鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その最終回

2015-04-12 03:47:35 | Weblog

 日和山の方位石からの眺望をデジカメに撮った後、「無線電話発祥のいわれ」の説明文を読み、山道を下って佐田浜の駐車場へと戻ってから、車を「鳥羽駅西駐車場」に移動しました。

 そこから鳥羽駅内を通って佐田浜へと急いで戻り、和具経由神島行の鳥羽市営定期船に乗り込んだのが7:35でした。

 7:40に定期船は佐田浜の鳥羽マリンターミナルを出港。

 左右に鳥羽湾の島々を見ながら、船はまず和具漁港へと立ち寄り、それからまっすぐに神島を目指しました。

 神島北側の埠頭に到着したのが8:20。

 待合室には「欠航要件」として、「1.風速16.0メートル以上 2.波高(港外)1.5メートル以上 3.波高(港内)1.0メートル以上 4.視程 500.0メートル以下」と記された掲示がありました。

 今日は幸いに天気もよく、波も静かで、定期船で渡ることができましたが、崋山が伊良湖浜を出て神島へ向かった時のような波の状態であれば、もちろん欠航となったはず。

 帰りの「神島発鳥羽行き出港時間」は、「11:35」と「15:45」。

 このいずれかには乗らなければならないと確認した上で、待合室を出てすぐの、「潮騒広場」のパネルを見て回りました。

 「『潮騒』の舞台を歩く」という案内マップもあり、やはりここは三島由紀夫の『潮騒』で知られている島であると思いました。

 その案内マップで島を一周するルートを確認し、「洗濯場」を経由してまず「八代神社」に行くことにしました。

 それから「神島灯台」、「監的哨」を経て、時計回りに島を歩いていくことになります。

 鳥羽市営の定期船は、神島北側の集落に面した浜辺にある「市営定期船のりば」の埠頭に横付けしましたが、前に記したように、崋山一行が伊良湖浜から乗った小型帆船(漁船)は、神島の「南辺」の「磯辺」近くに碇を下ろしました。

 ということは、おそらく崋山の乗った船は、現在の「神島灯台」下のやや沖合を通って島の南側へと回り、「弁天岬」の付け根である「ニワの浜」か「古里の浜」のどちらかに近付いて行ったものと思われます。

 案内マップを見ると、「ニワの浜」の横には「カルスト地形」とあり、「古里の浜」には「Gorinohama Beach」とあって「ごりのはま」と呼ぶことがわかります。

 「ニワの浜」近くには、集落があるところとはやや離れていますが「神島小学校」と「神島中学校」が併設されています。

 確定はできませんが、崋山たちの乗った船は、「弁天岬」は回らずに「ニワの浜」あたりに近付いて碇を下ろし、船子たちが崋山を背負って浜に上がったのではないかと思われました。

 そこから「古里の浜」を左手に見て、島の北側の集落へと至ったのでしょう。

 崋山は、「小山ノはな」と「神島」のスケッチの間に、島と思われる陸地が海に落ち込んだところと、そのすぐ沖合いにある円錐形に突き出た岩の姿を描いた小さなスケッチを挿入していますが、これは現在の「神島灯台」の下あたりを描いたものではないか。

 であるならば、左手の陸地は、灯明(とおめ)山の東側斜面ということになるでしょう。

 「神島」(全景)のスケッチで見れば、絵の左端の部分を、現在の「監的哨」の下の海岸沖合から眺めた灯明山海際(東斜面)の風景ということになるでしょうか。

 

 おわり

 

 次回からは「神島」の取材報告となります。

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・「近代デジタルライブラリー 参海雑志」

・『図説 和船史話』石井謙治(至誠堂)



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