幡豆海岸の宮崎や吉田あたりから東海道藤川宿へと入る「吉良道」は、現在の県道42号と県道43号、そして高須北からの県道327号にほぼ重なります。『吉良町史 中世後期 近世』(吉良町)には、矢作川(やはぎがわ)川、矢作古川(やはぎふるかわ)、そして矢崎川の水運について触れられており、矢崎川の吉田村川岸は、「天保の頃津出し港として利用されていた」との記述がありました。「津出し」とは、年貢米を港へ運び船積みすることを言い、矢崎川の吉田村川岸あたりは、天保の頃には周辺地域の年貢米を積み出す湊であったことがわかります。 . . . 本文を読む
崋山が乗る船が、佐久島から現在の西尾市吉良町あたりに入ったという根拠としては、崋山が描いたスケッチ以外に、次のような崋山のメモを挙げることができます。「吉良ハ海鳥を捕る必シケ夜ニ出る故、荒波ヲ凌ぐ尤(もっとも)奇也。」「海鳥」が何であるのかわかりませんが、この情報は吉良で得たものと思われます。また「横スカ大半と云博徒アリ、藤川宿上坊八丁、吉良道石榜西へ入ル也。」「吉良道」というのは、『三河の街道と宿場』大林淳男・日下英之監修(郷土出版社)によれば、吉良吉田や西尾城下から駒場(平坂街道と交差するところ)や高須北、上地、馬頭などを経て東海道藤川宿へと至る道。崋山はこの「吉良道」を利用して東海道藤川宿へ入ったと思われるから、「吉良道」の始点(終点)である、現在の名鉄吉良吉田駅近くの三河湾に通ずる湊で船を下りたと推定することができるのです。そのあたりに船が入る湊のようなものはあったのだろうか。実際に海岸付近を歩いて確かめてみたいと思いました。 . . . 本文を読む
天保4年(1833年)の4月18日(陰暦)に渥美半島の古田(こだ)村から船に乗って佐久島を訪れた崋山一行は、その日のうちに佐久島からふたたび船で幡豆(はず)海岸へと向かい、上陸した一行は吉良(きら)の華蔵寺(けぞうじ)などに立ち寄りながら、東海道藤川宿へと入ります。行程から考えると、西尾城下か藤川宿で一泊し、翌19日に東海道を進んで吉田城下へ入ったものと思われます。そのおおよその行程がわかるのは、崋山がスケッチを残しているからであり、佐久島からの日記の詳しい叙述はありません。旅に出立する前の予定では、岡崎・豊川・鳳来寺などにも赴くつもりであったのが、佐久島から幡豆海岸に上陸した後、岡崎城下には向かわずに藤川宿へと入り、それから東海道を進んで吉田城下(現豊橋市)を経由して田原へと戻っています。なぜ、岡崎・豊川・鳳来寺訪問を取り止めたのかはわからない。崋山はその日一日の出来事を、手控(てびかえ=メモ)やラフスケッチをもとに振り返り、宿泊先において、その日の夜かあるいは翌朝に一気にまとめることが常であったようですが、18日の夜はそのような余裕はなく、また19日の夜もそのような余裕はなかったように思われます。そして結局、田原に戻ってからも、佐久島に上陸して以後の出来事をまとめることはないままに終わってしまいました。要するに旅日記は尻切れトンボに終わってしまったことになります。では崋山は具体的にどのようなルートで佐久島から吉田城下へと向かったのだろう。そしてその途次、何を見聞きしたのだろう。それらを探ってみるために、私もその道筋を歩いてみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む
『愛知県史民俗調査報告書2 西尾・佐久島』(愛知県総務部県史編さん室)という冊子があり、それに佐久島の近世廻船業に関する記述があり、参考になりました。それによると、廻船の船繋石(ふなつなぎいし)は、東は太井の浦(たいのうら)を挟む大島とその対岸の磯にあり、西は松本家から大浦湾に下ったオオツカに自然の岩を利用したものがあり、ナカベの磯と波止の先に各1本あり、また大明神の沖のタケガサキに3本、現在の西の港近くのエビス社前の磯に1本あるとのこと。エビス社というのは波ヶ崎(なんがさき)灯台の近くにあった小さな社のこと。「ナカベの磯」と「波止の先」というのはどのあたりかわからない。この記述によれば、佐久島における廻船の繋留地は、現在の東港の南側にある大島の太井ノ浦(たいのうら)側や、大浦の西側の大明神の付け根あたり、そして現在の西港の西側、波ヶ崎(なんがさき)の沖合いあたりにあったことになります。「他所行きの廻船」のことを「タビフネ」と島の人々は呼んでいたという記述もありました。この「タビフネ」は、「西」(西集落)よりも「東」(東集落)に多かったとも。この近世における佐久島の廻船業(海運)の繁栄の痕跡は、民家の基礎石や石段、井戸枠などに伊豆石が使われていることに見ることができ、佐久島と伊豆が海運を通して強く結ばれていたことを示すものだとの指摘もありました。「伊豆石」は、船のバラストの一つとして伊豆で積み込まれたものと推測することができます。佐久島のお寺や神社の石段や石畳み、井戸枠などに「伊豆石」が使われているというのは、この指摘で知ったことであり、もっと丁寧に見ておくべきだったと思いました。鈴木えりもさんの論文に出てくる佐久島の「松本家」というのは、「西」(西集落)にあったことも、この冊子の記述で確認することができました。 . . . 本文を読む
