素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

東海林さだおさんの「アサッテ君」13749回を数えて幕を閉じる

2014年12月31日 | 日記
 朝の天気予報だと午後から発達した低気圧の接近で、急速に荒れた天気になる恐れがあった。午前中に精力的に片付けをしたおかげで午後はゆっくりした時間がとれた。いっこうに天気が崩れる様子がないので寝屋川公園を往復するコースで今年の走り納めをすることにした。1時間18分09秒かけて1年を振り返りながらゆったり走った。

 一昨日の余録で知ったのだが、20年目を迎えた「今年の漢字」のイベントが漢字文化圏にも広がっているらしい。日本は『税』だったが、9年目を迎えた中国は『法』、7年目の台湾は『黒』、4年目のシンガポールとマレーシアはそれぞれ『乱』と『航』いずれも明るいイメージはなかった。流動的なアジアの状況を考えれば致し方ない。

 走りながら今年の自分を漢字一字にするならと考えた。いろいろなことがあったが『脱』という字が浮かんだ。解脱とまではいかないが、自分の中にあったこだわりのようなものがかなり消えたことは確かである。

 さて今日の朝刊、アサッテ君のラストである。一般全国紙の漫画の最長連載記録だという。
 普段、あまり気にしていなかったのに突然、「東海林」をなぜ「しょうじ」と読むのか?という疑問が湧いた。実家から大阪に帰る日の昼、静岡にいる伊勢の叔母の娘夫婦、私の従妹が帰省に伊良湖フェリーを使ったので立ち寄ってくれた。昼食をとりながら交野とか枚方など読みにくいなどと地名や人名の話題で盛り上がったので脳が東海林にも反応したのだと思う。

 東海林太郎のおかげで、ごくごく自然に「しょうじ」と読んでいたが、考えてみれば不思議な読み方だ。調べてみると同じような疑問を持つ人は多いことがわかった。その中で札幌市の東海林 勲さんの話が一番よくわかった。 

 夕方からはテレビをつけず、静かな大晦日を過ごすことにしている。来年もまた、見知らぬ多くのことに出合いたいものだ。
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「平成27年・2015年」と唱えながらのカレンダーの交換

2014年12月30日 | 日記
 平成26年・2014年に馴染んできてためらいなく出るようになったと思ったら新年を迎える。8ヶ所につけているカレンダーをはり替えながら頭の中の年号も1年増やすのだがしっくりするのにかなりかかりそうである。

 カレンダーが新しくなると気分も変わる。片付けの方もほぼ終了したので夕方ちょっとテレビでも見て一服と座ったが見る番組がない。NHKはまたまた「花子とアン」のスペシャルをしているし、レコード大賞も興ざめ、結局ドラえもんを流しながら雑誌を読むこととなった。外出していた息子が帰ってきて「ドラえもんなんか見て、大丈夫!?」と心配してくれた。「他に見るもんがないから見てるだけや、大丈夫やで」「なら消しておけばいいのに」「それもさびしいやろ」「それにしても声が全然違うから ドラえもんとして認めたくないなあ」と息子が嘆く。そのあたりは私にはわからない。

 あんまりブツブツ言うからテレビを消した。最初からそうすれば良かったのである。テレビっ子であった習性はまだぬけない。

 

 
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「井沢元彦の歴史手帳2015」で竹村公太郎さんの説を裏付ける

2014年12月29日 | 日記
 「井沢元彦の歴史手帳2015」を衝動買いしたことは先だって書いた。今日からわが家の片付け第2ラウンドが始まった。実家の場合、限られた時間に、両親が書き出してある10プラスαと親戚への挨拶をこなさなければならないので集中できる。我が家になると誘惑も多く、ながら片付けになってしまう。その1つが「井沢元彦の歴史手帳2015」。

