東京の取材旅行を繰り返してきて思ったことは、江戸・東京は「坂の都」であるとともに「水の都」でもあったということでした。江戸城の外堀を一周した時、神田川が、日本橋川と並んで江戸・東京にとって実に重要な水運であることを知ったし、内堀を一周した時も、日本橋川より内堀まで荷船が入り込んでいたことを知りました。深川を歩いた時、深川が江戸・東京湾や隅田川、そして小名木川(おなぎがわ)といかに深く結びついているか、そしてさらに重要なことは小名木川という川が、江戸・東京の生活を支える「地廻り経済圏」である北関東や東北地方諸地域などからの物資の流入ルートとしていかに重要なものであったか、ということを知りました。小名木川が隅田川に流入するところに万年橋が架かっていますが、この北詰にかつて往き来する船を取り締まる船番所があったのですが、これが小名木川が中川にぶつかるところの北側に移転されたことによって、万年橋の船番所の跡地は元番所跡といわれるようになり、その近くにあったのが芭蕉庵でした。この芭蕉は、もともとは神田上水の底浚い作業の請負業で名を挙げ、その後新進気鋭の俳諧師として、江戸日本橋で活躍していきますが、その芭蕉の門人となり芭蕉の活躍を支えたのは榎本其角(きかく)・服部嵐雪(らんせつ)・杉元杉風(さんぷう)であり、この3人はいずれも日本橋界隈に住んでいた商人でした。特に杉風は、日本橋小田原町に住んで幕府御用達の魚問屋を営むとともに、絵画は狩野派に学び、茶道や禅も嗜(たしな)むといった教養人でした。日本橋で活躍していた芭蕉が、繁華の地を離れて深川に移り住んだのは延宝3年(1680年)の冬。深川元番所の近くでした。小名木川の船番所が深川(万年橋北側)から中川口へ移転したのは寛文元年(1661年)のこと。芭蕉は隅田川、そして小名木川の活発な水運を目の当たりにしたことになります(もちろん日本橋川や神田川の水運についても)。そして彼の生活を支える最古参の門人たちは、杉風をはじめとして日本橋で商いをする商人たちでした。といったことを考えると、「江戸湊」の活発な水運を通した情報や文化の蓄積が、芭蕉文学の背景にはあったのではないかとさえ思われてきます。10月の取材旅行は、北関東の「地廻り経済圏」(ひいては東北地方などの北日本)と結びつく重要な水路であった、その小名木川を歩いてみることにしました。 . . . 本文を読む
かつて、高知城下周辺に広がる田んぼには、4月になると「げんげ」(れんげそう)の花が咲いて一面赤紫色になり、その後、村々では田植えが始まりました。田植えが終わると、端午の節句を迎えるためにあちこちに鯉や武者絵が描かれた色鮮やかな幟(のぼり)が上げられました。そして梅雨に入ると、山裾の村々では楊梅(ようばい・山桃)採りが始まり、その楊梅売りをする村人たちの姿が、城下に姿を現すようになる。梅雨の後半ともなると、楊梅売りの男たちの声が城下のあちこちに溢れ、人々は升で量り売りされるその楊梅を我先に購入したものでした。特に味がよく、ほかのどこよりも評判がよかったのは、高知城下から見て五台山の向こう、十市(とおち)村の楊梅でした。城下の人々は、「ももえー、ももえー」、「とーちのをー、ももは、いらんかよー」といった売り声を耳にすると、通りへ走り出たものだったという。中江兆民も、この楊梅が大好物であったらしい。その「十市」はどういうところなのか。そういう気持ちもあって、五台山に向かう時、十市というところを通ってみることにしました。 . . . 本文を読む
「野良時計」のある豪壮な屋敷が田んぼの向こうに見える光景を、映画かテレビドラマか、かなり前に目にした記憶があるのですが、それが何だったのかは思い出せません。その光景は私にとってとても印象的で、高知に行く機会があったら見てみたいものだ思っていましたが、高知県のどこにあるかは知りませんでした。漠然と南国市内かと思い込んでいて、前回高知県東部を取材旅行した時も、近くを通りかかったら寄ってみようと思っていたのですが、出会うことはなく、今回、「絵金蔵」に置いてあった各地の観光パンフレットを見ていた時、それが安芸市にあることを知ったのです。ほんの近くに安芸城跡や土居廓中、岩崎弥太郎生家があることも知りました。そこで、車を安芸市へ走らせることにしました。 . . . 本文を読む
