鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

今年一年間を振り返って

2009-12-31 07:34:38 | Weblog
今年のこのブログは、昨年末の冬の取材旅行「熊本・長崎」の報告から始まりました。ベアトなどが撮影旅行した横浜~鎌倉~江の島までのルートを歩いた後、いよいよ東京の取材旅行を本格的に始めることにしたのですが、本郷菊坂を歩いた時に樋口一葉に関心を持ち、調べていく中で一葉の両親の出身地が甲州塩山近くの中萩原村であることを知りました。5月、たまたま日本民家園を訪れたところ、いちはつの花が軒に咲く茅葺き屋根の美しさを知り、民家園の茅葺き屋根の農家を見ていく中で、旧広瀬家住宅がかつては上萩原村にあったことを知りました。この時、つながったことは樋口一葉の両親が中萩原村出身であったということでした。上萩原や中萩原とはどういうところであったのか、という興味・関心から、まず上萩原村の旧広瀬家住宅があったところを訪ねてみることにしたのですが、これが、甲州すなわち山梨県の旧街道についての関心を深めるきっかけとなりました。本郷菊坂と日本民家園を訪ねなければ、甲州への関心はそれほど深まらず、「御坂みち」や広重の「甲府道祖神祭幕絵」との出会いなども生まれなかったに違いない。一葉や一葉の両親(とくに父大吉=則義)への関心もこんなに強まることはなかったと思われます。東京の取材旅行を続けていくつもりが、9月以後はもっぱら甲州の古道(御坂みち)の取材旅行となり、甲州への興味・関心が強まっていきました。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その最終回

2009-12-23 08:19:45 | Weblog
『定本静岡県の街道』(郷土出版社)によれば、足柄峠を越える「足柄街道」は、須走方面を起点とすると、須走→水土野(みどの)→上小林→古沢→大胡田→足柄峠というルートであり、須走から旧鎌倉往還を進み、水土野で足柄峠の方へ向かうことになります。足柄峠(標高759m)は、古代から近代に至るまでの交通の要地でしたが、明治22年(1889年)に東海道線が開通すると、その峠道の利用者は激減し、急速に廃れていってしまいました。このルートは富士講の人々も利用した道であり、上小林の東岳院というお寺は、富士山の湧水が出るところでもあって、そこで休憩をする富士講の人々で賑わったという。しかし水土野村を通るルートは、古来のものではなく、近世初頭にひらかれた新ルートであるとのこと。このように見てくると、幕末に、須走から足柄峠を越えて東海道へと向かっていった樋口大吉と古屋あやめ(樋口一葉の両親)は、須走から水土野→上小林→竹之下を経て、足柄峠を越えていった可能性が高い。甲州の中萩原村から、御坂峠・籠坂峠・足柄峠という三つの大きな峠を越えていったわけで、身重のあやめ(妊娠9ヶ月ほど)にとっては、大吉と一緒とは言え、やはりきつい道程ではなかったかと思われます。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その14

2009-12-22 06:58:15 | Weblog
御殿場周辺の古道については、『ごてんばの古道』(御殿場市立図書館 古文書を読む会)がたいへん参考になりました。地元の方々が、実際に道を歩いて調べています。特に参考になったのは、「足柄街道」と「鎌倉往還」、それに「馬車道」の部分。詳細なルート図が付いているのがありがたい。「馬車道」についてはルート図が6枚も収められています。実際に歩いて調べなければ、こういうルート図は書けない。もし「御殿場馬車鉄道」の路線をたどるとしたら、たいへん参考になる本であるといえます。この「御殿場馬車鉄道」を利用した人で、紀行文(乗車体験記)のようなものを書いている人はいないものか、と思っていたら、この本に、竹久夢二(画家)と国府犀東(国学者)、それに徳冨蘇峰が紹介されていました。竹久夢二は「富士へ」という文を書いており、国府犀東は「富士一周」という文を書いています。夢二と犀東は、御殿場~須走間を利用しており、蘇峰は、籠坂峠を越えて山中湖まで赴いています。とくに面白く思ったのは、竹久夢二の場合。彼は二枚橋の「福田屋」という旅館に逗留していましたが、別れた妻であるたま子を呼び寄せ、二枚橋から須走まで鉄道馬車に乗り、そこから富士登山を試みたのです。つまり、須走停車場で下車し、須走の街路を通って、須走浅間神社境内の東裏(あさま食堂のあるところ)から須走口登山道に取り付いたのです。明治42年(1909年)8月14日のことでした。国府犀東が富士一周をしたのは明治40年(1907年)の夏。彼は御殿場駅から鉄道馬車に乗って午後1時前に須走に着きました。彼が御殿場で鉄道馬車に乗ろうとした時、馬車は5、6両ほど並んでおり、彼はその先頭の馬車に乗り込みました。馬車は途中で馬を替えながら進み、行程の半分を過ぎた正午頃、渓流のそばで停まり、そこで馭者(ぎょしゃ)は馬に渓流の水を飲ませました。そこは前方に籠坂や矢筈の諸山を見晴るかすことができるところでした。須走停車場に到着して馬車を下りたところ、鈴を鳴らしながら下山してくる人々が続々と連なっていました。これらの人々の多くが富士講の人々であることは明らかです。竹久夢二と元妻たま子の二人も、この須走口登山道において、多くの白装束姿の富士講の人々と出会っているはずです。鉄道馬車の馭者は、ラッパを「テトウ、テトウ」と鳴らしたため、馬車は「テト馬車」と呼ばれていたそうです。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その13

