素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

午後からは《緊急!ハイチ震災救援募金コンサート》へ

2010年02月28日 | 日記
 枚方市在住のシンガーソングライターのイ・ヨンボさんの呼びかけで《ハイチ震災救援募金コンサート》が枚方市民会館大ホールで15時より行われた。知人からチラシをいただいたのででかけた。ロビーでは、前日のチリ大地震による津波のことが話題になっていた。1月12日に発生したハイチの大震災への国際的な救援態勢がようやくできあがってきた矢先のこと。大規模な自然災害が多くなってきたという感じがする。



 大ホールでは15時からだが、すでに13時からロビーコンサートが始まっていて、到着した時発起人のイ・ヨンボさんが歌われていた。



 大ホールでは20時までの5時間という長い公演となった。メインテーマは《あなたへ》。これは出演者の一人Si-to&鳥生亜希の若いデュオの作詞したオリジナル曲のタイトルからとっている。Si-toは神戸出身のシンガーソングライターで、小学生の時に阪神大震災を経験している。鳥生亜希は枚方出身のシンガーソングライターで『愛』をテーマに歌い続けている。両者とも歌唱力があり、いいメッセージソングであった。




時を越えるたびに 変わり続けていくこの世界で  小さく震えてる 行き場を無くしてる鳥のように
そっと目を閉じて 耳を澄ませて 溢れてる愛を もう一度 胸に抱きしめて

あなたの笑った顔が見たいから 僕は歌う あなたが前を向けるように 僕は歌い続けるよ
あなたの笑った顔が見たいから 私は歌うよ あなたを想う人がいいること この地球で生まれた愛を 忘れないで

休むということは 別に何も悪いことじゃないよ 疲れている心に 目をそむけないでね いたわってあげて
あなたの声は届いているから 涙流さずに 一人じゃない 「大丈夫だから」

世界でたった一つの あなたという大切な命 苦しいときも 悲しいときも あなたは一人じゃないよ
世界でたった一つの あなたという大切な命 迷わず前を歩けるように 支えてくれる皆を忘れないで

裏切られて見失ってた 愛する人 側にいるのに あなたらしく生きる強さを 伝わることを信じて
巡り会うその奇跡を 抱きしめて幸せになれる 誰かを愛し そして愛され 人は愛を語り継いでいく

流した涙の数は ひとつまた あなたを強くする 
どんな夢でも どんな愛でも あなたが信じた道を 諦めないで


 生まれて初めて津波の怖さを実感したのもチリ津波。1960年で小学生の時だった。今ほど情報の伝達が早くなかったので、海面がみるみる上昇して賢島の真珠筏に被害が出たという話が町中に駆け巡り、地球の裏側での地震なのにと子供心に不思議な思いと恐怖を感じた。 今回は予想よりは太平洋沿岸地域に被害がなくてよかった。ニュースでひたひたと寄せてくる波を見るにつけ、太平洋を1日足らずで駆けてくる自然のエネルギーの大きさをあらためて感じた。

 刺激の多い一日であった。
 

 



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午前中は《環境フェスタin交野》へ

2010年02月28日 | 日記
 “広報交野”のお手伝いも兼ねて、「星の里いわふね」であった《環境フェスタ》に出かけた。雨も8時過ぎにはあがったので『エコチャレンジ』が合言葉のフェスタなので、40分弱かかるが、歩いて行った。



 地域、団体、NPO、学校、企業、行政といろいろなところから「エコチャレンジ」を合言葉に展示、発表、販売、体験などが企画されていた。計84のブースがつくられていた。

 広報の仕事で、写真を撮りながら回ったが、おもしろい話をたくさん聞かせてもらった。

ステージでも、チアリーディング、和太鼓、など多彩な催しがあったが、個人的には《エコリサイクルファッションショー》が何ともいえない味があって気に入った。



 エコの問題は大きな課題。さて自分は?と常に問いかけたい。


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蛇足『二宮金次郎を調べていて』

2010年02月27日 | 日記
 『二宮金次郎の像』について、いろいろ検索して調べたが、一番おもしろいと思った情報サイトが《日本の街角再発見》★山ちゃんガハハ★であった。いろいろなタイプの像が作られていたということがわかった。

 また、そこから後編、続編、続編の追加としぶとく進んでいくところ、私好みです。興味のある人は覗いてみて下さい。特に、気に入ったのは腰を下ろしている像でした。


http://www.geocities.jp/journey4web/Trv/TRVNinob.html
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二宮金次郎像とメートル法

2010年02月27日 | 日記
 ユーロを単一通貨として使用しているギリシャの財政危機で、ユーロ圏(16カ国)への信用不安が広まっている。多国間の人工的な単一通貨ユーロが国際的に流通するには多くの困難があることが見えてきた。今後の推移に注目したい。