赤岡町は現在は香南市赤岡町。江戸時代の赤岡は廻船問屋や商家が軒を並べる商工業の盛んな町であり、その廻船業を営んでいた宮谷家に嫁いでいた伯母を頼って、赤岡にやってきた一人の町絵師がいました。それが弘瀬洞意(どうい・1812~1876・弘瀬柳栄〔りゅうえい〕とも)であり、本名は金蔵(きんぞう)。その「絵師金蔵」を略して「絵金」とも言われました。この金蔵は宮谷家の土蔵をアトリエ(画室)にして、「芝居絵屏風」と言われる極彩色の作品を次々と描きました。金蔵は高知城下新市町(しんいちまち・現在のはりまや町)に髪結いの子どもとして生まれますが、その絵の才能を認められ、18歳の時に江戸に出て狩野派の画家に習い、わずか3年で免許皆伝を受けて国元に戻り、土佐藩家老桐間家の御用絵師となります。しかし贋作(がんさく)事件により御城下追放となり、土佐各地や上方などを「旅絵師」として10年近く放浪していたといわれます。注文に応じて凧絵(たこえ)・フラフ(土佐独特の五月幟〔さつきのぼり〕で縦横2mほどもある大旗)・幟(のぼり)・絵馬などを描いていたらしい。やがて伯母を頼って赤岡にやってきた金蔵は、神社の氏子たち(廻船問屋や商家の金持ちの旦那衆が含まれる)の依頼に応じて、独特の「芝居絵屏風」を多数描いていくことになりました。この「芝居絵屏風」は、家の軒先に外向きに並べられたのですが、それは家に邪鬼を入れないための魔除けとしての意味合いを持っていました。邪鬼を祓い、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全・子孫繁栄を願うものでした。金蔵の使う赤色は「血赤」と呼ばれるほどの生々しい赤色でしたが、それは近くの物部(ものぶ)で採れた辰砂(しんしゃ・水銀朱)などを使用するもの。「赤」は「コレラ除け」とされる色でもあり、病気や災厄を防ぐための色であったでしょう。この絵金が創造した「芝居絵屏風」は、幕末より土佐各地の夏祭で飾られました。現在でも、香南市赤岡町の「絵金祭り」や、高知市朝倉の朝倉神社、高知市鴨部(かもべ)の郡頭(こおりづ)神社、南国市片山の片山神社などで飾られているという。幕末の夏祭の夜、百目蝋燭の明りに妖しく浮かび上がる、絵金および絵金の弟子たちが描いた「芝居絵屏風絵」を、あの坂本龍馬や中江兆民なども、多数の群集とともに眺めたことがあるかも知れない。赤岡の廻船業と上方とのつながりが、絵金の絵の背景にある。 . . . 本文を読む
『高知県地名大辞典』(角川書店)によると、秦泉寺は古くは浦戸湾に面していたという。村内は人家が7の小村に分散し、寛保3年(1743年)には、戸数277、人数882人でした。明治4年(1871年)、高知県に所属し、明治22年(1889年)に秦村の大字(おおあざ)となったとのこと。兆民が秦泉寺村を訪れた翌年に、土佐郡秦泉寺村から同秦村の大字になったことになります。その南部は久万川流域の平野部(かつては海だったのが、沖積平野になった)であり、田んぼが一面に広がっており、その田んぼの広がりの中にいくつかの集落が散在していたのでしょう。おそらく「愛宕道」は、田んぼの中の一本道で、それは愛宕大権現下から小坂峠を経て、土佐山や本山へと至る道につながっていたものと思われます。明治15年(1882年)の11月11日、高知の立志社の面々は、二手に分かれて高張提灯を掲げて、江ノ口川に架かる「中の橋」や久万川に架かる「愛宕大橋」を渡って、この「愛宕道」を進んで行き、小坂峠あたりで野宿をして、土佐山の西川で開かれた旧海南自由党の「巻狩大懇親会」に参加していますが、この1週間後の11月19日には、赤岡海岸で、やはり旧海南自由党による「魚漁大懇親会」が開かれています。この香美郡赤岡での「魚漁大懇親会」には、中江兆民も漁師姿になって参加しています。土佐山で「巻狩大懇親会」が行われた時にも、兆民は高知に滞在しており、記録には残っていないけれども、もしかしたらこの大懇親会にも参加しているかも知れない。そう考えると、兆民は土佐山の「山嶽会」を結成した若者たち、具体的には高橋簡吉や中山亘(わたる)、長野源吉らと接触した可能性も出てきますが、資料的には確かめられないので、これは一つの可能性にとどまります。