2009-12-21 07:21:15 | Weblog
籠坂峠(1097m)は、かつて都留馬車鉄道と御殿場馬車鉄道の乗り換え地点でした。御殿場馬車鉄道の軌道が須走から籠坂峠まで延びたのは明治35年(1902年)の12月9日。須走の浅間神社から約7.2km、高低差は302mでした。『ごてんばの古道』(御殿場市立図書館古文書を読む会編)によれば、御殿場馬車鉄道の籠坂停留所直下の軌道は、「直登の形になった最後の区間で、滑車とワイヤを使い巻き上げられた」という。須走~籠坂間の高低差約300m、距離約7kmを、一頭引きの馬車は、登りに1時間20分、下りに50分を要したとのこと。須走から御殿場に向かう場合、平坦地に出るまでは馬は車両の後ろに繋ぎ、馭者(ぎょしゃ)が木製のブレーキを掛けながら速度を調節したというから、籠坂峠から須走に向かう場合も同様であったことでしょう。最盛期(明治36年頃)には、新橋(にいはし)~籠坂間を、午前5時を始発として10往復運転されていたらしい。この区間を鉄道馬車が走らなくなったのは大正6年(1917年)のことで、新橋~籠坂峠を馬車鉄道が走っていた期間は、明治末から大正半ばにかけての15年弱ということになります。御殿場方面から籠坂峠までやってきた乗客や貨物は、この籠坂峠で今度は都留馬車鉄道に乗(載)り換え、富士吉田や都留、また大月方面へと向かったのです。新橋(御殿場)から大月までの馬車鉄道の総延長は約55kmもありました。今、その路線の一部は富士急河口湖線として残っていますが、それ以外は御殿場と富士吉田・河口湖を結ぶ現在のバス路線とほぼ平行しています(予想に反して、その多くは重なっていません)。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その12

2009-12-19 06:21:45 | Weblog
幕末に富士山を何度か登山したことのある浮世絵師がいる。名前は五雲亭貞秀。私はその浮世絵師の名前を「横浜浮世絵」で知りました。その関係から、神奈川県立歴史博物館が発行する『横浜浮世絵と空とぶ絵師五雲亭貞秀』という本を購入したのですが、その本を読んで、この五雲亭貞秀が、「空とぶ絵師」と言われるように、鳥の目になって上空から下を見た風景、すなわち鳥瞰図を描くようになったのは、富士登山がきっかけであるらしいということを知りました。「横浜浮世絵」で有名なこの五雲亭貞秀は、富士山の絵を多数描いています。同書P31の「三国第一山之図」と「富士山真景全図」、P34の「箱根山富士見平御遊覧諸所遠景之図」と「大日本富士山絶頂図」、P37の「富士詣独案内」、P38の「富士山道しるへ」、P47の「富士両道一覧之図」など。これらのすべてに作品解説があるわけではありませんが、「三国第一山之図」の解説を読むと、この画中には、「登山成就時玉蘭斎貞秀写」と記されていることから、弘化末年から嘉永5年頃の間に貞秀は初登山を行ったらしいということが指摘されています。「富士山真景全図」の解説には、この絵は「富士山をほぼ火口の真上から描いた」ものであり、また「富士の表面が一部円錐状の余白になっていて、そこには内部の洞穴、いわゆる胎内で修行をする二人の行者が描かれる。その行者は富士講の開祖長谷川角行と食行身禄である」とある。さらに「大日本分境図成」の解説によれば、貞秀は、富士山を富士講の人々が登るルート、すなわち甲州口の上吉田から登山したことがあるということがわかり、また貞秀が富士の頂上に立った時が、いつの年であるかはわかりませんが「七月廿二日」であったこともわかります。貞秀は、嘉永7年(1854年)の閏7月までに何回かの富士登山を果たしており、もしかしたらこの頃までに毎年のように富士山に登っていた可能性もあるというのです。浮世絵師は多数いますが、これほど多く富士山に登り、富士山を描いた絵師はいないのではないか。これらの富士山を描いた貞秀の絵の中で、私が注目する一枚は「富士山道しるへ」というP38に掲載されているもの。この絵には河口湖越しに見た富士山全景が描かれていますが、「産屋崎」「河口村」「吉田」「船津」「鵜島」といった地名が記されています。これは明らかに御坂峠辺りから描いたものであることがわかります。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その11

