鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

馬場孤蝶の『明治の東京』に見る明治東京の景観 その3

2010-06-29 06:48:01 | Weblog
孤蝶の「時代に取り残された乗物」という随筆も面白い。明治の初め頃(明治10年代)の交通機関は、少し遠距離ともなると汽船と乗合馬車であったというのが、孤蝶の記憶でした。孤蝶(馬場勝弥)は、明治11年(1878年)、父母とともに土佐の高知から上京しますが、そのルートは東海道をたどっていくものでした。この孤蝶にとって初めての長旅は新鮮な体験であったようで、その旅の思い出は孤蝶の記憶に刻み込まれていたようだ。馬場一家は、大津から米原まで琵琶湖を渡る定期の小型蒸気船(外輪式)に乗っています。また浜名湖では、薪を焚いて汽鑵焼の湯を沸かしている非常に小型の蒸気船に乗って湖を渡っています。おそらく馬場一家は、高知から神戸か大阪に向かう時も、北山(四国山脈)を越える陸路ではなくて、蒸気船、つまり海路を利用したに違いない。それは次のような記述から察せられる。「九州とか、四国とかいうような島内の各地から本土への交通は、封建時代においてすら、船(日本型)によったのであるから、汽船が使用されるようになって、それらの土地から京阪とか東京などへの交通が汽船によって行われるようになったことはいうまでもない事であろう。」したがって本土(本州)でも、入海とか湖水とかいった広い水の上では、明治になってから間もなく、小汽船(小型蒸気船)、いわゆる「川蒸気」を用いるようになっていました。琵琶湖が然り、そして浜名湖が然り。琵琶湖には大津から米原まで定期の小型蒸気船が運航しており、それは外輪型の蒸気船であったことが孤蝶の記述から判明します。両国から江戸川に入り、大利根へ出て銚子まで下る航路は、隅田川の「一銭蒸気」よりも前からあったのではないかと孤蝶は言っていますが、この銚子から利根川などを利用して両国あたりまで入って来る水運は、江戸時代からのもので、それが明治になって蒸気船が通うようになったということでしょう。隅田川の「一銭蒸気」に孤蝶はあまり乗ったことがないようだが、朝に吉原を出て、公園(浅草)付近で食事をしてから向島方面へ行く人々にとっては、吾妻橋からあの船に乗るのが一番便利であったろう、と孤蝶は記しています。孤蝶は明治42年(1909年)頃、「一銭蒸気」で両国から千住まで赴いていますが、白鬚橋あたりは、川の中に葦(あし)の繁っているところなどがあって、寂し味のある、今もって忘れ得ない景色であったという。 . . . 本文を読む

馬場孤蝶の『明治の東京』に見る明治東京の景観 その2

2010-06-28 07:26:52 | Weblog
馬場孤蝶が、兄辰猪の親友であった中江兆民と会ったことがあることについては、かつてこのブログで触れたことがあります(2009.5.2「馬場孤蝶と夏目漱石、そして中江兆民」)。孤蝶は明治11年(9歳)に父母とともに上京し、明治24年に明治学院を卒業して後、高知の共立学校に英語教師として赴任し、翌々年に帰京して日本中学校に勤めています。そして明治28年には滋賀県の彦根中学校に勤め、明治30年に浦和中学校教師から日本銀行の文書課員に転じています。馬場辰猪がフィラデルフィアで亡くなったのは、明治21年11月1日のこと。このような経歴を見てみると、孤蝶が兆民に会って話をしたのは、明治26年以後のことだと思われます(兆民は明治25年1月に戸籍を大阪から東京市小石川区小日向武島町に移し、明治26年以後、東京や大阪などを金策で転々としています)。注目されるのは兆民が明治29年(1896年)の11月3日に「馬場辰猪八年忌」に出席していること。孤蝶が兆民に初めて会ったのは、この頃かも知れない。とすると、その時、孤蝶は27歳で、兆民は49歳。孤蝶はその兆民の態度や話し振りに、「ウィットとしての風趣」、「飄逸(ひょういつ)とでも云ったような趣」を看取したのですが、それは彼の親友であった斎藤緑雨や、初めて会った頃の夏目漱石に共通するものでした。孤蝶は、夏目漱石に電車の中で会った時の会話を思い出して、斎藤緑雨や中江兆民のことを想起したのですが、孤蝶が夏目漱石と初めて会ったのは、明治40年(1907年)の冬頃、丸山福山町四番地の森田草平宅、すなわち樋口一葉が晩年を過ごした家においてでした。その時の漱石の態度や話し振りに、孤蝶は、すでに亡くなっている斎藤緑雨や中江兆民に共通するものを感じ取っていたのです。孤蝶が電車の中で会った漱石は、おそらく晩年の漱石で、大正時代に入ってからのこと。四十半ばほどでしょうか。外堀線の路面電車(東京市電)の車内でした。漱石は口髭と両鬢(びん)のところがすでに白くなっており、それ以外はまだ黒いものの、帽子を被るとその両鬢と口髭の白さが目立ちました。孤蝶は、市ヶ谷田町や市ヶ谷本村町に居住していたことがありますから、市ヶ谷から乗った外堀線の中で、漱石と出会ったのかも知れない。 . . . 本文を読む