. . . 本文を読む
「土佐紀游」の記述によれば、秦泉寺村の農家の女性たちの歌う田植歌を聴いた兆民の感想は次のようなものでした。「其声繊弱(しんじゃく)なるが如くにして然(しか)らず其(その)意猥褻(わいせつ)なるが如くにして然らず繊弱中自ら洪強(こうきょう)の処(ところ)有り体格の強健なるが為めなり猥褻中自ら質朴の処有り性向の純粋なるが為めなり」 午前の田植を終えて持って来た昼食を摂り、そして兆民らに酒と肴を勧められて、やや酔いで顔を赤らめた女性たち老少10人ばかりが、声を合わせて歌い始めた田植歌は、けして声高のものではなく繊細で静かな声調のものであり、その歌の内容はというと猥褻なものではあるが質朴なものでした。 それに合致するような高知県の田植歌には、たとえばどういうものがあるだろう。『土佐の芸能 高知県の民俗芸能』『土佐の民謡』から抜き出したものをいくつか紹介してみます。①「七つ八つからイロハを習うて、ハの字忘れて色ばかり」②「山田の稲は畦(あぜ)によりかかるよ 十七八は殿によりかかるよ 若殿さんの腰掛ケの松よ ふとれよ松よ 枝も栄えよ小松よ」③「一寸(ちょっと)植えて早う植えて田平殿(田んぼの持ち主のこと)と寝て行こう」④「早う植えて代掻(しろか)きさんと寝てゆこう しろかきさんがいやなら 苗持ちさんとねてゆこう 今日は日がよて さばい田(田の神の田んぼ)が植わるよ 黄金の波が今打つぞ アラヨイヨイ」 『土佐の民謡』によれば、田植えの時の代掻きは、牡馬数頭を田んぼに並べて、それを追いたてながら行うという。早乙女たちは30人から70人ほどが、赤いたすきをし、紺の着物を着て、菅笠をかぶって、田植歌を歌いながら田植えをする。早乙女たちの指揮をするのは「田行事」。やはり菅笠をかぶり、手に杖を持って指揮をとる。「太鼓持ち」という子どももいる。「太鼓持ち」は、後だすきに鉢巻をして、背中に5、6尺ほどの笹を立て、それに五色の紙を付けて太鼓を首に掛け、両手に撥(ばち)を持って、植え遅れている早乙女の傍に行って、身振りをしながら拍子をとったという。子どもを含めた農家の女性たちが、赤いたすきをし、菅笠をかぶって、歌をうたいながら、田行事の指揮や太鼓持ちの拍子に合わせて整然と田植えをするのが、当時の一般的な田植え風景であったようです。 . . . 本文を読む
南国市立図書館では、『土佐の芸能 高知県の民俗芸能』高木啓夫(高知市文化振興事業団)と、『土佐の民謡』近森敏夫(中公新書)にも目を通しました。土佐の「田植歌」について知りたかったからです。田植歌とは、田植の時に「田の神」を迎えて歌うもの。仕事歌ですが、高知県においても各地にいろいろな田植歌があることを知りました。中江兆民は、明治21年(1888年)に高知に帰郷した時、郊外の秦泉寺で田植歌を聴いて感動していますが、それがどのような内容の歌であったのか確かめてみたい気持ちがありました。結果的には、その秦泉寺の女性たちが歌った田植歌の内容はわからなかったのですが、高知県内の田植えや田植歌のだいたいの雰囲気は知ることができました。 . . . 本文を読む
昨年冬の南阿波地方の取材旅行では、「森繁久弥」との出会いがありました。取材先で立ち話をしたおばあちゃんたちから、「ここには森繁久弥がヨットで来たことがある」という話を聞いて、その森繁久弥の知り合いの家がどういうところにあったのか、町の外れの方へ歩いていった際、途中の大きな石仏のあるところで、南海大地震による津波で亡くなった人たちの名前が刻まれているという供養碑を探している女性に会ったのです。そのおばあちゃんは地元の人であるにもかかわらずそのような供養碑があることを知らなかったのですが、その日の『徳島新聞』の朝刊に、その供養碑の記事を見つけ、それを探しに来ていたのです。その日の夜、立ち寄った「道の駅」のロビーで『徳島新聞』の朝刊の記事を探したところ、その記事には、南海大地震による津波のことと、それに遭遇した森繁久弥のこと、そして供養碑のことが記されていたのです。