鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その5

2012-06-30 05:34:12 | Weblog
天保2年(1831年)10月12日(旧暦)のこの日、崋山は、岩本家の手代吉兵衛の勧めに従って、駕籠に乗って鴻巣宿を出立し、太田の先の「新田金山」あたりまで駕籠で進み、そこからは駕籠から下りて歩いて桐生の町に入っています。その駕籠は、同じ駕籠を乗り続けたのだろうか。それとも駕籠を乗りかえながら進んだのだろうか。なぜ吉兵衛が駕籠に乗って桐生へ行くことを勧めたのかといえば、それは「桐生というところは人の奢っているところだから、駕籠で入らなければ外聞が悪いから」というものでした。桐生の町は金持ちが多くて贅沢なところだから、お武家さまであっても徒歩で入ると軽く見られる。だから駕籠に乗って入るべきだ、というのが吉兵衛の考えでした。崋山は「鴻の巣より桐生まで壱分弐朱四百文、桐生にいたりて四百文、宿賃といふをいだすなり」と記しています。この「壱分弐朱四百文」というのは鴻巣より桐生までの通しの駕籠代であり、「宿賃」「四百文」というのは、桐生での駕籠かきたちの宿泊代であると考えられる。駕籠かきは二人。ということは、鴻巣宿から桐生まで、崋山は駕籠を借り切ったということになります。しかし、利根川の渡しを越えて太田に至った時、駕籠かきたちは、「風が激しいから、ここで報酬をもらって戻りたい」と言い出します。崋山はしかし桐生までという約束で乗ったのだからと言って、その駕籠かきたちの要求を聞き入れませんでした。「太田ハ令幣使道をもて、此駅にとゞめんとするなり」と崋山は記しています。なぜ「令幣使道をもて」なのかは、よくわかりませんが、風が強い中、長い距離、駕籠を担いで来た男たちは、さすがに疲労を覚えたこともあり、太田で崋山を一泊させ、その夜を太田でゆっくり休んで、翌日に桐生に入ることを考えたのかも知れない。「例幣使街道」の宿場町として、おそらく太田にはそれなりの宿や茶店があり、疲労を覚えた駕籠かきはそこに泊まることを願ったのです。しかし予定通りに旅を進めようとする崋山は、その要求を拒絶し、約束通り桐生まで行くことを駕籠かきに命じました。 . . . 本文を読む

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その4

2012-06-29 04:59:32 | Weblog
「妻沼聖天山」を参拝し、「酒店」で酒を飲んだ崋山は、ふたたび駕籠に乗り出発。まもなく河原に出ます。これが利根川の河原で、さすがに「坂東太郎」、その河原はいたって広い。この利根川の左側は荒れていて、田んぼではなく野っ原のようになっているところが、二、三町(200~300m)ばかり続いていました。その利根川を渡し舟で越えれば、そこは「上毛」(上野国)。そこから一里(4km)ほどで、崋山は太田に至りました。利根川と言えば、崋山は「四州真景」の旅の時に、利根川を舟に乗って木下(きおろし)河岸から銚子へと向かっています。その旅の時は銚子に半月ばかり滞在し、「刀祢河游記(とねがわゆうき)」も著していいます。それが文政8年(1825年)の夏のことだから、すでに6年が経過しています。その間の天保元年(1830年)にも、崋山は藩主が日光祭礼奉行になったことにより日光に随従しているから、やはり利根川を越えていることになる。利根川水運の重要性については、崋山は「四州真景」の旅の際に認識を深めたと思われる。妻沼(めぬま)を経て利根川を越える時も、崋山はあの「四州真景」の旅や銚子滞在の日々を思い出したのではないか。あの利根川の上流部はこのようであり、その周辺の景観はこのようであったのです。行く手には、日光や赤城山、三国山などの山々が連なり、あの香取や潮来、銚子あたりの風景とはきわめて対照的。しかし、その下流部と上流部は関東平野を貫通する利根川という大河によって結ばれ、またその利根川の水運によって物資の流通はとても盛ん。熊谷宿を出たあたりから強くなってきた風は、利根川を越えたあたりからさらに激しさを増し、その強い風が吹く中を崋山の乗った駕籠は太田へと進んで行きました。 . . . 本文を読む