 通貨に限らず、単位の統一というのは人類にとって大きな課題であったし、今後も課題であり続けるのではないかと思う。近いところでは日本でようやく定着してきた『メートル法』ではないだろうか。

 メートル法は、18世紀末のフランスにおいて、世界で共通に使える統一された単位制度の確立を目指して制定された。当時の世界には同じ物理量に対して様々な単位があり、しかも同じ単位系の中でも複雑な換算を必要とする単位が併用されているものもあった。人間の行動範囲が狭い間はその地域だけで単位が統一されていれば良かったが、行動範囲が広くなり世界規模で商取引等が行われるようになると、単位の不統一が大きな問題となってきた。

 そこでフランス革命後の1790年3月に、国民議会議員であるタレーラン=ペリゴールの提案によって、世界中に様々ある長さの単位を統一し新しい単位を創設することが決議された。それを受けて1791年に、地球の北極点から赤道までの経線の距離の1000万分の1として定義される新たな長さの単位「メートル」が決定された(これにより地球の円周が4万キロメートルとなるように定義されたが、地球は厳密には球ではないので実際にはやや誤差がある)。なお、この時の測量はダンケルクからバルセロナの距離を三角測量で測定し、その値を元にして計算が行なわれた。質量も、このメートルを基準として、1立方デシメートルの水の質量を1キログラムと定めた。他に、面積の単位としてアール(are, 100平方メートル)、体積の単位として乾量用のステール(stere, 1立方メートル)と液量用のリットル(litre, 1立方デシメートル)を定めた。

 フランスにおいても既に使われていた単位系があったため、使用には反対が多く、すぐには普及しなかった。結局1837年に「1840年以降はメートル法以外の単位の使用を禁止する」旨の法律が出され、公文書にメートル法以外の単位を使用した場合は罰金が科せられることとなり,普及することになった。

 フランス以外の国でも度量衡の単位の統一に悩んでおり、メートル法に興味を持ち始めた。1867年のパリ万国博覧会の際、パリに集まった学者の団体がメートル法によって単位の国際統一する決議を行った 。1875年、メートル法を導入するために各国が協力して努力するという主旨のメートル条約が締結された。欧州に比較して米国では政府が努力していないこともあってか、ほとんど普及していない。

 日本は1885年(明治18年)に条約に加入、1889年(明治22年)にメートル原器の交付を受け、1891年(明治24年)に施行された度量衡法で尺貫法と併用する形で導入された。それに伴い、新たに基本単位の漢字を当てたり(米・瓦・立)、補助単位の漢字を創作(籵粨粁糎粍・瓧瓸瓩瓰甅瓱・竍竡竏竕竰竓)してメートル法がいちはやく普及するように努めた。更に1921年(大正10年)同法改正で尺貫法を廃したが、使い慣れた単位を移行することへの庶民による根強い抵抗もあり、本格的な普及はメートル法の使用を義務付けた1951年(昭和26年)施行の計量法まで待たねばならなかった。


 数学(算数)を教えている場合、“量の比較”ということがとても大切なことの一つとなる。AとBの身長を比べる場合、4つの段階を踏む。
 ①AとBを直接並べて比べる。      →直接比較
 ②AとBの身長を柱に傷をつけて比べる。 →間接比較
 ③AとBの身長を固有単位(尺、寸)で表し比べる。→固有単位による比較
 ④AとBの身長を普遍単位(m,cm,mm)で表し比べる。→普遍単位による比較

 このことを、生徒にうまく伝えたいと思ってきた。“量”を扱う時、単位の生まれてきた理由、単位を統一するメリットなどを意識しながら学ぶのとただあるものとして暗記の対象、換算の練習として学ぶのとでは、目に見えない力だが大きな違いがあるように思う。

 以前、古い小学校によくある『二宮金次郎の像』の高さは1mで、それは“メートル法”を普及させるのに“1mの感覚”を子どもたちにつかんでもらうために意図的につくられた。という話を小耳にはさみ、いつかは確かめてみようと思っていた。

 雨があがったので歩いて買い物に行った帰り、今まで通ったことがない脇道にちょっと入ってみると、家の前に無造作に『二宮金次郎の像』を置いている家があった。

    “メートル法”のことが頭にあったので、持っていたメジャーで身長を測ってみたら77cmであった。小学校にある像を確認したくなって、遠回りになるが創立130年以上になる星田小学校ならあるだろうと行ってみた。

 校庭はゲートボール大会に開放されていたので、まぎれて入りウロウロと探したらありました。

  第三者には奇妙に映るのは承知で計測してみた。猫背とちょんまげとわらじで、微妙な1mであった。“メートル法”との関係は本当なのか?と釈然としないので、帰ってすぐに検索してみた。