取材旅行を終えて妻の実家に年始に行った際、その話を聞いていた娘が亡くなった義父(私の妻の父)の本棚から『森繁自伝』を見つけました。それに目を通してみたところが、南海大地震の津波との遭遇の経緯が詳細に記されていたのです。この「森繁久弥」との出会いには、一つ、伏線がありました。樋口一葉の取材の関係で谷中霊園に行った際、散歩中の一人の老齢の男性と出会いました。その方が谷中墓地に詳しく、私をいろいろな墓に案内してくれたのですが、途中、森繁家の墓と森家の墓を教えてくれたのです。その老齢の紳士は、私に、この森繁家の墓は森繁久弥が作ったものであるということや、幕臣森家と森蘭丸のこと、そして森繁久弥との関係を教えてくれました。その後、森繁久弥さんは亡くなりましたが、取材旅行で森繁久弥の話を土地の人からうかがった時、思い出したのはその谷中霊園での一人の老齢の紳士との出会いでした。今回は「美空ひばり」との出会いでしたが、それは、高知自動車道の立川PAで車中泊をしようとしたところから始まりました。真夜中に大型のトラックが1台入ってきて、冷房のためエンジンをかけたまま近くに停まり続け、その音がうるさいので、急遽、予定ではそこで車中泊することになっていた「道の駅大杉」に移動したのです。その深夜の移動がなければ、「美空ひばり」との出会いはなかったはずであり、また美空ひばりが10歳の時に遭遇したバス事故について知ることもなかったはずです。 . . . 本文を読む
『ひばり自伝』美空ひばり(草思社)が出版されたのは昭和46年(1971年)で、美空ひばりが34歳の時。一方、『美空ひばり』竹中労(弘文堂)が出版されたのは昭和40年(1965年)で、美空ひばりが28歳の時。後者は竹中労の出世作となったもので、22年ぶりに復刻された朝日文庫のものを、私は南国市立図書館で目を通したことになります。その6年のタイム差を考えると、美空ひばりは、竹中労の『美空ひばり』を読んでいる可能性が高い。私の関心は、美空ひばりの大杉でのバス事故のことであり、それが戦後のいつのことであり、その状況はどういうものであったのか、ということでした。竹中労氏の場合、その事故のことについては、美空ひばりが前座歌手として加わっていた俗曲の音丸と漫談の井口静波の一座のうち、音丸への取材に基づいてまとめたものであるようです。『ひばり自伝』においては、ひばり自身が、自分の記憶や母喜美枝から聞いた話からバス事故のことがまとめられているようです。もちろん『ひばり自伝』の方が信憑性が高いのですが、自伝がすべて事実にもとづいていて正しいかというと、一般的に必ずしもそうとはいえない。『美空ひばり』の方は、バス事故については音丸から取材したもので、客観性はあるものの、これも音丸の記憶にもとづくものですべて正しいとは断言できない。当時の新聞記事や複数以上の関係者の証言などがあれば、よりくっきりとしてくるのでしょうが、当時の美空ひばりは、まだまだ全国的には無名の少女であり、また谷底にバスは転落することがなかったので死傷者も少なかったため、おそらく当時の新聞記事はないものと思われます。バスに乗っていた人々も大方は亡くなってしまっていることでしょう。しかし両者をつき合わせてみると、そのバス事故のようすや美空ひばりのその時の状況のおおよそがわかってきました。 . . . 本文を読む
『土佐山村史』によれば、「山嶽会」という夜学会を結成したのは、高橋簡吉・中山亘(わたる・簡吉の弟)・長野源吉など。彼らの生まれた土佐山村は、土佐郡における自由民権運動の拠点となっていました。明治15年(1882年)の11月12日、土佐山郷西川の桧山(ひのきやま)で「巻狩大懇親会」が開催されますが、この大懇親会には約2000人もの自由党の壮士が県下各地から集まりました。高知の立志社の面々は、二隊に分かれて山越えで野宿しながら会場に到着したという。その装いは、旗や高張提灯を持ち、毛布や食糧を担ぎ、銃・槍・薙刀(なぎなた)・野太刀などを携帯するというものでした。高知から「山越えで野宿しながら会場に到達」したということは、そのルートは、中の橋(江ノ口川に架かる)→愛宕大橋(久万川に架かる)→秦泉寺村→小坂峠→平石→西川というものであり、11日に高知を出発して小坂峠あたりで野宿し、翌12日に会場に到着したものと思われる。