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その3

2012-06-27 05:24:27 | Weblog
熊谷宿から桐生への道を進んだ崋山はどういう風景を見たか。彼は次のように記しています。「此道より桐生の道なり。たゞ田圃の中を行。前に日光、赤城、三国の峰々ならびて、いとけしきよし。」真正面(真北)に日光連山、その左手前に赤城山、そのさらに左手奥に三国山。それぞれの峰が連なるように田園風景の向こうに見えて、その眺めを駕籠の中の崋山は嘆賞しています。この日、朝は風がなかったのに熊谷宿を出てからは風が強くなってきたようだ。妻沼までは熊谷宿からおよそ三里(12km)の道のり。この妻沼村は利根川に沿った村で、「村家しげくたてゝ、駅めきたり」と崋山は記しています。宿場のように人家がたくさん建ち並んでいる村だというのです。ここには「斎藤実盛の守本尊八聖天の社」、すなわち「妻沼聖天山」があり、崋山はその「聖天山」を参詣しています。「酒店」に入り酒を注文。その店の吸い物は鴨でうどんを売っていました。魚類は少ない。「江戸より登る魚は熊谷此わたりをかぎるべし」。江戸から運ばれてくる鮮魚は、熊谷や妻沼あたりまでが限度であると崋山は記しているのですが、これはその「酒店」の主人あたりから聞き出したことだろうか。鮎やうなぎなどの淡水魚はあっても、海からの鮮魚はいたって少なかったものと思われます。妻沼が利根川のそばであることを考えると、妻沼の鮮魚は、利根川経由で江戸の魚問屋から運ばれてきていたのだろうか。それとも利根川河口の銚子から運ばれてきたのだろうか。後で太田でまた酒を飲んだ時、崋山は「此あたり常州より魚来。冬ハ鯛、ひらめ、あわび、たこ」と記しており、太田では「江戸」ではなく「常陸」から魚が運ばれてくる、としています。鮮魚の流通・商圏において、熊谷・妻沼あたりと太田では異なっていることに、崋山は敏感に気づいています。そこには、店の主人や土地の人々に気さくに声をかけ、積極的に情報を収集している崋山の姿を見ることができます。 . . . 本文を読む

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その2

2012-06-26 05:22:51 | Weblog
『毎日新聞』6月25日(月)の29面の「雑記帳」に、熊谷市の老舗百貨店「八木橋」に関する記事が出ていました。それによると「八木橋」は24日(日)に創業115周年を迎え、職人所4人が長さ115mの地元銘菓「五家宝」作りに挑戦したとのこと。「五家宝」は、もち米を煎ったあられを、水あめと黄な粉を混ぜた皮でくるんで、円筒状に伸ばした和菓子で、江戸時代後期、中山道の宿場町として熊谷が栄えたころから作られたといわれるという。注目されるのは、「会場は、全国でも珍しい『店舗内を通る』旧中山道跡」という記述。熊谷寺(ゆうこくじ)を右手に見て、「八木橋」の裏手の道を進んで左折した時、国道17号線の手前に「旧中山道跡」と刻まれた標柱があって、意外な感がしましたが、ここの旧中山道は「全国的にも珍し」く、老舗百貨店「八木橋」の店舗内を通っていたのです。崋山は熊谷宿を次のように記述しています。「此駅甚にぎはしう、瓦茨、鱗のやうにならびたてり。凡千戸にもおよぶべし」。鴻巣宿から駕籠に乗ってきた崋山は、先発した吉兵衛が待つ「酒店」の「台屋」で休憩していますが、その「台屋」という「酒店」がどこにあったのかは、私には今のところわかりません。 . . . 本文を読む

