素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

『かぶいて候』『一夢庵風流記』『吉原御免状』が届く

2015年04月30日 | 日記
 ゴールデンウィーク後半は、この3冊と決めたのでちょうど良いタイミングで届いた。さてどれから読むか?と順番を考える。『吉原御免状』はデビュー作、『一夢庵風流記』は第2回柴田錬三郎賞を受賞した代表作、『かぶいて候』は徳川初期の江戸を舞台に、壮大な構想をしめしながら未完に終わった作品、補足の意味合いで短編「異説 猿ヶ辻の変」エッセイ「わが幻の吉原」、縄田一男さんとの対談「日本史逆転再逆転」も合わせて収められている。直感でラストから辿る方が理解が深まるような気がした。
 そこで『かぶいて候』から読み始めた。表題作の「かぶいて候」は半日で読みきった。最近、女流作家の時代小説ばかり読んでいるが、そこにはない切り口とタッチで久しく忘れていた山本周五郎の世界を思い出させてくれた。

 水野日向守勝成から成貞そしてかぶき者としてお馴染みの水野十郎左衛門へと続く、水野家三代の男たちの生き様を描くことが予定されていたが、その三分の一ほどで病のため終わっていると縄田さんの解説にあった。

 水野 十郎左衛門は通称、水野成之が正式の名。一般的に知られている生涯は

 寛永7年(1630年)、旗本・水野成貞の長男として生まれる。父の成貞は備後福山藩主・水野勝成の三男で、成之は勝成の孫にあたる。

 慶安3年(1650年)、3,000石で小普請組に列した。旗本きっての家柄でありしかるべき役に就けるが、お役入りを辞退して自ら小普請入りを願った。慶安4年(1651年)には第4代将軍・徳川家綱に拝謁した。

 父親の成貞も名の通った傾奇者であり初期の旗本奴であるが、成之もまた、江戸市中で旗本奴である大小神祇組を組織、家臣4人を四天王に見立て、綱・金時・定光・季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行・粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には大名加賀爪直澄や大身旗本の坂部三十郎広利などの大物も混じっていた。

 旗本という江戸幕府施政者側の子息といった大身による行状から誰も彼らには手出しできず、行状はますますエスカレートしていき余りの無法ぶりに、同じく男伊達を競いあっていた町奴は十郎左衛門(成之)率いる旗本奴と激しく対立した。

 明暦3年(1657年)7月18日、十郎左衛門は町奴の大物幡随院長兵衛を殺害した。十郎左衛門はこの件に関してお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4年(1664年)3月26日に母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった。翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして即日に切腹となった。享年35。2歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って果てたという。旗本奴への復讐心に息巻いていた町奴たちに十郎左衛門の即日切腹の沙汰が知らされ、旗本奴と町奴の大規模な衝突は回避された。


である。本は成貞がかぶき者として徒党を組むところで途絶えている。残念至極というしかない。


 

 

 
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浦山 桐郎

2015年04月29日 | 日記
 映画「にあんちゃん」のオープニングで助監督・浦山桐郎に目が留まった。今村昌平監督の作品なのでごく当たり前のことだが、私にとっては監督としての浦山桐郎さんの存在が大きいだけに「ああこんな時代もあったんだ」と妙に感慨深かった。長兄の長門裕之にも同じような思いを持った。

 私の世代にとっては好むと好まざるとにかかわらず吉永小百合の存在は大きい。その吉永小百合の女優人生の節目、節目に浦山桐郎監督がかかわってきたように思う。

 小学校6年か中学校1年ぐらいに見た『キューポラのある街』、助監督だった浦山さんの監督昇格デビュー作であり、吉永小百合が清純派女優としてブレイクするきっかけになった作品である。

 その次は、教師になってまもなくの頃に見た『青春の門』、休日に梅田に出かけ時間つぶしで入ったもので何の予備知識もなかったが、内容の重さもさることながら10代の頃につくりあげられていた吉永小百合のイメージを壊す役に挑んだ姿に鮮烈な印象を受けた。

