋山は田原藩年寄役末席(禄120石)となり、海防事務掛を兼任するようになり、また高野長英を知り、小関三英らと蘭学への関心を深めています。エピソードとは、次のようなものでした。琴嶺が死んだ時、崋山はその葬儀に赴きますが、その葬儀の場で父馬琴からその琴嶺の肖像画を依頼されます。崋山は、肖像画を描くために棺桶の蓋を開けて琴嶺の顔を覗き込み、さらに火葬された後に琴嶺の頭蓋骨を観察してそれをスケッチしたというのです。これは写実性を追求してやまない崋山の作画態度の真骨頂を示すものと私は思うのですが、琴嶺の父馬琴はその崋山の行為に不快感を覚えたというのです。崋山と琴嶺とは、同じ金子金陵門下の画友として20年ほどの親しい関係にあり、父馬琴が知らない琴嶺のことをいろいろと知っていたものと思われます。琴嶺に対する長年の友人としての思いは、父馬琴とはまた異なるものがあったでしょう。崋山の行為には、単なる写実性の追求にとどまらず、そこには琴嶺に対する深い哀悼の念が存在しているように私には思われます。しかし、父馬琴をはじめ、それを見た人たちには「なんと不謹慎な」という思いが強かったのかも知れません。琴嶺の妻みちはその時30歳。後に目が見えなくなった義父馬琴の、晩年の創作活動を助けることになります。 . . . 本文を読む