 日本史年表は、[25年:光武帝即位、後漢を建国]から始まって[2014:国家安全保障局発足。記録的大雪。「あさりちゃん」「あぶさん」連載終了。ソチオリンピック。消費税が8%となる。渡辺喜美みんなの党代表辞任。オバマ大統領来日。「STAP細胞」論文撤回。ブラジルでワールドカップ。集団的自衛権の憲法解釈変更を閣議決定。」までまとめられている。項目によって図や表での補足説明もあるので楽しめる。またそれとは別に、古代から現代までに日本で発生した規模・被害の大きな地震・津波などの震災をまとめた日本震災年表も重宝である。

 それを見ていると、竹村公太郎さんが『日本史の謎は「地形」で解ける~文明・文化編~』(PHP文庫)の中で「なぜ日本は欧米列国の植民地にならなかったか」という章で、災害列島・日本と言っていいぐらい欧米人を恐怖させる自然が嫌というほどあったことをあげていることが納得できる。

 1854年3月末に日米和親条約を締結しているが、安政年間の震災の回数と規模は来日していた欧米人を恐怖のどん底に落としたことは容易に推測できる。歴史を俯瞰するのに2つの年表はありがたい。
 
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「自彊術入門」(池見酉次郎著・ゴマブックス)をじっくり読む

2014年12月28日 | 日記
 歌番組が大好きだった父だが、耳が聞こえにくくなるにつれ遠ざかっていった。補聴器をつけても歌手の歌が音程がはずれたように聞こえ、ちっとも楽しくないという。補聴器もいくつか試しおたがしっくりいかないようで、通院などよほどの場合でない限りつけることはない。夜にテレビを見ながら会話を楽しむということもできなくなった。そういうこともあって夜は読書タイムとなる。

 同行させた「自彊術入門」(池見酉次郎著・ゴマブックス)を20年ぶりにじっくり読んだ。前半部分は池見さんが日本初の「心療内科」を立ち上げた理由と、自彊術に出会った経緯についてていねいに書かれている。自分自身の体験を踏まえての理論的な話には説得力がある。

 私自身が人間の心というものに強い関心をもつようになった部分と重なるところもあり興味深かった。第二章にある自彊術との出会いの部分を長くなるが紹介しておきたい。これがエッセンスだと思う。

 『幼児から人一倍ひ弱な体質と過敏な神経の持ち主だった私は、成育過程における複雑な環境が影響して、中学生のときに神経性の胃腸障害にかかりました。以後何年にもわたってこの病に苦しめられた私は、なんとかそれを治したいという願いが高じて医師の道を志しました。そしてこの病気は、当時のわが国の身体医学では治すことができず、もっと人間の精神面に着目し、自ら病気を克服するセルフ・コントロールの道を追究する必要があるということに気づきました。
 
 それからの私は心理学、哲学、宗教、民間療法の中にその答えを求め、啓示を受けてはその限界も知るということを繰り返しながら、ついには心身医学の道にたどりつきました。当時、心身医学は世界的に見ても新しい分野であり、日本においてはほとんど周囲の理解を得られぬままスタートを切らねばなりませんでした。

 道なきところに道をつくる。その作業がけっして楽ではないことははじめからわかっていましたが、その想像をはるかに超えるストレスが体にかかり、私は著しく健康を損ねてしまったのです。

 そんな折に出会ったのが自彊術でした。私は心身医学をスタートさせてから、セルフコントロール健康法をずっと研究してきました。人間には本来、自分で自分の病気を治す能力が備わっています。その力を補助するのは医学にとって重要な役割のはずなのですが、近代的な西洋医学ではこの点がほとんど無視されています。そこで必然的に東洋医学に目を向けざるを得ませんでした。

 気功、ヨガ、瞑想、そして日本の座禅などを研究していくと、いずれもすぐれたセルフコントロール法であることがわかりました。ところが、自彊術にはそれらを凌駕してしまうほどの長所がいくつも見出せたのです。このことについてはすでに第一章でも申し上げましたが、そこに、私が長年求めつづけてきたセルフコントロール健康法の理想的な姿がありました。・・・・・』