 各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は、1881年発行の『報徳記』で現れる。ただし、薪を拾って売り、その金で勉学をしたのは事実だが、このような姿で実際に歩いていたという事実はないとされる。報徳記を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年)の挿絵で、はじめて薪を背負って歩く姿の挿絵が使われた。

 確認されている最初のこの姿の像は、1910年に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。1904年以降、国定教科書に修身の象徴として二宮が取り上げられるようになった。小学唱歌にも二宮金次郎という曲がある。

 小学校に建てられた二宮像でもっとも古いものは、1924年、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1mとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり1mではないことが多い。これは、1940年ごろに量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。

 この像が戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の1946年に日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。戦前の像は銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にある。岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の55.1%に二宮尊徳像が存在し(2001年現在)、近隣市町村を含めると、58.5%の小学校に二宮尊徳像が存在する。ただしこれは局地的な統計であることに注意する必要がある。栃木県芳賀郡二宮町では、町内の全小中学校に像がある(2004年現在)。また、2003年に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。


 星田小学校の像の台座にも、大きく“皇紀二千六百年”と書かれてあった。西暦1940年(昭和15年)に建てられたものである。したがって、

 二宮金次郎の銅像が実際に全国の小学校に建立される要因となったのは、日本が14年戦争に突入したとされる1932-1933(昭和7・8)年頃からで、世の中は正に国家総動員体制に向かい国語教科書も「ハナハト読本」から皇国意識と国威発揚の色濃い「サクラ読本」に変更され、「教育勅語」の徳目と相まって、金次郎の勤勉・倹約等がクローズアップされ、それを促進するため象徴化されることで国策に利用される形で銅像建立が全国展開されるに至ったようです。

 また1937(昭和12)年は金次郎生誕150年に当たることから報徳社の働きもあったようで、尚かつ1940(昭和15)年が皇紀2600年に当たることもあって、昭和10~15年頃が銅像建立のピークだったようですが、戦局悪化・軍需物資不足に伴い1941(昭和16)年9月施行の「金属類回収令」に基づき、寺の仏具・梵鐘、家庭の鍋・釜はもちろん金次郎の銅像も例外に洩れず鉄砲や大砲の弾等に化けたようです
 
という話が“メートル法”よりもストーンと腑に落ちた。軽々しく知ったかぶりをしなくて良かったと思った。金次郎の像の後ろのフェンスの向こうに忘れられたような石像があった。台座には紀元二千六百一年とあった。さてこの武将は?
  

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タスマニア土人の滅亡の話は示唆に富む

2010年02月26日 | 日記
 高坂氏はタスマニアに行ってから、閑なときにタスマニア土人の滅亡のことを調べたり、お茶の時間にその話を聞いてみたりした結果、タスマニア土人の滅亡に関して1つの仮説を得た。

 『タスマニア土人を滅亡させる上でもっとも効果があったのは、イギリス人の鉄砲でも大砲でもなかった。皮肉なことに、そうした文明の利器よりも、イギリス人が彼らの身体のなかに携えて来た微生物が、はるかに有効だったのである。もちろん、イギリス人は細菌戦をしたわけではない。

  ただ、彼らの体内にはタスマニア土人がまだ出会ったことのない微生物が多数存在した。たとえば結核菌は陽転している人間なら、だれでも持っているし、工業化の初期のイギリスには結核にかかっている人が多かった。風邪のビールスでも、イギリス人の体内にはタスマニア土人の知らない種類のものがあった。そして、タスマニア土人は、こうした微生物に出会ったことがなく、したがって抵抗力を持ちあわせていなかったために病気は急速に拡がり、しかも致命的であった。

 とくに、結核菌はタスマニア土人をバタバタと倒して行ったという。1803年には5千人ほどいたタスマニア土人が27年間に25分の1の203人に激減したのには、この事情が大きく作用しているのである。そして1876年もっとも原始的な民族タスマニア土人は滅亡した』

 この話は古い過去の話ではなく、今につながる話である。人類にとって異なる世界と交渉するときの最大の問題のひとつは、病気の伝染だからである。グローバル化の急速にすすむ現代、新型インフルエンザに振り回された少し前のことを思えば、予期せぬ形で私たちのまわりにも起こりえることだ。

 また、宇宙にまで生活の範囲を拡大している人類にとって、さらに悲惨な事態もあり得るという覚悟も必要である。

 高坂氏が40年前に発した『現代の技術文明はきわめて強い力を持っているが、それによって自然を統御することなどはできないように思われる。現代文明は人間にとって確かに強力なものではあるが、自然を統御するほど強力ではない。それなのに、現代の人間は現代文明は人間がその意思に応じて使いこなすことができ、しかも、相当大幅に世界を変えうると考えているように思われる。それは大層危険なことではないだろうか。』という警鐘は色あせていないように思う。
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