半分ぐらいまでは、渡部謙一さんの『東京の「教育改革」は何をもたらしたか』とほぼ同じスピードで読み進んでいたが、“志らく”が前座集団に加わってからの後半、“己の嫉妬と一門の元旦”からは渡部さんの本はそっちのけとなり、『赤めだか』の世界に入り込んだ。
談春にとっては前座から二ツ目、二ツ目から真打へと進む中で、3才年上だが、1年半遅く入門してきた“志らく”の存在がとても大きい。
前座修行中、“志らく”に対して複雑な感情を抱いている談春に対して、談志が云ったことが的を射ている。(p116より)
翌日、談春(ボク)は談志(イエモト)と書斎で二人きりになった。突然談志(イエモト)が、
「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」と云った。
「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩(やから)の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う。」
後輩の“志らく”に先に真打に昇進された談春。このことをめぐる話の中で落語の世界で真打になる順番の持つ大きな意味合いは再認識させられた。割り切ろうとして割り切れず、やや自棄になっていた談春とさだまさしの会話が味わい深い。(P267~P268より)
「談春(おまえ)、一体自分を何様だと思ってんだ。立川談志は天才だ。俺達の世界でたとえるなら、作詞作曲、編曲に歌に演奏まで独りでできてしまう。その全て、どれをとっても超一流、そんな凄い芸人が落語というひとつの芸能の中で、五十年の間に二人も三人も出現するわけがないだろう。憧れるのは勝手だがつらいだけだよ。談春は談志にはなれないんだ。でも談春にしかできないことはきっとあるんだ。それを実現するために談志の一部を切り取って、近づき追い詰めることは、恥ずかしいことでも、逃げでもない。談春にしかできないことを、本気で命がけで探してみろ。」
「でも談春(おれ)、もう少しなんとかなりたい。オールマイティに近づきたい」
「あのな、誰でも自分のフィールドに自信なんて持てない。でもそれは甘えなんだ。短所は簡単に直せない。短所には目をつぶっていいんだよ。長所を伸ばすことだけ考えろ。談春の長所がマラソンなら、マラソンで金メダルとるための練習をすればいいんだ。マラソンと100メートル、両方金メダルはとれないんだよ。マラソンと100メートルではどっちに価値があるかなんてお前の考えることじゃない。お前が死んだあとで誰かが決めてくれるさ。お前、スタートラインに立つ覚悟もないのか」
「あります」
「それなら早く真打になれ。そこがスタートラインだろう」
そうか、スタートラインが真打なんだ。スタートラインを一歩でも二歩でも他人より前にしようという考えが間違いだったんだ。さだまさしのアドバイスで吹っ切れた。状況の問題じゃない。スタートしたら走り続けるという覚悟の問題だったんだ。
人生にはターニングポイントと呼べるときがいくつかある。そこには、人、本、映画、音楽、事件、出来事などとの運命的な出会いが存在する。発信する側には大きな意図は存在しない。大切なのは受信する側の感性ではなかろうか。そういう意味でも面白い本であった。
もちろん『修行とは矛盾に耐えることである』という言葉を地でいく談志のもとでの悪戦苦闘の修行生活の様子の面白さは言うまでもない。
最近、講師でがんばってきて、やっと正規の教員になれたのに2~3年で辞めてしまう人の話をよく耳にする。せっかくスタートラインに立ったのにと残念この上ない気持ちで一杯になる。よけいにさだまさしのことばが沁みるのである。
12月10日に森ノ宮ピロティホールで立川談春独演会がある。特別予約をしてあるのでまもなくチケットが届くはずである。初めて噺をきかせてもらうので楽しみにしていたが、本を読んでさらに楽しみが倍増した。
談春にとっては前座から二ツ目、二ツ目から真打へと進む中で、3才年上だが、1年半遅く入門してきた“志らく”の存在がとても大きい。
前座修行中、“志らく”に対して複雑な感情を抱いている談春に対して、談志が云ったことが的を射ている。(p116より)
翌日、談春(ボク)は談志(イエモト)と書斎で二人きりになった。突然談志(イエモト)が、
「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」と云った。
「己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩(やから)の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う。」
後輩の“志らく”に先に真打に昇進された談春。このことをめぐる話の中で落語の世界で真打になる順番の持つ大きな意味合いは再認識させられた。割り切ろうとして割り切れず、やや自棄になっていた談春とさだまさしの会話が味わい深い。(P267~P268より)
「談春(おまえ)、一体自分を何様だと思ってんだ。立川談志は天才だ。俺達の世界でたとえるなら、作詞作曲、編曲に歌に演奏まで独りでできてしまう。その全て、どれをとっても超一流、そんな凄い芸人が落語というひとつの芸能の中で、五十年の間に二人も三人も出現するわけがないだろう。憧れるのは勝手だがつらいだけだよ。談春は談志にはなれないんだ。でも談春にしかできないことはきっとあるんだ。それを実現するために談志の一部を切り取って、近づき追い詰めることは、恥ずかしいことでも、逃げでもない。談春にしかできないことを、本気で命がけで探してみろ。」
「でも談春(おれ)、もう少しなんとかなりたい。オールマイティに近づきたい」
「あのな、誰でも自分のフィールドに自信なんて持てない。でもそれは甘えなんだ。短所は簡単に直せない。短所には目をつぶっていいんだよ。長所を伸ばすことだけ考えろ。談春の長所がマラソンなら、マラソンで金メダルとるための練習をすればいいんだ。マラソンと100メートル、両方金メダルはとれないんだよ。マラソンと100メートルではどっちに価値があるかなんてお前の考えることじゃない。お前が死んだあとで誰かが決めてくれるさ。お前、スタートラインに立つ覚悟もないのか」
「あります」
「それなら早く真打になれ。そこがスタートラインだろう」
そうか、スタートラインが真打なんだ。スタートラインを一歩でも二歩でも他人より前にしようという考えが間違いだったんだ。さだまさしのアドバイスで吹っ切れた。状況の問題じゃない。スタートしたら走り続けるという覚悟の問題だったんだ。
人生にはターニングポイントと呼べるときがいくつかある。そこには、人、本、映画、音楽、事件、出来事などとの運命的な出会いが存在する。発信する側には大きな意図は存在しない。大切なのは受信する側の感性ではなかろうか。そういう意味でも面白い本であった。
もちろん『修行とは矛盾に耐えることである』という言葉を地でいく談志のもとでの悪戦苦闘の修行生活の様子の面白さは言うまでもない。
最近、講師でがんばってきて、やっと正規の教員になれたのに2~3年で辞めてしまう人の話をよく耳にする。せっかくスタートラインに立ったのにと残念この上ない気持ちで一杯になる。よけいにさだまさしのことばが沁みるのである。
12月10日に森ノ宮ピロティホールで立川談春独演会がある。特別予約をしてあるのでまもなくチケットが届くはずである。初めて噺をきかせてもらうので楽しみにしていたが、本を読んでさらに楽しみが倍増した。