鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.「露研」の旅─豆州熱海温泉 その2

2007-03-30 21:21:56 | Weblog
 この1年間で、完全に夜型から朝型に変わったので、夜11時過ぎに寝ても、朝3:50に目が覚めてしまいます。アルコールはそれほど飲んでいないので、頭痛を覚えることもなくいたって快調。タオルを片手に本館の大浴場に向かいました。途中の通路で、まだ朝早いというのに、人の甲高い声がします。こんなに早いのに何をしているのだろうと思いつつ歩を進めると、なんと、パソコンが並んでいる通路左側に、小学生の高学年と思われる少年たちが、パソコンの画面に向かってゲームをしているのです。みんな知り合いのようで、おそらく大人の引率で泊まりに来た部活か何かの集団のようです。修学旅行などで、「非日常の空間」で、「非日常的時間」を親しい仲間と過ごすことは最大の楽しみなのですが、この少年たちも、昨夜遅くからここでゲームを楽しんでいるのでしょう。ま、それにしても時代は変わったものです。かく言う私も、その少年たちに混じって、空いていた1台のパソコンの前に座って、自分のブログと「お気に入り」のサイトを開き、目を通しました。自分のパソコンではないパソコンに(しかも宿泊先のホテルのパソコンに)自分のブログが出てきて、それに目を通すことができるというのは、それはそれなりに新鮮な感動だったのです。風呂から上がって部屋に戻ってすぐに着替えをし、愛用の取材用のショルダーバッグ(取材用具一式が入っている)を肩に掛けて、ホテルの玄関脇から外に出ようとしたところ、外は雨。部屋に折りたたみ傘を取りに戻ろうとしたところ、玄関の脇に白い傘が置いてあるのが目に入り、それを借りて外に出ることに。ホテル前を歩いていた従業員の方に「大湯間欠泉」への道を確認し、ホテル前の坂道を左手に上ります。すぐの通りを渡ると、「大湯間欠泉→」の標示と、電柱に「立ち寄りの湯 大湯日航亭 入口→」の看板。それにしたがって進むと、左手に「大湯間欠泉」がありました。  . . . 本文を読む

2007.「露研」の旅─豆州熱海温泉 その1

2007-03-27 21:41:42 | Weblog
 毎年3月暮れの土・日には、「露天風呂をこよなく愛する仲間たち」との年1回の「忘年度」旅行が行われています。その仲間たちの会の名前は「露研」。もちろん「ロシア(露西亜)研究会」ではなく「露天風呂研究会」の略。「露天風呂」に入ることを不可欠のポイントとして、東京・神奈川近郊の「露天風呂」のある宿泊施設に泊まり、過去1年間を振り返り、今後1年間に向けての英気を養うのです。メンバーの数は私を入れて6名。全員が50代。発足したのは1992年(平成4年)。その年3月に長野県白骨温泉に行ったのが最初となります。それ以前にも日帰りでの箱根立ち寄り湯温泉ツアーなどをひんぱんにやっていたのですが、「露天風呂」を楽しみ「忘年度」ないし「忘年」を目的として年1回の旅をするようになったのは、この白骨温泉の旅がきっかけです。それ以後、今年まで、1度実行できなかった年があるものの、それ以外は毎年「露研」の旅を行っており、振り返って数えてみると15回という勘定になります。行き先は多くは箱根・伊豆方面(湯西川温泉と焼津温泉を除いて)。我々が住むところから1泊2日でのんびりと、となるとやはり行き先は限られてきます。以前は、12月の暮れに文字通り「忘年」旅行をしていた時もありますが、最近は3月末の土・日に定着しています。今後もそうでしょう。メンバーは、渋谷区笹塚に住むT・Tさん。川崎市中野島に住むT・Aさん。練馬区光が丘に住むH・Tさん。町田市野津田に住むN・Mさん。相模原市橋本に住むY・Iさん、それに愛甲郡愛川町に住む私。今回の行き先は、昨年に引き続き熱海。企画も、前回に引き続きY・Iさん。1日目は、小田原の「ラーメン宿場町」で昼食。小田原城址公園で花見。2日目は、熱海で「起雲閣」と「芸妓見番歌舞練場」の見学と盛り沢山。宿泊先は「大湯間欠泉」に近い「ニューフジヤホテル」。取材の準備もして、集合場所である小田急町田駅に向かいました。 . . . 本文を読む