2012.6月取材旅行「熊谷~太田~桐生」 その1

2012-06-25 05:46:59 | Weblog
天保2年(1831年)10月12日(旧暦)、未明に鴻巣宿を駕籠に乗って出立した崋山は、荒川に沿った「熊谷の土手」を進んで、熊谷宿に入ります。「台屋」という酒店に、先立ちした吉兵衛がおり、そこで「酒飯」。高木梧庵はここで馬から下り、下僕の弥助が代わって馬に乗る。この熊谷宿から一行4人は中山道を離れ、「桐生」へ続く道へと入りました。そこからのルートは、奈良→妻沼→利根川→太田→丸山→渡良瀬川(松原の渡し)→境野→桐生(岩本家)というものでした。鴻巣宿を出たのが「寅刻」過ぎ(午前6時頃)で、桐生の岩本家に到着したのが「亥刻」過ぎ(午後11時頃)で、約17時間の行程。崋山は鴻巣から新田金山あたりまで駕籠に乗り、そこから先は歩いています。前(4月)の取材旅行では、熊谷まで歩きましたが、今回は熊谷から桐生までを、崋山一行がたどったルートに沿って歩いてみました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その最終回

2012-06-15 05:23:15 | Weblog
長井純一さんの『河野広中』(吉川弘文館)によれば、河野広中には高知旅行日誌である『南海記行』というのがあるという。その記述によって広中が福島から高知へどういうルートで行ったのかがわかります。広中の高知訪問は2回で、明治10年(1877年)と明治12年(1889年)で、2回目の時に甥の広躰(ひろみ)を伴ったのはすでに触れた通り。明治10年の場合、広中は8月1日に福島の石川を出立して東京へと向かい、9月26日に船で横浜から神戸へと向かっています。それからのルートは、神戸→大阪→京都→神戸→小豆島→多度津→琴平→川之江→高知というものでした。高知到着は10月7日。多度津からは陸路で、川之江から高知までは四国山脈を越えています(いわゆる「北山越え」)。高知滞在は10日余り。明治12年の場合は、やはり石川(8月21日)を出立しており、そのルートは以下の通り。白河→白坂→大田原→阿久津→久保田→境→日本橋小網町(東京に20日ほど滞在)→品川→横浜→→神戸→大阪→神戸→→高知(9月23日)。そして高知に10日ほど滞在しています。比較してみると、明治12年の場合は、鬼怒川(阿久津河岸)→江戸川という水上ルートを利用しており、神戸からは海上ルート(汽船)を使って直接高知の浦戸港へと入っているのがわかります。また松本美笙さんの『志士苅宿仲衛の生涯』によれば、苅宿仲衛も明治19年(1886年)に高知を訪問しています。そのルートは大阪(3月1日)→神戸→多度津→川之江→高知(3月7日)というもので10日ほど高知に滞在し、帰路は高知→神戸と、海上ルート(汽船)を利用するものでした。苅宿が、1回目の広中と同じく、多度津→川之江→高知と四国山脈を越えるルートをわざわざたどっていることに興味がひかれます。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その15