2009-12-18 06:22:27 | Weblog
樋口一葉の父、樋口則義の日記である「大吉日記」によれば、大吉と古屋あやめは、江戸の真下専之丞を頼るべく、安政4年(1857年)の4月6日(旧暦)、二人の郷里である中萩原村(現甲州市塩山中萩原)を出立。「御坂みち」に出てその日は御坂峠の登り口である藤野木に宿泊し、翌日は御坂峠を越え、河口村・河口湖を経て上吉田を通り、北口浅間神社をおそらく参拝し、その日は山中村の「鳴海屋」という宿に泊まりました。この宿は私が歩いた山中湖村の旧街道沿いにあったと思われますが、どのあたりであったかは今のところわからない。翌4月8日、二人は籠坂峠を越え、須走より竹の下へ出て足柄峠を越えると矢倉沢の「ふじや」という宿に泊まりました。それから東海道へ出るべく小田原方面へ向かって行くのですが、私が歩いてきた道は、この二人が歩いてきた道でもある。二人がたどってきた道を、私もたどっているということですが、この旧鎌倉街道沿いは(「御坂みち」)も含めて、富士山を中心に歴史が詰まっているところであるということを実感しています。相州・駿州と甲州を結ぶ古代以来(縄文時代以来)の重要路であるからでしょう。といっても旧鎌倉街道の面影を留めているところは、他の街道と同じくそれほど多くはありません。しかし、その一部の「御坂みち」の峠道を中心とする部分などは、旧道の面影を濃厚に留めています。いろいろな角度からいろいろなシチュエーションで富士山が見えるなど、歩いていて大変楽しい道でした。大吉とあやめの旅は、「出奔」とか「駆け落ち」と言うほどの切羽詰ったものではなく、人目を極度に避けるものでもありませんでした。これからの「立身出世」の夢に燃えた旅(大吉にとっては)であり、あやめにとってはそういう志(こころざし)に燃える大吉に連れ添う旅でもありました。二人は江の島や鎌倉の鶴岡八幡宮などを参拝していますが、おそらく河口村の浅間神社や吉田の浅間神社にも参拝しているはずです。それは「立身出世」を果たすための将来に向けての願掛けでもあったでしょう。それぞれの社前において手を合わせた二人は、どういうことを願ったか。この安政4年(1857年)、江戸へ出る旅をした時、大吉は27歳、あやめは23歳でした。あやめは妊娠9ヶ月。江戸到着の一ヶ月後に生まれたのは一葉(奈津)の長姉である「ふじ」という女の子でした。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その10

