鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

山梨県立博物館・企画展「甲斐道をゆく」について その4

2009-10-30 06:04:26 | Weblog
広重の『甲州日記』の年代比定については、『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭調査研究報告書』の中で、山梨県立博物館学芸員の高橋修さんが、広重の日記に毎日記載されている天気から、天保12年(1841年)のものであると確定しています。また高橋さんは、「広重の旅日記は甲州道中の他に上総・安房方面のものの存在が知られているが(中略)、記載内容の充実ぶりは質・量共に甲州旅行のそれが一頭抜きん出ているのである」ともされています。広重が甲府で滞在したところは伊勢屋栄八宅。彼は、「連日の芝居見物、宴会、狂歌会と大歓迎を受ける一方で、屏風や襖絵、季節がら鐘馗の絵の依頼を次々とこなし」ているばかりか、御嶽道や身延道を歩いたりしています。まさに「『甲州日記』は、広重の旅の様子や地方での制作活動と交流、興味の対象や人となりを知らしめてくれる内容豊かな資料」であり、広重が、道中において「食べた名産品、耳にした昔話や伝説、目にした絶景が生き生きと記され、広重の興味の対象や人付き合いなどがよくわかる」一級の資料であると言えます。高橋さんの「甲府道祖神祭礼と歌川広重の関わり」によれば、甲府道祖神祭礼において幕絵が飾られるようになったのは天保13年(1842)頃から。この頃の広重は、天保4年(1833年)の『東海道五十三次』の版行によって人気浮世絵作家の仲間入りを果たしていた時期であり、天保12年の広重招聘は、「甲府城下、とりわけ彼を招聘した緑町一丁目の商人達の文化に対する強い関心と道祖神祭礼に対する意気込み」を示すものでした。では、幕絵作成という文化的事業にここまで甲府商人達を駆り立てたものは何であったかといえぱ、高橋さんは、幕絵が宗教的・呪術的意味合いを濃厚に持つものであったことや、また広重の『名所江戸百景』が安政の大地震で破壊さた江戸の復興を願って、いわば「世直り」を意図して作成されたものであるという原信実さんの指摘を踏まえて、甲府商人達が、天保騒動(郡内騒動)によって停滞・低迷していた甲府城下の復興を意図して行われたものである、と結論づけています。そして「道祖神祭礼という既存の民俗行事に幕絵の作成という新しい要素を加えることで、全国にも類例の少ない独自の文化を生み出した」というのです。広重が滞在した伊勢屋栄八宅は緑町一丁目にあり、甲府到着の翌日には、広重は「幕御世話人衆中」と対面しています。 . . . 本文を読む

山梨県立博物館・企画展「甲斐道をゆく」について その3

2009-10-29 06:24:00 | Weblog
かつての「道」から見た風景がどのようなものであったかを知る手掛かりとしては、もっとも生々しいものとしては古写真がありますが、それによって知られる風景はせいぜい幕末まで遡ることができるくらいで、しかもそれによって知られる風景の地理的範囲はきわめて限られています。となると、それ以前の、またそれ以外の、「道」から見た風景をさぐる手掛かりとしては絵画資料や文献的資料にあたらざるをえません。文献的資料としては、山梨県に限ってみれば、『旅の文学 山梨の自然と人』というのが、山梨県立文学館から出ており、それに近世の紀行文学が紹介されています。それには荻生徂徠の『峡中紀行』や、友野霞舟(かしゅう)の『得月楼記』、乙骨耐軒(おっこつたいけん)の『御嶽新道路』、賀茂季鷹(かものすえたか)の『富士日記』、清水浜臣の『甲斐日記』、黒川春村の『並山(なみやま)日記』、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』などが登場します。解説を書いている板坂耀子さんは、「近世紀行文は、仮に結構平凡で単調な作品でも、丁寧に読んでいくと確実にその人や旅先の土地にふれていっているという飾り気のない重い実感が生まれて来る」と記されていますが、文学的価値というものから離れて、当時の景観をどのように書き留めているかという視点から見ていくと、いろいろと面白いものが見えてくるように思われます。たとえば荻生徂徠の『峡中紀行』をざっと読んだことがありますが、徂徠がどのような風景に感動したか、また徂徠の感情の揺れ動きまで生々しく感じ取ることができて、新鮮な印象を覚えたことを思い出します。絵画的資料としては、何といっても風景を描いた浮世絵の存在が大きい。山梨県立博物館には、甲州名所や富士山を題材にした葛飾北斎や歌川広重の作品が、多数展示されていました。また『並山日記』や『甲州道中記』など近世紀行文の挿絵や、滑稽本の挿絵なども大いに参考になる。とくに 広重と甲州の関係が深いことを、この企画展で知ったのは収穫でした。広重は天保12年(1841年)、「甲府道祖神祭」の幕絵を描くために甲府に滞在していますが、その時の甲州旅行と甲府滞在のようすを書きとめた日記と写生帳である『甲州日記』を残しています。この日記と写生帳からも、幕末甲州の「道」からの風景を知ることができます。広重と甲州の関わりについては、もっと調べてみたくなりました。 . . . 本文を読む