2012-06-14 05:45:00 | Weblog
三春を中心とする福島県や東北地方の自由民権運動は、しかしやはり河野広中(磐州)を抜きにしては語れない。『河野広中小伝』高橋哲夫(歴史春秋社)や『河野広中』長井純一(吉川弘文館)などによれば、広中(幼名は大吉、信次郎)は嘉永2年(1849年)7月7日に、三春藩郷士の家に生まれています。父は広可(ひろよし)、母はりよ。河野家は代々呉服・太物・酒・魚などを広く商っていたが、父広可の頃には家運は傾いていたという。幕末三春藩は、慶応3年(1867年)末に重臣秋田広記を藩主秋田映季(あきすえ)の名代として上京させるとともに、一方、二本松・会津・平といった親藩・譜代の有力諸藩に囲まれていたために慶応4年(1868年)5月には奥羽列藩同盟に加盟しています。つまり新政府側と奥羽列藩同盟、双方に通じる策をとっており、新政府軍が明治元年(1868年)7月、海路を経て常陸国平潟から上陸して、白河城を占領し、棚倉城を落とすと、そこに陣営を構えている板垣退助を参謀とする新政府軍と接触。無血帰順の交渉が行われ、ついに7月27日、無血開城が実現されます。この交渉に当たった人物たちの中に河野広中やその兄河野広胖が含まれています。広中は新政府軍の「断金隊」(隊長は土佐藩の美正〔みしょう〕貫一郎)に所属して参戦しており、二本松城落城後(7月29日)に三春に戻っています。この「戊辰戦争」において、三春藩の人々が新政府軍参謀板垣退助をはじめとする土佐人との接触を持ち、無血開城したことは、後の自由民運動の広がりの大きな素地の一つとなる。広中は磐前藩第十四区の副戸長の時代、三春支庁に出張した際、同町大町の川又貞蔵からJ・S・ミルの『自由之理』を求め、それを帰途の馬上で読んで「思想上に大革命」を起こした(明治6年春)という有名な話がありますが、ということは、明治6年春までに三春町においては『自由之理』がすでに読まれていたということであり、また広中の内部にその思想に強く影響されるものがすでに蓄積されていたということになります。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その14

2012-06-13 05:09:08 | Weblog
「深間内基(ふかまうちもとい)」という三春藩士の家に生まれた人物がいる。幼名は久蔵。明治元年(1868年)に慶応義塾に入学し、土佐の立志学舎英学科の教員として慶應義塾から明治9年(1876年)に派遣されたのが、この深間内基と江口高邦(熊本出身・徳富蘇峰の叔父の子)の二人であったという。この深間内基は、ジョン・スチュアート・ミルの『男女同権論』を翻訳しています。この深間内基の存在と、土佐の立志学舎に影響されて設立されたという学塾「正道館」とがどう関わるのかはよくわからない。この深間内は、明治12年(1879年)3月から翌14年(1881年)4月にかけては、宮城師範学校の教員をしているとのこと。また明治6年(1873年)には、三春に英学校が開設されているということですが、その実態についてはよくわからない。佐久間庸軒(名は纉〔つづき〕)という人物もいる。この人は和算家でその門人が2127名もいたという。その父質(たたず)も和算家で、その門人55人のうちほとんどが農民で、2名のみが三春藩の藩士であったという(『近代三春の夜明け』三春町歴史民俗資料館)。福島県下全域で、1万人以上の庄屋をはじめとする村役人や村の文化人層を中心とした人々が和算にとりつかれたということですが、それも多数の自由民権家が生み出される土壌の一つであったかも知れない。それにしても農民たちは和算にどういう魅力を感じ、生活の場においては何を計算していたのだろう。「三春張り子」(三春人形である「デコ人形」)というものもある。この郷土玩具の傑作は、文化文政期を中心に生み出されたものだという。「デコ屋敷」(人形作りの集落─高柴村)の人形師は、村の指導的立場にいた人々であるとのことですが、なぜ、文化文政期に「デコ人形」の傑作が三春で生み出されたのかも興味のあるところ。三春藩出身の自由民権家といえば河野広中があまりに有名ですが、その広中を含めた自由民権家がなぜこの山間(やまあい)の小さな城下町やその周辺に多数生まれたのかは、三春藩士や三春藩の庶民たちの文化的・学問的土壌、他の地域との関わり(江戸・東京や土佐高知など)の実態を探っていくことが重要だと思われます。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その13