2009-12-17 06:52:51 | Weblog
瑞穂村(現下吉田付近)と中野村籠坂間を結ぶ「都留馬車鉄道」が開業したのは明治33年(1900年)の9月21日。『富士登山案内図』には、その鉄道馬車の姿が描きこまれていました(P37)。それを見ると屋根部分には明かり取り(採光)のための屋根のある出っ張りがあり、馬は1頭。右下に「都留馬車鉄道会社」という大きな看板が架かった駅舎のようなものがあります。引き込み線があって、馬車はその中に入るようになっています。よく見るとその建物(駅舎?)の前、やや右手に、もう1台鉄道馬車が描きこまれています。これは山中湖・籠坂方面へ向かう鉄道馬車。現在、杉並木のある参道入口の少し手前(上吉田寄り)に、右手に入っていく参道とその手前の広場がありますが、そのあたりがこの「都留鉄道馬車会社」の看板がある建物があったところかも知れない。この都留馬車鉄道の鉄道馬車そのものが写った写真はないかと調べてみると、『冨嶽写真』には2フィート2インチ幅の軌道は写っているものの(P9)、鉄道馬車は写っていません。写っていたのは『絵葉書にみる富士登山』(富士吉田市歴史民俗博物館)でした。P14の「2 金鳥居」と「3 金鳥居」、それとP15の「6 金鳥居」の3枚。これらを見ると、屋根の部分は、『富士山登山案内図』のP37のそれとは異なり、出っ張りはあるものの明り取りにはなっていない。「図版解説」に、街路に電柱が立ち始めるのは大正2年(1913年)に宮川電灯株式会社が始業して以降であるとあるから、これらの写真は大正に入ってからのもの。『富士山登山案内図』のP36~37の銅版画は明治36年(1903年)のものだから、別の車両に変わっていたのかもしれない。不思議なことに車両は写っているものの、肝心の車両を引っ張る馬が写っていません。P14の「2 金鳥居」に馬が写っていますが、これは大八車をひく馬で、車両をひく馬ではない。興味深いのは「3 金鳥居」の写真。金鳥居を潜る鉄道馬車を3人の子どもが眺めていますが、手前の子どもの頭はつるつる頭。臼井秀三郎が上吉田の通りで写した写真の左手前にはやはり男の子のつるつる頭が写っていましたが、大正時代に入っても子ども(男の子)の頭はつるつるに剃られていた(小さい子の場合)らしいことが、この写真でわかります。金鳥居を配した富士山の写真は多く、定点観測による歴史的変遷を探ることが可能です。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その9

2009-12-16 07:13:23 | Weblog
富士吉田市歴史民俗博物館が出している本で『富士山登山案内図』というのがあります。それを見ると、江戸時代から明治・大正までの各登山道からの富士登山案内図が掲載されており、上吉田、大宮、村山、御殿場、須山、須走などの登山道のようすがよくわかります。表紙は、江戸時代末期の「富士山神宮并麓八海略絵図」というものであり、P10に掲載されているものですが、これを見ると、上吉田参道の「上宿」交差点のところは、現在は右折する道(国道139)がありますが、当時においてはそういう道はなかったことがわかります。金鳥居を潜った人々は、上吉田の参道を富士山を正面やや左手に仰ぎ見ながら歩き、突き当たりを左折して、柵のような門を潜り、諏訪の森にある浅間神社へと右折(参拝する場合や富士登拝をする場合は)したのです。右折しないで鎌倉街道を山中湖方面へ進めば、間堀川に架かる吉田橋(ベアトの写真に写るそれよりも幅が広く立派に見える)を渡り、新屋(あらや)の家並みを抜けて、富士すそ野の林の中を過ぎ、やがて山中の集落に至ります。この道は、明治33年(1900年)以後16年間ほど、馬車鉄道が走っていた道でもありました。案内図の中でそのことがわかるのは、P36~37の「富士山北口本宮富士嶽神社真景」。北口の浅間神社の参道入口前の通りを、鉄道馬車が上吉田方面へ向かって走っているのがわかります。やがてこの馬車は上吉田の参道へと急角度に右折するはずです。その次のページにも馬車鉄道が描きこまれていますが、昭和4年の「富士山北口全図」(P40)を見ると、もう軌道は撤去されています。この本の「解説 富士登山案内図」を見ると、次のような記述がありました。「江戸時代中期以降、江戸を中心とした富士講の登拝は、甲州街道を富士道(谷村路)に分岐して吉田へ到達する道筋に固定していた。いっぽう、中部山岳地域からの道者は、甲府盆地から御坂越えに川口に到達してその御師宿坊に宿泊し、湖南の船津から胎内道をへて直接山内に入ったように案内図から読み取ることができる。」これを見ると、川口御師に率いられた「道者」たちは、上吉田の浅間神社を経由するのではなしに、船津から「胎内道」に入って直接富士登拝へと向かったことになり、前に私が思い込んでいた、吉田口の浅間神社(北口本宮)を参拝してから富士頂上を目指したのではないことがわかります。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その8

