素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

やけに長く感じた1月でした~今年の目標①~

2021年01月31日 | 日記
 「やっと1月が終わりだ!」と 朝、カレンダーを見て真っ先に思った。いつもの年だと、12月21日の冬至を過ぎて1月に入ると日毎に日差しが長くなり「あれ、5時を過ぎているのにまだ明るい!」などと季節の歩みを感じ、ちょっとワクワクした気分になるのだが、毎日のニュースのトップがコロナの感染者数、医療現場の逼迫度などでは心が沈む。加えて緊急事態宣言の3月7日までの延長が本格的に検討されていると聞けば ますます春待つ気分は遠ざかる。

 そういう中でも自分の生活は きちっとつくっていかないと「コロナには かからなかったけど 心身ともに不調になった」となりかねない。毎年、生活にアクセントをつけるもの(目標)をいくつか作っている。その1つが「ジョギング」。今年の年賀状の私の近況報告の部分です。

 【2019年は最終的に1885kmを走破しました。一日平均5.1kmと目標の5kmを何とかクリアー。そこで2020年は2000km走破を目標にしました。コロナの自粛生活のおかげで走る時間が増え10月末で2077kmと早々達成。12/5現在2326kmです。故障しないように締めくくりたいです】

 自分で設定した3つのロードコースとジムのランニングマシーン、アークトレイナーの5つを組み合わせて年間走破距離の目標を2019年にたてた。これが思いの外うまくいった。2020年のものは 年賀状を作る時期の関係で12月5日までしか報告していないが、最終的には2488kmとなった。大晦日に頑張り、切りの良い2500kmまでとも思ったが自重した。体の声に耳を傾ければ「もう限界に近いよ」と言っていた。「ならば、来年は、月に1kmずつ距離を延ばせば2500kmになる。」と頭を切り替え、2021年の目標は「去年の自分との勝負」とした。去年の各月の走破距離を1kmリードして毎月フィニッシュしていくというのはほど良い刺激となりうる。

 去年の1月は200kmであった。2日が走り初めだった今年は今日までで206km走破した。去年の2月は222kmと年間で一番の距離を走った。うるう年だったと言っても29日である。今年は28日。プラス1kmはかなり厳しい。ちょっとだけ貯金して2月に臨めるのはありがたい。
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ウルフムーンとはいかなかったが

2021年01月30日 | 日記
javascript:void(0) 1月の満月を「ウルフムーン」と呼ぶらしい。今年は、新聞にある【あすのこよみ】という小さい欄を切り取って、余禄日記に貼っていくことにした。月齢・月出・月入・日出・日入・満潮・干潮が一目でわかり昼の長さが1~2分ずつ長くなっていくことが数字で実感できる。月の満ち欠けも何となく楽しい。1月28日の月齢が14.9、29日が15.9となっているからその辺りでウルフムーンとなっていたが、あいにくの天候で観賞できなかった。今朝7時前、何気なく2階の部屋のカーテンをあけたら西の空に月がポッカリ浮かんでいた。思いもよらない光景に思わず写真におさめた。何か得した気分になった。今日の月出は18:55、月入は8:04.
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小冊子『退職後の父のあゆみ』の中から

2021年01月29日 | 日記
 小冊子『退職後の父のあゆみ』の中で、私が一番気に入ったのが『平成2年・8号」の一文である。

 「晴れてよし、降ってよし、健かでよし、病みてよし、若くてよし、 ・東西ドイツ統一
老いてよし、遇ってよし、別れてよし、生きてよし、死してまたよし、 ・礼宮,紀子様ご成婚
すべてのご縁によしよしとうなずいていける三百六十五日でありたい  ・小中で日の丸、君が代義務化
ものです。」F高校長からいただいた、退職記念出版のご本に書かれて          
いる、あるご住職からの、心にしみる年賀状の一文である。私も人生
そうありたいと念じ、皆様にもご紹介した次第です。 (平成2年・第8号)


 私は今、「~である」という事実と「よい(幸)わるい(不幸)」の価値判断を分けることを意識して生活をしている。何が幸せで何が不幸かはそう簡単に決められないぞという思いが強く根底にあるからだ。【塞翁が馬】の故事を事あるごとに引用してきたのもそのためだ。