この「巻狩大懇親会」を成功に導いた地元関係者は、もちろん「山嶽社」を結成した高橋簡吉・中山亘・長野源吉ら土佐山の青年たちであったに違いない。明治20年(1887年)、「三大事件建白運動」が起こった時、土佐山からは高橋簡吉と長野源吉が代表団に参加し、東京へと建白のために向かいました。この長野源吉は三代目の村長になっています。つまり高橋は初代、三代は長野、四代は中山亘と、「山嶽会」を結成した中心人物3人が土佐山の村長を務めたことになるのです。この本には「桑尾桑」という土佐山の産物が出てきます。この「桑野桑」は品質第一等で、「背負って山越えに高知へ出荷され、周辺の桑の需要の大半をまかなっていた」という。明治32年(1899年)に「土佐製糸株式会社」が設立されて生糸生産が行われたようですが、中央の生糸相場についていけず数年にして倒産。その設立に関わった者たちの中には村を捨てる者たちがいましたが、その中に高橋簡吉・長野源吉・中山亘らも入っていました。 . . . 本文を読む
板垣退助より落合寅市を匿(かくま)うように依頼された、土佐山の高橋簡吉とはどういう人だったのか。『土佐山人物誌』によれば、高橋簡吉は嘉永6年(1853年)に西川村で父九十郎、母可年(かね)の長男として生まれています。青年時代は自由民権運動に関わり、土佐山の青年有志を集めて「山嶽社」という夜学会を結成し、明治20年(1887年)には「三大事件建白」のため上京。明治22年(1889年)には村議会議員に初当選し初代村長に選ばれています。しかし明治30年(1897年)、一家を挙げて宮崎県に移住。木材や木炭の販売を手掛けて、「日向木炭」の名声を大いに高めたといわれている、と記してあります。大正11年(1922年)に宮崎県議会議員に選ばれるものの、同年5月に70歳で逝去しています。弟に亘(わたる)がいますが、この亘も自由民権運動に参加。菖蒲(しょうぶ)の中山家の養子となり、この中山亘は第四代村長となっています。『土佐山村史』(高知県土佐郡土佐山村)には、もう少し詳しい説明がありましたが、それについては次回に紹介したいと思います。 . . . 本文を読む
高知市内から土佐山へ行こうと思ったのには、理由がありました。それは、『歴史紀行秩父事件』中澤市朗(新日本出版社)で、「秩父事件」の仁田峠の戦いで敗れた落合寅市が、明治18年(1885年)に高知の潮江新田の板垣退助邸に姿を現し、その板垣の斡旋で土佐山村の高橋簡吉邸およびその周辺で8ヶ月ほども匿(かくまわ)われていたということを知ったことにありました。それに記されている落合寅市の高知行きの経路は、次のようなものでした。仁田峠→秩父→東京→八王子→小仏峠→甲府→鰍沢(かじかざわ)→身延→富士川の川船→興津→静岡→奈良→大阪→多度津→琴平神社→今治→観音山奥の院→高知→板垣退助邸→小藤滝也邸→小坂峠→土佐山村高橋簡吉邸。当時、鉄道がなかったことを考えると、ほとんどが徒歩であり、しかも厳しい探索を逃れての道行きであったから、いかに巡礼姿であるとはいえ、よほど困難な道程であったと思われます。この落合寅市が匿われた高橋簡吉邸は現在は残ってはいないものの、土蔵だけは当時のままに残っているらしいということを知ったこともあり、はるばる秩父からやってきた落合寅市が、板垣の斡旋で匿われたところはどういうところであったのかを知るべく、車を土佐山へと走らせることにしました。 . . . 本文を読む
『広重「名所江戸百景」の世界』には、次のような解説文があります。「『江戸百』には有名でありながら描いていない名所、また新たに描いた名所もある。…広重は伝統的な名所とは別に、遠隔地であっても江戸と繋がりのある地や、身近な景観をも名所として描いたのかも知れない。」 その「遠隔地であっても江戸と繋がりのある地」とは、具体的にはどこであり、またそれは江戸とどういう「繋がり」であったのか。『江戸百』に描かれた名所を、たとえば川や海を往き来する船から見ていくと、そのあたりがほの見えてきます。 . . . 本文を読む