素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

教科書に振り回されるのでなく、使いこなしたいですね

2010年03月31日 | 日記
 今朝の朝刊は、文部科学省が30日に、09年度の教科書検定結果を公表し、小学校で11年度から使われる教科書についての具体的な姿が見えたことが報道されていた。ただ、『郵貯上限2000万円で決着。亀井案軸。6月にも実施』というニュースにやや押されている感はあったが。

 毎日の見出しだけを拾ってみると  1面は“「脱ゆとり」鮮明。教科書分厚く。算数、理科3割超増”  3面では“「愛国心」色濃く。竹島~国境明記を・伝統文化~神話も登場”  12面では“思考力、活用力養成が柱。「言語活動」全教科で重視”30面では“教科書検定・発想の転換必要。内容1.4倍 教師ら不安の声” となっている。

生徒として習う立場の時から教える立場として35年と学習指導要領との付き合いは長かった。今は少し離れた位置にいるので、『Wikipedia』の《学習指導要領の変遷》に沿って気楽に考えることができる。


 学習指導要領の変遷
年度は小学校で本格的に開始された年度である。
1単位時間は小学校は45分、中学校及び高等学校は50分である。

1947年(昭和22年)
 第二次世界大戦後しばらく行なわれていた学習指導要領。手引きという立場であり、各学校での裁量権が大きかった。1953年(昭和28年)までは学習指導要領(試案)という名称であった。

小学校において、戦前からの修身、地理、歴史が廃止され、社会科が新設され、家庭科が男女共修となった。自由研究が新設された

私はまだこの世にいないが、教員の絶対数不足、価値観の転換による喪失感などで混沌としていたことを映画や本を通して知った。

1951年(昭和26年)
1951年から実施された学習指導要領。

小学校の総授業時数は5780コマ。中学校の総授業時数は3045コマ。

自由研究は廃止され、教科以外の活動(小学校)、特別教育活動(中学校)と改められた。中学校の習字は国語科に、国史は社会科に統合された。体育科は保健体育科に改められた。職業科は職業・家庭科に改められた。

この年の1月に私は生まれた。1951年はサンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約の調印がなされ、GHQの日本占領が終了し新たな一歩を踏み出した年である。小学校低学年まではこの指導要領で学習していた。小3の算数で、九九を覚えるのに、全員床に正座し、自信のある者だけ挙手をして一の段から九の段までつまらず、まちがわなければ100万円ではなく、椅子に座れる。ということを2週間以上やっていたと思う。1日に2~3人合格するだけで、ほとんど沈黙の苦痛な時間であった。私は七の段が舌がまわらず絶望的だったのでひたすら正座に耐える道を選んでいた。この授業以外はほとんど記憶がない。

1961年(昭和36年)
系統性を重視したカリキュラム。道徳の時間の新設、科学技術教育の向上などで教育課程の基準としての性格の明確化を実現。公立学校に対して強制力がある学習指導要領が施行された。

小・中学校の学習指導要領は1958年(昭和33年)に告示され、小学校は1961年(昭和36年)度から、中学校は1962年(昭和37年)度から実施されたが、道徳のみ1958年10月から実施されている。 高等学校の学習指導要領は1960年(昭和35年)に告示され、1963年(昭和38年)度の第1学年から学年進行で実施された。

小学校6年間の総授業時数は5821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3941コマ。中学校3年間の総授業時数は3360コマ。

中学校の職業・家庭科が技術・家庭科に改められ、高等学校の古典、世界史、地理、数学II、物理、化学、英語にA、B(または甲・乙)の2科目を設け、生徒の能力・適性・進路等に応じていずれかを履修させるようにするなど、科目数が大幅に増加した。高等学校の外国語が必修となったほか、科目の履修に関する規定が増加した。