「人数三千、千石五百衛門頭、これハ佐久の島の事」の次に、崋山は「大船十四五艘、いさハ二十艘、五百上通三枚梶有」と記しています。これも「佐久の島の事」であるに違いない。佐久島には大船が14,5艘、いさば船が20艘あるということです。「五百上通三枚梶有」はよくわからない。「五百」は五百石船のことと思われる。「五百上通三枚梶」とは、五百石積以上の大型船には三枚の板を継ぎ合わせた舵がある、ということでしょうか。「大船」とはいわゆる「千石船」のことであり、大型の弁財船で遠距離航海用。「いさば船」というのは小型の弁財船で、中近距離航海用。佐久島にはその「大船」が14,5艘、「いさば船」が20艘、合わせて34,5艘もあって、廻船業を活発に展開しているというのです。「いさば船」は、本来は魚類専門の小型輸送船であったものが、一般商品の輸送に使うようになって逐次大型化したもので、小廻し(中近距離航海)の廻船を「いさば船」と総称していた、との説もあります。一般的には200石以下の小弁財船であり、全国津々浦々の廻船は、ほとんどが「いさば船」など小廻しの廻船でした。佐久島の「大船」(千石船)は、主に木綿を積んで江戸へと向かい、「いさば船」は、神島の又左衛門家の船と同じように「尾勢志紀参に往来して諸物を交易」していたものと思われます。 . . . 本文を読む
「松本久三郎船幸生丸の積荷-大伝馬町組白子廻船の一事例」(鈴木えりも)によれば、廻船が預かった積荷を書き上げたものを「手板」といい、それを見ていくことによって、どういうものが廻船の積荷であったかがわかるという。たとえば松本久次郎船幸栄丸の場合、木綿・水油・酒・茶・紙・傘・草履・酢・松茸・干大根・糠(ぬか)・米などを積荷として挙げることができます。積荷の大半は綿花ですが、脇荷として、例えば水油・酒・茶などを積んでいたことになります。木綿は、白子廻船であるということから、伊勢白子またはその周辺でで積み込んだものと思われる。江戸へと積荷を運んで戻ってくる時には、大麦・小麦・〆粕(しめかす)・干鰯(ほしか)・麻などを積み込んでいます。麦は味噌や醤油の材料として、〆粕や干鰯は綿花畑の肥料として、伊勢・尾張・三河地方においてもい需要がありました。鈴木さんは幸栄丸が「買積」(かいづみ)を行っていた可能性を示唆されています。崋山が佐久島を訪れた天保年間においても、佐久島の廻船業は活発に展開されていたと推測されますが、その積荷の中心は木綿であるものの、それ以外に各地で集荷した品々を各地で売買して利益を上げる「買積」を行っていた可能性がいと、鈴木さんの論文から私は推測しています。 . . . 本文を読む
崋山が日記に記す「人数三千、千石五百衛門頭、これは佐久の島の事」と記す、「千石五百衛門」とは何か。「千石」とは「千石船」のことであり、千石前後積みの弁財船。「五百」とはおそらく「五百石」ということであり、五百石前後積の弁財船のこと。「衛門頭」とは「衛門」が「頭(かしら)」である、ということであると思われるが、「衛門」とは誰のことかわからない。「〇〇衛門」という者がいて、その者が佐久島の廻船の「頭」、つまり船主であるということか。頭注には、前に触れたように、「佐久島には江戸期松本家が千石船二艘を所有し、江戸廻船を行っていた」とあり、鈴木えりもさんの論文では、一色町に所蔵される松本家文書によれば、松本家がいつから廻船業を始めたのかは未詳であるが、その文書から確認できる最も早い年代は弘化3年(1846年)であり、それ以前に松本家が廻船業を行っていたかどうかは確認することができないとのこと。松本久次郎がこの年6月に「師崎彦三郎」(知多半島南端師崎村の彦三郎か)という者より「中吉丸」という船を購入。「幸栄丸」と名付けて同月より廻船業を始めています。この時の船主で出資者の一人が「松本久左衛門」という者で、崋山が記す「衛門頭」の「衛門」とは、この「久左衛門」とも考えられますが、これも確証はありません。ともかく佐久島には千石積や五百石積ほどの大型・中型の弁財船で廻船業を営む者がいて、その「頭」(かしら)が「衛門」なる者であった、ということであるでしょう。崋山が佐久島を訪れた天保4年(1833年)当時、佐久島においては廻船業が活発に行われ、「人数三千」と崋山が記すように3千人ほどの島人がいて大変賑わっていたことが、この短い記述からわかるのです。 . . . 本文を読む
