鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その8

2012-11-29 05:52:38 | Weblog
「桐生界隈の水車と水路」(須田米吉)によれば、水車は大きく次の四つに分類されるという。(イ)プッ越し車(上掛式)(ロ)上げ下げ水車(下掛式・別名「押し車」)(ハ)ど箱車(下掛式)(二)大水車(下掛式)。(二)は、主に精米・製材・織物仕上げに用いられ、撚糸に用いられた水車は(イ)(ロ)(ハ)であり、(イ)は桐生川・山田川の上流で使用され、(ロ)は赤岩用水・大堰用水の上流で使用され、そして(ハ)は兎堀用水で使用されたとのこと。新宿(しんしゅく)を流れていたのが赤岩用水であることから考えると、明治半ばに幸田露伴が目撃した新宿の水車は、(ロ)の「上げ下げ水車」(「押し車」)であったということになる。崋山が桐生新町近辺で目撃した水車も(ロ)であったものと考えられます。水輪直径は3m、水輪幅は1m近くあり、かなり大きなものであったようです。「下掛式」というのは、水輪の下部に流水を受けて回転を得るものをいい、濁沼(にごりま)地区を流れる用水路(「くるまっ川」)にかつて水車が回っていたとすると、それもおそらく(ロ)の「上げ下げ水車」ではなかったかと考えられます。『桐生織物と撚糸用水車の記憶』(桐生老人クラブ連合会)によれば、水車が比較的均一な回転数でないと質のよい撚糸は作れないから、「上げ下げ水車」の場合、常に用水路の水量調節を必要としたということです。また水車を造ったり修理したりする「車大工」という職人も存在したらしい。 . . . 本文を読む

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その7

2012-11-28 05:09:58 | Weblog
『桐生百景』(服部修)によると、桐生川には数ヶ所の堰が設けられ、そこから水路が引かれて「灌漑用水」として利用されるばかりか、飲み水・洗い物・糸ゆすぎとしても利用されたという。挙げられている堰の名前は、大堰・金久津・兎・徳蔵など。この水路は枝分かれして田園地帯や街中を縦横に流れ、崋山が記すようにその水路には水車が設置されて、その水車を動力として撚糸が行われていました。水路が引かれたのは桐生川からばかりでなく、渡良瀬川からも引かれました。新宿(しんしゅく)は「水車と機屋の町」であり、そこには渡良瀬川から引かれた「赤岩用水」が流れていました。ここの水車は最盛期には291基もあったといい、新宿のどこの路地からもハタ音が聞こえるほどに繁盛した時代があったという。『桐生彩時記』(桐生タイムズ社)によると、幸田露伴は明治22年(1889年)1月に足利を経て桐生に到着。本町五丁目の金木屋に投宿していますが、金木屋に至る途中で「新宿」を歩いています。彼はそこで見た風景を次のように記しています。「町中を流れる小溝の水の力をかりて水車を装置したる家極めて多く、水車かけぬ家は却(かえ)って少なきまでなり。」 明治中頃の新宿の水車風景を描写した貴重な文章です。『桐生史苑』第十二号の「桐生界隈の水車と水路」(須田米吉)によれば、大堰用水は梅田村地先の桐生川より取水し、町屋→押出し→宮原を経て本町通りを南下して新川に落ちていたという。また兎堀用水は芳毛村北端の兎堰から桐生川の水を取水、芳毛村→東安楽土を経て「山の腰」で桐生川に注いでいました。また菱村には金葛堰・吉兵衛堰・原堰があって、桐生川の水を取水していたとのこと。赤岩用水も含め、それらの用水には数多くの水車が設置されており、そのほとんどは撚糸(八丁撚糸機)のための動力として使われていました。 . . . 本文を読む