小学校高学年から中高にかけて、この指導要領で学習した。びっしり授業があった。という印象がある。公立高校の受験科目が9教科だったのでハードであった。勉強即暗記という図式があったが、中3の時、意欲的な校長先生が転勤してきて、思考を重視するということで“バズ学習”を取り入れた。ただ、教師の方は未消化だったみたいで、「とにかくグループになって、みんなでにぎやかにしゃべれ」なんて指示を出したので雑談していたことを覚えている。教師に自信がないなと見抜くと生徒は崩れるということを学んだ。

1971年(昭和46年)
現代化カリキュラムといわれる濃密な学習指導要領。時代の進展に対応した教育内容の導入で教育内容の現代化を実現。

1950年代、ソ連が1957年に人工衛星スプートニク1号を打ち上げたことは、アメリカの各界に「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃が走った。アメリカ政府は、ソ連に対抗するためにまずは学校教育を充実し、科学技術を発展させようとした。これに伴って、「教育内容の現代化運動」と呼ばれる、小中学校からかなり高度な教育を行なおうとする運動が起こった。この運動が日本にも波及し、濃密なカリキュラムが組まれたが、授業が速すぎるため「新幹線授業」などと批判された。当時は公立学校も私立学校もあまり違いがない学習内容だった。結局、教科書を消化することができず、教科書の内容を一部飛ばすなどしてやらない単元を残したまま進級・卒業をさせる場合もあった。

小学校の学習指導要領は1968年(昭和43年)に告示され1971年(昭和46年)度から実施、中学校の学習指導要領は1969年(昭和44年)に告示され1972年(昭和47年)度から実施された。高等学校の学習指導要領は1970年(昭和45年)に告示され、1973年(昭和48年)度の第1学年から学年進行で実施された。

小学校6年間の総授業時数は5821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3941コマ。中学校3年間の総授業時数は3535コマ。

高等学校の社会科や理科で旧課程のA・Bの区分は止め、新たに地理A(系統地理的)、地理B(地誌的)などを設置した

大学に入学したのが1970年(昭和45年)なので、ちょうど教育実習の時がこの学習指導要領のスタート間もない頃であった。特に、数学の中身がガラリと変わり、今大学で習っている概念が小中に直接持ち込まれた。その代表が《集合》というものだった。実習先が教育大学の付属中学だったので最先端の授業をしなければいけなかった。多くの学者から危惧されたが、混乱だけを残し、このとき導入された現代化の内容は10年余りで消えていった。ひどい後遺症を残したように思う。


1980年(昭和55年)
ゆとりカリキュラムといわれる、教科の学習内容が少し削減された学習指導要領。各教科などの目標・内容をしぼり、ゆとりある充実した学校生活を実現。

現代化カリキュラムは過密であり、現場の準備不足や教師の力不足もあって、大量の付いて行けない生徒を生んでしまい、これに対する反省から授業内容を削減したもの。1976年(昭和51年)に学習内容を削減する提言が中央教育審議会でなされた。私立学校はあまり削減を行なわなかったので、公立学校との差が付き始めた。学習内容が全て削減されたわけではなく、漢字数などはむしろ増えているため、意図したほどゆとりを生まなかったという批判もある。学校群制度なども影響し、公立学校の進学実績の低下が明らかになった時期でもある。

小中学校の学習指導要領は1977年(昭和52年)に告示され、小学校は1980年(昭和55年)度から、中学校は1981年(昭和56年)度から実施された。高等学校の学習指導要領は1978年(昭和53年)に告示され、1982年(昭和57年)度の第1学年から学年進行で実施された。

小学校6年間の総授業時数は5785コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3659コマ。中学校3年間の総授業時数は3150コマ。

中学校の選択科目の選択肢が拡大された。高等学校の科目履修の基準が緩和された。


このあたりは入試制度を変更することで教育の現状が変わるという幻想にとりつかれた時期である。大学入試では国立一期校、二期校という入試から共通一次試験の実施へと大きく変わった。高校入試では公立で学校群制度が多くの所で取り入れられた。
 学習内容も削減されたが、荒っぽい美容整形みたいで、ただ削ったというだけでバランスの悪い教えるのに苦労するものだった。

