蜷川式胤(にながわのりたね)や写真師横山松三郎らが、旧江戸城の撮影を行ったのは明治4年(1871年)3月9日を含む数日のこと。この「3月9日」は旧暦だから新暦に直すと「4月28日」となり、もう初夏に近い時期。蜷川式胤と思われる人物が、洋傘を日傘のようにさしているの、この時期的なことを考えれば納得できます。当時、蜷川は36歳。松三郎は33歳。撮影に関わった一行の人数は、蜷川や横山を含め20名弱(警備の者も含む)。一行の撮影コースは、岡部昌幸さんによると、本丸天守台→二の丸→本丸→西丸→内曲輪→外曲輪ということになる。本丸・二の丸およびその周辺が35枚、西丸およびその周辺が3枚、内曲輪の見附付近が17枚、外曲輪の見附付近が9枚、計64枚(『旧江戸城写真帖』に納められたもの)。そのうち、本丸御殿跡から中雀門などを写した写真(コロディオン湿板)のネガに「明治四年三月九日 横山松三郎写之」と墨書されており、この旧江戸城の撮影日が「三月九日」を含むものであることがわかる。岡部さんの推測した撮影ルートから考えると、本丸や二の丸などを含む写真を撮影したのは「三月九日」か、あるいはそれ以後のことと思われる。撮影した写真機は、「外桜田門・桜田堀」を写した写真の真ん中に写しこまれています。写真機は複数使ったことが、この写真からわかります。東京国立博物館所蔵の『旧江戸城写真帖』全64枚には蜷川式胤によって、ところどころに建物や場所の記載がされているという。ということは『写真で見る江戸東京』の「第一部 江戸城残影」の写真は、東京国立博物館所蔵のものということになり、写真の書き込みは蜷川式胤によるものということになる。この書き込みから江戸城のどこを写した写真なのかがわかるのですが、もっと詳しくは、蜷川が明治11年(1878年)に刊行した『観古図説 城郭之部』(73枚の写真が収録されている)からわかり、撮影地点については『横山松三郎』(企画展示カタログ)のP26~27からわかります。 . . . 本文を読む
横山松三郎は天保9年(1838年)に千島列島の択捉(エトロフ)島で生まれています。松三郎の出自についてもっとも詳しいのは、『幕末・明治の東京─横山松三郎を中心に─』東京都写真美術館編集(東京文化振興会)で、それによると松三郎の祖父文六(初代)は、高田屋嘉兵衛がエトロフ漁場を開いた時の支配人で、現在の青森県津軽郡大畑町の出身。父文六(2代)は近江商人の3店共同の支配人で、母みやは現在の青森県津軽郡田舎館村の出身。祖父も母も津軽の出身ということになる。しかし択捉島に長く住んでいたわけではなく、幼少期に家族とともに箱館に移り住んでいます。幕末の箱館が、日本の写真史において重要な土地の一つであることは、函館を訪れた時に実感したことですが(このブログでかつて触れたことがあります)、たとえば、ペリー艦隊従軍写真家のE・ブラウン・ジュニアは、安政元年(1854年)に、箱館で松前藩の重役たちとその用人らを写真に撮っています。その時、松三郎は16歳。彼が写真というものに興味・関心を持ったのは、その安政元年以後のことと思われます。 . . . 本文を読む
岡部昌幸さんは、蜷川式胤(にながわのりたね)が旧江戸城の写真撮影の許可願いを太政官に出した理由として、『新訂観古図説 城郭の部』蜷川親正編の「あとがき」を引用されています。それによると、蜷川が東京の自宅として岩倉具視より与えられたのは、旧徳川幕府の普請奉行の役宅であった東京麹町丸の内道三丁の約2千坪の土地と役宅であり、それはまさに江戸城の正面で、内堀の内側に位置していたという。朝夕、太政官への通勤の途次、彼は江戸城が、日々草むし、白壁が剥がれていく姿を目のあたりにし、それを残念に思って許可願いを出したのだとのこと。彼自身が弁官宛に出した伺書には、「天下の形勢の変化で、旧江戸城はもはや守攻の利益には関係しなくなり、これからは修繕なども無駄なことになるだろう。だから、どんどん破壊されないうちに、写真でもってその旧江戸城の姿を留め置いておくことが必要だ。そうしておけば、後世に至り博覧の一種にもなり、また制度の沿革や時勢の推移を考察する手がかりにもなるから、ぜひ許可を下されたい」といった内容が記されており、まだ原形を保っているうちに旧江戸城を撮影しておき、その姿を写真として後世に残しておくべきとの、蜷川の強い意志を感じ取ることができます。蜷川式胤が京都から東京に招かれたのは明治2年(1869年)6月14日。太政官へ旧江戸城の写真撮影許可願いを申し出たのが明治4年(1871年)の2月23日。わずか1年半余の東京生活で、彼は旧江戸城の写真を撮影しておくべきことの必要性を感じたことになる。実際、横山松三郎による旧江戸城撮影が行われる前後から、旧江戸城の諸門や諸櫓の撤去が始まっていました。明治4年3月7日(写真撮影が行われたのは3月9日を含む数日間)には半蔵門渡櫓の撤去が始められ、翌明治5年8月8日になると、外郭21門の撤去命令が出され、順次撤去が実行に移されていきました。「天下ノ勢」でやむを得ないものとは言え、貴重な歴史的遺産が無残に破壊され失われていく時代の趨勢に、蜷川は強い危機感を感じたに違いない。 . . . 本文を読む