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その6

2012-11-27 05:16:08 | Weblog
崋山が八丁撚糸機の動力である水車を見たのは実は下菱村黒川の喜八宅が初めてではなく、すでに桐生新町郊外を散策した時にあちこちでそれを見掛けています。おそらくその場所は、桐生新町と桐生川の間(つまり桐生新町の東側)の田園地帯であったでしょう。彼は10月15日(旧暦)に次のように記しています。「桐生川分水によろしく、枝流田園街にあまねく、水車そこはかとなくかけわたし、操糸の労をはぶく。…いとものしづかなる中に水車と機声とうちまじり、わがこゝろ甚たのしむ。」桐生川から分水されて田園や街中を縦横に流れる用水路に水車が架け渡されており、その水車の回る音と水車を動力にして動く撚糸機(八丁撚糸機)の音がうちまじって聞こえてくるというのです。またその翌日の16日には、大間々の要害山に赴く途次、堤村の谷(やつ)仁右衛門家(岩本茂兵衛の実家)を訪ねていますが、崋山は次のように記しています。「此家は農なれど、かたわら機(はた)を設けて縮緬を織る。」 谷家では「縮緬」を、おそらく「高機(たかばた)」を利用して織っていたものと思われます。崋山は喜八宅を出た後に、近くの「縮緬」を織っているところを見学していますが、実はそれ以前にも堤村の谷家でそれを見学しており、その織り方を詳しく聞いてメモをしているのです(「其法を聞、別二しるす」)。 . . . 本文を読む

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その5

2012-11-26 05:30:08 | Weblog
崋山は喜八宅で何を見たのか。崋山は「糸を操るを見る」と記しています。さらに「其(その)製は川の水を引て、屋の外に水車を設ふく」とも記し、「其製」すなわち水車の構造についても詳しく記しています。喜八宅で水車を動力とした撚糸機の構造などを観察した崋山は、喜八宅を出た後、縮緬を織っているところを見学。その後、観音山麓の普門寺に行こうとしたものの、何か事情があって取り止めています。崋山は喜八宅で「水車図」を描いたものと思われますが、『渡辺崋山集』では、(図なし、四頁空白)と記されています。水車の図を画帖に描いたものの、それはメモとして別に保管されたということでしょうか。この崋山が喜八宅で見た水車については、『桐生織物と撚糸用水車』(桐生市老人クラブ連合会)が参考になりました。それによれば「撚屋」は「績(つむぎ)屋」と言われ、そこで撚糸をする機械は、「八丁撚糸機」(あるいは「八丁車」)と呼ばれました。動力である「水車」と「八丁車」を結びつけて「水力八丁車」を完成させたのは岩瀬吉兵衛という者であり、完成させたのは天明3年(1783年)のこと。岩瀬吉兵衛は、西陣型の片撚り車を見て関東型に改良、その八丁車と水車を結びつけて「水力八丁車」(「八丁撚り水車」)を完成させ、撚糸の大量生産に大いに貢献したとのこと。この「水力八丁車」は桐生ばかりか、足利や八王子、相州の半原(はんばら)にも伝播していった、といったことも記されていました。この水車による撚糸生産は、桐生では昭和20年代初頭まで行われていたようですが、今では川(渡良瀬川や桐生川)から引かれていた多数の用水路(そこに水車が設けられていた)も、そのほとんどが姿を消してしまっています。 . . . 本文を読む

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その4

2012-11-25 05:31:35 | Weblog
崋山は桐生川対岸のこの菱町に足を踏み入れたことはあったのか、と思って『毛武游記』を読み進めてみると、天保2年(1831年)10月26日(旧暦)に、崋山はこの現在の桐生市菱町を訪れていたことがわかります。この日崋山は「卯刻」(午前6時前後)に起床し、日記を記した後、早朝に岩本家の門を出て桐生川の流れのほとりに出ました。そして崋山は「桐生川の水利」について観察しています。この桐生川からは農業用の用水路が幾筋も導かれて田畑を潤していますが、これらの用水は灌漑ばかりか水車の動力にも利用されていました。崋山は「夏ハ田に引、冬ハいとの車の用をなす」と記しています。この桐生川の流れが上野国と下野国との境界をなしていたから、桐生川を渡った対岸は下野国になる。しかし対岸の下野国足利郡下菱村あたりは、かつて桐生大炊助(桐生助綱)が領したところであったことから桐生領であったようです。崋山はこの下菱村黒川の「喜八」というものの家を訪ねています。この「喜八」という人物は、天保2年10月12日(旧暦)に出てきている「喜八」と同一人物であると思われる。この日の夜、丸山宿のうどん屋で崋山一行の到着を今か今かと待っていたのが、甥の喜太郎と岩本家出入の左官助次郎、そして「喜八」の3人であったのですが、その「喜八」はかつて岩本家の小者をしていたが、現在は家を持って独立している者でした。その住まいが桐生川対岸の下菱村黒川であり、崋山はその「喜八」宅を訪ねたものと思われます。崋山はこの「喜八」について、「これハ岩本にて遣ひたるもの、今いと繰といふを業とす」と記しているから、あの丸山宿のうどん屋で待ち構えていた「喜八」と同一人物であることはまず間違いありません。ではわざわざ出掛けたその「喜八」宅で、崋山は何を観察したのだろうか。 . . . 本文を読む

