素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

あべのハルカス美術館「広重展」と四天王寺・七夕のゆうべへ

2024年07月07日 | 日記
 あべのハルカス美術館開館10周年を記念して【広重~摺の極~】が7月6日(土)から開催された。主催に、NHK大阪放送局、NHKエンタープライズ近畿も名を連ねているので、放送番組にも「歌川広重」がよく登場する。

 6月23日(日)から3週連続「歌川ぶるう」(朝6時10分~)が放映された。これまでは葛飾北斎一辺倒であったが、これがとても面白く歌川広重に興味を持った。時代背景などを知ると奥深いものを感じるようになり是非美術館で見てみたいと楽しみにしていた。

 ついでに、四天王寺の「七夕のゆうべ」にも立ち寄って来ようと思った。ビル陰の多くなる15時過ぎに行けば、猛暑も少しはましになるかと思い、午前中はジムに行った。あまりの暑さに家に居ても仕事にならない。軽めのメニューと思っていたが、午後からの計画に気分が高揚していたのかいつもよりハードなメニューをこなした。これが後にこたえてくる。

 気分はハイでも体は正直で、天王寺に着くころには足のだるさが半端ではなかった。運動をしたため深体温も上がり気味で、外気の暑さも加わり猛烈に喉も乾く。
 広重展は冷房がよく効いていて浮世絵の世界を楽しむことができた。
    しかし、あべのハルカスを出た瞬間外気の暑さに襲われ我慢の限界。四天王寺へ行く途中で王将に入り餃子と生ビール中ジョッキを2杯。ひと時の快感に浸るが、王将から四天王寺までの道中は酔いと午前中のジムでの運動の疲れが足に訪れ苦行となった。四天王寺手前で売っている冷やしきゅうり1本で生き返った。
 四天王寺は賑わっていた。暗くなるまで粘る体力はなく境内をひと巡りして帰路につく。足はますます重く、フルマラソンの帰りみたいだと気力で歩いた。「広重展」は8月6日(火)から後期で展示替えがある。是非訪れたいと思った。



四天王寺・七夕のゆうべ
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星田妙見宮七夕祭り

2024年07月06日 | 日記
 7月6日、7日は星田妙見宮の七夕祭り。地域の道路には旗が立てられ、SNSでも発信されている。結婚して3度引っ込したがすべて星田妙見宮の近く。特に2度目の家は徒歩5分ほどであった。息子は小学校時代をそこで過ごしたので妙見河原がセミ取りなど遊び場だった。

 その息子が妙見宮の七夕祭りは記憶がないと言う。交野で七夕祭りといえば機物神社しかイメージがなく「いつのまに?」というのが正直なところ。息子に言わせればネット上では機物神社より星田妙見宮の方が勢いがある。地元に居ながら知らないではいられない感じだ。と休日の明日、20数年ぶりに星田妙見宮に行ってみると話していた。ついでに大阪公立大学附属植物園と機物神社に行き「交野巡り」をするみたいだ。

 私は明日、天王寺方面へ行く予定をしているので一足早く妙見宮の七夕祭りに行ってきた。自転車なので風を受け暑さは苦にならないが日射しの強さには辟易した。「殺人光線」と形容した人もいたが同感。

 妙見宮は木も高く日差しが届かないので歩きやすい。息子の言う通り駐車場には他府県ナンバーも目立ち、SNS上ではかなり注目スポットになっているようだ。
   
 機物神社は境内も狭く賑わっている感があるが、妙見宮はゆったりとして厳かな感じがする。人気アップの理由が分かる。
  

 茅の輪くぐりは日本神話に由来がある。スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた、備後国の蘇民将来(そみんしょうらい)との逸話が起源。

 貧しいにもかかわらず、喜んでスサノオノミコトをもてなした蘇民将来に対し、弟である巨旦将来(たんしょうらい)は裕福にもかかわらず宿を貸そうとしなかった。数年後、再びスサノオノミコトは蘇民将来のもとを訪れ「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」と教えた。教えを守った蘇民将来は難を逃れられ、それ以来、無病息災を祈願するため、茅の輪を腰につけていたものが、江戸時代を迎える頃には、現在のようにくぐり抜けるものになったといわれている。
    

