鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.10月取材旅行「桐生~小倉山~要害山」 その2

2012-10-31 05:15:11 | Weblog
『毛武と渡邉崋山に関する新研究』(眞尾源一郎)によれば、初代岩本茂兵衛は、桐生新町二丁目の絹買継商玉上甚左衛門に仕えていました。この玉上家の江戸における第一の取引先は、麹町の呉服問屋「岩城桝屋」であり、玉上家はその「岩城桝屋」の専属買継商として両毛地方の絹織物を集め、同店に送っていました。岩本家は主家である玉上家と同様、「岩城桝屋」を主要得意先とし、文化3年(1806年)頃には正式に桐生新町の絹買継仲間に加入しています。3代茂兵衛は堤村の谷(やつ)仲右衛門の二男であり、文政元年(1818年)か文政2年(1819年)頃に崋山の妹茂登(もと)と結婚しています。歳は茂登より10歳ほど上であったらしい。安政2年(1855年)に71歳で亡くなっているということは、生まれたのは天明5年(1785年)頃。崋山の妹茂登と結婚したのは34歳頃であるということになります。崋山が初めて桐生を訪れた天保2年(1831年)当時、岩本茂兵衛は47歳ほど。茂登との結婚生活はもう13年ほどが経過していました。この岩本茂兵衛が生まれた堤村の産土神は白髭神社であり、その正面には石製常夜燈一対が奉献されています。その常夜燈の右側には「天保七年丙申九月吉日」、左側には「岩本茂兵衛」と刻まれているとのことですが、まだ私はそこを訪れてはいません。「天保七年」は西暦で言えば1836年のこと。崋山が初めて桐生を訪れてから5年後の秋、茂兵衛は自分が生まれ育った堤村の白髭神社に、石製常夜灯一対を奉献しているのです。 . . . 本文を読む

2012.10月取材旅行「桐生~小倉山~要害山」 その1

2012-10-30 05:13:18 | Weblog
前回、桐生から渡良瀬川を赤岩橋で越えて要害山や高津戸峡へと赴きましたが、天保2年(1831年)10月16日(旧暦)の崋山は、実は往路においてはこのルートを利用していません。崋山は、この日、まず堤村の岩本茂兵衛の実家(農業の傍ら機織りをしている)を訪ねた後、小倉山上に佐羽淡斎の別荘「十山亭」の跡地を訪ね、それから高津戸村より要害山に登り、そこから下って「高津戸の渡し」を使って大間々に至っています。小倉山とはどういうところか。要害山の頂上はどういうところか。そして高津戸峡の「はね瀧」を見てから立ち寄った「道了権現」(その茶店で小憩している)はどのようなところであったのか。それを探るべく、今月の取材旅行は桐生市内から小倉山と要害山を経て大間々に至るルートを歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その最終回

2012-10-26 05:12:27 | Weblog
『大間々町誌通史編上巻』によれば、文政2年(1819年)当時、大間々の酒造家6軒のうち4軒までが「江州出店」、つまり近江商人の出店であったという。たとえば日野屋善兵衛がそうであり和泉屋久右衛門などがそうでした。『蔵の町大間々まち歩きマップ』の解説によると、奥村酒造は宝暦の時代(18世紀頃)に醤油造りから始まり、寛延2年(1749年)に近江商人の和泉屋九右衛門が酒造業に転換したという。ちなみに清酒「赤城山」を製造する近藤酒造は、明治時代初期の創業で、越後からの出稼酒造店であったらしい。近江商人の店と言えば、岡直三郎商店もそうでした。『まち歩きマップ』によると、創業は天明7年(1787年)で、近江商人である初代岡忠兵衛が「河内屋」の屋号を掲げて醤油醸造業を始めたという。「まち歩き」をした時に、「常夜灯」の案内板や「河内屋木道」のところにあった井戸の案内板などに「『三方良し』の会」という設置者名が記されていましたが、「三方良し」とは、近江商人の精神である「売り手良し、買い手良し、世間良し」を示すものであって、自分だけの利益だけを求めるのではなく、相手の利益も考え、そして周りの人々(世間)の利益をも考えることが、その地域で商売を長く続けていく秘訣であるということを意味しています。私の居住地近くの厚木市においても、近江商人が創業した商店は多く、「江戸地廻り経済圏」を考える際に、「江州出店」の存在を頭に入れておくことの重要性を再確認しました。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その17