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その3

2012-11-24 06:40:48 | Weblog
この足利への2泊3日の旅の道筋(ルート)はどのようなものであったのだろうか。出発点(帰着点)は桐生新町二丁目の岩本茂兵衛家。そこから桐生新町三丁目の佐羽蘭渓宅に赴き、そこで4人が合流して桐生新町を出発。それ以後の行程は以下の通り。桐生川沿いの道→境野村→境橋(桐生川に架かる橋)→小俣村(山木屋で小酌)→葉鹿村(飲酒)→大前村→山下村→五十部(よべ)村→足利町(蔦屋〔つたや〕で一泊目)→近江屋忠七家→足利学校→茂木家(蕎麦を食べる)→鑁阿寺(ばんなじ)→相角清風楼(酒食)→近江屋忠七家→蔦屋(二泊目)→観音山(足利の町を写生)→蔦屋→五十部(よべ)村→岡田東塢(立助)宅(丹南藩五十部村代官宅・酒食)→大前村(茶店)→葉鹿村→桐生新町二丁目岩本茂兵衛家。二泊三日の旅ながら、丹南藩高木氏1万石の五十部(よべ)村代官岡田東塢(立助)という魅力ある「文人」との出会いや足利学校見学もあり、『毛武游記』の中でも、特に詳細で生き生きとした文章となっています。 . . . 本文を読む

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その2

2012-11-23 06:15:29 | Weblog
奥山昌庵という医者宅に招かれて「小酌」した崋山は、そこに寄食している者たちと顔を合わせました。たとえばどういう連中がそこにはいたのだろうか。崋山が記すところは以下の通り。女芸者(江戸の人)一人、「おとしばなし」(落語家か)を業とする者一人、「角力」(相撲取り)が一人、「舌講者」(講談などで生計を立てる者)が一人、「憐て外へ出し業をなさしむるもの」(露天商や人足のような者か)や料理茶屋の下働きをしているような男女たち多数、昌庵の妾(めかけ)が二人。娘が二人。その一人は乞食が捨てた子どもを拾ってきて娘としたもので、もう一人は先妻との間に生まれた娘。先妻は昌庵が放蕩が過ぎるために去ってしまったので娘一人が残ったが、昌庵が妾を連れてきたためその実子もいなくなってしまったという。二人の妾のうち一人は江戸深川豊倉という家の芸妓で、名前は「さん」。もう一人の妾は芸者。医者としての弟子が二人いて、さらに「僕婢」つまり男の下男と女中がいました。つまり常時十数人が、この奥山家には住んでいたことになる。名医として評判が高かったから多数の患者がやってきて収入は多かったはずだが、寄食する者(食客)が多いために費やすところも多く、したがって奥山家はいたって貧乏であったと崋山は記しています。任侠を好み、そして仁慈心の篤い、型破りの名医であったのですが、崋山が来訪した4年後の天保7年(1836年)に亡くなっています。 . . . 本文を読む

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その1

2012-11-22 05:16:14 | Weblog
天保2年(1831年)の10月21日(旧暦)から23日にかけて、崋山は足利学校を訪ねる2泊3日の旅をします。同行者は奥山昌庵と佐羽蘭渓、そして高木梧庵の3人。崋山に対して「足利へ行こうではないか」と誘ったのは奥山昌庵と佐羽蘭渓。奥山昌庵と佐羽蘭渓が『毛武游記』に初めて出てくるのは10月17日の項。奥山昌庵は桐生新町の医者であり、近隣はもちろん遠くからも患者がたくさんやってくるほどの名医。任侠を好む人であり、その家にはいろいろな職種の人たちが各地から集まって寄食しているようなありさま。この17日の夜、崋山はその奥山昌庵から招かれて、奥山家において酒を飲んでいます。その場には絵を谷文晃らに学んだという組頭の栗田重蔵(桐生新町で絹買継商を営む)や佐羽蘭渓(やはり桐生新町で絹買継商を営み、上州三富豪の随一といわれるほどに家業を盛り上げたあの佐羽淡斎の弟にあたる)、あるいは奥山家に寄食している連中など、多彩な者たちがおり、とりわけ崋山は奥山昌庵と佐羽蘭渓の人柄が気に入り、意気投合したようだ。そして後日、その二人が崋山を足利の旅へ誘うことになったというわけです。出立は21日の昼過ぎのこと。この日、岩本家で昼食を済ませた崋山は、高木梧庵とともに佐羽蘭渓宅へ赴き、「門に尻かけて酒」を飲んだ後、佐羽蘭渓・奥山昌庵とともにいよいよ足利へと向かうことになったのです。私は、その旅のルートをたどるべく桐生から足利まで歩いてみたのですが、途中で道を外れてしまい、馬打峠というところを越えて足利へ至ることになりました。つまり途中で道を間違えて遠回りをしてしまったのですが、しかしそれによって思いがけぬ貴重な「出会い」がありました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

