素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

投資信託の相談が教育相談に

2014年04月30日 | 日記
 先日、銀行めぐりをした結果、少しばかり余裕があることがはっきりしたのでR銀行の外回り担当であるNさんにNISAのことなど投資信託のことを相談に行った。今年のゴールデンウィークは後半の3日からの4連休がメインであることからATMは結構混んでいた。

 ブラジル、トルコなど勢いのあった新興国はアメリカの金融政策の転換で先行き不透明感が増して来た。特にブラジルはワールドカップを前に時々流れてくるニュースでも不安定さを感じる。3年ほど前には想定できなかったことである。やはり、なんだかんだ言ってもドルが強いということとリート市場は注目で落ち着いた。ドル建ての商品を購入することになり事務手続きをするかたわら、突然Nさんが「先生していたんですね?小、中、高のどこですか?」と尋ねてきた。「中学ですよ」と答えると「中3の娘に手をやいているんですよ」と話し始めた。

 姉はなんの苦労もなくスーッと高校生になったが、妹の方は中学に入ってからドンドン反抗的になってきて戸惑っているというのが正直なところだという。元々は「ママ、ママ」とお母さんっ子だっただけに「なぜ?」という思いも強く悩んでしまう。最近は何か言うと「うるさい」「うざい」しか返ってこないし、先日は家の壁に穴をあけていて唖然としたという。「家の壁って薄いねんな、ちょっとけったら穴があいてしまった」と本人はケロリとしている。学校からは毎日、「授業を抜けた」などと良からぬ行状の報告が電話で入るのでまいってしまう。と一気に吐き出した。

 担当になって2年近くになるが、私生活のことを口にすることはなかったので余程ストレスが溜まっているのだなと思った。チャキチャキとした方などで高校生と中学生を持つ母という感じはなかった。最近、左手の薬指の指輪に気づき「ああ結婚したのだな」と思っていたぐらいだ。近頃の私の周りはご年配のご婦人が多いので40代ぐらいの人はとっても若く見えるという時差ボケならぬ年齢ボケであることはまちがいない。冷静にジムの中高生の母であるスタッフの方達と比べてみるとNさんが中3の娘のことで悩んでいるということも意外なことではない。

 「何かいい方法はありますかね?」という質問には答えを窮する。どこの学校で、どんな友達がいて、どんな性格で、何が好きで、小学時代はどう過ごし、夫婦関係はどんなんで、姉はどんな感じで、通っている中学校の雰囲気や担任はどんな感じであるかななど何も情報がない中では考えることもできないし、Nさんも答を求めているわけではないだろう。誰かに心の内をぶちまけて聞いてほしかったというところだと思った。傾聴ボランティアという言葉を思い浮かべた。

 それでも、何も言わないと場がおさまらないので、姉との比較はしない。なぜ?を追求しない。そして自分の育て方が悪かったと結論づけない。つかず離れずの関係を保ち時を待つ。のようなことを一般論として話した。Nさんは最後に「因果応報やおもてます。私も親にとっては良い子じゃなかったから」と明るく笑って、元の銀行員にもどった。

 みんな何かをかかえながら、それでもどっこい生きているのだと、現場にいた頃は日々感じていたことを久しぶりに思い出しながら自転車を走らせた。しんどいと言われる子の保護者と接する時は、自分が「共感性の高い想像力」を持っているかどうかが試されていると思い、心して接していかなければいけない。言うは易し、行うは難しであるが。イマジネーションを高める努力は怠ってはいけないだろう。自戒を込めて。
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無駄の効用

2014年04月29日 | 日記
 「無駄の効用」については度々書いてきた。早さと効率が求められる世の中においてこのことは肝に銘じておかなければならないことだと思っている。だから、誰かが「無駄の効用」について書いているとうれしくなる。

 『新潮45』の5月号で、臨床医の里見清一さんが「コミュニケーションの過去と近未来」の中で、人とやりとりする手段が手紙から電話、メールへと変わってくる中で、医療の現場での経験をふまえ、こう結論付けている。