 第三章で自彊術の31動作について図入りで一つずつ解説されているが、これはジムで月、水にやっているピラティスと重なるというのもいくつかある。またボクササイズの動作とつながるものや独自に朝やっているストレッチを取り入れた体操と同じなどと自分の体を通して感じてきたことも多いので違和感がない。20年前の私は鍛えるということが第一義であったので自彊術に目が向かなかったこともよくわかる。

 今の私は、インナーマッスル、姿勢、関節(首・腕・肩・股関節・膝・足首)を動かすこと、関節周りの筋肉を柔軟にすること、呼吸(胸式と複式)、丹田が大切だと思っている。その視点から見れば自彊術は注目に値する。2015年の課題の1つが見つかった。

 どんな立派な人が推奨していても、自分の体を通してみないと気がすまないのである。

 自彊術体操31動1/2
 年末の運命的な再会であったことは確かである。
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皇大神宮別宮・伊雑宮は今年が遷宮

2014年12月27日 | 日記
 皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)は平成25年秋に第62回神宮式年遷宮が執り行われたが別宮は翌年に式年遷宮が行われる。実家から歩いて5分の所にある伊雑宮もその1つである。

 10月に入ってから実家へ帰る回数が月に2~3度と増えた。先月はちょうど白石持の行事があったが、病院や展覧会、買い物などへの両親の送迎で余裕がなく見物できなかった。新たに建てられたお宮も見ることなく来てしまった。新旧の社殿が建ち並ぶ姿を次に見ることが出来るのは20年後なので15時から16時までの間はすることがなくなったのでお参りにいくことにした。

 そのことを母に告げると「磯部でえは三社参りをしないと意味がないから穂落としさんと磯部神社も一緒に参っておいで」と言われた。穂落としさんとは聞き慣れない言葉なので「それはどこ?」と尋ねると「磯部小学校の隣にある神社、あんたがよく椎の実を拾いに行ったやろ」という答え。合点した。今は佐美長神社となっている。その通称が穂落としさんらしい。そこからお参りを始めることにした。歩いて20分弱、運動不足解消にもなる。

  伊雑宮の所管社なので同じように真新しい鳥居になっていた。36段の石段を上がると真新しい社殿に迎えられた。
  佐美長神社から磯部神社までは200mほどである。民家の裏手の道を歩く。ちょっと違う山茶花の花を見つける。
   明治41年に創建以来、いくつかの神社を合祀して現在に至るもので、静かな境内の中にある社殿は風格がある。磯部神社から伊雑宮まではきれいに区画された田んぼの中の真っ直ぐにのびた小道を500m弱歩く。荒れた休耕田が目立つのも時代の趨勢か。突き当たった所に御田植式の行われる料田がある。
  伊雑宮の御田植式は志摩地方随一の大祭で「磯部の御神田(おみた)」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。毎年6月24日に行われていて、私の小学校時代は学校が午後から休みになった。小学校2年で鵜方に引っ越しをしたのでそれ以来ご無沙汰している。できれば来年は日程を合わせて帰ってきたいと思っている。
   伊雑宮の前の道は随分整備された。道沿いの家には奉祝の字が入ったちょうちんが吊り下げられていた。向かいに建つ旅館の中六からは、うなぎを焼く良い匂いが漂ってきた。昭和4年に建てられた建物は風情がある。うなぎ料理は絶品でけっこう人気があるという。
  真新しい鳥居をくぐって木立の中を歩くと正殿が見えてくる。旧殿はシートで囲まれていたが、新旧を見比べると20年の年月を感じる。
  

 次に新旧並ぶのは私が83歳の時、「さて、生きているだろうか?」「しっかり認知できてるだろうか?」「今の母とほぼ同じ年齢になっているのだな」などととりとめのない思いにかられながら帰宅した。 

 

 
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