鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その8

2015-04-21 06:10:34 | Weblog

 集落を貫通する谷川の上流、八代神社へと坂道が左折するあたり、やや奥の路地でたまたま爪切りをしていた方に、「ここに小久保さんというお宅はありますか」とお聞きすると、「どこの小久保かな、このあたりはみんな小久保だけれども」ということでした。

 姓名の「名」を言わないとわからないということですが、「又左衛門という人ですが」と聞くわけにもいかず、このあたりはやはり「小久保」さんが多いということを確認して、人家の間の階段のある狭い坂道を下って行きました。

 同じ姓が多い集落の場合、人々はおそらく「屋号」を使って区別していたものと思われます。

 『郷土志摩 No44 神島特集号』によれば、「島の旧家」は「梅屋」「柏屋」「井筒屋」で、いずれも小久保姓。そのうちのどれかが小久保又左衛門家の「屋号」であったでしょう。

 時計のモニュメントのある交差点を通過して、定期船の待合室に戻ったのが10:42。

 次の鳥羽行きの定期船の出港時間は11:35。

 1時間近くあるので、崋山が日の出を眺めた東海岸へと歩いてみることにしました。

 その東海岸へと崋山が出掛けた時の記述は以下の通り。

 「やがてたばこくゆらしつゝ、海の朝日の出るを見んと東の磯に立出ず。とく起きて磯草乾せる女に案内(あない)させて、しろき巌の家よりも大きやかなるが波打際に聳える出たるによぢのぼりてながむる。」

 崋山と鈴木喜六の二人は、又左衛門の家を出て、両側に人家が密集する石段混じりの坂道を下り、磯浜に出たところで右折し、神島の「東の磯」へと歩いたのです。崋山はたばこをくゆらしつつ歩いています。

 途中で、ワカメか昆布を浜辺で乾す作業に、早朝から精を出している島の女性に声を掛け、「日の出を見ようと思っているのだが、よく見えるところに案内してもらいたい」と依頼し、その女性の案内で、「東の磯」の波打ち際に露出する、家よりも大きな白い岩の上に、崋山と喜六の二人はよじのぼって朝日が出るのを待ったのです。

 この崋山と喜六がよじのぼって日の出を眺めたという、波打ち際に露出する家よりも大きな白い岩は、今でも残っているのだろうか。

 それは島の東海岸のどのあたりにあるのだろう。

 「伊良湖の見える丘(旧オーカ)」と記してある看板を見て道を進むと、海岸部はコンクリートの護岸工事がなされており、そのコンクリートの歩道のようなところを歩いて行くことになりました。

 かつてはもちろんこのようなコンクリートの護岸壁はなく、島の女性に案内された崋山と喜六は、磯浜沿いに歩いていったものと思われます。細い小道が崖下にあったのかも知れない。

 左手の伊良湖水道の向こうに伊良湖岬を見ながら歩いて行くと、「伊良湖の見える丘」の立て看板があったところからおよそ8分ほどのところの波打ち際に、人がよじのぼることができるほどの傾斜の、白い大きな岩がありました。

 現在はコンクリートの護岸やテトラポットがあって、その波打ち際の岩へとよじのぼることはできなくなっていますが、かつては磯浜からその岩によじのぼることができたに違いない。

 その近くからは伊良湖岬を間近に見ることができました。

 崋山は、「越戸(おっと)、小塩津の山とも見ゆるかたに」、朝日が「ゆらゆらと」差し昇ってきたと記しています。

 崋山はつい昨日、この渥美半島東海岸の「越戸」や「小塩津」の集落を過ぎ、伊良湖の浜から目の前の伊良湖水道の荒海(「ドワイ」)を小型帆船で渡って来たばかり。

 「山」とはそのあたりで一番標高が高い「大山」のことだと思われる。

 朝日はその「大山」のあたりから「ゆらゆらと」差し昇ってきたのです。

 この白い大きな岩が波打ち際に露出しているところは、ちょうど神島灯台の下あたりの海岸部。

 コンクリートの護岸は、その先で行き止まりになっていました。

 荘厳な日の出の光景を眺めてその感動に浸っているうちに、まもなく又左衛門の小者が、「朝かれい(朝食)の用意が出来ました」と呼びに来ます。

 我に返った二人はその大岩から下りて、又左衛門の家へと戻っていったのです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・『郷土志摩 No44 神島特集号』



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