2007.3月の「東海道品川宿」取材旅行 その3

2007-03-24 06:39:55 | Weblog
 品川宿は、初めは「南品川宿」と「北品川宿」の両宿で成り立っていましたが、享保7年(1722年)に「北品川宿」のさらに北の「歩行(かち)新宿」が宿場として認められ、全部で3宿となりました。この「歩行新宿」のさらに北側は「高輪」で、JR品川駅は「品川宿」の北に位置することになります。「南品川宿」と「北品川宿」を隔てている川は目黒川(江戸時代は「境川」とも言われる)。この目黒川の河口辺りは品川の湊(みなと)であり、江戸の外港としてかつては夥(おびただ)しい数の船が出入りして賑わったところ。品川宿には、本陣1軒と脇本陣2軒があり、その本陣は「北品川宿」に、脇本陣は「南品川宿」と「歩行新宿」にありました(人馬の継ぎ立てをする問屋場は「南品川宿」にありました)。「歩行新宿」には、「食売(めしうり)旅籠(はたご)」(「飯盛旅籠」ともいい、客に春を売る「飯盛女」がいる)や水茶屋が集中し、遊郭が集中した江戸北部の吉原(よしわら)に次ぐ繁栄を見せました。この旅籠の中に「相模屋」という大きな旅籠がありました。ここは1階外壁が「土蔵」のように海鼠(なまこ)壁であったために「土蔵相模」とも言われた旅籠で、幕末の、水戸脱藩浪士による大老井伊直弼襲撃事件(「桜田門外の変」)や長州藩士による御殿山の英国公使館の焼き討ち事件に関係するところです。この「土蔵相模」の2階の大広間からは、品川の波静かな海を見晴るかすことができました。今の様子からは想像が出来ませんが、この品川宿のすぐ東側には、江戸湾が広がっていたのです。西側には、桜の名所として知られた御殿山があったのですが、品川台場築造のために土砂が採取されたり、東海道本線の敷設工事で切り通しとなったりして、現在はその姿をまったく留(とど)めてはいません。と、全体を概観したところで、早速目黒川を渡りましょう。 . . . 本文を読む

2007.3月の「東海道品川宿」取材旅行 その2

2007-03-22 21:37:01 | Weblog
「品川宿」と銘打ちながら、品川宿に入るまでのところで前回は終わってしまいました。取材していて思うことは、東海道はやはり歴史が詰まっているということ。いや東海道ばかりではなく、どの街道も(そして町も村も)歴史が詰まっているといっていいでしょう。私の場合、幕末・明治に絞っている(そうでない場合もありますが)のですが、それでも面白いことや興味深いことに次々と出会います。品川宿に入るまでの道筋には、正直言って余り期待していなかったのですが、それでも前回に報告したぐらいのことがありました。時代を広げ、また周辺をもっと探索していれば、もっともっとあったことでしょう。残念ながら、そこのところはあきらめざるをえない。もしかしたら、また別の機会に調べる必要が出て来て、出向くことになるかも知れませんが…。「あきらめるのも能力のうち」と、勤務したての時に先輩の方から言われたことがあり、折に触れ、その言葉を思い出すことがあります。と、前書きが長くなりました。通り両側の街灯の柱に「青物横丁商店街 東海道品川宿」の標示。いよいよ品川宿に入ります。 . . . 本文を読む

2007.3月の「東海道品川宿」取材旅行 その1

2007-03-18 14:15:17 | Weblog
 先月は、鶴見川橋から六郷土手まで歩きました。今月は、六郷土手から品川までを歩きます。もちろん初めてのところです。メインは何と言っても「江戸四宿」の1つである品川宿。東海道第一宿として、旅の出迎えや見送りをしたり、江戸に入る大名が行列や身なりを整える宿場として、大いに繁盛しました。飯盛女も多く、近くの武家屋敷の武士やお寺の僧侶たち(たとえば薩摩藩士や増上寺の僧侶など)もよく遊びに来ていたところだったようです。旅籠(はたご)や水茶屋も多く、規模としては東海道第一の宿場でした。特に「土蔵相模」と呼ばれた旅籠「相模屋」の場所や、品川宿からはやや離れますが鈴ヶ森刑場の跡地や高輪の東禅寺は、前々からぜひ見ておきたいと思っていたところです。鈴ヶ森から北品川の八ツ山橋までは、旧東海道が昔の道幅のまま残っている(第一京浜から外れているため)ということなので、街道の雰囲気もそれなりに楽しめそうです。  天気も一日中曇ということなので、いつものように小田急線座間駅の近くに車を止め、座間駅から海老名駅まで行き、海老名から相鉄線で横浜駅。横浜から京浜急行に乗り換え六郷土手駅まで。六郷土手駅に着いたのは7:35でした。 . . . 本文を読む