2009-12-15 06:41:43 | Weblog
ベアトがポルスブルック一行とは別の時期に富士山を撮影する旅に出たとすると、そのコースはどのようなものであったか。それについては、彼の写した写真からある程度推測することができます。判断の材料となる写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』のP74~P78の写真、P90~P91の写真です。これらの写真から判断すると、ベアトは、東海道の箱根湯本から、塔之沢→宮の下→堂ヶ島→底倉→木賀→仙石原→乙女峠→ぐみ沢(現御殿場市内)→須走→籠坂峠→山中湖→上吉田→谷村(現都留市)→大月→八王子→横浜といったコースを辿った可能性が考えられます。上吉田から大月へと向かう「富士道」を利用したと考えるのは、P89下の写真。この写真は「三島」方面から写したものではなく、『冨嶽写真』P15の写真の解説によれば、現在の富士吉田市上暮地と西桂町小沼の境となる場所から撮影されたもの。つまり「富士道」の道筋から桂川にちょっと入ったところから撮影されたものであるからです。ここまでわざわざやって来て、また籠坂峠を越えて箱根湯本の方へ向かったというふうに考えるよりも、上吉田から大月を経て甲州街道に向かう途中、桂川の美しい川面越しに見える富士山の構図に惹かれて、そこで思わず写真を撮影したと考える方が自然です。先ほどの箱根の温泉地の写真と、須走、吉田橋、上吉田、そしてこの上暮地の桂川の写真は、ほぼ同時期に撮影されたものと私は考えます。しかし、当時、外国人は自由に遊歩区域外を旅することは許されてはいませんでした。気楽気ままな旅は出来なかったのです。公使や総領事、外国公使館書記官などが、特に許されて、遊歩区域外に出ることができたわけで、外国人写真師に過ぎないベアトがどうして、箱根・須走・上吉田・上暮地などを旅することができたのだろうか、という疑問は残ります。ポルスブルックの時と同様に、どこかの知り合いの外国公使館員の旅に随員として同行したのでしょうか。外国人が遊歩規定区域外を旅する時は、必ず幕府役人の警護・監視が付きました。P90の写真の、間堀川に架かる吉田橋に立つ若い武士は、そのベアトを含む一行を警護・監視する幕府役人の一人であるように思われます。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その7

2009-12-14 07:08:23 | Weblog
外国人で初めて富士登頂を果たしたのは、英国公使のオールコック一行で、万延元年(1860年)のこと。では2回目はというと、それはスイス総領事のブレンワルト一行で慶応2年(1866年)7月(旧暦)のこと。3回目は、アメリカ公使館書記官のポートマン一行で、これが慶応2年の8月(旧暦)。そしてオランダ公使ポルスブルック一行が登山に挑戦したのが慶応3年(1867年)8月。そのポルスブルックの富士登山に刺激され、また前任のオールコックの富士登山を意識して富士登山を敢行したのが英国公使のパークスでした。それがやはり慶応3年の9月のこと。パークスは妻を同行させていました。つまり夫妻で富士頂上を目指しました。9月10日(陽暦で10月7日)の午後1時に雪の降る頂上に到着しますが、パークスの妻の登頂は、外国人女性としては初めてのことでした。これらの幕末における外国人による富士登山は、ポートマン一行の一部を除いて、ほかは東海道→吉原宿→大宮(現在の富士宮)を経由して、村山口登山道を利用するものであり、当然のこととして幕府の役人たちが警護と監視のために随行していました。しかしオールコックの時がそうであったように、多くの随行の武士は登山そのものには付き合わず、麓(ふもと)で彼らが下山してくるのを待っていたようです。アメリカのポートマン一行は、ポートマンを含む5名が村山口から頂上を目指し、残り3名は外国人が誰も利用したことのない須山口から頂上を目指しました。そして頂上で合流したかと思われるポートマン一行は、谷村→大月→駒木野→八王子を経て、つまり富士道→甲州街道を利用して、江戸に帰着しています。フェリーチェ・ベアトは、慶応3年(1867年)8月のオランダ公使ポルスブルックの富士登山に同行し、原宿や大宮(富士吉田)、またおそらく村山の近辺で写真を撮影していますが、肝心の富士登山中および富士山頂での写真は一切残していません。当然に撮影すべきものを、何も残していないということが、私がポルスブルックやベアトの富士登頂を疑う理由です。村山口を出発したのは確かですが、頂上までには至らずに登頂を断念したのではないか。その理由として考えられるのはまず悪天候。カメラで撮影できるような状況ではなかったということです。ベアトの写した富士山に雪があることから、ベアトは別の時期にふたたび富士に向かった可能性が高い。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その6