馬場孤蝶の『明治の東京』に見る明治東京の景観 その1

2010-06-27 07:11:48 | Weblog
馬場孤蝶の随筆集『明治の東京』が中央公論社から刊行されたのは、昭和17年(1942年)の5月。孤蝶が亡くなったのはその2年前の昭和15年(1940年)の6月22日のこと。享年72。孤蝶・馬場勝弥は明治2年(1869年)の11月8日に、高知城下中島町に、土佐藩士(上士)馬場来八の四男として生まれました。自由民権家として有名な馬場辰猪(1850~1888)は、その次男で、勝弥にとっては19歳も年長の兄となる。明治11年(1878年)に父母とともに上京し、明治24年(1891年)に明治学院を卒業して高知の共立学校に英語教師として赴任するまで、東京に住んでいます。明治26年(1893年)に帰京した孤蝶は、『文学界』同人として樋口一葉や斎藤緑雨らと親しく交際。明治28年(1895年)から滋賀県の彦根中学校に勤めた後、明治30年(1897年)に浦和中学校教師から日本銀行の文書課員となり、明治39年(1906年)に慶応義塾大学文学部教授になっています。孤蝶は、長い東京住まいの中でしばしば転居を繰り返します。明治30年代以降は、小石川区小日向第六天町、麹町区飯田町、牛込区弁天町、大久保余丁町、市ヶ谷田町、市ヶ谷本村町、小石川区水道端町、芝区三田豊岡町などで、終焉の地は渋谷区松濤(以上は槌田満文さんの「解説」による)。この『明治の東京』には、16編の孤蝶の随筆が収められているのですが、それに目を通していくと、明治から大正・昭和にかけての東京の景観や風俗の大きな変化を知ることができます。また彼が若い時に実際に見聞した、大衆芸能や芸人についての記述も詳しくて面白い。彼にとっては、関東大震災前の東京でさえ、彼が若い時に知っていた東京とは随分と変化したものでした。「昔の東京の如きは、市の中に山があり、森あり、畑があり、田さえあったくらい」であったのです。「市の中に…畑があり、田さえ」あった東京の姿は、孤蝶が存命中においてさえも、東京都心部においてはどこにも見られなくなっていたのです。 . . . 本文を読む