2012-10-25 05:20:09 | Weblog
『大間々町誌通史編上巻』によれば、芳賀市三郎の『天保巡見日記』の中に「はね滝」のアユ捕りについての記述が出てきます。その文章は次の通り。「鮎魚数千頭来てこの滝にさかのほる。…漁人岩頭に立て網を以て受て不労(ろうせず)して一瞬之間に数百頭を得る。」崋山がここに来たのは天保2年(1831年)。芳賀市三郎がここに来たのが天保9年(1839年)。そのような渡良瀬川の「はね滝」てせの鮎漁がいつまで続いたかは知らないが、このような鮎漁はずっと昔から近辺の人々によって行われていたものであるに違いない。前掲書によると、現在の大間々町がある一帯はかつては「吹払野」と呼ばれる原野であり、それが慶長年間(江戸時代初期)に開発されていくわけですが、その開発は「高津戸村からの分村」という形で行われたのではないか、とのこと。つまり高津戸村の一部の人々が原野を開発して農地を切り開いていったというのです。その一部の人々というのが「大間々六人衆」または「草分け六人衆」と呼ばれる人たちであり、すなわち高草木(たかくさぎ)津島・大塚城四郎・長沢伊織・金子修理・須永逸平・佐藤太郎左衛門の6人でした。この高津戸村というのは、大間々から言えば、渡良瀬川を「高津戸の渡し」で東へと渡った、要害山の南側にある村であり、崋山は「これ天正の頃里見一族の居住せし所といふ。居城の地は山上にて、むかしはいかに称えしや、今ハ要害山とて上、八幡(今金毘羅)あり」と記しています。崋山はその高津戸村から要害山に登ってから下山、山下に「里見十二騎の墓」があると聞いたものの日暮れに近かったのでそこには立ち寄らず、高津戸村から渡良瀬川岸の崖を下って「高津戸の渡し」へと至ったのです。ということは、「はね滝」でずっと昔から夏になると豪快な鮎漁を行っていた人々は、高津戸村の人々ではなかったかと思われてきます。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その16

2012-10-23 05:26:58 | Weblog
「高津戸峡」は足尾山地から流れ出る渡良瀬川の中流に位置しています。「関東の耶馬溪」とも称される景勝地であり、東毛地方を代表する新緑や紅葉の名所となっているという。現在は高津戸橋やはねたき橋が峡谷に架かっていますが、かつては橋はなく、「高津戸の渡し」で渡良瀬川を渡っていました。しかしこの「渡し」は、両岸から張られた綱があって、それをつかみながら川を渡るというものでした。崋山も次のように記しています。「川の真中に綱引わたし、此(この)綱をかぢとなして棹をもちひず」。この記述からすると、この「高津戸の渡し」には渡し舟があって船頭はいるものの、船頭は棹を用いないで両岸から張られた綱をたぐりながら舟を進ませたということになります。峡谷だから川幅は狭いけれども水深は深く、流れは急であったでしょう。崋山もその舟に乗って渡良瀬川を渡り、大間々町のある対岸へと上陸したのです。「左様より巌聳(そびえ)て、上はたゞ松くらきばかりに生いしげり、中に霜葉の打まじりたる、いとあはれなり」と崋山は記しています。峡谷の左側(西側)には巨岩がそびえ、急な斜面には松が黒く生い茂っているが、その中に「霜葉」すなわち「紅葉」が点々と打ちまじっている。ちょうど紅葉が美しい時期であり、崋山は渡し舟から見上げるその高津戸峡の秋の風景に感嘆の声を上げています。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その15

