鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その2

2015-04-14 06:48:20 | Weblog

 八代(やつしろ)神社への参道石段は全部で214段もあり、一気に上ると途中で息が切れるほど。

 上りきると「神宮遙拝所」と刻まれた石柱があり、「八代神社」と記された扁額が架かる参殿と、その奥に本殿がありました。

 参殿も本殿も比較的新しいものであり、参道石段下の案内パネルに掲載されている映画『潮騒』のワンシーンに写っている古い木造のものとは異なります。

 崋山が描いた「八代明神、伊勢宮第八皇子」のスケッチを見てみると、江戸時代はもっと小ぶりの社であったらしく、庇(ひさし)のように出っ張った屋根下の縁の上には、船乗りたちが奉納したと思われる絵馬のようなものが多数置かれています。

 『渡辺崋山集』の頭注によれば、「伊勢宮第八皇子」とは、後醍醐天皇第八皇子懐良親王のことであり、「延元三年」に神島に漂着しているとのこと。

 崋山が描くスケッチでは、屋根は茅葺ではなくて板葺(いたぶき)のようであり、左右の「千木」や「甲板」の上に並ぶ「勝男木」が描かれていることなどから、これは神明造りであることがわかります。

 これは私の推測ですが、「甲板」から下っている板葺の屋根に、まるで庇(ひさし)のように取り付けられた屋根やその下の縁(高床)は、もともとあったものではなく、参拝する船乗りや漁師たちが奉納する多数の絵馬を置くものとして、あとから継ぎ足されたものではないかと思われます。

 この絵を描く崋山の興味関心の対象は、その縁の上に多数置かれた絵馬にあるのではないか。

 それほどにこの神島の「八代明神」は、伊勢湾・三河湾を航行する船乗りたちや、その一帯で漁業を行う漁師たちに篤い信仰を得ていたものと思われます。

 この縁の上に置かれている絵馬が、現在どうなっているのかはわからない。

 現在のコンクリート製の新しい本殿は、かつてのような「神明造り」ではありません

 その八代神社の奥に「神島灯台」の案内標示があり、それに従ってコンクリートの階段を進んで行くと、まもなく左手の視界が開け、伊良湖岬の古山と宮山、それに伊良湖ビューホテルの建つ骨山の三つが並んで見えました。

 一番左(最先端)が古山であり、その右がかつてその頂上に伊良湖明神があった宮山、その右が骨山。その骨山の頂きにあるのが「伊良湖ビューホテル」で、その崖下にあるのが日出(ひい)の石門であり、崖の中腹にあるのが海軍の「伊勢湾防備衛所跡」。

 神島から渥美半島(伊良湖岬)を眺めるとこのように三つの小山が並んでいるように見えるのであり、かつては、その最先端(左端)の小山(古山)の頂きから焚火が見えると、神島から迎えの船が出たという崋山の記述が脳裡に浮かびました。

 その伊良湖岬の左に広がるのは三河湾や伊勢湾ということになり、神島とその伊良湖岬の間が伊良湖水道となります。

 伊良湖ビューホテルの建つ骨山の向こうには、渥美半島の太平洋に面する海岸が長々と延びています。あの海岸部を私は高松あたりからずっと歩いて来たことになります。

 とくに高く見える山は和地の向こうの「大山」であるでしょう。

 まもなく「神島灯台」と白く記された木製の案内柱が現れ、その向こうに見える白亜の灯台が「神島灯台」でした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」



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