鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その3

2015-04-15 06:31:25 | Weblog

  神島灯台への道は、左手に伊良湖水道や太平洋、伊良湖岬などを見ながら、灯明(とおめ)山の東側斜面の白い岩の露出した崖っぷちを延びています。

 灯台の入口にあたる門を入ると、「神島灯台」の案内板がありました。

 それによると、神島は、伊良湖水道を挟んで対岸の伊良湖岬と指呼の間にあり、名古屋港、四日市港の貿易振興上から灯台の設置が久しく建議されていたという。

 明治41年7月、軍艦「朝日」が触礁して朝日礁が発見され、これを明示するために強力な副灯を設置する必要が生じ、海上交通の要衝として明治43年5月1日、近代的な洋式灯台が設置されることになり、当時灯台光源としては石油灯が主力であったが、本灯には明治34年点灯の尻屋崎灯台(青森県、アーク灯)に次ぐ第2号として自家発電による画期的な電気灯が設置されたとのこと。

 また、32ワットのタングステン・フィラメントの白熱電球を用いた我国最初の灯台でもある、と記されていました。

 水面から灯火までは114、1m。

 射灯は400万カンデラで、「コヅカミ礁」を照射する。

 とあって、説明文を読むと、この灯台は伊良湖水道の「コヅカミ礁」を明示するために、灯火をその岩礁帯のある海面を照射するものであることがわかります。

 要するに、伊良湖水道を往来する船舶が安全に航行することができるように設置された灯台ということになります。

 例の『潮騒』関係の案内板もあり、それには、「神島燈台」の説明として、「阿波の鳴門か音戸の瀬戸か伊良湖度合が恐ろしい」と歌われ、日本の三関門の一つとなっている伊良湖水道は、昔から海の難所と言われ、明治初年頃は夜間の航行は危険であったとあり、「伊良湖度合(どあい)」という言葉が紹介されていました。

 この「度合」(どあい)という言葉は崋山の日記にも出て来ます。

 「船ハ波と風とのために右と左にかたぶきながら、その間(あわ)ひをわしりぬけぬけつつ島をまとに行ほどに、かの名におふドワイといえる到る。」

 伊良湖水道の「ドワイ」は、崋山においてもきわめて危険な海の難所であるという認識があり、当時においても有名であったことが、この記述からもわかります。

 案内マップには、「現在地」が赤く示されるとともに、「サシバ」という鳥の写真と説明がありました。

 それによると、サシバはカラス程の大きさの鷹で、春に南西諸島以南から日本に渡来し、繁殖して秋に南方に帰るのだという。中部地方以北で過ごしたサシバが伊良湖岬に一度集結し南下するとから、神島は絶好の観察ポイントになっているとのこと。

 芭蕉は、杜国らとともに訪れた伊良湖岬で、「鷹ひとつ 見つけてうれし いらご崎」という句を詠んでいますが、その「鷹」とは、この「サシバ」であったでしょう。

 南西諸島以南から太平洋の大海原を越えてやってきた「鷹=サシバ」であったのです。

 この灯明山の頂上には、かつて灯明台があり、崋山は島長の又左衛門の弟又右衛門の案内で、その頂上に登り、その頂きにあった「燈明山建物」(灯明堂)を描いています。

 天保4年(1833年)4月17日(陰暦)のこと。

 この灯明山の山頂にあった灯明堂へと登る道は、どこにあったのか。

 八代明神の裏手から上がっていったのだろうか。

 それとも現在神島灯台へと通じる灯明山東側斜面の道を通って、神島灯台のあたりから上へと登っていったのだろうか。

 案内マップを見てみると、八代神社から裏手の山頂へと続く道はなく、神島灯台からは山頂へと続く道がありそうですが、かつてはどうであったかはわかりません。

 崋山は、

 「燈明山に登る。この山ハ島中第一の高山にして、中腹皆松なり。この松の根ハ皆横ニわしりて地に入らず。其長サ凡十間より十四五間にも及ぶべし。これハ地中皆巌なれバなるべし。」

 と記し、そこで崋山の神島に関する記事は中断しています。

 地表に横ざまに延びている長い松の根を避けたり踏み越えたりしながら、灯明堂のある山頂へと、又右衛門の背後から崋山たちは息を切らして登っていったのです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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