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その最終回

2010-06-23 06:19:00 | Weblog
啄木の日記で、彼の通勤経路について確認してみたい。啄木が東京朝日新聞社に初出勤したのは、明治42年(1909年)の3月1日(月曜日)。日記には次のようにある。「昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した。佐藤氏に面会し二三氏に紹介される、広い広い編輯局に沢山の人がゐる」 「初めて滝山町の朝日新聞社に出社した」とは、入社して初めて出社したということであり、啄木はすでに東京朝日新聞社には3回ほど佐藤真一を訪ねたことがある。この日記の文章から、啄木は昼食を食べてから数寄屋橋まで電車に乗っていることがわかります。乗車場所は、本郷三丁目の停留場。そして午後5時頃に校正の仕事が終わって、電車で帰り、食事の後湯に入っている。3月3日、「往復電車の中でジヤーマンコースを勉強することを励行する。」往復の電車の車内で啄木はドイツ語の勉強をしている。3月5日、「社からの帰りの電車の中で一美人を見、柳町でおりる。」「柳町」というのはおそらく小石川柳町。ということは啄木は朝日新聞社からの帰りは、数寄屋橋→鍛冶橋→呉服橋→神田橋→神保町→水道橋→春日町の路線に乗っていることになる。春日町で乗り換えて、真砂町→本郷三丁目というコースです。ということは、行きも同じコースをたどったのではないか。本郷三丁目→春日町→神田橋→呉服橋→数寄屋橋というルートで、春日町で乗り換える。しかし社からの帰りは、別のルートも利用している。4月6日(火曜日)、「社で今月の給料のうちから十八円だけ前借した、そして帰りに浅草へ行って活動写真を見、塔下苑を犬のごとくうろつき廻った。馬鹿な!十二時帰った。」この場合は竹川町か銀座尾張町から上野広小路経由で浅草へ行き、帰りは浅草から上野広小路経由で本郷三丁目に戻っていると思われます。4月22日、「今日から汽車の時間改正のため第一版の締切りが早くなり、ために第二版の出来るまでいることになった。出勤は十二時、退(ひ)けは六時。」それまでは「退け」は午後5時でした。5月1日(土曜日)、「尾張町から電車に乗った。それは浅草行きであった。『お乗換えは?』『なし。』こう答えて、予は『また行くのか?』と自分に言った。雷門で降りて、そこの牛屋へ上がって夕飯を食った。」銀座尾張町から直通の浅草行きの電車に乗り、雷門で降りたことがわかります。 . . . 本文を読む

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その7

2010-06-21 06:58:40 | Weblog
『東京市電名所図絵』には、虎の門から桜田門にかけての大通り沿いの中央官庁街を走る路面電車の絵と絵葉書が2枚出てきます。虎の門から桜田門にかけての大通りとは「桜田通り」のこと。まずP43の絵葉書は、桜田門側から虎の門方向へ「桜田通り」を眺めたもので、中央左側に見える尖塔が2つある赤煉瓦造りの近代建築は、大審院・地方裁判所・控訴院が入っている建物で、左が大審院、中央が地方裁判所、右側が控訴院。絵葉書には「霞ヶ関通り」とあるが、現在は「桜田通り」。P45~46の絵は、明治39年(1906年)頃に描かれたもので、右手に見える建物は先ほどの地方裁判所を中央とする赤煉瓦の建物。左端中央に小さく見えるのは桜田門。中央やや左側に建つ建物は司法省で、現在は「中央合同庁舎6号館赤レンガ棟」(法務省旧本館)として現存しています。左端に小さく見える桜田門前の両側は外堀で、その向こうに黒く広がるのは皇居(西の丸)の森。外務省の前あたりから地方裁判所や司法省側を見た夜景ということになります。明治39年6月以前の光景ということは、走っている路面電車は「東京市街鉄道」(「街鉄」)で、虎の門方面に向かって進んでいます。街鉄の軌道が敷かれた路面は石畳になっています。車両は「東京市街鉄道1形」のように見える。中央の四輪の幌付き馬車に乗っているのは明治政府の高級官僚でしょうか。和装の人々に交じって完璧な洋装の人たちもいる。手前の、娘と犬を連れた女性は外国人であるのかも知れない。この「街鉄」の路線は、この年に新設されたばかりのものと思われます。解説に「霞ヶ関から北へ桜田門を望む…光景は、とても東京のそれとは思えない。どこか欧州の大都市の夜景のようである」とありますが、広い通りの両側に一種異様な空間(中央官庁街)が広がっていたことがわかります。「外桜田絵図」を見ると、このあたりはかつては広大な大名屋敷(上屋敷が中心)が建ち並ぶ武家地であったのです。   . . . 本文を読む