山梨県立博物館・企画展「甲斐道をゆく」について その2

2009-10-28 07:02:46 | Weblog
山梨県立博物館(かいじあむ)は新しい施設だけに、最新のさまざまな工夫・アイデアが随所に見られました。「古代の道」のコーナーに入った時、縄が何本も天井からぶら下がっているのに驚きましたが、女性職員であるガイドの方の説明によると、縄は縄文式土器に縄目状の文様を付ける時の縄を再現したもので、縄の下のところを耳に当てると、コーナーの展示物や音楽(縄文時代の音楽を再現したもの)の説明を聞くことができるという。縄をつまんでその先端を耳に当てると、たしかに説明が聞こえてきました。また各時代ごとのコーナーは気の赴くまま、自由にどこからでも見て回ることが出来るようになっているとも。メイン通路とその右側の区画が、鉄パイプがジョイントされた形で各コーナーに分かれているところがありましたが、まるで展示のために応急に造ったようなコーナーになっていました。次から次へと展示の内容が変わっていくからかと思いきや、ガイドの方の説明によると、歴史は作り上げていくものであり、どんどん変化していくものというメッセージを込めた、まるで建築現場を思わせるようなコーナーにしているのだという。また多用されているのは、タッチパネル式の液晶画面による案内説明。水晶のような形や手の形が画面に現れ、それが現れた部分に指や手を置くと、次の画面や説明が始まるといった具合。多くの博物館などでは難しい専門用語を羅列した案内文が各展示物のところに置いてあったり、その説明をプリントした紙が置いてあったりしますが、小学生や中学生などの興味・関心をそそるものとは必ずしもなってはいません。そういうところを克服しようとした装置であると思われました。液晶画面の進化が、子どもにもわかりやすい案内説明に一役買っていることを感じさせました。またガイドの方が各コーナーにいて、さりげなく説明をしてくれます。聞くところによると、各コーナーの専門ということではなく、それぞれのコーナーを持ち回りで担当しているとのこと。すべての展示物について網羅的に知識を持っているということで、私の質問にも丁寧に答えてくれました。かなり勉強なり研修を積んでいることが、その答えぶりからうかがうことができました。ほかにもいろいろな工夫・アイデアが見られたのですが、相当に力を入れお金を掛けている施設だな、というのが全体を見ての率直な感想でした。 . . . 本文を読む

山梨県立博物館・企画展「甲斐道をゆく」について その1

2009-10-27 07:04:47 | Weblog
「御坂みち」を取材旅行している時に、山梨県立博物館の前を何度か車で通り過ぎていましたが、歩くことや調べることが主体で、博物館に立ち寄ることはありませんでした。しかし気になっていて、インターネットで調べたところ、「企画展 甲斐道をゆく─交流の文化史─」をやっているという。期間は10月3日から11月30日まで。「甲斐道をゆく」は、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』に掛けているのでしょう。案内に次のようにある。「山梨は、四方を高い山々に囲まれている地理的な環境から、閉鎖的な地域だというイメージをもたれることが多かったようです。しかし歴史をひも解いていくと、人々は幾筋にも延びる陸・川の道を往来し、様々な文物がもたらされてきたことがわかります。」御坂町の出身である網野善彦さんは、『甲斐の歴史をよみ直す─開かれた山国─』の中で、「甲斐は古くから交易・商業が極めて盛んな、活動的な地域だった」と記していますが、それを受けた形の案内文であるように私には思われました。「米」を中心に見ていくと見えてこない歴史が、甲斐の国には詰まっているということです。「養蚕や織物などの衣料生産とその売買を女性が担っていた事実」や、南都留郡道志村において「炭を背にした馬を牽き峠を越えたのは、やはり女性であった」こと、近世の郡内領において、山深い村々が、材木や薪炭、木製加工品などの林産物の交易によって大きな利益を上げていたことなどは、「米」中心に見ていっては、見えてこない歴史的事実であったと思われます。甲州市塩山上萩原の広瀬さんから、萩原の名産であった煙草は、石和に集められ、富士川水運で江戸などに運ばれたという話を伺ったことがあります。また樋口一葉の『ゆく雲』には、「魚といいては甲府まで五里の道を取りにやりて、ようよう鮪(まぐろ)の刺身が口に入る位」とある。一葉は不便さを強調しますが、逆に考えれば、内陸の山梨であるにも関わらず、甲府に行けば鮪の刺身が手に入ったということでもある。これらのことが気に掛かっており、また「御坂みち」を歩いているということもあって、まさに私にとってドンピシャの企画展でした。そこで、ここは足を運んでみなければならない、ということで、山梨県立博物館に初めて行ってきました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2009.10月取材旅行「御坂みち」上黒駒~藤野木 最終回