2012-06-10 09:51:26 | Weblog
「苅宿仲衛」という自由民権家がいる。高橋哲夫さんの『風雲・ふくしまの民権壮士』(歴史春秋)によれば、この人物は「浜通りの異色壮士」であり、「学識・識見・胆力では本県の自由民権運動では彼の右に出る者がない程の人材」でした。『志士苅宿仲衛の生涯─自由民権家の軌跡─』松本美笙(阿武隈史談会)によれば、この苅宿仲衛は、安政元年(1854年)に、現在の双葉郡浪江町大字苅宿の白幡天王社の祠官の家系に生まれました。明治7年(1874年)に宮城師範学校を卒業。初任校は磐城師範学校で明治8年(1875年)8月に三春師範学校に転任。明治9年(1876年)5月までそこに勤めた後、同年6月に棚倉小へと転任。そして明治10年(1877年)2月には須賀川小へと転任しています。三春師範学校はすでに見た通り、三春藩講所の建物を利用して明治8年に設置されたもので、それが明治11年(1878年)に廃止された後、その建物を利用して全寮制の学塾「正道館」が開設されました。その三春師範学校に勤務していた時、苅宿仲衛は22歳の青年教師。その地で河野広中はじめ三春の民権家たちとの親交を深め、自由民権思想を吸収していったようだ。この苅宿仲衛が、宮城師範学校でどのような教育を受けたのかも気になるところ。彼が赴任していた頃において、すでに三春の地では自由民権家たちの活動が活発であったらしいことが、以上のことからわかります。それらの自由民権家とは、河野広中(郷士出身)・田母野秀顕(藩士出身)・松本茂(藩士出身)・佐久間昌言(藩講所の儒官出身)・三輪正治(農家〔庄屋〕出身)・安積儀平・三郎親子(商家出身〔薬種商〕)・影山正博(商家出身〔薬種商〕)・岡野知荘(藩士出身)・松本芳長(商家出身〔酒造業〕)・岩崎政義(農家〔庄屋〕出身)などであり、旧藩士や郷士以外に、商人や庄屋などの富裕層も含まれていました。苅宿仲衛が生まれ育った苅宿村は、現在の双葉郡浪江町にあり、その浪江町は、あの東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染によって、「避難指示区域」「警戒区域」になっている区域の一つです。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その12

2012-06-10 05:33:45 | Weblog
三春藩の藩講所(明徳堂)は、三春藩の消滅とともに廃止されますが、そのまま残っていた藩講所の建物は、明治8年(1875年)に設置された三春師範学校(小学校教員養成のための学校)の校舎として利用され、その師範学校が明治11年(1878年)に廃止されてしまうと、その建物は今度は明治14年(1881年)に創設された学塾「正道館」の校舎(全寮制)として利用されることになりました。当時の戸長は松本茂であり、創立委員は安積三郎と田母野秀顕。この3名とも共通して自由民権思想を持つ民権家でした。「正道館」は公費によって賄われる、自由民権思想を学び、そしてそれを広めるための学塾でした。明治14年の5月には、土佐から招聘された弘瀬重正と西原清東という二人の青年が三春に到着し、「正道館」の講師(「席頭」)として最新の西洋流の政治学・経済学・法律学を教えました。書籍は東京の丸善(丸屋善七書店)・山城屋・須原屋・巌々堂、福島の近江屋などから購入しています。また同年(明治14年)4月には、創立委員の一人である田母野秀顕が、活版印刷器具を購入するために福島に出張していますが、すでに活版印刷物による自由民権思想の普及を企図していることに注目されます。弘瀬・西原の両名は翌明治15年(1882年)の2月に急遽土佐へと帰国しており、両名による教育期間は実質8ヶ月に過ぎず、また同15年の夏頃には「正道館」は閉鎖状態になってしまっているものの、この学塾「正道館」からは、自由民権思想を持つ青年たちが輩出されていくことになりました(以上は『三春正道館』〔高橋哲夫〕による)。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その11