 この後、『青春の門』は何度か映画化、ドラマ化されているが、「自分がこの原作を映画化するねらいは、炭鉱労働者の歴史を残しておきたいからなんだ」という強い思いを持ってつくられた浦山作品を越えるものはない。

 そして、30代半ばで見た『夢千代日記』、内面に秘めたものを持ちながら生きる女将を演じ、演技派女優としての歩みを確かなものにした。この作品が公開された数ヵ月後、日活に入社するきっかけになった鈴木清順の還暦を祝った夜、泥酔し床に就いたまま心筋梗塞で急死したことも運命的なものを感じる。

 ジムの帰り、久保池越しに山フジがたくさん咲いていることに気づく。例年の2倍ぐらいに感じた。今年はどこのフジも勢いがあるように思う。
 
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隆 慶一郎さんと出会う

2015年04月28日 | 日記
 木曜時代劇『かぶき者慶次』に関連して前田慶次郎について調べていたら、知名度の低かった前田慶次郎を世に知らしめた小説家隆慶一郎さんを知った。その小説『一夢庵風流記』をAmazonで検索して著者略歴を見ると

隆/慶一郎
1923‐1989。東京生れ。東大文学部仏文科卒。在学中、辰野隆、小林秀雄に師事する。編集者を経て、大学で仏語教師を勤める。中央大学助教授を辞任後、本名・池田一朗名で脚本家として活躍。映画「にあんちゃん」の脚本でシナリオ作家協会賞受賞。’84年、『吉原御免状』で作家デビュー。’89年には『一夢庵風流記』で柴田錬三郎賞を受賞。時代小説界に一時代を画すが、わずか5年の作家活動で急逝(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 となっていた。「にあんちゃん」!?とそこに目が留まった。人間の記憶とは不思議なもので中身その他は思い出せないが『「にあんちゃん」→二木てるみ』という図式はきっちりと頭の中に入っていて彼女の表情は映像記憶としてかなり鮮明に残っているのである。

 となると今度は「にあんちゃん」のことが気になって確認した。

 『当時10才だった在日コリアンの安本末子が書き、ベストセラーとなった日記。1959年の出版ニュース社調べ による年間ベストセラーランキングで1位を記録した。

 1958年に光文社から「カッパ・ブックス」の一冊として出版。1975年に光文社から改訂版が出版され、1977年に筑摩書房から「ちくま少年文庫」の一冊として、1978年に講談社から「講談社文庫」の一冊として、2003年に西日本新聞社から、2010年に角川書店から「角川文庫」の一冊として発行されている。

映画

1959年10月28日公開の日本映画。日活が製作・配給した。今村昌平監督。

原作を今村昌平と池田一朗が脚色し今村が映画化した。佐賀県にある福島鉱業所鯛之鼻炭鉱でロケが行われた。映画では鯛之鼻ではなく鶴之鼻炭鉱になっている。

昭和28年(1953年)頃の小さな炭鉱町を舞台に、両親を亡くした4人の兄妹が貧しくても懸命に生きる姿を重厚なリアリズムで描いている。

この作品で今村は文部大臣賞を受賞しているが、今村はこの映画はやりたい企画ではなく、文部大臣賞の受賞については健全な映画を撮ったことに反省したという。』
(Wikipediaより)となっていた。うっすらと記憶がよみがえってきた。映画は見ていない。1959年と1960年にテレビドラマ化されており、その1960年版に二木てるみが出演している。我が家にテレビが入った時なのできっとテレビで見て鮮烈な印象を受けたのだろう。

 映画のオープニングがYoutubeにあった。助監督や出演者を見ていると感慨深いものがある。

オープニング - にあんちゃん (1959))


 どんどんわき道に入って迷いそうなので隆慶一郎さんの『一夢庵風流記』『かぶいて候』『吉原御免状』の3冊を注文して今日は終わり。
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今が私にとってのシーズンオフ

