鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

北前船を追う-大曲河港から蔵の町増田へ その最終回

2016-07-22 05:59:01 | Weblog
『増田の蔵』には、それぞれの商家の略歴や、それぞれの内蔵の規模、構造、構造材、見どころなどが詳しく記されていました。何よりも内蔵の入り口や内部の蔵座敷などを写した写真群により、内蔵の豪華さや堅牢さが圧倒的迫力で見るものに迫ってきました。 . . . 本文を読む

北前船を追う-大曲河港から蔵の町増田へ その6

2016-07-21 06:12:07 | Weblog
増田地域には、45棟の内蔵と50棟を超える外蔵、合わせて95棟を超す蔵が残っているといいます。とりわけ内蔵の壁塗り技術は国宝級と言われるほどであり、その内蔵は通りからはまったく見えないために、通りを歩いた限りでは、それぞれの商店がそのよう贅(ぜい)を尽くした内蔵を主屋の向こうに備えているとはまず思えません。しかもその内蔵はたんに貴重な物品を保管する空間であるばかりでなく、床の間のある座敷(蔵座敷)を備えている場合が多く、豪華な居住空間でもあることが驚きでした。 . . . 本文を読む

北前船を追う-大曲河港から蔵の町増田へ その5

2016-07-20 05:59:05 | Weblog
地図を見ると、増田町のやや南に雄物川支流の皆瀬川が流れ、そしてちょうど皆瀬川が二股に分かれ、一方は成瀬川となり、増田町の真東に見える真人山(標高390.7m)の南麓を流れています。増田町の中央を東西に貫流する戦国時代以来の用水路である「下夕堰」は、この成瀬川より取水したものでした。ネットで調べてみると、皆瀬川を遡る小船は戸波(皆瀬川と成瀬川の合流点近く)まで入っていたとの記述があり、雄物川およびその支流である皆瀬川を利用して、小船(小廻し船?)が増田町の南端にまで入ってきていたことがわかります。増田町の繁栄は、陸路の要衝であることとともに、雄物川と皆瀬川の水運(つまり川で秋田城下と土崎湊とつながっている)ことも要因であるらしいことを知ることができたのですが、今回の旅では増田町の南を流れる皆瀬川まで足を伸ばすことはしませんでした。 . . . 本文を読む

北前船を追う-大曲河港から蔵の町増田へ その4

2016-07-19 07:16:51 | Weblog
横手市増田町は、横手の中心部から南に12kmほど離れたところにあり、また羽州街道の十文字からも南東に3kmほど離れていて、かなり鄙びたところにある町という印象があります。町の中心を南北に「増田街道」(「小安街道」)が走っています。この街道が県道108号。「四ツ谷角」交差点でこの「小安街道」と交わっているのが「手倉街道」で、これが国道342号。増田町は「小安街道」と「手倉街道」が交わる交通の要衝であったのです。「手倉街道」は、羽州街道の十文字から増田、田子内、手倉峠を経て城下町水沢へと至る街道であり、手倉峠を越える手前の手倉集落には「手倉御境口御番所」がありました。「小安街道」は、小安、花山峠を経て奥州街道の宿場町築館(つきだて)へと至る街道でした。それにしても、なぜこの辺鄙なところに位置する増田町が「蔵の町」として栄えたのか、ほんの近くに城下町である横手の町があるだけに不思議に思いました。 . . . 本文を読む

北前船を追う-大曲河港から蔵の町増田へ その2

2016-07-16 06:02:57 | Weblog
丸子川が雄物川に合流する地点のやや上流にあった大曲河港のさらに上流にある主な河港は、大保・角間川・大森・鵜巣・大久保・落合などでした。『雄物川の河川交通』によると、これらの河港のうち雄物川の最上流にあった河港は落合で、湯沢や院内を後背地として栄えました。雄物川と西馬音内川の合流点近くにあった鵜巣河港は、雄物川を航行する大船の終航点であり、それから上流へは80俵積みの小船に荷物を積み替えて遡行したとのこと。この「小船」というのは、雄物川流域で最も多く使用されたという「小廻船」のことであったと考えられます。鵜巣河港まで遡行したという「大船」とは、おそらく帆柱を有する「胴船」のことであり、200俵以上は積むことができる船であったと思われます。同書によると雄物川を航行する中型・大型の船の多くは「新屋船」(新屋で建造され、新屋の人々の所有する800~300俵積みの船)が多かったということです。 . . . 本文を読む

北前船を追う-大曲河港から蔵の町増田へ その1

2016-07-15 05:43:12 | Weblog
丸子川が雄物川に流入する地点にある大曲(おおまがり)河港の跡地を確認してから、横手市街の南部にある増田町を目指しました。というのも宿泊した横手のビジネスホテルの部屋に「蔵の町増田」の案内パンフレットが置いてあり、その増田町が、横手市街から離れた郊外にある町でありながら、「蔵の町」として知られていることに興味を持ったからでした。 . . . 本文を読む