 今年前半の半年間の穢れを清めて災厄を払い、このあとの後半も無事に過ごせるようにと祈る。


 
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お札談議

2024年07月04日 | 日記
 久しぶりにジムに顔を出した。「体調が悪かったのか?」と心配された。連日の猛暑に熱帯夜で病院通いする人が多くなったみたいで、私もその一人に入れられていたようだ。

 ロッカールームの話題は、昨日発行された新札のこと。新札を手にした人はまだいない。「新札より診察のほうが最優先ですわ」と笑う。子どもの頃の100円札の板垣退助、500円札の岩倉具視が大金に思えた懐かしい話。記憶力テストのようなものだ。その頃は聖徳太子がずい分幅を利かせていてお札=聖徳太子が刷り込まれた。伊藤博文の1000円札は新鮮だったは大方の一致するところ。東京オリンピックとも重なる。聖徳太子が消えたのは昭和59(1984)年、福沢、新渡戸、夏目という今につながる形になった。皆の記憶を少々乱したのは福沢諭吉だけが他の二人より20年長く10000円札にとどまったこと。40年という年月は長く、頭が渋沢栄一に切り替わるにはなかなかと笑う人もいる。「この中で次の新札を迎える人はほとんどいないからゆっくり慣れればいい」と長老の締めの言葉で各自トレーニングに向かう。

 昨日の「余録」のお札4人衆の関わりは興味深く読んだ。
 
【「官尊民卑の気風最も盛んなる世の中に」「初志を貫いてついに今日の地位を占め、天下一人として日本の実業社会に渋沢栄一あるを知らざるものなし」。福沢諭吉の渋沢評である▲5歳年下の渋沢は初対面の際「いっぷう変わった人」と感じたらしい。大隈重信邸で将棋を指したこともあった。「商売人にしては割合強い」と言われ「へぼ学者にしては強い」と言い返したという▲つかず離れずの関係だったが「実業界と政界を同列に扱うべきだ」という福沢の主張には大いにうなずいている。きょうから20年ぶりの新紙幣が発行され、1万円札の顔は40年ぶりに福沢から渋沢に変わる。共に官から距離を置き、民間で活躍した人物である▲5000円札の津田梅子と1000円札の北里柴三郎もそうだ。福沢とも接点がある。津田の父は幕末に福沢とともに通訳として渡米した。ドイツのコッホ研究所から帰国後、政府から冷遇された北里を支援したのが福沢だった・・・】 
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熱帯夜

2024年07月03日 | 日記
 先日までは、日が落ちて1時間余りすると夕方からつけていたクーラーを切り網戸で過ごすことができていた。

 暑き日を海に入れたり最上川  (芭蕉)

 日没とともに、暑い一日の終わりにホッとする心が伝わってくる句と同じだったが、今夜からはそうはいかない。熱帯夜到来である。

 あつき夜をののしりいそぐ女かな  (石橋秀野)

 イライラ感が増し、とげとげしくなりがち。心して過ごそう。

 イギリスやフランスの政治情勢も不安定。アメリカの大統領選も不透明。ガソリン代があっと言う間に170円代になった。この夏は熱帯夜以上に過ごしにくさを感じる。

 
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風蘭(フウラン)

2024年07月02日 | 日記
 カイズカイブキの枝のすき間に、フウランを5個吊り下げている。風通しの良い半日陰という好条件に気を良くしてか、毎年可憐な白い花を咲かせてくれる。山地の樹木や岩に着生していることも多くあり、丈夫で手間いらずである。

 今年も香りの良い花を多く咲かせてくれた。
   江戸時代から人々を楽しませてきたことに納得する。

 風蘭に かくれし風の 見えにけり  (進藤一考)

 

 
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