2009-12-12 07:33:00 | Weblog
オランダ公使ファン・ポルスブルックの富士登山については、遠藤秀男さんの『富士山よもやま話』が詳しい。それによれば、ポルスブルック一行が江戸を出発したのは慶応3年(1867年)の8月8日(陽暦で9月5日・木曜日)。東海道を西へ進み、川崎を経て横浜に立ち寄り、それから平塚→小田原→箱根→三島→原→吉原の各宿場を経て、8月14日(陽暦では9月11日)に大宮(現富士宮)の浅間神社の別当寺宝憧院(ほうしょういん)に立ち寄り、それから村山に向かいました。現在村山浅間神社があるところで、そこがかつて村山口登山道として富士登拝をする「道者(どうしゃ)」たちで賑わったところでした。そこに宿泊したポルスブルック一行は、その翌日15日から16日にかけて村山口登山道を利用して富士登山に挑戦したはずですが、その記録は「まだ見つかっていない」と遠藤さんは記しています。同書にはポルスブルック一行の内訳が記されています。ポルスブルックその人・通訳一人・士官一人・中国人一人・護衛の銃隊や案内役や旗持ちや押伍(あとおし)など16人、人足23人、馬20頭。合わせると40名以上の集団ということになる。8月12日~17日までのまとめによると、調達された人足の延べ人数は約150人であったとのこと。12日というと吉原に泊まった時(ここに2泊しています)。そこで人足が調達されたとすると、戻りも吉原を利用したはずであり、富士登山を果たした(?)ポルスブルック一行は、往路と同様、帰りも東海道を利用したものと考えられます。この一行の中にフェリーチェ・ベアトが加わっていることは確実ですが、一行の内訳においては、「士官一人」がそれに相当するのでしょうか。もしそうだとすると、ポルスブルックとベアトはかなり親しく、ベアトは「士官」の身分として一行に加わっていたことになります。通訳はおそらく日本人で、「通詞」と呼ばれる幕府の下級役人であったでしょう。随行した幕府役人のリーダーは、おそらく外国奉行支配調役の役人であったでしょう。前に触れた『月の輪』の塩川甲子郎さんの論文には、その支配調役の名前まで記されていました。それによれば、護衛する幕府役人のリーダーは、外国奉行支配調役の永島省三郎、そして定役(さだめやく・神奈川奉行支配定役か?─鮎川)の中村諱之助(きのすけ)でした。中国人は、オランダ公使館雇いの中国人であったようです。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その5

2009-12-11 06:57:16 | Weblog
『冨嶽写真』には、「甲斐の富士 北口(吉田)」の古写真として、8枚の写真が収められています。そのうち金鳥居が写っている古写真が3枚。撮影地点は金鳥居のやや北側。金鳥居越しに、あるいは金鳥居の枠の中に、南側の雪を被った富士山を望み見ています。ベアトと臼井の写真(P11の上と下)については、撮影地点は両者とも、現在の「御師の家大雁丸」の案内板がある地点の路上あたりが比定されています。この4枚には、上吉田の本通り(参道)が写っていて、その通りの変遷をうかがうことができます。その通りから外れたところで写されたものが残りの3枚。P13の写真は、旧吉田小学校の2階建て校舎から撮影したとされるもの。現在、その地にはコミュニティーセンターが建っています。本通りを西に100mほど入ったところです。P14とP15の写真は、2枚ともベアトが写したもので、P14のそれは浅間神社の杜の東側を流れる間堀川に架かる吉田橋のやや北側から、吉田橋に立つ武士と野良着姿の男、そして吉田橋に腰掛けるやはり野良着姿の男、合わせて3名と、その向こうにそびえる富士山を写したもの。富士山には雪があります。P15のそれは、現在の富士吉田市上暮地と西桂町小沼の境となる場所から、桂川の流れ越しに富士山を撮影したもの。丸太を持って川面を見詰めている農夫の後姿が写っています。解説には、「この写真もF・ベアトによるもので須走や吉田のカットと同じアルバムに綴られていることからも、一連の写真ではないかと考えられます」と記されています。上暮地は、都留や大月へと向かう「都留みち」の道筋にあり、ベアトは須走→籠坂峠→山中湖→浅間神社→上吉田→谷村→大月→八王子→横浜という道筋を辿ったのかも知れません。もしそうであるとするなら、この撮影旅行は、ポルスブルック一行のそれとは重ならないことになり、ベアトはポルスブルックの富士登山の旅の時以外に、富士山周辺を訪れたことになります。それがいつのことかは、前に触れたとおり、今のところ確定はできませんが、慶応2年(1866年)6月以後であることはほぼ確実です。臼井秀三郎とヘンリー・ギルマール一行は、明治15年(1882年)7月13日頃に上吉田を通過しています。ギルマールはこの吉田あたりが養蚕地であることに気付き、また家の板葺きの屋根に置かれた石などからスイスの風景を想起しています。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その4