2012-10-22 05:50:34 | Weblog
天保2年(1831年)10月16日(旧暦)の、崋山一行の要害山往復ルートをもう一度確認してみたい。桐生新町(岩本家)→堤村の谷(やつ)家→小倉峠→小倉山上「十山亭」跡地→高津戸村→要害山→高津戸の渡し(渡良瀬川)→大間々神明宮→はね滝→道了権現→大間々町→天王宿堤家→桐生新町(岩本家)。堤村の谷家は岩本茂兵衛の実家。天王宿の堤定右衛門は茂兵衛の養い親。茂兵衛の実親や養い親を訪ねて挨拶をする旅でもあったのです。さて、崋山は大間々へは高津戸の渡しを渡って入り、川沿いに大間々神明宮へ行き、それからはね滝をへて道了権現に立ち寄り、そこから大間々町を経て桑畑が両側に広がる街道を天王宿へと向かっています。私の場合は赤岩橋(かつての赤岩の渡し付近)、天王宿を経て大間々町の本通りに至り、そこから高津戸峡へと向かいました。行く手正面には、崋山がその頂に登ったところの要害山を見ることになります。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その14

2012-10-21 06:21:11 | Weblog
『蔵の町大間々まち歩きマップ』の解説によると、大間々町は渡良瀬川が形成した大間々扇状地の要である扇頂地に位置しています。扇頂部は砂礫層が堆積しているため土質はよくなく地下水位も低いので、水田は開かれず畑作地として利用されてきました。しかし渡良瀬川の渓谷の谷口に位置するため商業交通の要地として発達できる条件を有していました。大間々町は江戸時代初期に、高草木氏ら6人が開発したと伝えられ、江戸時代前半に銅(あかがね)街道の宿場町として、また近隣近在の物資を集める市場町として発展してきました。扇頂部に位置していて地下水位が低いことから、火災が発生しても消化用水を得るのが容易ではなく、大間々は大火に見舞われることが多かったという。記録による大火は江戸時代に4回、明治に入ってからもしばしばあり、最も被害の多かったのは明治28年(1895年)4月26日の大火で、この大火の歴史が大間々町を「蔵の街」にしたのだとのこと。したがって大間々町の「蔵の街」の姿は、ほとんどが明治28年の大火以後に造られた建造物によるものであるという。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その13

2012-10-19 05:27:53 | Weblog
要害山から下り、高津戸の渡しで渡良瀬川を越えて大間々に至った崋山は、大間々を次のように描写しています。「此わたりは大間々とてむかしは村なりけるを、今は人家稠密になりて機織をもはらとす。月六たび絹糸の市をなし、遠き村々よりも人いりつどいて、終に上にも村とハ称サズして町とハ申せしとぞ。街凡十町あまり、家六七百戸にあまりぬらん。これも又酒井大学頭殿の領地なり。」「月六たび」の市とは四・八の日に行われる「六斎市」のこと。文政11年(1828年)の家数が689軒だったから、「家六七百戸」とするのはほぼ正しい。「これも又酒井大学頭殿の領地」というのは、桐生新町もそうだがこの大間々町もまた出羽松山藩の領分であるということ。「絹糸の市」と記していますが、大間々が享保16年(1731年)以後、原料糸の供給市場へと性格を変え、糸繭市場として繁栄していった町であることは以前に触れた通りで、その「原料糸の供給市場」「糸繭市場」としての大間々の町の性格を的確に捉えたもの。同行している岩本茂兵衛から、くわしく聞いたことであるのかも知れない。大間々は「桐生機業地への原料糸供給市場」であったからです。しかし崋山は触れていませんが、大間々にはもう一つの町の性格がありました。それは足尾銅山街道沿いの「荷継宿」の一つであったということです。「銅山街道」とは、幕府御用銅の江戸ーの輸送ルートのことであり、足尾の銅は花輪・大間々・大原などの「荷継場」を経て利根川の前島河岸(元禄年間以降)へと陸路運ばれ、前島河岸からは利根川・江戸川水運を利用して江戸浅草の蔵まで運ばれていきました。そのことを崋山が同行する岩本茂兵衛らから聞いて知っていたかどうかは、記録の上からはわかりません。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その12