『写真で見る江戸東京』の表紙カバーの写真は、旧江戸城「中の門」前に集まった旧江戸城写真撮影関係者などを撮影した写真です。斬髪で洋装の者もいれば、ちょん髷帯刀着物姿の者もいれば、いが栗頭の少年までいる。目立つのは左手の方に、洋傘をさして脚立に座っている人物。立派な羽織袴姿で、他の連中とはやや異なる雰囲気。この人物とその隣に立つ少年ばかりは、撮影者である横山松三郎の方へ視線を向けています。この洋傘をさした羽織袴の人物は誰か、ということについて、岡部昌幸さんは、同書「明治四年『旧江戸城写真帖』の残像」の中で、これは蜷川式胤(のりたね)ではないかと推測されています。蜷川式胤らしき人物は、同書P14~15の北桔橋門の桝形内で撮影された写真の中にも写っています。それは中央やや右手の、やはり洋傘をさして脚立に座っている人物。この蜷川式胤は、当時太政官少史の立場にあり、この人物こそ、次第に荒廃していきつつある旧江戸城の姿を後世に残すために、写真撮影を太政官に申請し、横山松三郎に写真撮影を命じた男。彼が太政官に申請したのは明治4年(1871年)の2月23日。許可を得たのが2月27日。写真撮影が行われたのは3月9日を含む数日間(「近代の視覚と技術の探究者 横山松三郎」岡塚章子)。明治4年の「3月9日」は西洋暦になおすと「4月28日」となるから、晴れていれば日差しは強く、この蜷川式胤(撮影活動全体の統括者)が洋傘を差しているのも肯(うべな)える。この写真を撮影した横山松三郎が構えるカメラは大型の暗箱カメラ。そのコロディオン湿板ネガから焼き付けられた鶏卵紙に彩色を施したのは絵師の高橋由一。この表紙カバーの写真もカラーのように見えるが、これは鶏卵紙に高橋由一が彩色したもの。現在「中の門」は巨大な石垣が残るばかりですが、ここには巨大な門の構造物や櫓などがしっかりと写っています。 . . . 本文を読む
横山松三郎については、『写真で見る江戸東京』(とんぼの本/新潮社)で、江戸城を写した写真師として知っていました。また麹町を歩いた時、「四番町歴史民俗資料館」でも彼の写した江戸城各御門の写真を見ることができました。フェリーチェ・ベアトも江戸城の写真を撮影していますが、まだ大政奉還前であり、内濠の外側からしか撮影できていない。横山松三郎の場合は、明治維新後ということもあって、各御門ばかりかその内部へと足を踏み入れて、各所から江戸城を撮影しています。住むものがいなくなり、手入れもされなくなったために、かなり荒れ果ててきているような印象を全体的に受けますが、櫓や多門、渡り門などが数多く写っており、かつての江戸城の威容を伺うことができます。幕末の江戸城の内部およびその外郭のようすを伺うことのできる写真群であり、「よくぞ、これらの写真を撮っておいてくれた」という気持ちとともに、横山松三郎という写真師に興味を持ちました。その横山松三郎についての企画展が、江戸東京博物館で行われているということを知り、会期の終了が迫っていることから、さっそく両国へ行ってみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
崋山は旅先において、機会があれば気さくに人々に声を掛け、積極的に情報を摂取しています。相手は老爺である場合もあれば、子どもである場合もある。彼は出会った人々から耳にしたことで印象に残ったことを、簡単にメモをし、日記に書きつけたりする。しかし人々と話したことで、記さなかったことも多かったと思われる。この「四州真景」の旅では、まず、本行徳の「大坂屋」で昼食を摂った時から、一人の人物と出会っている。その人物とは、白井宿までの木下(きおろし)街道で後になったり先になったりしていて、そしてなんとその日の夜に泊まった白井宿の旅籠「藤屋八右衛門」方では、偶然にも部屋が隣同士でした。「大坂屋」で初めて出会った時から話を交わしているかどうかはわからないし、また白井宿までの道中で、話を交わしているかどうかもわからない。しかし本行徳の「大坂屋」で見かけた時から、崋山にとっては気になる旅人の一人であったものと思われます。崋山は、この旅人が、九十九里浜の漁村椎名内(しいなうち)村の名主弥右衛門であることを本人から聞きだし、またおそらく白井宿の旅籠「藤屋」の部屋において、弥右衛門から、当時九十九里浜において活況を呈していた鰯漁のことについて詳しく聞き出しています。かなり詳しく聞き出していると思われますが、崋山は「八手網」や「サデ」(すくい網)について簡単にメモしているばかり。広大な鎌ヶ谷原という馬の放牧場の中を延びる木下街道を歩いた時も、崋山は出会った人々に気さくに声を掛け、牧場のことや新田開発のことなどについて情報収集をしているのではないか。「釜谷原放牧」に描かれた親子らしき二人は、崋山一行が鎌ヶ谷原で出会った地元の人であり、崋山がこの牧場のことについていろいろ尋ねたのは、菅笠をかぶり杖をつき、白い法被をひっかけた父親の方ではなかったか、とさえ思われてきます。崋山の父定通は前年(文政7年)の8月に亡くなってます。木下街道の鎌ヶ谷原で二人に出会った時、崋山は、存命だった時の父定通と子どもであった時の自分を想起したのではないか。草を食む馬があちこちに見られる広大な牧場の中を通過する時にたまたま出会ったこの二人に、崋山は気さくに声を掛けて、その牧場のことについて尋ねたものとしよう。杖を手にした男(父親)は、いったいどういう内容のことを答えたか。そういったことが気になってきました。 . . . 本文を読む