鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その7

2015-04-20 05:51:35 | Weblog
崋山たちが、両側に人家が並ぶ谷川に沿って坂道を上がり、又左衛門の家を訪ねると、又左衛門は突然の武士の訪問にびっくりした様子。供の鈴木喜六が、この方は田原城下からやってきた客人で、和地村の医福寺から長流寺に泊まるようにと紹介されたのだと言ったところ、又左衛門はたいそう喜んで、「それで安心しました。ではまずはこちらへお入りください」と言って、炉辺に迎え入れ、お茶やたばこ盆などを出し、もてなしてくれました。やがて付近の人たちも物珍しくやってきて、まるで桃源郷に入った漁師のような気分を崋山は味わいます。そうこうしているうちに、奥の間に畳を敷き並べて、「まずこちらへお入りください」と案内したのは、又左衛門の弟で又右衛門というもの。この又右衛門は、翌日、崋山たちを島見物に誘い、案内をしてくれる人。又左衛門には17,8歳ばかりの娘がいるから、年齢はおよそ40半ばほど。弟の又右衛門にも娘がいて、又右衛門所有の網船が帰って来た時、その妻も娘も、海女たちに混じって網から魚を取りだしたり、網を乾かして収めたりなどまめまめしく立ち働いています。又左衛門の17,8ばかりの娘も含めて、女たちは、伊勢松坂の縞木綿で作った襦袢のようなものを着て、その上に前垂れというものを結んでおり、帯をしている者は一人もいない。家の中では女たちはそのような服装だが、磯に出る時には女たちはみんな上半身は裸で、腰に襦袢状のものを巻きつけているだけ。仕事に出る時には「あしなか」を履いて、磯辺を歩いたり走ったりしています。神島の漁師の妻や娘たちは海女をなりわいとしており、「おそろしきあら海の中にくゞり入」ってアワビやワカメなどを採取しており、崋山たちが上陸したと思われる「ニワの浜」周辺の岩礁地帯は、特にアワビがたくさん採れる場所であったのです。崋山は、海女は「漁夫の妻娘どものミこれをなりわひとし」と記しているから、「島長」として漁獲物の売買や諸物の交易をもっぱらとしている又左衛門やその弟の又右衛門の妻や娘たちは、海女としての仕事はしていなかったものと思われます。しかし父親の持ち船(網船)が漁から帰って来た時には、漁師の女たちに混じって、網から魚を取り出したり、網を乾かしたり、乾かした網を収めたりと、まめまめしく立ち働いていたのでしょう。 . . . 本文を読む