 コミュニケーションにおいて有効なのは、「めんどくさくて、無意味と思われること」をあえてすることである。手紙に書いた紹介内容と同じことを電話で話す。テレビ会議で流れる音声と資料の、同じものを直接その場で見る。それに対して直接話す。客観的には、明らかに重複であり、無駄であることこそ重要なのだ。
 一例としてテレビ会議のことが挙げられている。これまで各病院の医師がどこか拠点となる病院に集まって会議をしていたが、よその病院の医師がそこへ出かけて行くのは時間と経費の無駄であるということで、厚生労働省が金をかけて、各病院にいながらにして会議室をつなぎ討論できるテレビ会議のシステムを作り上げた。

 しかし、厚生労働省のどんどん使うようにという指令に関わらず、多地点テレビ会議になった途端、会議の内容もつまらなくなり、出席者もガタ減りになったという。

 どうしてつまらなくなったかということを里見さんはこう分析している。

 みんなが言い間違えをしたり、誤解していたことがあらわれたりして恥をかくことを恐れ、何も言わなくなったからである。「そこだけ」で角突き合わせて討論する時にはそんなこと気にしなかったのに。また、内部の会議ならば、激烈な批判や失礼な言い回しをしても、会議の後で直接謝ったり真意を説明したりできるが、テレビ会議では終わって回線が切られたらそれまでである。自然、激しい論争になる本質的な議論が避けられ、表面的な質疑のやりとりだけになる。これが続くと発表者からも緊張感が薄れてダレる。
 
 これを読みながら、医療現場だけの話ではなく教育現場においても同様のことが起きてくるのではないか?いや、もう起こっているかもしれない。と思った。5年の間にずい分教育現場の環境も変わったことだろうと推察する。また聞く機会もあると楽しみにしている。

 効率化というのは、本来人間にゆとりある(=無駄な)時間を提供してくれるためにあるはずが、効率化すればするほど多忙となるという現象が起きている。皮肉なものである。

「昭和」の日、不便だった頃のことを思い出すのもいいだろう。
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税金の5月が近づいたので・・・銀行めぐり

2014年04月28日 | 日記
 「目に青葉 山ホトトギス 初鰹 家に届くは 税の知らせ」 5月はお金が吸い取られていく月というイメージがある。我が家はそれぞれの負担分野を決めて、会計は独立採算制になっている。ごく自然に出来上がってきた形態である。最近はカード決済が多いので油断していると口座の残金不足が生じる。そこで5月を前に、各銀行で通帳記入などをして現状を把握することにした。かつては職場の近くにあって便利であった三井住友銀行が、今住んでいるまわりにはなくて一番不便な銀行になった。季節の花を愛でながら自転車でゆっくり回ることにした。

 ハナミズキの白や薄紅色は真っ盛りである。今日、目に入ったのは「小手毬」と「大手毬」の白い花。名前は似ているが前者はバラ科、後者はスイカズラ科で全く別の種類。
 小手毬は中国原産の帰化植物。日本には古くに渡来したみたいだが、観賞用として「小手毬」と呼ばれ出したのは江戸初期ごろという。花言葉は、花の寄せ合った感じから「友情」、雰囲気から「優雅」「品位」、大木にならず古い枝が毎年新しい枝に更新していくことから「努力」などである。
  大手毬は日本原産のヤブテマリが園芸種として改良されたもの。花言葉は「私は誓います」 いつのまにか桐の花も見頃を迎えていた。フジのように房がたれていると目に入りやすいが、背が高い上に花も空に向かっているので忙しく動いていると見逃しやすい。
  江戸時代に書かれた「大和本草」(やまとほんそう)に「コノ木切レバ早ク長ズ、故ニキリト云ウ」とあり、その語源は「切り」にあるという。 花言葉は「高尚」。それゆえ多くの家紋として使われてきた。140を超える図案があるみたいだが 、花序につく花の数が3-5-3の「五三桐」、5-7-5の「五七桐」と呼ばれているものが代表的なもの。近代以降も五七桐は「日本国政府の紋章」として大礼服や旭日章の意匠にとり入れられたり、菊花紋に準じる国章としてビサやパスポートなどの書類の装飾に使われたり、 「内閣総理大臣の紋章」として官邸の備品や総理の演台に取付けられるプレートに使われている。このことが万城目学さんの『プリンセス・トヨトミ』のベースにもなっている。
 財政制度等審議会が2060年度までの政府債務残高の長期推計試算をまとめた結果、60年度には借金は約8150兆円という数字をはじき出したことを報道していた。「こんなに豪快に借金して、あとはよろしく!という暮らしをしてみたいもんだ」と息子は言った。「大丈夫やで、我が家は今のところ健全財政。次の世代に負担をかけない試算が出てる。国に比べたら微々たる数字だけど」最新の数字が記帳された通帳を眺めながら心の中で呟いた。


