鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その1

2015-04-13 06:09:42 | Weblog
崋山は「神島」全景のスケッチの箇所に、「周廻凡一里強、賦役五石八斗目 外浦役 カコ方金 旧家又左衛門、三四郎」と記しています。頭注によれは゛神島村は志摩国答志郡にあり鳥羽藩領。天保郷帳には「十石余、うち五石は無反別、五石は浦役銀五百六十匁」とあるとのこと。「カコ方金」の「カコ」とは「水主」のことであり、「水主」としての仕事に掛かる税もあったものと思われます。「又左衛門」については、後に。「又左衛門といえるものハ島長にて、和地の威(医)福寺より消息せしかば、此家をたどり長流寺といふに宿からんと、先(まず)其(その)又左衛門が家を尋ぬ。」とあり、又左衛門は「島長」であり、和地の医福寺の住職から紹介状をもらっており、この又左衛門をまず訪ねてから、紹介された長流寺に一泊しようと崋山が考えていたことがわかります。また崋山は、「この嶌にて三四郎、又左衛門といえるは、網船の主にて元〆(もとじめ)といふものなり。先祖より遠沖に漁する事を禁じ、島の長としてたゞ猟の売買をなし、尾勢志紀参に往来して諸物を交易せるのミなり。」と記しており、又左衛門家と三四郎家は、漁獲物の売買をし、伊勢湾・三河湾一帯に往来して諸物の交易に携わっていたことがわかります。また「網船」(漁船)の元締めでもありましたが、自ら漁に出ることはなく、専ら漁獲物の売買と諸物の交易に従事していました。又左衛門の弟の又右衛門も、漁はしないで、「ただ交商をのミむね」としていました。「凡百軒」もある神島の人家の中で、この旧家の又左衛門家と三四郎家だけは、漁を行わず、神島で獲れた魚貝類の売買と諸物の交易に携わっており、その行動半径は紀州・伊勢・志摩・尾張・三河と、熊野灘・伊勢湾・三河湾一帯に及んでいたことがわかります。その際の、魚貝類売買・諸物交易のための船とは、「いさば船」(近・中距離用の「小廻り船」・小弁才船)であったでしょう。つまり「尾州廻船」の「小廻り船」と同様な船であったものと思われます。 . . . 本文を読む