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その6

2010-06-20 05:27:50 | Weblog
『F.ベアト幕末日本写真集』の幕末の江戸の写真を見ていて、気になる一枚が出てきました。それは、P102の「肥前屋敷」という写真。この写真手前には堀があり、中央やや右側には石垣の中央から水が簾(すだれ)のように流れ落ちています。右端にはおよそ13段ほどの高い石垣があります。その石垣の左手向こうには森があって、しかとはわからないが広い堀の水面のようなものが広がっています。左側にはやや上へ上がっていく坂道があり、その左手に武家屋敷の長屋塀(2階建て)が三つの段になって連なっています。この長屋塀のある建物が「肥前屋敷」だということなのでしょうが、『復元江戸情報地図』を見ても、その地形に該当する「肥前屋敷」は見当たりません。しかしこの写真を見て脳裡にひらめいたのは、広重の『名所江戸百景』の「虎の門外あふひ坂」の絵。堰(せき)とその両側の石垣、その左側の上へとゆるやかにせりあがっていく坂道、その左側の武家屋敷の長屋塀…と、見事に一致しています。もしベアトの写真に写る坂道が「あふひ坂」すなわち「葵坂」であるとすると、真ん中の堰の向こうは「溜池」ということになり、左手に見える長屋塀は、前に見た通り上総一宮藩加納備中守の中屋敷ということになる。つまり「肥前屋敷」ではない。しかしその上総一宮藩の中屋敷の南隣には肥前佐賀藩松平(鍋島)肥前守の中屋敷が広がっていたのです。肥前藩の各屋敷周辺の地理を調べてみても、近くにこのような堀や石垣、そして堰があるところは、この中屋敷以外にありません。となると、やはりこの写真は、広重と同じく、「虎の門外あふひ坂」すなわち「葵坂」とその右手にあった堀と堰を写したものではないか。日向延岡藩の内藤能登守の屋敷地から写せたはずはないから、この写真を、ベアトは広重と同じく、讃岐丸亀藩京極佐渡守の屋敷の門前から(広重の地点よりやや虎御門寄り)、右手の堀に飛び出している石垣を写しこまないようにして、堰や葵坂、およびその坂左手の武家屋敷を写したものと推測することができます。ただ水が滝になって流れ落ちているところが堀の水面と平行ではなく、やや左下に傾いているところが広重の絵と異なるところです。外堀の石垣が飛び出ているところはこのベアトの写真には写っていませんが、それがもし写されていたとしたら、その石垣は歩道橋を渡って下ったところに露出していたあの石垣ということになる。 . . . 本文を読む

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その5

2010-06-19 07:50:22 | Weblog
『百年前の東京絵図』のP42~43に「辨慶橋」という絵がある。「弁慶橋」というのは「弁慶堀」に架かる橋で、赤坂見附と喰違見附の間にありますが、江戸時代にはなく、明治になって架けられたもの。この絵が山本松谷によって描かれた明治30年代にはこのような橋が架かっていたのです。『明治・大正・昭和をめぐる東京散歩』の明治42年(1909年)のこのあたりの地図(P108)を見てみると、「弁慶橋」から西側の「弁慶堀」を眺めれば、右手には「伏見宮邸」、左手には「赤坂離宮」が見えたことになる。となると、この絵の右側に描かれる建物は「伏見宮邸」であり、左側に描かれているのは「赤坂離宮」ということになるのではないか。この絵を見ると、「弁慶堀」の両側の石垣は低く、その上はゆるやかな芝土手のようになっており、右側の土手には桜の木が密集しており、春ともなれば桜の花が美しく咲いていたことがわかります。右側の「伏見宮邸」の奥が喰違見附であり、手前の「弁慶橋」を右手に行けば清水谷や紀尾井坂方面、左手に行けば「外堀通り」へと出て、山王日枝神社や溜池方面に至ることになります。今しも春雨が降っており、「弁慶橋」上を行き交う人々は多くが傘をさしており、人力車は幌をかけて走っています。 . . . 本文を読む