1992年(平成4年)
新学力観の登場。個性をいかす教育を目指して改定された、教科の学習内容をさらに削減した学習指導要領。生活科の新設、道徳教育の充実などで社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成を実現。

学習指導要領は1989年(平成元年)に告示され、小学校は1992年(平成4年)度、中学校は1993年(平成5年)度から実施された。高等学校は1994年(平成6年)度の第1学年から学年進行で実施された。

小学校6年間の総授業時数は5785コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3659コマ。中学校3年間の総授業時数は3150コマ。

小学校の1・2年では理科・社会科を廃止し生活科が導入された。高等学校では社会科を地理歴史科と公民科に再編するとともに、家庭科を男女必修とした。

小学校1・2年の生活科導入には危惧の声があがった。今回の算数・理科の3割増しはこの時にあがった声をやっと反映したというべきもの。反省の弁がほしいと考える由縁である。


2002年(平成14年)
戦後7度目の改訂といわれる、現行の学習指導要領。教育内容の厳選、「総合的な学習の時間」の新設により、基礎・基本を確実に身に付けさせ、自ら学び自ら考える力などの「生きる力」の育成を実現。

小中学校の学習指導要領は1998年(平成10年)に告示され、2002年(平成14年)度から実施された。高等学校の学習指導要領は1999年(平成11年)に告示され、2003年(平成15年)度の第1学年から学年進行で実施された。内容の一部については2000年(平成12年)度から先行実施された。

小学校6年間の総授業時数は5367コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3148コマ。中学校3年間の総授業時数は2940コマ。

学校完全週5日制が実施された。中学校では英語が必修となった(実質的には大部分の学校で以前も必修扱いであった)。また、小学校中学年から高等学校において総合的な学習の時間が、高等学校において情報科が創設された。その一方で、教科の学習内容が大幅に削減され、さらに、中学校・高等学校においてはクラブ活動(部活動)に関する規定が削除された。

総合的な学習の時間と個人選択授業の実施は現場に多大な混乱を起こした。理念が先行して、それにともなう教職員の配備、設備の充実、予算の裏づけなど物理的な保障が充分でなかった。すべてに中途半端であったという印象を持っている。
 これほど短期で見直しの声が多く出た改訂はなかったように思う。

ゆとり教育見直しへの流れ
学習内容の削減について中学受験塾の日能研は大々的に『円周率が「3」と教えられる』(実際には円周率を「3」と教えているわけではない)や、「学習内容が3割減らされる」などと広告を打ち、多くの論者が論争に参加したため、「2002年問題」として大きく騒がれた。こういった危機感もあり、そのうえ、私立学校との格差は一層広がったため、首都圏などでは中学受験熱に拍車が掛かった。

 2002年(平成14年) の学習指導要領は、学力低下批判を受けて2003年(平成15年)12月26日に一部改正され、指導要領の位置付けを「最低基準」へと変更し、指導要領の範囲を超える発展的内容を教えることを可能にした。
 しかし2005年(平成17)2月、中山成彬文部科学大臣(当時)が中央教育審議会(文部科学相の諮問機関、「中教審」)に全面的な見直しを要請するなどしたことで「学習指導要領改訂」の流れが加速した。

 そして、2007年(平成19年)10月30日、中教審が「審議のまとめ」(中間報告)を発表した。今回の報告で、学力低下の指摘に対し「ゆとり教育」の反省点に初めて触れ、「基礎・基本の習得」の強調がなされた。「総合的な学習の時間」(総合学習)や中学の選択授業が削減される一方、国語、算数・数学、英語など主要教科の授業時間は「小学校で約10%、中学で約12%増やす」とした。