2012-06-08 04:06:42 | Weblog
三春藩秋田氏5万石は、旧田村郡のほぼ全域を領していました。明治元年において旧領の村の数は85ヶ村。三春町は山間(やまあい)の谷間に発達した城下町で、藩主の屋敷は現在の三春小学校の敷地内にありました。藩主秋田氏は、正保2年(1645年)から明治4年(1871年)まで11代226年間続きました。福島県で最初の政治教育の学塾である「正道館」が設立されたのは明治14年(1881年)のことであり、それはかつての藩講所を利用したものであり、その旧藩講所(正道館)の門は、現在は三春小学校の校門として残っています。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その10

2012-06-07 05:18:25 | Weblog
『北茨城・磐城と相馬街道』によれば、平潟や中之作・九面(くづら)などの湊には、阿波国斎田(才田〔さいた〕)産の塩が入ったという。この才田産の塩は、「浦賀の大尽」大黒屋儀兵衛より仕入れた塩でした。平潟には塩問屋として安満屋菊地半兵衛なる者がいて、湊に入った塩は牛の背で棚倉藩や白河藩に運ばれたとのこと。また中之作の吉田忠右衛門は塩問屋も兼ねていたというから、中之作の吉田忠右衛門は「穀宿」として会津・二本松・守山などの諸藩の年貢米運送を積極的に取り扱うばかりか、「塩問屋」として、阿波の才田塩を「戻り荷」として積極的に取り扱っていたということになります。内陸部の諸藩にとって塩の確保は極めて重要であり、「廻米」とは逆のルートを利用して運ばれた諸産物のうち、最も重要であって大量に運ばれたのは塩であったものと思われます。塩以外に運ばれたものは、「五十集物(いさばもの)」と呼ばれた海産物や肥料(干鰯・油粕)、飼料、農具、日用品など。しかし、『図説相馬・双葉の歴史』(郷土出版社)によると、近世初期においては、相馬地方においては塩田による製塩がおこなわれており、それは元和年中(1615~23)に下総国行徳の玄蕃が伝えたものといわれもの。相馬地方や岩城地方で生産された塩は、「相馬塩」や「岩城塩」と言われ、馬の背で阿武隈山地を越えて二本松城下や会津城下に運ばれたという。しかし、いつの頃からか、運ばれる塩は阿波の才田塩へと変わっていったことになります。それがいつ頃からのことなのか。その塩の運搬(流通)ルートは、どのようなものであったのか。内陸諸藩の「廻米ルート」の探索は、それら諸藩の「塩の道」の理解も深めていくものと思われます。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その9

2012-06-04 07:19:24 | Weblog
『北茨城・磐城と相馬街道』誉田宏・吉村仁作編(吉川弘文館)によれば、「中之作」の湊は、平・三春・二本松・守山・会津の諸藩が利用したとのこと。ここに「三春藩」の名前が出てくるのですが、「中之作」には吉田忠右衛門という者がいて、会津・二本松・守山諸藩の年貢米を積極的に取り扱っていたというのは、『新しいいわきの歴史』いわき地域学會出版部編集委員会編集(いわき地域学會出版部)にその記述がありました。『押し上げる“廻米”─守山藩の廻米の実相』によれば、「中ノ作」の吉田忠右衛門は「穀宿」として、守山藩の廻米を担当していた商人。また先ほどの『新しいいわきの歴史』によれば、三春藩には赤沼村と広瀬村に「御倉元」があり、赤沼村の「御倉元」の米は須賀川経由で馬で運ばれ、広瀬村の「御倉元」の米は岩城中之作まで運ばれ、港からは東廻りの千石船で運ばれたという記述がありました。以上のことから考えると、三春藩の「廻米」ルートは、奥州道中を利用し(馬で陸送)、鬼怒川の阿久津河岸から川船で江戸へと運搬するルートと、平藩領の中之作まで馬で運び(陸送)、中之作の湊からは銚子まで海上を輸送し、銚子からは川船で江戸へと運搬するルートと、二つのルートがあったのではないか、と推察されてきます。守山藩の場合、江戸時代を通して、「鬼怒川路線」→「那珂川路線」→「岩城浜からの海上回漕」という推移がありましたが(『押し上げる“廻米”─守山藩の廻米の実相』による)、三春藩の場合は、さてどうだったのだろうか。そして中之作の「穀宿」吉田忠右衛門は、三春藩の廻米も担当していたのだろうか。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その8