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その4

2010-06-17 06:40:27 | Weblog
「溜池」については、幕末に写したフェリーチェ・ベアトの写真がある。その写真が載っているのは『F.ベアト幕末日本写真集』(P95下)と、『写真で見る江戸東京』(P64上)。ベアトがこの写真を撮影した地点は、このあたりの変貌が激しいために、推測するのが困難です。『写真で見る江戸東京』には、「右手の森が山王権現(日枝神社)だとすれば現在の溜池交差点あたりから撮っている」とあり、この写真の撮影地点が溜池交差点あたりではないかと推測されています。写真に写っている川のようなものは、実は外堀であり、このあたりは「溜池」と呼ばれていました。右手の森が山王権現であるとすると、江戸城は右手にあることになり、山王権現の森の向こう側に赤坂見附があることになります。左手は赤坂の家並み。現在、銀座線の「溜池山王駅」の出入口があるあたりからの撮影ということになるかも知れない。ということは、埋め立てられた溜池の、山王権現の森と左側の人々が大勢集まっている商家との間には、現在は「山王パークタワー」が建っているということになり、手前の溜池の下には、南北線の「溜池山王駅」があるということになる。右手の堀の内側を上がっていったところには、現在、総理大臣官邸や総理大臣公邸などがあることになります。『江戸城を歩く』のP120の古地図を見ると、写真左手の家並みがあるところは「芝代チ」の向こう側であることがわかります。「芝代チ」とは「芝代地」のことですが、その「芝代地」から通りを隔てた左側には「松平ミノ」の中屋敷があります。この部分を『復元江戸情報地図』でより詳しく見てみると、「芝代地」というのは、「芝永井町代地」。その向こうに「拝借櫨実絞所」と「拝借紺屋干場」というのがあり、「芝永井町代地」の左側は「松平美濃守(黒田52万石)」の中屋敷であることがわかります。となると、写真左端中央から中央にかけて続く家並みは、「赤坂田町五丁目」「同四丁目」「同三丁目」の家並みということになる。あくまでも、右側の森が「山王権現」(日吉山王大権現」)のものであるという前提のもとですが、まず、それで間違いがないように思われます。『復元江戸情報地図』を見ると、「山王権現」の溜池沿いには、円乗院・成就院・宝蔵院などの寺がずらりと並んでいたことがわかります。 . . . 本文を読む

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その3

2010-06-16 07:21:07 | Weblog
坂道の高低差(角度)などというものは、実際に現地を歩いてみないとわからないことが多い。地図だけではなかなかそれはわからないもの。弁慶橋から清水谷の交差点にかけて、そしてそこから喰違見附へと上がっていく坂道(紀尾井坂)もそうでした。弁慶橋から右に清水谷公園を見て清水谷に向かっていく通りの左側には、現在は「ホテルニューオオタニ」があり、右側には「赤坂プリンスホテル」や「清水谷公園」などがあります。大久保利通が暗殺された明治11年(1878年)当時には、左側には壬生(みぶ)基修邸、右側には北白川宮能久親王邸がありました。江戸時代においては、左側には近江彦根藩井伊家の中屋敷があり、右側には紀州徳川家の中屋敷がありました。そして清水谷を左折すると、右側にはかつては尾張徳川家の中屋敷。現在は上智大学のキャンパスがある。ゆるやかであった壬生邸と北白川宮邸の間の清水谷に向かう坂道は、清水谷のところで左折して喰違見附方面へと向かうといきなり急坂になる。左手に壬生邸を見て坂道を上がると、そこが江戸城外郭門の一つであった喰違見附となり、そこを濠を両側に見て進んでいけば赤坂の太政官(赤坂仮御所)に至る。つまり「清水谷」のところで坂道は急に傾斜を増し、喰違見附へと向かうのです。参議兼内務卿大久保利通の乗った2頭立ての箱馬車は、午前8時頃に赤坂仮御所に向かって裏霞ヶ関三年町三番地の自邸を出発。大久保は洋装で、フロックコートに山高帽子。御車は中村太郎で、背後には馬丁の小高芳松が乗っている。箱馬車は、赤坂御門前を右折したあと濠を左手に見て進み、そして現在弁慶橋が左手に見える地点で右折して清水谷へと向かいました。紀尾井坂へと急坂を上る地点(清水谷)で、箱馬車のスピードはぐんと落ちる。坂道の両側には排水溝がありました。白兵児帯姿の二人の男が、右手の北白川宮邸の草むらから箱馬車に向かって襲いかかってきたのが8時20分頃。御者の中村太郎は飛び降りようとしたところを肩先から胸にかけて斬られ、ほぼ即死状態。左手(壬生邸)背後の板囲いの辻便所の陰から飛び出してきた4人が、停止した箱馬車に襲い掛かり、箱馬車の左側の扉から出てきた大久保を斬り殺します。大久保の左右の手にはことごとく刀痕があったということは、大久保は、四方から斬りつけられながらも、振り下ろされた刀を両手で必死に防ごうとしていたことがわかります。 . . . 本文を読む