「審議のまとめ」では、ゆとり教育を進めてきた現行の指導要領について異例の反省を記載。以下の5点を挙げた。

①「生きる力」について文部科学省と学校関係者、保護者、社会の間に十分な共通理解がなかった。

②子供の自主性を尊重するあまり、指導を躊躇する教師が増えた。

③総合学習は、各学校で十分理解されていなかった。

④必修教科の授業数が減少した。

⑤家庭や地域の教育力の低下への対応が十分でなかった。

 ゆとり教育を見直すものの、子供たちの学習量は減り続け、昭和50年代のピーク時からは半減しているため、教師らからは「中途半端」、「ゆとり教育がようやく定着しつつある中で大幅な方針転換とは朝令暮改ではないか」との批判も出ている。

 文部科学省の幹部は、「授業時間の1割増で前々回の指導要領(平成元年改定)のレベルに戻ったが、内容はそこまでは戻さず、その分を知識の定着などに充てたい」という。また、関係者からはさらなる学習内容の復活を求める声も強い。

 中教審は2007年11月7日に「審議のまとめ」を決定。2008年(平成20年)2月15日に小中学校の学習指導要領案が公表され、1ヶ月間のパブリックコメント(意見募集)の後、2008年3月28日に幼稚園教育要領・小学校学習指導要領・中学校学習指導要領が公示された。

 小・中学校では2009(平成21)年度から算数・数学、理科、社会の一部、総合などが前倒しで実施され、小学校では2011(平成23)年度、中学校では2012(平成24)年度から完全実施される。

2002年(平成14年) の学習指導要領との相違点

 週当たりの時間割にすると、総合学習を現行の週3~4時間から1-2時間削減。中学校に開設されている選択の授業をほとんど廃止し、総合学習と合わせて週2時間とする。その分、国語、算数・数学、英語などの主要教科や体育を増やす。

 小学1年生の場合、現在は週3日だった5時間授業が毎日になり、国語、算数が1時間ずつ増えるほか、小学2年生では授業時間との兼ね合いから、これまでなかった6時間授業の日が週1日は登場することが確実である。また、国際化に対応するため、小学5、6年生に初めて「外国語(英語)活動」の時間を創設し、小学校における週1時間の英語教育が本格的に始まる。

 中学でも特に理科、英語を約30%増しとするなどして主要5教科と体育が増える。特に英語は全学年で週1時間ずつ増えて週4時間となり、英語の合計授業時間数が初めて全教科中最多となる。


最後に生徒と接しているのは教師である。教科書の内容が変わったからと言って右往左往しては情けない。常に自分は教科を通して何を教えていくのかを問い続けていれば、学習指導要領の改訂やそれにともなう教科書の変更はあぶくに過ぎない。

 無視をして勝手にするわけにはいかないが、うまく利用して自分のやりたいことをするのは可能である。明日から学校は新しくスタートをする。生徒を迎えるまでの1週間は多忙を極める。その中でも授業という一番大切なものをおろそかにしないでほしい。授業の初日、どういう顔で、態度で、何を発するかよく考える必要がある。先手必勝は勝負の極意  
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菜種梅雨・チューリップ・桜が今日の主人公

2010年03月30日 | 日記
 近所の人が集まると、最近のころころ変わる天気の話になる。今年は何てひどい年だ。灯油を買いに走った。片付けかけた冬物を出した。などの愚痴が多い中、物知りの人が一言「みんなは忘れてしまっているが、昔から“菜種梅雨”という言葉があるぐらい、この時期は天気が不安定で、今年だけが異常じゃないんですよ。」例によって「そうなんだ」と思い、調べてみた。

菜種梅雨
おもに3月下旬から4月上旬にかけての、連続した降雨を「菜種梅雨」(なたねつゆ)という。菜の花が咲くころに降るためこの名前がある。梅雨のように何日も降り続いたり、集中豪雨をみたりすることは少ないが、やはり、曇りや雨の日が多く、すっきりしない天気が何日も続くことが多い。