北前船を追う-横手から角館へ その最終回

2016-07-13 05:41:56 | Weblog
『雄物川の河川交通』によれば、玉川、雄物川を利用しての下り荷は、米・大豆・小豆・清酒・菅笠・麻糸などであり、上り荷は、海産物・日用品・古着・木綿・綿・塩などでした。下り荷で圧倒的に多かったのは、やはり米であったでしょう。古着・紙・塩・木綿・松前物・瀬戸物などは、土崎湊に入港した「北前船」がもたらしたものであったでしょう。雄物川は「御物」を搬送する川という意味であるらしく、その「御物」とは「年貢米」のことであったから、雄物川の、支流を含めた河川交通の整備は、基本的には内陸部各地の年貢米を運送するためのものであったと考えられます。 . . . 本文を読む

北前船を追う-横手から角館へ その7

2016-07-12 06:01:03 | Weblog
『雄物川の河川交通』によれば、玉川中流左岸の長野河港までは帆船である「玉川大船」が遡行しましたが、それから上流地域については「玉川小舟」で遡るか陸路によった、とあります。この「玉川小舟」の小舟は「小廻船」(こまわしふね)とも言い、雄物川流域で最も多く使用された船であるとのことで、長さ28尺(9.2m余)、幅1尺9寸(60cm余)、縁高1尺2寸(40cm弱)程度のものが多かったといいます。仙北郡の年貢米は、岩瀬河港などから長野河港まで「玉川小舟」で運ばれ、長野河港で「玉川大船」に積み替えられて、玉川、雄物川を利用して秋田城下、そして土崎湊に運ばれたことになります。おそらく雄物川の上流や、雄物川支流の上流などでは、玉川同様、小舟(小廻船)がその終航地点まで利用されたものと考えられます。 . . . 本文を読む

北前船を追う-横手から角館へ その6

2016-07-10 07:33:55 | Weblog
『雄物川の河川交通』(斎藤實則)によれば、玉川中流左岸の長野河港は、六十石(150~200俵)積みの玉川大船(帆船)の終航地点ででした。雄物川を航行する船には「胴船」というのがあって、それは米穀を運送するもので、200俵~100俵ほどを積む、帆柱を有する船、つまり帆船でした。この「胴船」が、雄物川の河口から玉川中流域の長野河港までを往き来した船であり、それが「玉川大船」であったものと思われます。角館を中心とする仙北地方の年貢米は、長野河港でこの「玉川大船」に積み替えられ、玉川、雄物川を下って、秋田城下や土崎湊に運ばれたものと考えられます。 . . . 本文を読む

北前船を追う-横手から角館へ その5

2016-07-09 11:58:51 | Weblog
角館は仙北郡121ヶ村の中心城下町であり、川には橋がなく舟渡し(渡し船)か徒歩(かち)渡しでした。玉川中流左岸にある長野河港までは神宮寺を主とする雄物川流域の各河港から雄物川船や玉川船が往来し、長野から上流は小舟が往来したといいます。田沢・小和沢・松葉からは木材を筏(いかだ)で流したとのこと。長野河港には佐竹氏の家臣が居住しており、そして60石(150~200俵)積みの玉川大船(帆船)の終航地点でした。ここから上流の岩瀬河港や広久内河港には、玉川小舟(40俵積み・20俵積み・17俵積み)で遡行するか、あるいは陸路によったとありました(『雄物川の河川交通』による)。角館城下から一番近い河港はというと、城下の南にある岩瀬でした。 . . . 本文を読む

北前船を追う-横手から角館へ その4

2016-07-08 06:37:58 | Weblog
横手市役所の近くの駐車場に停めた車に戻り、仙北平野を北上して「みちのくの小京都」と言われる仙北市角館町を目指しました。角館は、横手や湯沢とともに佐竹宗家の分家であり、武家町の一つでした。この角館も雄物川の支流である玉川の中流域にあり、市町(いちまち)として在方(地方)の商品流通の中心地の一つでした。『雄物川の河川交通』斎藤實則(秋田県文化財保護協会)によれば、玉川は角館町や中仙町(仙北市)、大曲市(大仙市)などを流れ、広久内・岩瀬・長野・四ツ屋・花館の河港(船着場)がありました。角館も、玉川と雄物川の水運によって、秋田城下や土崎湊(日本海航路)とつながっていたのです。 . . . 本文を読む

北前船を追う-横手から角館へ その3

2016-07-07 07:10:47 | Weblog
横手城は、江戸時代においては秋田藩佐竹氏の支城であり、城代がいて横手盆地を支配していました。横手城は山城(天守閣はない)であり、西と南に横手川が大きく屈曲して流れ、防御の役割を果たしていました。この横手河が雄物川に合流する地点には角間川や大保といった河港があり、それらの河港が諸物資の集散地として賑わっていた時代がありました。 . . . 本文を読む

北前船を追う-横手から角館へ その2

2016-07-06 06:52:24 | Weblog
『街道の日本史 雄物川と羽州街道』國安寛編(吉川弘文館)や『雄物川の河川交通』斎藤實則(秋田県文化財保護協会)によれば、「上筋三郡」(平鹿郡・雄勝郡・仙北郡)は雄物川舟運で土崎湊を経由して日本海海運と連結していました。湯沢・横手・角館は佐竹宗家の分家がある「町」であり、在方(地方)の商品流通の中心地でもありました。横手城下を貫流する横手川は、仙北郡角間川地区で本流の雄物川に合流します。この角間川河港(船着場)は、雄物川流域最大の河港であり、「上筋三郡」の物資の集散地でした。また角間川の北隣の大保河港は、「上筋三郡」の年貢米などがここから船積みされたところでした。 . . . 本文を読む