長崎の済美館学頭・平井義十郎について その3

2007-03-17 05:40:43 | Weblog
中江兆民がフランス語を学んだ長崎「済美館」の学頭平井義十郎は、すでに文久3年(1863年)7月、片淵町に「英語稽古所」か設けられた際、何礼之助(があやのすけ)とともにその学頭となっていて、当時の長崎奉行から何とともに異例の抜擢を受け、幕府御家人(長崎奉行支配定役格〔さだめやくかく〕)になりました。「英語稽古所」が江戸町に移転して「洋学所」になり、それがまた大村町に移って「語学所」となり、さらに新町に移って「済美館」となっても、それらの学頭であることは変わりませんでした。義十郎は、この間に、中国語・英語ばかりか、フランス語も学んでいます。フランス語を学んだ相手は、再来日したシーボルト(1859年の夏、長崎到着。彼はフランス語にも通じていました・1796~1866)やフランス人商人ビクネット(さらに長崎駐在フランス領事レオン・デュリー〔1822~91〕であった可能性も)らのようです。義十郎は、慶応元年(1865年)9月に「済美館」学頭となっていますが、おそらくその翌月の10月に、藩により留学を命ぜられて高知から長崎にやって来た中江兆民が「済美館」に入学しました。学頭の義十郎は、志筑龍三郎、フランス人宣教師プティジャン、フィーゲとともに、20人ばかりの学生に対してフランス語を教えました。その学生の中に、若き日の中江兆民や山本松次郎らがいたわけです。 . . . 本文を読む

長崎の済美館学頭・平井義十郎について その2

2007-03-11 06:15:23 | Weblog
 杉浦明平さんの著書に『崋山探索』というのがあり、幕末の先覚者渡辺崋山について杉浦さんが詳しく探究していった経過やその結果判明したことなどがまとめられています。崋山についての小説を書くために「探索」していった、その忍耐強い、徹底した追求の姿勢に感嘆したものですが、私も、杉浦さんのような「探索」を見習っていきたいと思っています。大仏(おさらぎ)次郎さんの『天皇の世紀』、萩原延壽さんの『遠い崖』、吉村昭さんの一連の歴史小説などは、その執念とも言える「探索」の姿勢、またその迫力に圧倒されてしまいます。ということで、私の「兆民探索」。兆民(篤助)が長崎で出会った人物の一人、平井義十郎を中心に、兆民が学んだ「済美館(せいびかん)」のことなどについて、引き続きまとめていきます。 . . . 本文を読む

長崎の済美館学頭・平井義十郎について その1

2007-03-09 19:22:56 | Weblog
 中江兆民が土佐藩留学生として長崎に留学した時に、確実に出会った人物として、海援隊隊長であった坂本龍馬、その秘書とも言える海援隊文司長岡謙吉を挙げることが出来ます。ほかに、岩崎弥太郎や後藤象二郎など、よく名前の知られている人物たちも。さらに、おそらく出会ったであろう人物として、藩校文武館(後に致道館)において兆民に蘭学を教えたことのある萩原三圭(さんけい)も挙げることが出来るでしょう。彼らはいずれも、兆民と同じく土佐藩出身ですが、土佐藩出身以外で、兆民が確実に出会ったであろう人物の一人として、長崎で兆民が入学した幕府直轄の語学校「済美館(せいびかん)」の学頭であった平井義十郎を挙げることが出来ます。この平井義十郎がどんな人物であったかを知ることは、長崎を舞台にした、兆民を主人公とした歴史小説を書く場合、とても重要なことでした。『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)や『日本洋学人名事典』(柏書房)に名前が出てきてその生涯の概略を知ることが出来ますが、それほど詳しくは書かれておらず、私が『波濤の果て 中江兆民の長崎』(2004年)を書いた時は、この平井義十郎については、結局、辞典や事典にまとめられている程度のことしかわからなかったのですが、後に、古書店(おそらく神田だったと思う)で『維新の澪標(みおつくし) ─通詞平井希昌(ゆきまさ)の生涯─』平井洋(新人物往来社)という本を見つけたのです。この「平井希昌」こそ「済美館」学頭であった「平井義十郎」のことでした。この本の著者である平井洋さんは、平井義十郎の孫にあたる方で、1996年(平成8年)2月に、祖父である平井義十郎(希昌)の逝去百年祭を行われています。この本をインターネットで検索しても、関連事項は何も出てこないので、おそらく自費出版か何かで市場には出回っていない本のように思われます(ちなみに発行月日は、1997年11月1日)。ということで、おもにこの本に依拠しつつ、これからしばらく長崎時代の兆民について、この平井義十郎を中心にまとめてみることにします。 . . . 本文を読む

中江兆民の蘭学教師・萩原三圭について その2

2007-03-03 06:59:53 | Weblog
萩原三圭(1840~1894)は、慶応元年(1865年)、高知より長崎に出て、小島郷宇佐古にある精得館で、オランダ人教師ボードウィン(1820~1885)、マンスフェルト(1832~1912・ウトレヒト陸軍軍医学校でボードウィンから教育を受ける)よりオランダ医学を学んでいます。三圭が長崎でどういう生活を送ったのか、また同じ年に長崎に出て来た(藩より留学生として派遣され、新町にあった済美館〔せいびかん〕でフランス語を学ぶ)、かつての教え子である中江兆民と接触があったのか、なかったのかなどについては、何の資料も残されておらず、まったくわかりません。   . . . 本文を読む