 父と生き方についてゆっくり話したことはなかったが、この一文に父が心を留めたことを知りなるほどと感じ入った。         
                    
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父の死③

2021年01月28日 | 日記
 小冊子『退職後の父のあゆみ』が出来た2016(平成28)年10月以降は、落ち着かない日々が続いた。父は足腰の衰えに加えて、耳の聞こえづらさが進みスムーズな会話が難しくなり、入れ歯もしっくりこないということでストレスが倍増。実家に帰るたびに入れ歯の調整に違う歯科医院に連れて行くことになった。不調を訴えてもどの医院でも「慣れるまで様子を見ましょう」と言われる。補聴器も然り。慣れるまでの我慢ができないのは歳のせいかなとあきらめ歯科医院のはしごにつきあった。一方、車で10分ほどの所に住んでいる次女の出産予定日の11月下旬が近づき、助産院に連れて行く要請がいつ入ってもいいように携帯が手放せなくなった。弟からは、父の弱り方を見ると「何があってもおかしくないので、すぐ連絡がつくようにしておいて欲しい」と言われていた。

 真逆の2つの連絡を待つ日々というのは落ち着かないものである。次女は予定日より10日ほど遅れて12月6日に無事女児を出産。ホッとする間も無く2日後の8日、弟から父が救急車で志摩病院に運ばれたと連絡が入った。肺に水が溜まっていて呼吸困難だと聞かされた。幸いすぐに肺に管を入れる手術をして大事には至らなかったが、1月10日までの入院生活となった。次女が産後の養生のため我が家に戻ったので私は身動きが取れず、父の看護は弟と母に任すほかなかった。
  
「いのちの芽ばえ」と「老いと死」の2つのことに向き合う2017(平成29)年のスタートであった。父は退院後、家に戻っての生活を強く望んだが、それでは母がしんどくなるのが目に見えていたので病院と実家の中間にある介護付き有料老人ホーム「しまの憩」に入所することを説得した。渋ったが家に帰るためのワンステップだと言いきかせて承知した。元来、食の好みが強かったので施設の食事に馴染まず残すことが多くなった。「しっかり食べてもう少し体力がついたら家に帰ることができるから」という言葉は届かなかった。

 2月5日、弟から「具合が良くないから、万が一の準備もして来てほしい」と連絡が入る。6日の早朝に実家に向かう。昼前に着き、すぐに施設に様子を見に行った。「来たよ」と声をかけると元気にうなづいた。大丈夫みたいなので午後の付き添いを弟に頼み、実家に戻り買い物など用事を済ませた。早目の夕食を終え、弟と交代するために施設へ。父は眠っていた。よもやま話をした後「いつもこんな感じなんさ。寝たり起きたりの繰り返し。後はよろしく」と言いながら弟が部屋を出る前にもう一度父を見た時「あれ?」という顔をした。「なんか呼吸の間隔がいつもと違う」私はピンとこなかったが、ここ最近父と多く接する弟にはちょっとした変化を感じ取ることが出来た。しばらく二人で様子を見ていたが、確かに息の間隔が少しずつ長くなってきた。「お医者さん呼んだ方がいいなあ」「ああ」と言ってる間に静かに息を引き取った。
 2017(平成29)年2月6日午後7時10分。「大往生とはこういうことなんや」と思わずつぶやいた。



 
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父の死②

2021年01月27日 | 日記
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 父の近況報告にもあるように2013(平成25)年の秋頃から急速に足腰の衰えが目立ち始めた。家での生活は手すりや家具を支えに自分のことは自分でできていたが、外出することがなくなってきた。気晴らしの外食やショッピングができなくなってくると母の方も定期的に心身の調子が落ちるようになってきた。松阪にいる弟や私が実家に帰る回数が増えてきた。

 人はそれぞれに心身のキャパシティーがある。それを越えた生活を続けると遅かれ早かれ破たんする。この時期、一番心がけたことは、私自身が元気でいること。実家への行き帰りで事故でも起こしたら両親のことどころではない。そのためには心身に余裕を持った生活を送ることである。生活の中で優先順位をつけ下位のものはスッパリ切って行くことにした。今はコロナ感染予防行動で『不要不急の用』という言葉が頻繁に使われるが、ブログの更新も当然、「不要不急の用」であった。小冊子『退職後の父のあゆみ』を1週間足らずで完成させたエネルギーはそこから生まれたのかもしれない。
 
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