 冬の間、本州付近を支配していた大陸高気圧の張り出しや、移動性高気圧の通り道が北に偏り、一方で、その北方高気圧の張り出しの南縁辺に沿って、冷湿な北東気流が吹いたり、本州南岸沿いに前線が停滞しやすくなったりするために生ずる。そのときには南岸に小低気圧が頻繁に発生しやすくなるのもまた特色である。そのため、西-東日本太平洋沿岸部にかけていう場合が多く、北日本にはこの現象はみられない。近年は、暖冬傾向および、温暖化の影響もあり、菜種梅雨が冬に繰り上がるきらいがあり、気候の変動が懸念される面もある。

例としては、1990年(平成2年)2月は月の後半を中心に曇雨天続きで、東京での同・月間日照時間は僅か81時間しかならず、大暖冬を象徴するかのようだった。また、1985年(昭和60年)には3月は月全体を通して関東以西の太平洋側地方では冷たい雨の連続で、東京では同年月での快晴日数は0(梅雨期である6、7月を除いては初のワースト記録)、日本気象協会発行の天気図日記では「暗い3月」と評される程であった。その他、1988年(昭和63年)、1991年(平成3年)、1992年(平成4年)、1995年(平成7年)、1999年(平成11年)と3月が比較的長いこと曇雨天が持続した影響で、月間日照時間は北日本除いてかなり少なかったため、20世紀末にかけての3月は、「菜の花の上にお日様無し」、「行楽受難・鬼門の月」、「花見には 傘など雨具が 必需品」、「卒業式、終業式はいつも雨」などと不名誉なレッテルが貼られたこともあった。その他、2002年(平成14年)、2006年(平成18年)には2月おわりから3月初めにかけて、南岸前線が停滞したり、朝晩中心に雨の降りやすいすっきりしない空が続いて、お天気キャスターの一部では「菜種梅雨の走り?」と評されたりもした。

 誰かが「人間は忘れる動物だから、生きていけるのですよ」と言っていたが、まさにその通り。昔のことはすっかり忘れている。この悪天候は仕方がないんだとあきらめの境地に入る。


  天候の話が一段落すると、28日に花博記念公園のチューリップ約700本がなぎ倒され、満開間近の赤やピンク、白などの花が茎の途中から折られていた事件のことが話題になった。つい最近行ったばかりなので「何で?」という憤りで一杯になった。奥まった小高い丘の斜面に植えられているので、行きずりにちょっといたずらでするというレベルではない。と話したが、今日の夕方のニュースで、同じ花壇でまたなぎ倒された。と報道されていた。偏執的な匂いがして気持ちが暗くなる。

 そのニュースを聞きながら、夕飯の準備をしていたのだが、ふと窓から外を見ると夕日が美しかった。思わず、「ちょっと行ってくる」と言って屋上にあがり、久しぶりに夕日の写真を撮った。

 

 夜、往復はがきを印刷する仕事をたのまれたので、久しぶりに根をつめて夕食後仕事をした。10時30分に出来上がったので、急いで観ようと思っていた『歴史は眠らない』にチャンネルを合わせた。 


  歴史は眠らない▽平安の美と伝統▽CWニコル
NHK教育
放送日時: 3月30日(火) 22:25-22:50


[詳細] 歴史は眠らない(新番組)◇「サクラと日本人」と題し、桜を入り口に日本的な情緒とその変遷を4回にわたり伝える。1回目は「サクラの美の誕生」。桜は、古くから日本人の営みと深く結び付いてきた。「花と言えば桜」といわれるようになったのは平安時代。嵯峨天皇によって花宴が始まり、宮中紫宸殿の左近の桜が植えられたのもこの時代。そして桜の美を確立したのが「古今和歌集」の登場だ。四季の移り変わりに美を感じる日本的情緒を、文学として初めて表した「古今和歌集」は、桜を特別なものとして取り上げた。桜が散る姿に人の世のはかなさをなぞらえた歌が多く収められ、日本人の桜への思いを決定づけたのだ。平安時代の「花と言えば桜」になっていく過程をたどり、日本人が桜に込めた思いを探る。出演は作家のC・W・ニコル氏。