2015年04月27日 | 日記
 退職してから6年余りの試行錯誤の中で、「ランニングをする気力と体力を維持する」というのも今の私の生活の基軸の1つになった。1年間のなかで、フルマラソン1回、ハーフマラソン1~2回、交野チャリティーマラソンに参加するのが程よい感じがする。交野チャリティーマラソンが例年3月末から4月初めに開催されるのでランニングシーズンのトリとなる。その流れから5月が幕開け、したがって今がシーズンオフとなる。年末や年度末は私個人にとっては区切りとはならない。

 1年間を振り返って、5月からの生活スタイルを考えている。大きく変わることはないが楽しい作業である。

 今日のジムはいつもの月曜日に比べると来ている人が随分少なかった。ピラティスも普段は15~18人ぐらいの参加者があるが今日は4人であった。「みんな行楽に出かけている」という人もあれば「急な暑さでバテて家にこもっている」という人もいる。さてどちらか?

 ジムのスタジオレッスンをうまく利用してメリハリをつけることを心がけている。「継続は力なり」ということを実感している。

 ピラティスを終えてトレーニングルームへ戻ると走り仲間のHさんが来ていた。第5回大阪マラソンのエントリー締切りが迫っているが今年はどうするのかと尋ねられた。私の頭の中には大阪マラソンの参加はなかった。第1希望は膝の故障で大会直前にとりやめを決断した奈良マラソンへの再チャレンジである。12月13日(日)開催が決まっているだけでその他詳細はまだ準備中である。抽選ではなく先着順なので確率は高い。6月中旬~7月上旬の募集になるので要チェックである。これが決まると新しいシーズンの流れの大枠が決まってくる。いずれにしても5月は基礎体力アップに心がけよう。

 Hさんからはまた紫陽花のシーズンに生駒山に走りに行こうと誘われた。自然と刺激が入ってくる。
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花・花・花の一日

2015年04月26日 | 日記
 枚方山草会の『春の山野草展』の最終日である。15時からの片付けを兼ねて楠葉の市民の森まで自転車で行く。途中、近所の方が中心になっている「交野さくら草の会」の展示会に立ち寄った。青年の家の「学びの館」で開催している。いつものことながら種類の多さに感心する。新種は偶然にできることが多いらしい。八重が流行ってきているが、最後は野生種にシンプルさにもどると解説してくれた。その道のこだわりというものを感じた。
   青年の家から市民の森までは信号の多い自動車道を避けて走ると30分余りで行くことができる。市民の森の2Fでは「エビネ展」が開催されていたのでそちらから観賞する。 1970年代から80年代にかけてエビネ類の栽培が爆発的に人気が高まり投機対象にもなったが、植物ウイルスに感染しやすく、そのためブームも去ったという。
   我が家のエビネも5鉢展示されている。→ 1Fに下りて「春の山野草展」に、いい作品がそろっていると妻が満足気に話していたが、確かに入った瞬間に華やかさを感じた。花もさることながら葉の緑も美しかった。
   中央に飾られたヒメウツギの白い花とギボウシの緑が映えていた。 妻のコーナーの一部である。→ 片付けまでに時間があったので近くの交野天神社に行ってみた。隣接する楠葉中学校には研修、顧問会議、試合その他で数えられないぐらい行ったが、当時は神社のほうにはとんと関心がなかったので一歩も足を踏み入れていない。

 由緒ある神社とは聞いていたが、たしかにそこだけは別の空間だった。
 

 木漏れ日の射す参道は静寂そのもの。石の鳥居には「弘化四」と彫られた文字が、孝明天皇が即位され幕末の嵐が吹き荒れる前夜の頃に建立されたのかと考えると感慨深いものがある。石の鳥居をくぐって10mほどで参道は直角に左に折れる、パッと木の鳥居が目に入る。その先に拝殿がある。
  
一間社流造で檜皮葺の本殿は室町時代に修復されたと書いてあった。
 その横から続く小道を50mほど進むと継体天皇楠葉宮跡地伝承地の貴船神社がある。周りが住宅地であることを忘れるほどである。
    

 パズルのような感じで、鉢などを車に積み込んだ後、自転車で違うルートで帰ったが向かい風をまともに受けてスタミナを消耗した。

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