素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

BS時代劇『一路』始まる

2015年07月31日 | 日記
 父の不慮の死により家督を相続、交代寄合蒔坂家の御供頭として西美濃・田名部より12日間の行程で中山道を江戸への参勤を差配することになった小野寺一路、19歳の暗中模索の行軍。二百年以上前に記された家伝の「行軍録」を唯一の手がかりに、古式に則った行列を仕立て、江戸に出発するまでが第1回。テンポよく、これからの布石もしっかり打たれていた。キャストもなかなかはまっていて楽しみである。

 参勤交代、学校で習った薄っぺらい知識しかなかった私にとって、1年余り前に放映された『歴史秘話ヒストリア『参勤交代はつらいよ加賀百万石 お殿様の遥かな旅』は目から鱗が落ちるものだった。以来、参勤交代について、意識するようになった。
動画『歴史秘話ヒストリア『参勤交代はつらいよ加賀百万石 お殿様の遥かな旅』

 藩の財政を疲弊させる側面もあるが、沿道の住民への経済投資という、今で言う地域活性化の役割も担ったのではないかと考える。このドラマを契機に江戸時代の仕組みについて学んでいきたい。

 今日は7月で2度目の満月、「ブルームーン」である。3年に1度しか見ることができない珍しい満月を見ながら、しばし、屋上で夕涼み。連日の蒸し暑さにうんざりしていた心が少々晴れた。
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「江戸の狆(ちん)飼育」

2015年07月30日 | 日記
 今日の「まんまこと」では、狆が一役かっていた。少し前に放映された「雲霧仁左衛門」(1978年・五社英雄監督)でも狆が欠かせない存在だった。 

 泥棒稼業から足を洗おうとしていた雲霧(仲代達也)が最後の仕事として、尾張屈指の呉服商、松屋を狙う。松屋の主人、松屋吉兵衛(丹波哲郎)の心を取り込み店に入り込んだ引き込みの千代(岩下志麻)が、金蔵の場所とその鍵の在処を探すシーンで、吉兵衛が愛玩していた狆が鍵をにぎっていた。

 その時は、さほど狆には関心がいかなかったが、後日磯田さんの『歴史の愉しみ方』の中にある「江戸の狆飼育」を読んで「なぜ狆だったのか」を得心した。今日の「まんまこと」も狆飼育の事情をよく踏まえて作られていた。

 磯田さんの話によると、元来東アジアには犬を食べる風習があり、日本も例外ではなかった。織田・豊臣から徳川初期の城を発掘すると食べた跡がくっきり残る犬の骨が出てくるらしい。

 しかしある時期から東アジアの中で日本人だけが犬を食べなくなり、徳川幕府が食犬を禁じ、五代綱吉の「生類憐みの令」で食犬の風習は絶たれた。

 かわって人気となったのが狆の飼育である。狆は一般的な犬とは別な生き物ととらえられていたみたいで、高級愛玩動物として大名家の奥向きでさみしさを紛らわすためにさかんに飼われるようになった。当時は高貴な生き物と考えられ、超高価。豪商なども富の証として飼っていたようである。

 日本における純粋な意味での犬の愛玩は、狆の飼育がはじまりだと磯田さんは言う。

 そのような話を講義でしていたら、江戸時代の愛玩犬について卒業論文を書きたいという学生があらわれた。好奇心こそが学問の母と考えている磯田さんは、その学生のために史料を探すことにした。思いのほか江戸の犬飼育の史料は出てきたらしい。

 狆の飼育法を書いたおそらく日本唯一の書物と考えられる香川大学の神原文庫にあった『狆育様療治(ちんそだてようりょうじ)』によると、江戸時代にも現代顔負けのブリーダー(繁殖家)がおり、狆はあわれなほど種づけされていた。

 「男狆は生まれて十五ヵ月目から女狆にかける」、女狆は「サカリ付より十四日目当りより男狆合せる」。猛烈に交尾をさせられていた様子も解読している。

 血統の良い「よき筋の男狆二三度ずつもサカリ女狆に合せ」れば「男狆つかれ舌も白く成」ると書かれている。

 そして、そういう時は狆専用のスタミナ飲料をつくり卵・鰻を食べさせ、また交尾させるのだという。人間も服用できない朝鮮人参やカワウソの黒焼きまで飯にまぜて食べさせられ、灸治もうけていた。無理な繁殖も行われていたみたいで、近親交配の問題も起きていた。ただ、当時は奇形の子を産むのは近親交配のためとは認識されておらず、男狆を交尾で疲れさせたために起きる現象と考えられていたという。

 スタミナ飲料、餌でクスリ漬けされていた男狆は悲惨である。

「江戸の狆飼育」の最後を磯田さんは次のように締めくくっている。

『犬は愛してもよいが自分の都合で玩(もてあそ)ぶものではない』 現代の事情にも通じるものがある。

 そのような知識を持って見た「まんまこと」は一味違った。

 
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生駒山管理道12kmを1年ぶりに完走

2015年07月29日 | 日記
 7月、8月の猛暑の時期には、外を10km走るのは厳しい。2年前、ぬかた園地のアジサイを見るために緑の文化園からハイキングした時に、信貴生駒スカイラインの料金所近くの灯篭ゲートからぬかた園地までの管理道が夏のランニング場所として使えることわかった。

 ただちょっと調子に乗りすぎて、2013年の7・25、8・4、8・6、8・10と立て続けに12km~18kmを走ってしまった。結果的にはこれが膝の不調を再発させる大きな要因になったと考えている。