『知多半島の歴史と現在』(日本福祉大学知多半島総合研究所)のNo15に、「松本久三郎船幸生丸の積荷-大伝馬町組白子廻船の一事例」(鈴木えりも)という論文があり、これが佐久島の松本家に関する最も詳しい研究で、大いに参考になりました。それによると松本家の文書は一色町に所蔵されているとのことであり、佐久島で近世・近代(明治)に行われていた廻船業に関する数少ない史料の一つであるようです。論文によれば、佐久島松本家は江戸大伝馬町木綿問屋仲間が傘下に置いていた白子廻船に属する廻船を保有ており、木綿を中心とした積荷を白子から江戸(品川沖)まで運んでいました。松本家がいつから廻船業を始めたのかはわからないが、松本家文書から確認できる最も早い年代は、弘化3年(1846年)であり、この年の6月(陰暦)に松本久次郎が師崎彦三郎より「中吉丸」を購入し、同月より「幸栄丸」という船の名前で廻船業務を始めているという。崋山が佐久島を訪れたのは天保4年(1833年)のことであり、それより13年後のこと。この幸栄丸は嘉永2年(1849年)閏4月に破船していますが、それまで年に4~6回程度の航海(白子~江戸)を行っています。弘化3年以前に佐久島松本家が廻船業に関わっていたかどうかは史料的には裏付けがないわけですが、崋山が訪れた天保年間にも廻船業に関わっていた可能性は十分に高いものと思われます。木綿といえば、平坂(へいさか)という湊があって、そこから三州産の木綿が江戸に向けて大量に輸送されており、崋山も『参海雑志』において、「平坂船、木綿一艘六百五十行李、定吉、平坂市川」と記して着目しているほどでした。「平坂市川」とは、平坂湊の三廻船問屋、市川、新実(にいのみ)、外山の一つであって、「定吉」というのはその「市川家」の「定吉」、つまり「市川定吉」という者であったと思われます。もしこの崋山のメモが、佐久島において得た情報として書かれているものであるとすれば、天保年間において、佐久島の廻船は、平坂湊の廻船問屋(積問屋)とのつながりを深く持っていたと考えられ、主に三州木綿を江戸へと運ぶ廻船業を営んでいたものと推測することができるわけですが、傍証となる史料は今のところ何もありません。 . . . 本文を読む
三河湾は知多半島と渥美半島に挟まれた内湾であり、その三河湾へ伊勢湾から入っていく入口にあるのが、佐久島・日間賀島・篠島の三島(さんとう)。このうち最も大きいのが佐久島であり、外周は約11km、面積は約181ヘクタール(約1.72平方キロメートル)。最高点の標高は38m。島内には河川はありません。2013年5月1日時点での総戸数は131で、人口は259名。集落は西と東にあり、西集落はかつて「一色」と呼ばれ、東集落は「里」と呼ばれたという。西尾市立図書館において佐久島関係の詳しい資料や文献はないかと探してみましたが、すぐには見つけることはできませんでした。「近世における漁業と塩業」(杉本嘉八)には、佐久島においては「廻船、漁業関係の地方文書を見出すことはできなかった」、また「佐久島には地方文書は見当たらない」とあって、残されている佐久島関係の地方文書はほとんどない状態であると思われました。ではなぜ「地方文書」が失われてしまっているのかということになりますが、これもよくわからない。私はとりわけ佐久島の廻船関係の資料や文献がないかと期待をしていたのですが、それは期待外れに終わりました。あとで『愛知県の地名』(平凡社)で「佐久島」について調べてみたところ、やや詳しい記述がありました。それによると近世後期において佐久島は大多喜藩(房総半島中央部)領であり、小物成に浦役・船役・松木・松葉年貢があったとのこと。また名産として海鼠腸(このわた)・小海蘿(ふのりの小型のもの)・錯石(佐久島でとれる石)などが挙げられていました。また船頭重吉の出身地であり、幕末期において松本久次郎・久三郎は、それぞれ千石積の廻船を所有して、勢州白子の江戸大伝馬町組木綿問屋川合仁平次の支配下にあり、江戸との商品輸送に従った、ともあり、ここでようやく佐久島の千石積廻船(千石船)所有者として、松本久次郎・久三郎という人名を知ることができました。 . . . 本文を読む