2012-06-04 05:47:11 | Weblog
福島県立図書館に、『押し上げる“廻米”─守山藩の廻米の実相』草野喜久(歴史春秋)という本がありました。「守山藩」というのは、水戸家の分家で、現在の郡山市にかつてあった藩で、阿武隈川の東岸に位置し、陣屋による支配形態をとっていました。この本は、その守山藩の「廻米」の「実相」を明らかにしようとしたもの。この守山藩領と三春藩領とは近接しており、もしかしたら藩境が接しているかも知れない。この本によると、二本松藩の廻米事務が、勘定奉行所属の担当者によって行われていたのに対して、守山藩の場合は代官の専任事項であり、実際の事務は代官方役人(1年交代)が行っていたという。守山藩の江戸時代初期の廻米ルートは、鬼怒川の阿久津・久保田の河岸から船積されて江戸へと送られるものでしたが、やがて那珂川を利用するルートとなり、江戸時代後半からは岩城浜からの海上輸送路線になったという。つまり守山藩の廻米ルートは、河川利用から海上(太平洋)利用へと変化していったことになります。その海上利用の廻米ルートとは、守山→阿武隈山地(標高610mの長沢峠)→岩城浜(岩城泉領小)でした。近くの「中ノ作」の吉田忠右衛門が、この守山藩の「穀宿」を務めていたらしい。ここで積み込まれた守山藩の年貢米は、海上を銚子まで運ばれ、銚子からは利根川高瀬船によって江戸まで運ばれたということになるはずです。さて、では近接する三春藩の場合はどうか。前に、三春藩の廻米ルートは、奥州道中を鬼怒川の阿久津河岸まで運び、そこから利根川→江戸川を利用するものであったことを確認しましたが、守山藩の例からすると、江戸後半においては変化している可能性も考えられます。しかし、その点については、今回の取材旅行では確認するには至りませんでした。 . . . 本文を読む

2012.5月取材旅行 福島・三春の滝桜と自由民権記念館 その7

2012-06-03 05:43:32 | Weblog
『企画展 江戸時代の流通路』により、現在の福島県内にあった各藩の廻米ルートのおおよそがわかりました。阿武隈川の福島河岸には、福島・米沢藩の廻米蔵が並び、その米は川船で河口の荒浜まで運ばれました。二本松・三春・守山各藩の米は、奥州道中を鬼怒川の阿久津河岸まで運ばれました。会津藩の廻米ルートとしては、①阿賀川舟運を利用して西廻り航路(日本海→瀬戸内海)につなげる西ルート②下野街道(南山通り)を南下する南ルート③脊梁山脈を越える東ルート④土湯峠を越えて福島に出る北ルート(原方街道廻しと平潟港廻し)がありました。原方街道は、白河藩や二本松藩の廻米運送にも利用され、「米街道」とも呼ばれました。阿武隈川の河口にある荒浜には、幕領(天領)・福島藩・桑折藩・米沢藩・仙台藩の年貢米を納める蔵が建ち並んでいたといい、阿武隈川舟運を利用したのが、幕府やそれらの諸藩であったことがわかります。滝桜で有名な三春藩の場合、その廻米ルートは、奥州街道(阿久津河岸まで陸送)と、鬼怒川(阿久津河岸から)→利根川→江戸川という河川交通(川船)を利用したものであったらしいこともわかってきました。 . . . 本文を読む