2012-10-17 05:36:05 | Weblog
『大間々町誌 通史編上巻』に「為登師(のぼせし)」という語句が出て来ました。この「為登師(のぼせし)」とは、京都・大坂・名古屋などの糸絹問屋へ向けて移出される絹や糸を扱う商人のことで、その絹のことを「為登絹(のぼせぎぬ)」、糸のことを「為登糸」と言ったようです。ということは桐生や大間々にはこの「為登師(のぼせし)」と呼ばれる絹商人や糸商人がいたことになります。『大間々町誌 通史編上巻』によれば、天保14年(1843年)当時、大間々には368軒の農間渡世を営む世帯があり、そのうち39軒が「糸繭商」でした。この「糸繭商」の中に、京都・大坂・名古屋などの糸繭問屋へ向けて糸繭を移出する商人、つまり「為登師(のぼせし)」もいたのではないか。彼らは中山道や東海道を頻繁に往復する存在だったのではないか。桐生の「絹買継商」にも、江戸ばかりか京都・大坂・名古屋などの絹織物問屋と密接な関係を持つ者たちがいたものと思われる。前掲書には、「桐生絹を買付け対象としている都市呉服問屋たる三井越後屋」といった記述があり、「京都糸絹問屋」の「三井家」と、「桐生絹」との深い関係を伺わせます。岩本茂兵衛は京都に商用で赴く際に、崋山から彼の友人への伝言を依頼されたことがありますが(天保2年〔1831年〕4月のこと)、桐生の新興買継商岩本茂兵衛も、江戸ばかりか京都ととも深い関係を持ち、中山道や東海道をしばしば往復することがあったのではないかと推測されます。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その11

2012-10-16 05:56:36 | Weblog
大間々は渡良瀬川の「谷口集落」として近世初頭より町場を形成し、四・八の日に月六回市立て(六斎市)する「市場集落」でした。渡良瀬川上流域をはじめとする周辺地域からの物資の集散地であり、生糸・絹・穀物・酒・油・茶・塩・木綿・薪炭などが取り引きされていました。桐生の絹市が、四・八の大間々絹市の前日、すなわち三・七日に改まったのが享保16年(1731年)の2月13日のことであり、この日が桐生絹市の初日と定められ、その後桐生新町が桐生領54ヶ村の絹織物の生産・流通センターとして目覚ましい発展を遂げていくことになりました。一方、大間々はそれ以後、原料糸の供給市場へと性格を変え、糸繭市場として繁栄していくことになりました(『大間々町誌通史編上巻』による)。文政11年(1828年)当時の家数が689軒で人別が3279人。天保2年(1831年)当時の桐生新町の人口が4100人ちょっとであったから、桐生に匹敵する規模の町であったことになります。この大間々町は、桐生新町と同様に出羽松山藩の領分でした(安永9年〔1780年〕より)。また桐生新町と同様に近世初頭(慶長年間)に新たに開発されて出来た町であって、もともとは渡良瀬川谷口の「吹払野」と呼ばれた原野であったらしい。この原野を拓いた人々は「大間々六人衆」あるいは「草分け六人衆」と呼ばれ、代々大間々の町政を担っていった人たちでした。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その10