 
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『神去なあなあ日常』は映画化できるかな?

2014年04月27日 | 日記
 三浦しをんさんの『神去なあなあ日常』を読み終えて真っ先に思ったのは「ここに描かれた深い部分の世界を映画化できるかな?」ということだった。とは言っても、文庫本の帯ではなく、カバーをすっぽり包み込む映画化の宣伝カバー。「WOOD JOB!」で2014.5.10公開とある。そうまもなく公開されるのである。

 都会育ちの少年がだまし討ちみたいに林業で生計を立てる神去村に放り込まれ、文化の違いに戸惑い、林業の現場で悪戦苦闘しつつ成長していく物語として仕立てているならば小説の持つ味が半減されるだろう。

 木を育てるという100年サイクルの時間が流れる山の生活で育まれてきた精神性、自然の力に対する畏怖の念など急速に失われつつある山の民の文化を三浦さんは実に軽やかなタッチで描いている。小説には行間という武器がある。読み手は明るく軽妙に書かれている文章を読みながら、行間に深く重い世界を自分の頭の中に同時に」描いていく。映画はこれができない。小説と映画は別物だと割り切らなければいけないのだが、いい小説だけに味がそこなわれるんが惜しいのである。

 公開前から、、有川浩さんの「三匹のおっさん」のドラマ化と同様になるのではと勝手に決めつけてしまっている。根拠のない決めつけなので外れていたら申し訳ない。私は見ないので自分で確かめることはできない。小説から作り上げた自分のイメージを大切にしていくだけである。

 フィクションとはいえ、丹念な取材で定評のある三浦さん、伊勢奥津駅(いせおきつえき)から三峯山方面の奥深い現場で取材されたのだろう。

 冒頭の「神去村は三重県中西部、奈良との県境近くにあるので、住人は基本的に西のアクセントでしゃべる。・・・」や主人公の平野勇気が生まれ育った横浜から神去村に行く部分「名古屋で新幹線を降りた俺は、近鉄に乗り換えて松阪まで行き、そこから聞いたこともないローカル線に揺られて、山の奥へ奥へと入っていった。・・・・」とある。このローカル線はJR東海の名松線しかない。終点まで行ってから軽トラで川沿いの道を神去村まで連れて行かれたとなっている。となればこのあたりかと地図を見る。
 前から名松線という名前には疑問を持っていた。松阪の「松」は分かるが「名」は何だろう?この線の終点は伊勢奥津駅である。今を機会に調べてみると計画した頃は松阪と名張を結ぶ予定だったが、現在の近鉄大阪線が先に開通したため途中で建設をやめたらしい。それでも名前だけは名張の「名」がそのまま残っている。小説でも、遊び、ショッピング、デイケアなどは松阪ではなく名張に行くと出てくる。

 そして伊勢奥津は伊勢本街道が通っている。志摩の実家に帰る時、さまざまなルートを試したが、この伊勢本街道だけはまだ行っていない。かねてから行きたいと思っていたが、ますますその思いは強くなった。

 