2009-10-19 06:10:35 | Weblog
御坂みちの西側に見える高い山の連なりを、地元の人は「神座山(じんざさん)」という。「神座山」を「黒打の頭」としたり、「釈迦ヶ岳」と特定する場合もあるようですが、弦間耕一さんの『御坂百話』によれば、地元の人は「黒打の頭」や「釈迦ヶ岳」、「大栃山」などをすべて含んだ全域を指して「神座山」と呼んでいるという。神奈川県相模原市津久井町で、入会権などを中心とする「山論」を研究している人に伺ったことがありますが、かつて人々は山を「点」(頂点)として捉えるのではなく「面」として捉えていたという。山林が重要であったからです。山の名前もその周辺の人々から、いろいろな名前で呼ばれており、一つに統一されてはいませんでした。また仏教的な名前がついていたりしたのに、明治になって神仏分離が行われると、仏教的な名前が廃されて神道的な名前に変えられたり、また地図を作る関係から一つの名前に統一されたとも。一つの山を、北に住んでいる人は「南山「と呼び、南に住んでいる人は「北山」と呼んだりしたのを、「南山」に統一したりしたわけですが、地元の人は昔ながらの名前で呼んでいたりするわけです。「神座山」は、御坂みちの西側に連なる高い山々を指していると考えた方がいい。この「神座山」の中腹に鎮座するのが「檜峯神社」。この神社が建立されたのは天正17年(1589年)とされていますが、『御坂百話』によれば、その7年前の天正10年(1582年)の8月、ここ藤野木一帯で「黒駒合戦」と呼ばれる戦いが展開されました。この年6月には「本能寺の変」で織田信長が殺されて、天下は混乱しますが、その2ヶ月後に、徳川家康と北条氏直が甲斐国の支配をめぐって激しく戦闘を繰り広げます。この時、檜峯神社の神主武藤左衛門が徳川方の案内役として活躍し、奇襲作戦に貢献したことにより、神座山一帯を家康より安堵されたという。武藤家は黒駒村内戸倉の八反田に屋敷を構え、邸内には母屋を含め7棟の建物があったとのこと。現在はその屋敷は跡形もありませんが、甲州市にある臨済宗のお寺である向岳寺本堂入口の門は、八反田の武藤家の門を移築したものだという。地元の方に聞いたところ、現在の檜峯神社の神主は武藤家ではなく、お祭りの時などは、勝沼の方から武藤さんではない神主さんがやってくるという。この武藤家の存在は、御坂の歴史を考える際に大きなポイントの一つであるようです。 . . . 本文を読む

2009.10月取材旅行「御坂みち」上黒駒~藤野木 その7

2009-10-18 07:57:06 | Weblog
駒木戸集落にあった堀内苔堂の碑文の中の「明治四十年大水害」が気になって、『山梨県の気象百年』という本を調べてみると、この大水害は明治40年(1907年)の8月22日から28日にかけて、足掛け7日間に及んだ、台風による大雨によって引き起こされたもので、山梨県民の記憶に強く刻み込まれた大水害であることがわかりました。同書には次のように記されています。「この大水害は50万県民挙げて死地に陥った大厄である。大小河川ことごとく氾濫し、山腹の崩壊おびただしく、田畑・人畜・家屋の被害著しく、まったく有史以来の大被害となった。このなか最も凄惨を極めたのは、日川、重川及び御手洗川流域であって、日川村、一宮村一帯は見渡す限り巨石累々たる河原と化したのである。」堤防の決壊9万8916か所、道路の被害49万2655か所、橋梁被害3199か所、山崩れ3353か所という大変な被害状況でした。『目で見る峡東の100年』(郷土出版社)によれば、この大水害による東山梨・東八代両郡(峡東地方)の死者は108人、負傷者は102人、流失家屋はなんと2068戸に及んだという。この大水害は足掛け7日間に及んだ未曾有の集中豪雨によるものですが、被害がこれほど多くなった要因は「山林の極端な濫伐」であったことが同書には指摘されています。今、治水のための大型ダム工事の是非が問われていたり、福祉施設に流れ込んで多くの利用者が犠牲になった土石流のことが話題になったりしていますが、山林の保護管理が不十分であることや植林(植生)の不健全さが山林の崩壊を招き、それが治水上において深刻な影響をもたらしていることを考えると、この大水害の原因とどこかでつながっているように思われます。「天災」だけではけしてなく「人災」でもあるということ。ダムを造れば、また河川整備をすればそれでいいというものではなく、背後に広がる山林を保全管理(蓄水が十分になされ、根によって地表が崩れにくくするように)していくことが肝要であるということです。この明治40年と昭和34年(1959年)の「伊勢湾台風」による大水害は、山梨県民の記憶に特に強く刻み込まれている大水害であるようです。山本周五郎は、山梨県北都留郡初狩村の生まれですが、4歳の時に祖父母を山津波で失ったと聞いたことがあり、気になって調べてみるとそれはやはり明治40年8月のこの大水害の時のことでした。 . . . 本文を読む