2012-10-15 05:45:01 | Weblog
前掲書によれば、桐生の織物業は、江戸時代の半ばの18世紀に京都の西陣からの技術移転を契機に発展し、19世紀半ばの生産額は年間70万両にも上りました。取引先は半分が江戸、残りが諸国取引(これを「田舎口」といった)であって、圧倒的に江戸に顔を向けていたことになります。天保9年(1838年)、桐生最大の買継商の佐羽(さば)家は、江戸に出張所を設け、その4年後には支店と名前を改めているという。また小野里家も江戸に支店を設けています。また江戸から桐生に送金する場合は、為替ではなくて現金で送るのが普通であったという指摘もありました。「江戸の流行の変化をいち早くキャッチし、クイックレスポンス」して、「江戸市場の需要に応じた商品づくり」を行う上で、桐生と江戸を頻繁に往復したはずの桐生の買継商の果たした役割は大きい。彼らはその情報をもとに地方の機屋を丹念に回る存在でもありました。岩本茂兵衛もそのような買継商の一人であり、桐生と江戸を頻繁に往復するとともに、桐生およびその周辺の機屋回りを丹念に行っている商人であったでしょう。桐生から徒歩2時間ほどの大間々への道などは、買継商岩本茂兵衛にとってはよく見知っている道の一つであったに違いない。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その9

2012-10-14 07:00:31 | Weblog
前掲書『桐生織物と買継商─書上文左衛門家の300年─』によれば、織物「買継商」は、江戸時代においては「絹買」「絹仲買」「仲買」「絹買次」などと史料などには記されているという。「買継商」とは、「商品を生産する機屋から織物を買い取り、それを都市部の集散地問屋に売ることを商売とする」「機屋と問屋の中間で商品を取り扱った仲買商人」のことであり、仲介料である「口銭(こうせん)」は、買継商の収入の約8割を占めたとのこと。「買継商」は広い販売網と豊かな情報を持ち、桐生の「買継商」は、「江戸から百キロ圏内に位置し、江戸の流行の変化をいち早くキャッチし、クイックレスポンスできる地の利」を活かして、「江戸市場の需要に応じた商品づくり」をしていたという記述は、たいへん興味深いものでした。天保7年(1836年)4月の時点で、桐生新町には20数名の買継商がおり、その中の一人が桐生新町二丁目の岩本茂兵衛であり、その人物こそ、崋山の妹茂登が嫁いだ相手、つまり崋山の義理の弟(年齢は茂兵衛が上)であったのです。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その8

2012-10-12 05:39:34 | Weblog
桐生新町の成り立ちの概略については、「桐生本町一、二丁目まち歩きマップ」の「本町一・二丁目」の解説が参考になる。それによれば、この桐生新町あたりは、江戸時代初期においては「赤城森」を含めて「荒戸原」と呼ばれていた未開拓地であり、桐生川が山間から平地に出たところに久方村や荒戸村といったわずかな集落があったようだ。徳川家康の領地となった桐生領を治めるために、代官大久保長安の手代大野八右衛門が派遣されてきましたが、彼は「赤城森」といわれていた現在の天満宮の地に、久方村の梅原天神を遷し、さこを宿頭にして南へ一直線の道路を拡幅。その両側に人々を住まわせました。そして本町六丁目までの町並みが完成したのが慶長11年(1606年)頃のことでした。道路の両側の土地を間口およそ6間(約10.8m)、奥行き40間(約72m)に区割りし、これを一軒前として、支配下の各村から積極的に分家させたり、近隣から入植者を募ったりしたと考えられているという。『大間々町誌通史編上巻』によれば、桐生新町が桐生領54ヶ村の絹織物の生産・流通センターとして目覚ましい発展を遂げるようになったのは享保16年(1731年)からのことで、また出羽松山藩酒井家の「別封」となったのは安永8年(1779年)のこと(山田・勢田両郡内で5千石を加増される)であり、出張陣屋として桐生陣屋が完成したのは天明5年(1785年)のことでした。崋山が「封ハ三百七十石、その税定額十倍すといふ」と記したように、この桐生新町の財力は、東北の小藩出羽松山藩の藩財政に大きく寄与することになりました。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その7