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その2

2010-06-15 06:28:37 | Weblog
『江戸城を歩く』によれば、江戸で最初の上水道は「神田上水」。神田川の水を今の文京区関口あたりで取水し、水道橋付近で外堀(神田川)を越えさせ、江戸城内に導いていました。しかしこの神田上水だけでは江戸市中の水道需要をまかなうことはできなくなり、承応2年(1653年)から「玉川上水」の建設が始まりました。取水場所は、多摩川の羽村堰(せき)。そこから延長43kmの導水路を築き、城内の西部や南部に給水を行うようになったとのこと。この「玉川上水」は、四谷大木戸の水番所までは開渠、すなわち川のような水路でしたが、ここからは石樋や木樋といった地中の水道管で導かれていきました。その役割は、明治34年(1901年)に、ポンプを使った近代水道に取って変わるまで続いたという。玉川上水の水道管は、このまま甲州街道の下を延びていき、四谷見附では深い外堀をまたいでいました。この四谷見附が、江戸城内の水道網の入口であったのですが、ここがその入口になった理由は、この四谷見附が江戸城の外郭において、標高が最も高い場所であったからだとのこと。そしてここから城内に入った水道は、細かく枝分かれをし、武家屋敷や町屋へと通じていました。町のとこどころには、地中の水道管に通ずる、井戸のように桶状に囲われた穴が開いており、人々はそこから水を汲み上げていたのだという。そのことがイラストでよくわかるのが、『江戸の町(上)』(草思社)のP63の図。町屋の地下に「木管」が引かれ、そこから「呼樋」でもって「井筒」の下に水が導かれ、女性が井戸のような「井筒」から桶で水を汲み上げています。飲用水以外の使用は固く禁じられており、洗濯などの雑用には一般の掘り井戸を使用していた、とある。四谷大木戸から地中に入った「玉川上水」は、四谷門外の箱樋で三つに分水されました。その第一は江戸城内へ、第二は麹町一帯へ、そして第三は四谷伝馬町一帯から紀伊国坂を下って、溜池の東を通り、虎ノ門から芝・築地・八丁堀・京橋あたりまで給水したとのこと。私が四谷から右手に折れて、外堀沿いに新橋や銀座・京橋・築地まで歩いたところは、この玉川上水の給水地であったことになります。また麹町一帯にも給水されていたことを考えれば、仏学塾の兆民たちが飲んでいた水は、玉川上水の水であったということになります。 . . . 本文を読む

2010.6月取材旅行「新宿~四谷~有楽町」 その1

2010-06-14 05:10:49 | Weblog
前月の取材旅行では、両国からお茶の水を経由して、四谷まで歩きました。両国橋を渡って柳橋から神田川沿いに歩き、「神田川水運」の終点である飯田橋(神楽河岸)まで。そして飯田橋からは外堀を右手に見て歩く遊歩道をたどり、市ヶ谷を経て四谷まで。つまり神田川を含めた外堀を、その北側を半分ばかりぐるっと回ったことになります。そのコースはおおかた『江戸城を歩く』黒田涼(祥伝社)を参考にしたもの。7の「両国橋からお茶の水」、3の「お茶の水から飯田橋」、2の「飯田橋から四谷」の各コースを結んだものでした。印象に残ったのは、「神田川水運」の重要性であり、また外濠公園の遊歩道の貴重さでした。柳森神社の富士講関係の石造物も、私には興味深いものでした。今回のコースは、外堀の南側半分をたどるもの。『江戸城を歩く』でいえば、8の「四谷から溜池」、1の「虎ノ門から新橋」、6の「銀座・京橋」の各コースを結んだもの。出発点は新宿駅南口。そこから新宿御苑前→四谷駅→清水谷公園→山王日枝神社→溜池山王→国会議事堂→文部科学省→幸橋→数奇屋橋→並木通り→旧新橋停車場跡→浜離宮大手門→築地→歌舞伎座前→有楽町駅という道筋をたどるものでした。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