2009.10月取材旅行「御坂みち」上黒駒~藤野木 その6

2009-10-17 07:12:24 | Weblog
明治15年(1882年)7月14日に、藤野木宿に宿泊したヘンリー・ギルマール一行について、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』にもとづいて、おさえておきたい。ヘンリー・ギルマール(1852~1933)のフル・ネームは、フランシス・ヘンリー・ヒル・ギルマール。ケンブリッジに居住し、旅行家・博物学者・文筆家などとして活躍した英国人。また、ケンブリッジ大学で最初に任命された地理学の教員(助教授)であったとも。ヘンリー・ギルマールは、1882年から1883年にかけて、マーケーザ号というヨットで、カムチャッカ半島、東南アジア、ニューギニア、日本などを探検旅行しました。その期間は2年3ヶ月にも及びましたが、その際、日本には2度立ち寄って日本各地を旅行しています。その日本旅行の期間は、1882年7月の1ヶ月間と、同年10月から翌1883年1月末までの4ヶ月間。ということは、ギルマール一行が御坂みちを越えたのは第1回目の日本旅行の時ということになる。第1回目の日本旅行の行程は、横浜→宮ノ下→箱根→吉田→河口湖→甲府→昇仙峡→鰍沢→身延山→富士川→蒲原→鎌倉→横浜というものでした。この2回の日本旅行において、ギルマールは日本人写真師臼井秀三郎を同行させました。ケンブリッジ大学が所蔵している写真の入った箱のうち、5箱に日本の写真が218枚収納されており、その写真はすべて臼井秀三郎が撮影したものだという。それらの写真のうち171枚はマーケーザ号の日本旅行同行時に撮影されたものであり、47枚はそれ以前に撮影されたものと小山騰さんは推測されています。ではこの臼井秀三郎という写真師はどういう人物であったのか。小山さんによれば、生没年は不詳。生まれたところは伊豆下田池之町。香取屋臼井伝八の三男として生まれています。伝八の長女(秀三郎にとっては姉)は美津で,後に下岡蓮杖の先妻となっています。つまり下岡蓮杖は秀三郎にとっては義兄であり、おそらく、秀三郎はこの義兄である下岡蓮杖から写真術を学んだと考えられます。秀三郎が写真師として活躍した場所は横浜であり、写真館は横浜の太田町一丁目十三番地にありました。秀三郎は、明治14年までに日本全国各地の名所に赴いており、明治14年の段階でそれらの写真をアルバムにして販売していました。その秀三郎を適任の写真師として横浜で雇い、旅行に同行させたのがギルマールでした。 . . . 本文を読む

2009.10月取材旅行「御坂みち」上黒駒~藤野木 その5

2009-10-16 06:42:24 | Weblog
黒駒勝蔵は、慶応4年(1868年)の1月21日、美濃国中山道加納宿に官軍赤報隊の隊長として姿を現します。この加納宿は、日本橋からは53番目の宿場町。徳川家康が、西国大名の反乱に備えてここに城を築き、宿場町も兼ねて中山道の警備に当たらせたという。東海道線岐阜駅から500mほどの距離。その東本陣に宿泊したのが相楽総三であり、西本陣に宿泊したのが黒駒勝蔵。同年5月5日、勝蔵は入洛中の檜峯神社神主武藤藤太をその宿所に訪問。この時、勝蔵は、「四条殿御親兵隊長小宮山勝蔵」と名乗っていますが、この「四条殿」とは甲州鎮撫総督四条隆謌(たかか)のこと。勝蔵は5月18日に四条隆謌に随行して京都を出立。東北で転戦して11月14日に東京へ凱旋。12月に京都に戻り、明治2年(1869年)には明治天皇に供奉して京都を出発し、上京。その後勝蔵はどうなったかというと、明治3年(1870年)8月1日に御暇をもらって黒川金山開発を目論見中、帰隊(第一遊撃隊)の日限を守らなかったことで脱退と見なされ、翌明治4年(1871年)1月25日、伊豆蓮台寺で温泉治療の帰途、田方郡畑毛村で捕らえられて甲府へ送られ、同年10月14日、甲府に於いて斬首刑に処せられたという(以上『博徒の幕末維新』による)。一方、上黒駒村に現れ、勝蔵や檜峯神社の武藤父子に匿われたという伝承を持つ土佐勤王党の那須信吾はどうなったのか、というと、京都に向かった那須は吉村虎太郎と行動をともにして大和の五条代官所を襲撃。那須と吉村は吉野において壮絶な討ち死にを遂げたという。高知城下で土佐藩参政吉田東洋を暗殺したのは、土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の3名。吉田東洋が暗殺される3日前(文久2年〔1862年〕4月5日)に開館した藩校文武館に入学した学生の一人が中江篤助(兆民)。兆民は、文久3年6月8日の夜、住んでいた高知城下山田町の長屋近くにあった牢獄の塀の上から、土佐勤王党の重鎮である平井収ニ郎、間崎哲馬、弘瀬健太の3名の処刑を目撃していました。兆民が藩費留学生として長崎に遊学した時、その地で出会った坂本龍馬ももともとは土佐勤王党の一員でした。その勤王党の一員である那須信吾が上黒駒に姿を現し、黒駒勝蔵や檜峯神社の武藤父子らと接触していたという伝承は、思いがけないところで思いがけない人に会ったような、そういう気分を私に引き起こすものでした。 . . . 本文を読む