2012-10-10 05:53:14 | Weblog
『桐生織物と買継商─書上文左衛門家の300年─』(桐生文化史談会)という本が桐生市立図書館にあり、それによれば、書上家(本家)に7代文左衛門というのがおり、この7代文左衛門は文化11年(1814年)から文政2年(1819年)まで桐生新町の名主を務めていましたが、文政4年(1821年)に隠居して又左衛門と改名。翌年名主に再任されて天保8年(1837年)まで名主を務めています。ということは、崋山が桐生に初めて滞在していた頃の桐生新町の名主は書上又左衛門であったことになります。しかしこの7代目文左衛門の時に書上家(本家)は借財のために傾きかけてしまい、8代文左衛門がその再建に尽力。書上一門の墓は円満寺にありますが、7代文左衛門(又左衛門)の墓はその一門の墓の中になく、やや離れたところにあるのは、「町政も家業もおろそかのため書上一門から義絶された」からだ、といった話が紹介されています。8代文左衛門(勝安)は桐生新町組頭を務めるとともに「陣屋守」を務めています。「陣屋守」というのは、出羽松山藩の「陣屋」に勤めて分領の支配を行う現地の有力者(町人)であり、この書上家(本家)も佐羽家(本家)とともに桐生の町政を担った有力一族であったことがわかります。この本には、天保7年(1836年)4月の桐生新町買継商一覧表(P18)の中に、No24として「岩本茂兵衛」の名前が出てきており、また天保2年(1831年)当時の桐生新町の人口として「4107」という数字が出て来ます。崋山が雷電山の頂から桐生新町を俯瞰した時、その桐生天満宮からまっすぐに延びる通り沿いおよび近辺に居住していた人々は、4000人を超えていたことになります。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その6

2012-10-09 06:10:36 | Weblog
崋山が桐生新町の岩本茂兵衛(妹茂登の夫)家に到着したのは、天保2年(1831年)10月12日の深夜。岩本家に居住するのは当主である3代目茂兵衛、その妻茂登、その長男喜太郎、初代茂兵衛の後妻である幸(茂登にとって姑にあたる)、その使用人たち。その深夜に崋山の来着を知って駆け付けてきたのが医者津久井承宅の妻のぶ(田原藩士斎藤式右衛門の妹)。13日に酒一升を携えてやってきたのは左官助次郎(岩本家出入りの左官で、前日丸山宿で崋山一行を迎えた一人)、同じく酒一升を携えてきたのがお歌という女性(たち糸を生業としている)。北隣の酒屋近江屋喜兵衛(日野屋)の手代善助。前原藤兵衛の妻(2代目茂兵衛の時に仕えた女性)。14日に崋山が茂兵衛・喜太郎とともに挨拶回りをした「こゝろやすき人々」とは、岩本家の主家筋にあたる織物買次商玉上甚左衛門など。この日の夜も崋山を訪ねて来る人たちがいました。15日の午前、崋山は何人かの人々を訪ねていますが、誰かはわからない。その日の午後、紙と筆、そして弁当を持った崋山は、桐生町の「地勢」を俯瞰できる場所を求めて、西方に見える山へと向かい、ついに雷電山という山の頂から桐生町の「地勢」を観察し、それを写生します。この雷電山が現在の水道山のこと。崋山はこの日以後も、医者八木橋元恭・織物業田村金兵衛・その金兵衛の母親・金兵衛の妹梶・医者奥山昌庵・織物買次商栗田重蔵・同佐羽蘭渓(清助)・医者荒井玄圃・石田要助・桐生織物の図案家石田常蔵(九野)・医者津久井祐斎・紋屋左兵衛・荻野清次郎・津久井承宅の娘ぬいなど実に多くの桐生の人々と出会っていますが、これらの人々が日々の暮らしを営んでいた桐生の町全体を、崋山が雷電山の頂から俯瞰して描いた写生画が『定本渡辺崋山 第Ⅱ巻 手控編』に収められています。 . . . 本文を読む