2009-12-10 06:24:50 | Weblog
『冨嶽写真』によれば、ベアトの「上吉田からの富士山」の撮影地点は、先に案内板を見た「大雁丸(だいがんまる)」の入口やや浅間神社寄りの路上(富士山に向かって路上右側)。P12の解説によれば、右手前に腰掛けている人物の後ろの石垣は、「御師」の「石垣幣司屋(いしがきへいじや)」。この屋号が付いたのは、「石垣」が立派であったからでしょう。この解説文には、写真中央左手、用水路の左脇に立てられている木柱について記されています。この木柱は慶応2年(1866年)6月の記銘がある御供田の奉納を記念したものだとのこと。そのことから、ベアトがこの写真を写したのは慶応2年以後のことであることがわかります。この木柱については、『富士吉田市史 民俗編 第一巻』に詳しい記述がありました。それによれば、この木柱には次のように記されているという。「〔 〕慶応二年 丙寅六月吉祥日 奉納永代献饌日 千葉町当先立 邨々世話人 飯行光同行」 P10の「明治初年の上吉田宿の町並み」図から判断すると、その木柱が立っている地点は、小佐野家(「堀端屋」)の入口にあたる路上であるようです。「小佐野家」は、先に見たように、やはり案内板が立っていた御師の家で、その建物は現在重要文化財になっています。御師の代表的な宿坊で、屋敷地は参道からかなり奥に入ったところにあり、現在の建物が建てられたのは文久元年(1861年)でした。左端に写る屋根に石が置かれた建物が小佐野家ではありません。この木柱が立っているところから左手奥に入っていく道があり、その突き当たりに御師小佐野家の屋敷地がありました。同じく『富士吉田市史 民俗編』によれば、通りから奥の屋敷地に入っていく道を「タツミチ」といい、その「タツミチ」の南北両側には、かつては強力(ごうりき)をつとめる人たちの家があったという。「御師」は大きく2つに分けられ、「本御師」と「町御師」というのがありました。「本御師」は古吉田以来の旧家の御師であり、「町御師」は、「本御師」の分家であったり、百姓が株を買って新たに御師となったものであったりしました。「本御師」は、本通り(参道)から「タツミチ」を奥に入ったところに広い屋敷地を持ち、「町御師」は「タツミチ」の脇の本通りに面したところに屋敷を持っていたという。小佐野家は古吉田以来の格式を持つ旧家であり、「本御師」として奥に屋敷地があったのです。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その3