2009.10月取材旅行「御坂みち」上黒駒~藤野木 その4

2009-10-15 06:59:18 | Weblog
『博徒の幕末維新』において、檜峯神社関係の記述はP193~195にあり、その写真もP194にあります。写真には「檜峯神社本殿」とありますが、たまたま出会った屋根葺きの大工さんによれば、これは参殿であり、その奥につながっている建物(この写真では見えない)が本殿であるとのこと。背後に回ってみましたが、確かに参殿の後ろに屋根葺き工事が成されていない建物があり、これが本殿かと思われました。同書によれば、「上黒駒村の幕末維新を際立たせたのは村内神座山川上流の山中に鎮座する少彦名命など六神を祀る檜峯神社」でした。「戦国時代には武田氏の手厚い庇護があったこの地域有数の郷社」であり、本能寺の変で信長が殺された大混乱の中で、小田原北条氏と甲斐をめぐる争奪戦において神主武藤家が徳川方に加わって先陣を勤めて大勝利に導き、この功績により、天正11年(1583年)に家康から神座山領が安堵されたという。この武藤家は、「村内戸倉の八反田に屋敷を構え村政にも睨みをきかせ」、「この武藤家を語るなくして甲州の幕末維新の激動の歴史は明らかにされない。いわんや黒駒勝蔵をおいておやである」と高橋さんは記しています。この檜峯神社神主であった武藤外記は、ペリー来航の前年嘉永5年(1852年)に私塾「振鷺(しんじゅ)堂」を開き、神官としての国学の研鑚から尊王攘夷思想に共鳴。黒駒勝蔵がこの塾に入っていたかどうかは確証がないが、勝蔵はこの武藤外記とその子息藤太の薫陶を受けて成長したという。甲府城を攻略しようという計画は、元治元年(1864年)に起こり、また3年後の慶応元年(1867年)にも起こっています。この慶応元年に薩摩藩は、倒幕を実現するために、江戸藩邸を根拠地として関東を撹乱するためのゲリラ作戦を計画。その展開場所は4ヶ所。①江戸府内②野州③甲府(甲府城攻略)④相州。④の相州の場合、最終的に絞られた場所は荻野山中藩の陣屋。この荻野山中藩陣屋襲撃は実際に決行されましたが、この跡地は私の家からそう遠くはないところにあり、跡地は現在、公園や住宅地になっています。③の甲府城攻略は失敗に終わるものの、高橋さんは、「注目すべきはこの計画に深く関わっていたのが檜峯神社神主武藤藤太であり」「藤太は相楽総三ら尊攘倒幕派と緊密に連絡を取り合って」おり、この藤太の近くに「黒駒勝蔵がいることは十ニ分に推測しうる」と結論づけています。 . . . 本文を読む