町田市立国際版画美術館・企画展「北斎と広重 きそいあう江戸の風景」について 最終回

2012-11-20 05:03:35 | Weblog
 展覧を終えた後、階段で1階に下り、ミュージアムショップに立ち寄りました。購入したのは、前から読みたいと思っていた『広重と浮世絵風景画』大久保純一(東京大学出版会)と図録(『北斎と広重 きそいあう江戸の風景』)、およびクリアファイルとしおり。しおりは、「甲州大月の原」から富士山を眺めた風景を広重が描いたもの。 弁当を持ってこなかったため併設の喫茶レストラン「けやき」に入り、薬膳カレーを注文。紅葉が始まりだした芹ヶ谷公園の樹木を、大きなガラス窓から眺めることができました。 . . . 本文を読む

町田市立国際版画美術館・企画展「北斎と広重 きそいあう江戸の風景」について その5

2012-11-18 06:39:32 | Weblog
Ⅱは「風景版画の大成─北斎『冨嶽三十六景』と広重『東海道五拾三次』。この両作品については、今までいろいろな展覧会や本などで見ているので、時間をかけずにざっと観覧しました。興味深かったのは、広重の「真景続画 東海道五十三駅」という保永堂版東海道絵袋。作品解説によると55枚を揃いで購入すると、この絵袋に包んでくれたらしい。タイトルに「真景」とあるのが面白い。この絵袋は天保7年(1836年)以降のものですが、「真景」という言葉からは、渡辺崋山の『四州真景図』(文政8年〔1825年〕)を想起してしまいます。崋山は『毛武游記』の旅においても「真景図」を残していますが、「松岸より銚子を見る図」や「常陸波崎ヨリ銚子ヲ見ル」、また雷電山(現在の水道山公園)から桐生新町およびその周辺を写生した絵をみる時、それらはまるでパノラマ写真のようであり、広重の浮世絵風景画と比較した時、どちらがより写実的であるか(「真景」に近いか)と言えば、崋山の描く風景画の方に軍配が上がるものと思われます。浮世絵画家を含めて風景を描く画家たちが「真景」を追求したのはなぜか、またその風景画の購入者たちがなぜ「真景」を求めるようになったのか(それは大久保純一さんによると、19世紀に近づいた頃からだとのこと)、といったことをこれからも考えていきたい。さて、Ⅲは「きそいあう江戸の風景」であり、主に江戸および江戸周辺の名所を中心に、北斎や広重などの浮世絵風景画が展示されていました。 . . . 本文を読む

町田市立国際版画美術館・企画展「北斎と広重 きそいあう江戸の風景」について その4

2012-11-17 04:36:49 | Weblog
ミュージアムショップでは高価であったものの、以前から購入したいと思っていた本が置いてあり、思い切ってそれを購入しました。それは大久保純一さんの『広重と浮世絵風景画』(東京大学出版会)という研究書。大久保純一さんは国立歴史民俗博物館教授であり、今回の町田市立国際版画美術館の開館25周年を記念する企画展の監修者でもあって、『図録』に、「「浮世絵版画における北斎と広重」という論文を掲載してもいます。『広重と浮世絵風景画』については読み終えてから触れてみる機会を持つことにして、「浮世絵版画における北斎と広重」から得た私にとっての新知見をいくつか列挙してみたい。①18世紀の後半に、歌川豊春が明確な水平線の設定や消失点の改善など、より洗練された空間の奥行表現を実現する。②十八世紀半ばを前後する数十年の間に、江戸の人々の風景を見る目は大きな変化を遂げた。③名所絵におけるベロ藍(プルシアン・ブルー)の使用を決定づけたのは(先駆者は溪斎英泉だが)北斎だった。④江戸末期の名所絵は、風景を写実的に写した「真景」であることが売り物のひとつになっていた。⑤視覚の成熟の背景には、行楽や旅への関心、名所図会の出版の流行など、名所風景を描いた画像に対して人々が期待するものが変わってきたことがある。⑥広重の「名所江戸百景」を特徴づける“近像型構図”は、直接的には北斎の『富嶽百景』に触発されたところが大きい。以上6点の中で、私としては②④⑤の指摘がとりわけ興味深いものでした。 . . . 本文を読む