2009-12-09 06:53:26 | Weblog
フェリーチェ・ベアトが上吉田の通り(参道)から富士山を写した写真は、『F・ベアト幕末日本写真集』のP91に掲載されています(下の写真)。「富士吉田からの富士山の眺め」という写真がそれ。臼井秀三郎が同じ参道から富士山を写した写真は、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』のP15に掲載されています(上の写真)。ベアトが上吉田で富士山の写真を撮ったのはいつのことか。それを推測する上で参考になるのは、『F・ベアト幕末日本写真集』のP72とP73に掲載されている写真。この2枚の写真は東海道原宿の植松家の庭(「帯笑園」)で撮影されたもので、刀を帯びた武士たちが写っています。この武士たちは、オランダ公使ポルスブルック一行が富士登山をした時の警護の武士たち。ベアトはオランダ公使ポルスブルック一行の富士登山に同行し、その時に一連の写真を撮影しているのです。富士山近辺で撮影されたもので武士たちが写っている写真を探っていくと、同書P88(富士宮の浅間神社境内)、P89上(富士宮の表口登山道)、P90の富士吉田(浅間神社の東側)を挙げることができます。またベアトは須走でも写真を撮っています(同書P91上および『F・ベアト写真集2』のP13下)。これら一連の写真が、オランダ公使ポルスブルック一行にカメラマンとして随行した際に撮られた可能性が高い。というのは、当時外国人の日本国内旅行は厳しく制限されており、遊歩区域外を旅行するためには免許証が必要であったから。ベアトも、オランダ公使ポルスブルック一行に加わらなければそう簡単に遊歩区域外に出るのは容易ではなかったはずなのです。ではどこからが遊歩区域外であったかといえば、東海道では酒匂川以西がそうでした。となると、小田原や箱根で写された一連の写真も、ポルスブルック一行の富士登山の際に撮られたものではないかという推測が成り立つのです。では、ポルスブルックはいつ富士登山の旅に出かけたのか。調べてみるとオランダ公使ポルスブルックが富士登山の旅に出かけたのは慶応3年(1867年)の9月(新暦)のこと。ポルスブルック一行がはたして富士登頂を果たしたのかというと、私は疑わしく思っていますが、東海道の原宿、大宮(富士吉田)の浅間神社、村山登山道などを訪れていることは、同行したベアトの写真より確実なものと思われます。 . . . 本文を読む

2009.12月取材旅行「富士吉田~籠坂峠~須走」 その2

2009-12-08 03:31:21 | Weblog
実は、今回私が歩いた富士吉田~御殿場間を、かつて鉄道馬車が走っていた時代がありました。瑞穂村(下吉田付近)~中野村籠坂間が「都留馬車鉄道」で、中野村籠坂~御殿場間が「御殿場馬車鉄道」でした。「都留馬車鉄道」が開業したのは明治33年(1900年)9月21日(軌間2フィート2インチ)、新橋村(後の駿東郡御厨町で御殿場市の前身)~御殿場駅~中野村籠坂までが全通したのが明治34年(1901年)12月9日。さらに明治36年(1903年)には富士馬車鉄道が全通して、静岡県の御厨町と山梨県の大月を結ぶ全長およそ55キロメートルの馬車鉄道が完成しました。しかし中央線の開通などもあって客足は減少し、大正7年(1918年)2月19日、須走~籠坂間が廃止され、富士吉田と御殿場を結ぶ馬車鉄道はなくなってしまいました。その翌年の大正8年(1919年)4月には須走~御殿場間も廃止。昭和3年(1928年)には御殿場馬車鉄道は全線が運転休止となってしまったのです。都留馬車鉄道の籠坂までの路線がいつなくなったのかは、今のところ私にはまだわかっていませんが、大正7年の御殿場馬車鉄道の須走~籠坂間の廃止前後にはなくなっていたと思われます。ということは、富士吉田と御殿場を結ぶ鉄道馬車が走っていた時期は、明治34年(1901年12月)より大正7年(1918年)前後頃まで、およそ16年間であったということがわかってきます。この富士山麓を走っていく鉄道馬車の存在を知ったのはずいぶん前のことですが、それが確かに存在したのだという実感を持ったのは、以前、須走浅間神社を訪れた時に立ち寄った浅間茶屋のご主人Tさんの話からでした。Tさんの話によると、幼少の時、茶屋の前には軌道が残り(当時すでに廃線となっていましたが)、車両が放置されていたというのです。現在、鉄道馬車の軌道があったあたりは町営の駐車場になっていますが、そこを鉄道馬車の軌道が走り、その軌道の上を馬車が走っていたのです。この浅間茶屋があるところは、須走口浅間神社の富士山側になり、実はかつての須走口登山道の入口にあたるところでした。馬車鉄道はこの浅間茶屋のほん前を通過し、籠坂峠へと登っていき、また御殿場方面へ下って行ったのです。現在のバス路線はほぼこの馬車鉄道の軌道に重なるもの。ということは、この馬車鉄道は、当時全国有数の景観を楽しめるものであったに違いない。 . . . 本文を読む