2009.10月取材旅行「御坂みち」上黒駒~藤野木 その3

2009-10-14 06:45:07 | Weblog
黒駒勝蔵は、天保3年(1832年)、甲州八代郡上黒駒村の名主小池嘉兵衛の次男として生まれました。この上黒駒は「御坂みち」の宿場であり、村高は1220石余。文化年間において、家数は207、人口832、馬30疋。「博徒」というと下層の貧民出身というイメージがありますが、黒駒勝蔵は名主の次男であり、あの竹居安五郎の父中村甚兵衛も名主であって郡中取締役をしていたことがあるほどでした(安五郎はその四男)。中村甚兵衛家の、明治4年(1871年)の「家相方位鑑定図」を見ても、この中村家がかなりの資産家であったことがわかります。安五郎の長兄もやはり中村甚兵衛を名乗り、この子孫にあたる中村通久さんが、『博徒の幕末維新』の高橋敏さんが邂逅した相手。400点におよぶ古文書の持ち主でした。黒駒勝蔵が中村甚兵衛(安五郎の兄)の子分となったのは安政3年(1856年)。ちなみに一葉の父母が「御坂みち」を通って江戸に向かったのはその翌年4月6日のこと。元治元年(1864年)の駒蔵は、尊攘(尊王攘夷)倒幕派の浪士と接触を持ち、甲府城を攻略するという薩摩藩の計画に深く関わったらしい。この駒蔵と尊攘浪士を結び付けたのが檜峯神社の神主である武藤外記・藤太父子、とくに藤太がそうであったようだ。武藤外記・藤太は平田派国学を信奉する尊王攘夷思想の持ち主。この武藤父子の命を受けて黒駒勝蔵は活発に動き回っていたのではないか、と高橋敏さんは推測しています。さて、私にとって興味深かったのは、黒駒勝蔵と接触した尊攘倒幕派の浪士として名前が出てきたのが、土佐勤王党の那須信吾であったこと。那須信吾は他2名とともに文久2年(1862年)4月8日、土佐高知城下において土佐藩参政吉田東洋を暗殺して脱藩。その那須が脱藩2ヶ月後に上黒駒村に姿を現し、勝蔵のところに隠れ、9月には京都に向けて立ち去ったというのです。もちろん本名は名乗らず、「石原幾之進」という、養祖父の通称を変名として使っていたという。伝承であって史実として断定は出来ないにしても、もし那須であったら「那須を実際匿ったのは檜峯神社の神主武藤父子であろう」と高橋さんは記しています。そこで私が思ったことは、もしかしたら那須信吾が匿われた場所は檜峯神社ではなかったか、ということでした。これは仮説ですが、もしそうであれば、那須信吾が辿った道を私は歩いているということになるのです。 . . . 本文を読む

2009.10月取材旅行「御坂みち」上黒駒~藤野木 その2

2009-10-13 06:30:02 | Weblog
高橋敏(さとし)さんの『博徒の幕末維新』を読まなければ、檜峯(ひみね)神社に行こうとは思わなかったはずです。「御坂みち」の旧道を歩くことが今回の取材旅行の主眼であって、檜峯神社は街道沿いの名所というわけでもなく、また地元の人はともかく、他の土地の人にはほとんど知られていないところだからです。『博徒の幕末維新』は、「学びの杜みさと」(御坂図書館)の郷土資料本が置いてある棚で見つけました。この本は書評で取り上げられていたことがあり、書店でチラチラと拾い読みをしたことはありますが、購入はしていませんでした。この本ではまず「複雑化する村財政にもの言う小前」が登場してきます。地域はどこかというと、今私が歩いているこの甲州。農民にとって死活問題とも言える用水をめぐる争い(水論)と、山の入会権をめぐる争い(山論)が、村方紛争として幕末の甲州において頻発します。これらの訴訟の頻発は、やがて名主・百姓代を「入札」で選ぼうという動きに繋がっていきます。「名主・百姓代入札の流れは止まるところを知らず、甲斐の村々の風、人気(じんき)となっていた」というのが、幕末の甲斐の情況でした。この背景の中で、「無宿体之者」や「博徒」たちが登場してくるのですが、そのP98~99に、次のような注目すべき記述がありました。「郡内騒動」は、「単なる百姓一揆、うちこわしの類ではない。甲州の無宿・博徒のふり溜まったエネルギーが悪党となって結集、一気に爆発したのである。」この「郡内騒動」というのは、天保7年(1836年)、いわゆる「天保の大飢饉」のさなか、8月21日から郡内領22ヶ村の百姓が大挙した事件。この騒動で捕らえられ牢屋に入れられた「無宿」は、石和陣屋だけでも135人、そのうち68人、すなわち約半数が牢死したという。高橋さんは甲州博徒の痕跡を尋ねていく中で、竹居安五郎(「吃安〔どもやす〕」)の御子孫である中村通久さんに邂逅。400点にも及ぶ文書の「宝の山」に遭遇しました。黒駒勝蔵は、この「吃安」の兄である八代郡竹居村名主中村甚兵衛の子分でした(『古文書などからみた御坂の歴史』〔弦間耕一〕による)。文久2年(1862年)2月17日、安五郎は牢死。その跡を継いだのが黒駒勝蔵でした。この黒駒勝蔵が影響を強く受けたのが、平田篤胤の国学の影響を受けた尊王攘夷論者である檜峯神社の神主武藤外記と藤太父子であったのです。 . . . 本文を読む