東京の啄木と電車 その最終回

2010-06-13 06:49:14 | Weblog
近藤典彦さんの『啄木短歌に時代を読む』(吉川弘文館)という本がある。この本に「近代都市と望郷」という章があって、そこに啄木が電車で通勤する自分を歌った短歌が出てきます。それは「こみ合える電車の隅に ちぢこまる ゆふべゆふべの我のいとしさ」というもの。啄木が通った東京朝日新聞社は、京橋区滝山町(たきやまちょう・現銀座六丁目)にありました。銀座通りの裏で、3階建ての薄汚れた煉瓦造りの建物。啄木がここに校正係として出社し始めたのは、明治42年(1909年)の3月1日(月曜日)からのこと。啄木が頼った同郷の先輩で東京朝日新聞編集長の佐藤真一(北江)の尽力によるものでした。編集局室内の校正係の勤務時間は正午から夕方6時前後まで。したがって、啄木は普通午後7時前後には帰りの電車に乗っています。近藤さんは、「退勤時のラッシュアワーをうたった最初の短歌ではないか」と記しています。次に続く文章は以下の通り。「産業革命にともなう労働者階級(サラリーマンも含む)の増大・近代都市の発展・交通網(路面電車等)の整備・電車通勤者の増大、かくて発生した通勤ラッシュを啄木の炯眼(けいがん)はいちはやくとらえた、それが『こみ合える電車』の七文字です。その隅に『ちぢこまる』自分をみつめている石川啄木がいます。」啄木は、次のような歌もうたっています。「家にかへる時間となるを、ただ一つの待つことにして、今日も働けり。」この歌の解説みたいな啄木自身の文章が「ローマ字日記」に出てきます。「社にいると、早く時間が経てばよいと思っている。それが、別に仕事がいやなのでもなく、あたりのことが不愉快なためでもない。早く帰って『何か』しなければならぬような気に追ったてられているのだ。何をすればよいのか分からぬが、とにかく何かしなければならぬという気に、後ろから追ったられているのだ」(明治42年4月10日)。これらの歌2つを併せ詠むと、早く帰って「何か」をしなければならないとの強い焦燥感に駆られつつ、電車の隅っこにちぢこまって乗っている啄木の姿が浮かんできます。新聞社で校正係として働くようになってから、今まで何の縁もゆかりもなかった社会のさまざまな事件や問題が、まるで四方八方から挑戦してくるように啄木には感ぜられるようになってきました。「唯もう凝然(じっ)として居られない」(「島田君の書簡)啄木が、そこにはいたのです。 . . . 本文を読む

東京の啄木と電車 その3

2010-06-11 06:52:04 | Weblog
啄木が若い晩年を過ごした時期に、東京を走っており、そして啄木がひんぱんに利用した路面電車。それをふたたび『東京市電名所図絵』で確認してみたい。P20~21は、品川行きの電車が柳の続く銀座通りを走る光景。車体は赤く、オープンデッキで、金網の救助網が付いている。窓は片側6個。四輪単車であるようだ。絵の左手の塔屋のある建物は「新橋博品館」という勧工場。それを右手に見てから、電車は銀座八丁目を品川方面へと向かっています。この電車は、「東京電車鉄道1形」の183号車。同じ車両が、P32~33にも描かれています。前の絵とほぼ同じ場所から描かれていますが、電車は反対方向、すなわち新橋方面に向かっています。P40~41は、桜田門前を走る電車。車体は緑色で金属製の救助網が付き、運転席はオープンデッキ。これは「東京市街鉄道1形」と思われるが、「東京鉄道750形」にもよく似ている(とくに明かり取りの屋根の部分)。方向板は「本所本郷」とある。P40~41は、日比谷交差点あたりを走る電車で、見える堀は「日比谷濠」。右側の電車は神田橋方面へと向かっており、左側の電車は三田方面へと向かっている。側面に赤い帯が入っており、オープンデッキで四輪単車。これは「東京鉄道750形」。P58~59はお茶の水橋を走る電車。これは窓が8個で、運転台の前にガラス窓が付いており、しかもお茶の水橋を渡っているから、「東京電気鉄道1形」。この「外濠線」と言われた路面電車や、橋の下に見える「甲武鉄道」の電車は、啄木が千駄ヶ谷の与謝野宅に行く時によく利用しています。その写真版が、アングルは違うけれどもP60~61の彩色写真。P90~91は、両国橋を走る電車。側面は赤と白の帯。オープンデッキ。これは「東京鉄道750形」だと思われる。P116~117の浅草の仲見世の入口あたりを走る電車。オープンデッキでボギー車であるようだ。とするとこれは「東京電車鉄道251形」。浅草に行く啄木が利用した路線であり電車。P130~131は、本郷三丁目の交差点を走る電車で、この光景は啄木にとってもっとも馴染みの深いもの。車体は緑色でオープンデッキ。これは「東京鉄道750形」。同じ「東京鉄道750形」でも、赤白の帯があるものであったり、緑色の車体であったりすることが、これらの絵からわかってきます。この車体の形や色は、啄木の日誌からは分からない。 . . . 本文を読む