 回復具合を確かめるために、去年の7月18日にジムのHさんと一緒に走った。 今日はジムの休館日だったので1年ぶりに走ってみることにした。あいにくHさんは故障中なので一人で走ることにした。

  15時過ぎにスタート地点に到着した。下界の蒸し暑さはない。1年ぶりなのでとにかく12kmを完走することだけを目標にした。

 スタミナの面はともかく脚の具合は1年前より格段に良くなっていると実感した。1時間37分27秒であった。

 かなかなの声援うけて生駒道 今年は調子に乗りすぎずに上手に使っていきたい。
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夏の甲子園大会地方予選も大詰め

2015年07月28日 | 日記
 夜のスポーツニュースで、神奈川大会の決勝で横浜高校が東海大相模に破れ、渡辺監督が勇退することになったと報じていた。甲子園の舞台を最後にというのもあるが、長年の好敵手東海大相模との戦いで終止符を打つというのもめぐり合わせを感じる。

 東海大相模の高い壁を越えて甲子園の常連校、そして名門校と呼ばれるまでになったが、その道のりは平坦ではなかったと思う。以前、テレビの特集で『栄光より挫折、勝利よりも敗北。失敗しないと絶対上手くなれない』ということを語っていて共感したことを思い返した。池田高校の蔦監督も同じようなことを書いていたし、どの分野でも、名称、名選手と言われる人は表現こそ違え、同じようなメンタルを持っているように思う。

 スポーツに限らず人生においても同じではないかと思う。

 大阪大会は準々決勝、かつて名門中の名門だったが今や存続の危機にあるPL学園と存在感が年毎に増してきた大阪桐蔭の2校が敗退したニュースも横浜高校の敗戦とからまり「今日はドラマチックな日やな」と思わずつぶやいた。

 各県の代表校を見ていると、和歌山の智弁和歌山がしぶとく甲子園に駒を進めた。高知の明徳義塾は決勝戦まで来ている。監督の顔と、甲子園での数々の戦う姿が浮かぶのはこの2校ぐらいになった。

 時の流れを感じる瞬間である。

 今年の甲子園の目玉は早実の清宮選手になることはまちがいない。

 早実と聞いて、王貞治、荒木大輔、斎藤佑樹のうち、誰を真っ先に思い浮かべるか?私は荒木。
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『校閲の悦楽』

2015年07月27日 | 日記
 毎日新聞の校閲現場でのトピックを伝えてくれる『校閲の悦楽』欄は誤字脱字など間違いの奥にあるものを垣間見ることができるので好きなコーナーの一つだ。
今日は「肇」の字を「ハナ肇のハジメ」と説明した同僚が大先輩に一喝されたことがある。という話題から始まっていた。どう叱られたかというと

 「それはチョウコクのチョウ。国を始めるという意味だ。今どきの若いモンは知らんのか」 続けて筆者の林田英明さんは書く。
 《校閲職場で鍛えられ、いつしか私もそれが「肇国(ちょうこく)」という言葉と知ったが、日常語とは到底言えない。結局、同僚と同じ説明をした記憶がある。しかし、コメディアンやバンドメンバーとして活躍したハナ肇さんも死去して20年以上たち、この説明が通じなくなる日も遠くない。》その後いくつかの話題が続いていくが、この部分がいたく心に留まった。

 私や家族にも似たようなことがあったからだ。

 私は「啓」の字で「アキラ」である。平凡な名前だがなかなか読んでもらえない。先日、ある契約をする時に30歳前後の担当者に「『アキラ』は漢字でどう書きますか?」と尋ねられた。「ハイケイのケイです。」と一番よく使ってきた説明をしたら出来上がった契約書に『景』と書かれてあった。メモ用紙に書いて訂正してもらったのだが、若い彼は「ハイケイ」と聞いて「背景」という漢字が頭に浮かんだと言い訳をした。「確かに、今どき拝啓で始まって敬具で終わる手紙なんか滅多にお目にかからないよな」とこちらが説明の古さをあやまった。すると「確か、この字を使った芸能人いましたね」と言ったので「ひょっとして谷 啓?」と問うと「そうです、そうです、それなら分かります」 谷啓は知らないだろうと思って拝啓にしたので「そうか谷啓はまだ使えるのか」と妙に感じ入った。

 妻は「貞」の字の説明に「貞淑のテイです」とよく電話口で言っているが、年々通じなくなってきているとぼやいていた。貞淑も死語に近づいているのかと思ってしまう。通販などの宛名に「貞」ではなく「定」が書かれていることがある。きっとテイシュクという単語の入っていない担当者がテイショクと勝手変換して定食のテイにしたのだろうと推測をしている。 テイシュクにこだわる妻には言わないが。時々は「トの下に貝」と説明しているが「トノシタ二カイ」と聞いた方の混乱ぶりは想像できる。

 こんなことをを長女と話す機会があった時、「晋」の字のある娘は、この字の説明にずい分困ってきたと初めて明かした。「普通の普の字の上のチョンチョン無し」が一番わかってもらえる説明だそうだ。この字にこだわったのは私であるので「大野晋という国語学者がいて、晋の字が好きだったし、左右対称で書きやすいし、高杉晋作もいるし」などとしなくてもいい弁解をすると「でも最近は楽やで、安倍晋三の晋で行ける」と笑った。

 ちなみに、よく使う2つの辞書で「肇国」を引いてみると広辞苑にはまだあったが明鏡国語辞典では採録されていなかった。絶滅危惧種にはまちがいない。
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