2009.10月取材旅行「御坂みち」上黒駒~藤野木 その1

2009-10-12 07:09:35 | Weblog
今回の取材旅行のポイントは3点ありました。一つは、かつて藤野木の口留番所(駒木戸の関所)があった場所を確認すること。二つ目は、檜峯(ひみね)神社の場所を確認すること。三つ目は臼井秀三郎が黒駒と藤野木で撮影した3枚の写真の撮影場所を確認すること。藤野木番所については、弦間耕一さんの『古文書などからみた御坂の歴史』に、藤野木上河原5262番地辺り、立沢川に架かる橋より50mほど下、という具体的な記述がありました。檜峯神社は、高橋敏(さとし)さんの『博徒の幕末維新』に出てきた神社で、幕末期の神主は武藤外記と藤太父子。高橋さんは、黒駒勝蔵は尊王攘夷思想を持つこの武藤父子の影響と命を受けて(尊王博徒として)活発に動いていたのではないか、と推測されています。臼井秀三郎が撮った3枚の写真は、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』のP18~19に掲載されています。特に藤野木宿のどこかを撮ったものと思われる地元の子どもたちが数人写っている写真は、当時の地方街道の宿場のようすが伺える貴重なものだと私は思っています。しかもこの3枚は、臼井秀三郎が撮った年月日、さらにおよその時間帯までわかる古写真。明治15年(1882年)7月15日の早朝から朝8時か9時頃までに撮られたものと考えられます。このように撮影された年月日がわかる古写真(写した写真家の名前もわかる)というのも、珍しいものではないかと私は思っています。この『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』に収録されている写真は、すべて臼井秀三郎が撮影したものだという。その多くが撮影年月日が具体的にわかり、またわからなくても明治16年(1883年)以前のものであることは確実です。つまりここに収録されている古写真は、すべて明治16年以前(マーケーザ号の日本旅行以前)のものということになるのです。このことは古写真が写された場所の景観の移り変わりの「定点観測」をしていく上で、貴重なことです。藤野木宿について言えば、今から127年前の姿が写し撮られているわけで、ここに写し撮られている宿場の風景は、おそらく樋口一葉の父母である樋口大吉と古屋あやめが、安政4年(1857年)4月6日(旧暦)に宿泊した時の様子と、それほど大きく異なったものではなかったと思われます(26年という時の隔たりはあるものの)。以下、以上の三点のポイントを念頭に置いた今回の取材旅行の報告です。 . . . 本文を読む

2009.9月取材旅行「御坂みち」中萩原~上黒駒 最終回

2009-10-08 06:31:19 | Weblog
「御坂みち」の藤野木(とうのき)宿は、御坂峠の甲斐側の登り口にある宿場。「宿」というからには数軒の旅人や商人あるいは馬曳きたちなどのための宿があったのでしょう。樋口一葉の父母である樋口大吉と古屋あやめは、安政4年(1857年)4月6日、中萩原村を出立し、その日の夕刻、藤野木宿に至り、そこに宿泊しました。ここには口留(くちとめ)番所がありました。周囲を山で囲まれる甲州には、25ヶ所の口留番所があったようですが、その重要な一つがこの藤野木にあった番所。駒木戸の口留番所とも言ったらしい。弦間耕一さんの『古文書などからみた御坂の歴史 御坂百話』(矢野出版)によれば、藤野木上河原5262番地付近、立沢川に架かる橋より50mほど下のあたりにあったという。明治2年(1869年)3月2日に廃止されました。番所は、平屋で茅葺き屋根。内部には土間と2つの部屋があり、高さ6尺(1m80cmほど)の矢来がまわりを囲っていました。室内には鉄砲5挺と、番所などには付きものの「三つ道具」、すなわち刺股(さすまた)・袖がらみ・突棒が備え付けてありました。関守は上番が名主、下番が平百姓。平時はおそらく平百姓(上黒駒の百姓)が輪番で詰めていたのでしょう。この番所跡には、「駒木戸関所」の案内板があるようですが、今回はそこまで歩いておらず、未見です。一葉研究家の野口碩(せき)さんによれば、一葉の父則義(大吉)は、中萩原をあやめとともに出立した時、すでにあやめとの結婚の内祝いを済ませており、出府の動機は、いわゆる「駆け落ち」といったものではなく、「経書に心を寄せて学問を積んでも一介の小さな農民として田舎に埋もれたくないという、本来の青雲の志に似たもののほかにもっと具体的な動機があって、それは明確に眞下専之丞を意識した出府であり、意思の決行のために最初から専之丞への依頼を計算に入れたものであったと考えられる」という。安政6年(1859年)12月、大吉の父八左衛門は、江戸に出て大吉やあやめと再会しますが、その足で甲州の物産品を持って横浜に赴き、横浜本町二丁目の「甲州屋」と接触しています。その「甲州屋」には、横浜での交易を志す多くの甲州商人たちが集まっていて、一葉の「森のした艸」に出てくる若尾逸平もそのような甲州商人たちの一人でした。八左衛門や大吉は、どうも横浜での生糸交易を画策した形跡が見られるのです。 . . . 本文を読む