東京の啄木と電車 その2

2010-06-10 07:06:23 | Weblog
啄木が乗った「東京鉄道」の電車は、どのような形や構造をしていたか。そのことについては、『東京市電名所図絵』の巻末、吉川文夫さんによる「東京都電 開業から昭和戦前までの車両解説」が大いに参考になる。該当するのは、1から5まで。このうち、1~4までは「東京電車鉄道」「東京市街鉄道」「東京電車鉄道」のものですが、「東京鉄道」になってもそれらの電車は引き続き使用されていたはずであり、いろいろな形の電車が啄木が3度目の上京をした頃に走っていたものと思われる。一番古い型は、1の「東京電車鉄道1形」で、その次が「東京市街鉄道1形」。いずれも四輪単車で正面には窓がなく、運転台は吹きっさらしというタイプ。車体は日本製だが、モーターや台車などの機器類はアメリカやイギリスからの輸入品であったという。25馬力のモーター2つ。集電装置はトロリーポール2本。2の「東京電気鉄道1形」は明治37年(1904年)に登場したもので、正面に上部が半円を描いた窓が付いたもので、運転台は吹きっさらしではなくなる。側面の窓も大きく、6個窓のものと8個窓のものがあったという。ヘッドライトは取り外し式で昼間は付けていない。3の「東京電車鉄道251形」は、昭和39年(1906年)に登場したボギー車。「ボギー車」というのは、「車体に対して回転しうる台車二組の上に車体をのせた鉄道車両。車体が車輪に拘束されないため、曲線を安定した状態で通過でき、また高速運転が可能になる」と辞書にある。台車はマキシマムトラクションというもの。モーターの付いているものとそうでないものとで車輪の直径が異なるというもの。窓が大きくなり、明るい感じのする車両であったという。窓は片側に12個もある。4の「東京市街鉄道1001形」。単車を大きくしたようなボギー車で明治39年からの登場。台車は、「東京電車鉄道251形」と同じくマキシマムトラクション形。5が「東京鉄道750形」で、三社が「東京鉄道」に一本化されてから登場したもの。在来車の延長線上にあるようなスタイルおよび性能の四輪単車で明治40年製。窓は8個。トロリーポールも他と同じく2本。電車を特徴付けている一つは、屋根に明かり窓の付いた屋根がもう一つ付いていることで、その形からも電車の形式を判別することができる。ボギー車か四輪単車か、オープンデッキであるか、そして救助網なども判断の材料となります。 . . . 本文を読む

東京の啄木と電車 その1

2010-06-09 06:58:54 | Weblog
3度目の上京(これで、もう二度と帰郷することはなく、東京で亡くなる)の時、啄木が東京を走る電車を頻繁に利用していたことは、今までにすでに触れたところです。利用した電車は「甲武鉄道」の電車と「東京鉄道」の路面電車。お金がなくなり、しかしどうしても電車で出掛けたいところがある時には、啄木は、貴重な本や辞書を、本郷通りの古本屋で売ってまで電車賃をこしらえています。明治42年(1909年)になり、小説では食べていけないことを悟った啄木は、同郷の先輩である「東京朝日新聞社」編集長の佐藤真一を頼り、3月1日より滝山町の「東京朝日新聞社」に校正係として通勤するようになりますが、この通勤に利用したのも「東京鉄道」の路面電車でした。本郷区森川町一番地の蓋平館別荘から滝山町まで電車を利用して通勤することになるのですが、6月16日に、母カツと妻節子、娘京子が上京。この日、本郷区本郷弓町二丁目十七番地の新井こう方(「喜之床」)の2階に居を移します。そしてここから滝山町へ電車で通勤することになるのです。東京各地(浅草・千駄ヶ谷・芝・新橋など)への移動の手段としてばかりでなく、通勤の手段としても啄木は電車を利用することになったわけです。その車中の窓から啄木が眺めた風景はたとえばどのようなものであったのか、車内で彼が印象深く目にした光景にはたとえばどういうものがあったのか、そして啄木は東京を走る電車というものをどのように見ていたのか、といったことを素描風にまとめてみたい。 . . . 本文を読む