鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-神島-その4

2015-04-17 05:59:32 | Weblog
神島の灯明(とうめ)山の山頂に建っていた灯明堂は、崋山のスケッチ3図に描かれています。一つは神島全景のスケッチ、一つは神島海岸を望んだスケッチ、一つは山頂の灯明堂そのもののある施設をほんそばで描いたスケッチ、これらの3図です。神島全景のスケッチでは、神島で一番標高の高い灯明山の頂きに灯明堂の建物が建っているのがよくわかります。伊良湖水道からも灯明堂の建物はよく見えたのです。神島海岸を望んだスケッチでは、左端の山の上に灯明堂の建物が描かれ、この山が灯明山であることがわかります。ではこれは島のどこからどこを見たものかと言えば、海上の向こうに伊良湖岬が見えることから、崋山らが上陸したと思われる「ニワの浜」の上あたりから伊良湖岬(渥美半島)方面を見渡したものと考えられます。画面真ん中の森の繁りが描かれているあたりは、現在「監的哨」があるあたりになるのではないか。山頂の灯明堂の建物を間近に描いたスケッチでは左端に陸地が描かれていますが、これは伊良湖岬の骨山(現在はその頂上に伊良湖ビューホテルが建っています)ではないかと思われます。この2図からも、崋山は神島から伊良湖水道を隔てて指呼の間にある伊良湖岬を意識していることがよくわかります。この崋山がわざわざ灯明山の山頂に登ってその姿を描いた灯明堂は、『郷土志摩 No44 神島特集号』によれば、高さ9尺(約2.7m)で浦賀奉行の所管。灯火は油(魚油や菜種油)。点火用の灯明皿は鉄製で、灯心は長さ5寸ほどの普通行灯(あんどん)に使っているものと同じであったという。崋山のスケッチを見てみると、灯明堂全体を覆う4本柱の大きな屋根のある建物があり、その中に2階建ての灯明堂が建っています。灯明皿があって灯火が燃やされるのは、その2階部分の内部であり、この2階部分の四周の窓は障子窓になっているように見えます。灯明堂そのものの高さが9尺であるとすると、それ全体を覆う屋根付きの吹き抜けになっている建物は、高さ14、5尺ほどはあることになり、高さ5mほどもある巨大なものであったということになります。従って、伊良湖水道の海上からも、また「ニワの浜」近くの高台からも、その灯明堂の建物はよく見えたのです。『渡辺崋山集』の頭注によると、この灯明台は明治6年(1873年)に廃止されたという。 . . . 本文を読む