2009.9月取材旅行「御坂みち」中萩原~上黒駒 その7

2009-10-07 06:42:14 | Weblog
金川を市之蔵橋で渡って下黒駒に入ると分かることは、御坂峠方面へ向かう道が、バイパス(中央道一宮御坂ICから続く道)・旧道・国道(137号線)と3本平行して走っていること。国道137はバス道で、太宰治がバスに乗って御坂峠の「天下茶屋」に向かった道。市之蔵橋を渡って最初にぶつかった広い通りが「御坂みち」と標示がしてあったもっとも新しい道で、中央道を「一宮御坂IC」で下りて富士吉田方面へ向かう場合はこの道を通ることになる。旧道が本来の「御坂みち」で、立ち寄った「ファミマ」からバイパスとは反対側へちょっと入ってみたところで出会った道。旧道はバスが行き交うことができるような幅の広い道ではなく、御坂峠を越えて富士吉田までバスが通うようになったのは、おそらく新道(国道137)が出来てからのことでしょう。金川流域に広がる扇状地は、ここ下黒駒で一気にすぼまり、ここ下黒駒から御坂峠へ向かって山の中を分け入って行くことになりますが、ここから四里ばかりが上黒駒で、旧道に沿って集落や民家が続いていくことになります。石和方面からの「御坂みち」に加えて、扇状地末端の各所から延びてきた道がここ下黒駒で結集し、そこから一本道になって(かつては)、御坂峠に向かったのです。「かつては」というのは相当に歴史を遡り、場合によっては縄文時代まで遡るのかも知れない。それ以来、甲斐地方から富士方面、さらには東海道(古代の東海道も含めて)へ出る場合の幹線ルートであったのです。ということを考えると、この下黒駒および上黒駒の地は、甲斐の国にとってきわめて要衝の地であったということになる。さまざまな物資や人は、ここに集結(甲斐→御坂峠)し、そして集散(御坂峠→甲斐)していったからです。この「黒駒」という地名が記憶に残っているのは、一つは「黒駒勝蔵」という博徒の親分の名前を通して。かつてのテレビの時代劇などで清水次郎長に対立する、「にくにくしげな」親分として登場していたような記憶がある。もう一つは、中村彰彦さんの『脱藩大名の戊辰戦争』を読んだ時。上総請西(じょうざい)藩を脱藩した藩主(大名)林忠崇(ただたか)は、真鶴→小田原→韮山→三島→御殿場→川口(河口湖)→御坂峠を経て、ここ黒駒に姿を現しているのです(慶応4年閏4月20日)。遊撃隊を含め総計442名にものぼる人数が5月1日まで、ここに滞在。めざすは甲府城奪取でした。 . . . 本文を読む

2009.9月取材旅行「御坂みち」中萩原~上黒駒 その6

2009-10-05 06:06:16 | Weblog
鬼丸智彦さんの『桑の村』は、「やまなし文学賞」を受賞した作品。「やまなし文学賞」は、平成4年(1992年)4月、山梨県にゆかりの深い樋口一葉の生誕120周年を記念して制定されたもの。この『桑の村』について、選考委員の竹西寛子さんは、「養蚕農家の四季」が「具体的に描き出され」ているとし、同じく三浦哲郎さんは、「今は失われてしまった養蚕農家の貧しいながらも充実した暮らしが、平常心で、具体的に、丹念に回想されていて、読みごたえがあった」と評しています。鬼丸さんは、執筆の動機として、次のように記しています。「歴史の中に消えてしまった本県の養蚕等を再認識し、母の養蚕を手伝った体験を小説の形で書き残そうと思い立ちました。」養蚕農家の生活の様子を具体的に描いた小説は珍しく、かつての養蚕農家の四季折々の雰囲気を味わうことができました。主人公の「私」と、幼馴染の「智美」(後に「私」の妻となる)の生まれ育った村は、「甲府盆地の西部、御勅使川扇状地の末端部分」の「昭和40年代までは、二百戸ほどの農家全てが養蚕業を営む、桑畑に囲まれた村」でした。しかし、かつての桑畑は葡萄や桃の果樹園に変貌してしまっており、「桑の木は、実家近くの果樹園の隅にごつごつした株姿で名残をとどめている」ばかり。村はかつては「繁茂する桑の緑に囲まれ」ていたのです。「お蚕さん」が始まると、「奥の間」までもが蚕室となり、「部屋は桑の匂い」が満ち満ちました。「蚕は二眠(二回目の脱皮)を終えると、竹竿の棚から移され、床に並べられた棚籠に敷いた莚の上で放し飼いになる。居間に寝ていると毎夜、戸を隔てた中の間から、まるで雨音のように蚕の桑を食べる音が聞こえてきた。蚕が三眠を迎えると、外の物置小屋まで莚が敷かれ、放し飼いになる。」「蚕が四眠になると、夕方も桑取りをしなければ間に合わなくなる。」蚕が終わった後の桑畑は、以下のように描写されています。「数日前まで桑の葉で覆われていた畑が、整然と畝を作る桑株だけになっているのに気が付いた。隣村の家々が見える。さらに北に株だけの桑畑が、少しずつ標高を高めて拡がっている。桑の枝も葉も消えたので扇状地の全貌が露わになっていたのだ。」養蚕農家に育っていなければ書くことが出来ない描写が、この『桑の村』には随所に出て来て、それを知らない私にとってはたいへん興味深いものでした。 . . . 本文を読む