 
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偶然、「伊勢物語」の世界に入り込む

2014年04月26日 | 日記
 ニュースも今一つ目新しいものもなく面白くなかったので、たまたまテレビ欄で見つけたBS231「放送大学大学」の〈和歌文学世界〉にチャンネルを合わせた。今日は4回目でテーマは《『伊勢物語』の和歌》であった。『伊勢物語』には在原業平の詠んだ和歌が多数織り込まれていて、それらが詠まれた場所に着目すると日本全国の山、川、野、海などの歌枕が浮かび上がってくるという。その中から春日野、宇津の山、小塩山、東下り、隅田川などを取りあげて、それらの空間に込められた業平の思いをひも解かれていた。講師は電気通信大学教授の島内景二さん。自身が撮った現在のその場の写真をまじえての話だったのでわかりやすかった。

 中でも、有名な「東下り」の三河の国八橋で「かきつばた」の5文字を句の頭に読み、旅の気持ちを詠むようにという注文に応えた
  からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
は、高校の時に古文で習った時すごく印象に残った。5文字を区の頭に読み込むという言葉遊び的な要素に惹きつけられ真似をして作っていたように記憶している。島内さんが撮って来た知立神社などのゆかりの写真を見ながら懐かしいと思った。

 私は名古屋と岡崎に分かれていた愛知教育大学が統合された最初の入学生にあたる。その新設されたキャンパスがあったのが名古屋と岡崎のほぼ中間点にあたる知立であった。当時は三河の国八橋はこのあたりのことだったんだという程度でそれ以上強く興味も覚えず過ごしていたが、氏の撮影した写真を見ているともうちょっと探索しておけば良かったと思った。ただ、当時は今ほど整備もされていなかったように思う。

 入学の手続きで初めて、知立の駅に降りて大学方面に行くバスの時刻表を見て愕然としたのを覚えている。運行しているのは朝と夕方の通学通勤の時間帯だけで日中は空白だった。仕方がないので歩いたと思う。大学のほうも必要最低限の施設のみできていて建設半ばという感じであった。3年間ぐらいはバスの増設が大きな課題であった。卒業後は行っていない。ずい分変っただろうなと想像する。久々に知立という言葉に接し、氏が訪れた場所を含め一度見てみたいという思いにとらわれた。

 最後に、在原業平伝説は各地にあるので、それらを大切にしていって欲しいという主旨のまとめをされた。今住んでいる交野にも業平の歌碑がある。そのあたりのこともちょっと知りたいと思い調べていたら、大阪府立高等学校教諭の内田美由紀さんの『ようこそ伊勢物語ワールドへ』というサイトがあり、興味深く読ませてもらった。交野の部分はこんな感じ、

桜の花盛りへ

・・・お供である人が、酒を従者に持たせて、野を通ってやってきた。
「この酒を飲もう」と言って良いところを探し求めて行くと、天野川というところに着いた。
皇子に、右馬の頭(うまのかみ)がお酒をさし上げる。

皇子のおっしゃるには、
「『交野を狩して、天の河のほとりに着いた』を題として、歌を詠んで、盃をさせ(杯に酒を注げ)」と
おっしゃったので、例の右馬の頭が、詠んで差し上げた。

  かりくらし たなばたつめにやどからむ 天(あま)の河原に我は来にけり
        (一日狩をして過ごして七夕姫〔織女〕に宿を借りよう 天の河の川原に私は来たことだ)

皇子は、歌を繰り返し口ずさみなさって、返歌をなさることができない。
紀有常(きのありつね)が、お供にお仕えしていた。その人の返歌

  ひととせにひとたびきます君まてば やどかす人もあらじとぞ思ふ
         (一年に一度いらっしゃる殿方〔牽牛〕を待つので 宿を貸す人もいないだろうと思う)


 気がつけば、1時間余り「伊勢物語」の世界を巡っていた。この放送大学の講座、15回まであり、古代から現代までの1300年以上にわたる長い和歌の歴史の中でその表現や和歌に託された人々の心の変遷を様々な角度から迫るようである。日本文化の根底を流れるものを考える上でははずすことができない分野だと考える。偶然、入り込んでしまったが、これも必然と考え終わりまで付き合ってみよう。
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