町田市立国際版画美術館・企画展「北斎と広重 きそいあう江戸の風景」について その3

2012-11-15 05:14:05 | Weblog
観覧を終えた後に、ミュージアムショップで購入したものに、2枚のクリアファイルがあります。1枚は広重の「東海道五拾参次之内庄野白雨」であり、もう1枚は同じく広重の「冨士三十六景さがみ川」というもの。後者の描かれた場所はどこかというと、『図録』の作品解説(P290)によれば、相模川の河口、現在の神奈川県茅ケ崎市側であり、そこから富士山を望んだものだとのこと。この作品は、ゴッホの油彩「タンギー爺さん」の背景に描かれたことでも有名であるとも記されていました。ということは富士山の手前右側にある薄緑色の山々は、大山(雨降山)を中心とした丹沢山地ということになります。手前と中程には丸太を組んだ筏(いかだ)が描かれていますが、これは相模川の上流の丹沢や道志などの山中で切り出され、相模川の支流により運ばれた木材が筏にされ、筏師の手によって相模川の河口へと下ってきたもの。これから河口の湊から大型船に積載され、江戸湾上を江戸へと運ばれていくものであると思われます。筏には粗末な板屋根が設けられており、手前の筏のそれからは、煙が上がっています。屋根の下には簡易な囲炉裏のようなものがあり、筏師はそこで煮炊きをすることができたのです。広重は「大山講」で有名な相州大山関係の絵を幾枚か描いており、おそらく江戸から東海道や大山道などを利用して西行し、相模川を渡し舟で越えて大山へ赴いたことがあるはずです。 . . . 本文を読む

町田市立国際版画美術館・企画展「北斎と広重 きそいあう江戸の風景」について その2

2012-11-14 05:42:07 | Weblog
 企画展会場は、「Ⅰ 江戸のまなざし─風景表現の発展」「Ⅱ 風景版画の大成─北斎『富嶽三十六景』と広重『東海道五拾三次』「Ⅲ きそいあう江戸の風景」の3部構成になっていました。土曜日ではあったものの、まだ開館して間もない時刻ということもあって、それほど観覧者は多くなく、ゆっくりと作品を鑑賞してまわることができました。 . . . 本文を読む

町田市立国際版画美術館・企画展「北斎と広重 きそいあう江戸の風景」について その1

2012-11-13 05:35:01 | Weblog
 先週の土曜日、町田市の芹ヶ谷公園の中にある町田市立国際版画美術館に久しぶりに行ってきました。お目当ては開館25周年を記念する企画展「北斎と広重 きそいあう江戸の風景」。11月25日までなので、行ける時になるべく早く行っておこうと思いました。売られているはずの図録もぜひ手に入れたいと思いました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

2012.10月取材旅行「桐生~小倉山~要害山」 その最終回

2012-11-10 06:18:43 | Weblog
堤村の谷(やつ)仁右衛門は、岩本茂兵衛(崋山の妹茂登の夫)の兄でした。この谷家は農業のかたわら「縮緬」を織っていました。崋山はこの谷家に立ち寄った時、その「縮緬」の織り方を聞いています。彼は次のように記しています。「此家農なれど、かたはら機を設けて縮緬を織る。其法を聞、別ニしるす。」 別紙に記したということであり、『毛武游記』にはそれ以上、何も記されていませんが、崋山のことだからこと細かく聞いたことを書きとどめたものと思われます。崋山は大間々についても、「人家稠密になりて機織をもはらとす」と記し、「機織」のことに触れています。大間々から桐生へと戻る途中、崋山は天王宿の「堤定右衛門」(今泉定右衛門)家に立ち寄っています。なぜなら今泉定右衛門は岩本茂兵衛の養父であったから。この家は農業の傍ら織物買継商を営んでいました。岩本茂兵衛は若い頃、この今泉家において絹買継商の基本を徹底的にたたき込まれたのでしょう。崋山は次のように記しています。「堤定右衛門といふは此村第一の豪農にて、かたはら絹買といふをなりわひとなせり。家門広大にしてこものも又多く養へり。」 . . . 本文を読む