鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

渡辺崋山『参海雑志』の旅-伊良湖岬から神島まで-その7

2015-04-07 06:03:56 | Weblog
天保4年(1833年)の4月(陰暦)に崋山が訪れた伊良湖村や伊良湖明神は、ほとんど跡形もなく消滅しており、かつての姿を現地で想像することは極めて難しい。その理由は、明治後期に陸軍第一技術研究所伊良湖試験場がこのあたり一帯に築かれたことにある。この伊良湖試験場は、大砲の射撃データを収集するための軍事施設であり、伊良湖神社の案内板に記されていたように、明治38年(1905年)の伊良湖試験場の用地拡大に伴う集落の集団移転により、崋山や芭蕉たちが見た伊良湖村やその周辺の景観は大きく変貌してしまったのです。またやはり明治以後のことと思われますが、西山長池や豊島池も干拓等のために消滅し、かつての伊良湖神社や西山長池、豊島池の景観は、崋山のスケッチによって辛うじてしのぶことができるばかりと言ってよいでしょう。この明治後期に築かれた陸軍第一技術研究所伊良湖試験場は、大正時代になると、監的哨(かんてきしょう)などの建設や軽便鉄道の敷設が行われたり、また太平洋戦争末期には本土決戦用の二十八インチ榴弾砲陣地が構築されたりと、施設の拡充が図られていきました。インターネットで調べてみると、この陸軍第一技術研究所伊良湖試験場の正門は小中山町の田戸(たど)神社前、小中山児童公園のあたりにあったということであり、福江漁港近くの小中山町から伊良湖岬一帯にかけては、いわゆる「戦争遺跡」が現在でも各所に散在しているという。神島の監的哨もそうであり、伊良湖ビューホテル下の断崖にあった伊良湖防備衛所跡(海軍による伊良湖水道機雷封鎖監視所跡)もそう。このあたり一帯にそのような軍事的施設が多数あったことは今回初めて知ったことであり、伊良湖水道や伊良湖岬一帯が近代日本の軍事的要衝地であったことを確認できたのは、今回の取材旅行の収穫の一つでした。 . . . 本文を読む