 ニコル氏が、1000年以上も桜への感性を持ち続けていることが驚異である。と話していたが、その通りだと思う。奈良を中心にして出かけるたびに、歴史の重みというものを強く感じている。古典の見方が自分の中で変化してきているのがわかる。

 そして、番組の最後の方で、桜を最も愛した歌人として平安末期の西行が登場して、あの有名な歌『願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ』が紹介された時、それって今日ではないか?と閃いた。今日は旧暦で2月15日、満月。番組はそっちのけになり、カレンダーを確認し、娘のお古の国語要覧で調べると、西行は歌の願い通り2月16日に73歳で没した。とあった。

 「ちょっと行ってくるわ」と言って、デジカメを持って外に出て、西行の歌に合いそうな光景を撮ってみた。

 「ちょっと行ってくるわ」の多い一日であった。  

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自転車であちらこちらへ

2010年03月29日 | 日記
 木と葉だけではもう一つ何の木かわからなかったが、白い花をつけるとこぶしの木だったんだとわかった。思いのほかたくさん植えられていることに驚いた。白樺 青空 南風 こぶし咲く あの丘北国の ああ北国の春 季節が都会では・・・・・と歌の中でお馴染みだったので、白樺同様、北の方の木だと思い込んでいた。そろそろ花も終わりで、今日の強風でハラハラと舞い落ちていた。

 その中を枚方市駅付近まで自転車で行った。第二京阪道路が開通して道路の感じが変わり勘が狂うという話をアチコチでよく耳にする。私は行く機会がなかったので、まだしっかりとは走っていない。自転車でちょっと様子を見てこようという気持ちもあった。

 今までの道路の2.5倍の道路が横断したことで、今までのメイン道路が細く見えて、一瞬「オヤッ?」と思うのは確かである。自転車のスピードならキョロキョロと確認できるが、自動車だったら間違って走ってしまうだろう。話を聞いていたときは「そんな馬鹿な」と思っていたが、近くに行ってみるとみんなの戸惑いが納得できた。

 このあたりは雑木林で、車一台通るのがやっとの細い道があり、昼間でも薄気味の悪い所だった。歩道、自転車道、側道、高速道がゆったり造られていてまったく以前のおもかげがない別世界になっていた。寝屋川公園のあたりまでくると、どんどん風が強まってきて雲行きも怪しくなってきたので、急いで家に向かったが、延々と登りになる。トータル4時間以上自転車にのっているので結構足のほうも重くなってきて黒雲との厳しい競争になった。

 何とか降らないうちに家に着いたが、雨ではなく雪が降るとは予想もしていなかった。本当はもっと遠出をするつもりでいたが、何となく嫌な予感がしたのでやめていた。自分の直感にしたがって正解であった。

 
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こんな番組、もっとあってもいいな

2010年03月28日 | 日記
BSエンターテインメント「ウエルカム・ミュージック・クラブ 宇崎・阿木の“あうん”交遊録」
3月28日 (日)
19:30-21:00
NHK衛星第2

ゲスト: 水谷豊 桃井かおり
司会: 阿木燿子 宇崎竜童
演奏: 尾崎亜美

宇崎竜童・阿木耀子夫妻を司会に、ゲスト・水谷豊と桃井かおりが歌&トークを展開。水谷は阿木作詞、宇崎作曲のヒット曲、「表参道軟派ストリート」などを熱唱。桃井もテレビでは10年ぶりとなる歌声を披露する!

<曲目>「ウエルカム・ミュージック・クラブのテーマ」(歌)宇崎竜童,「表参道軟派ストリート」(歌)水谷豊,「サクセス」(歌)宇崎竜童,「あなたに捧げるララバイ」「やりなおそうよ」(歌)水谷豊,「人生ロマン派」(歌)水谷豊,宇崎竜童 

 気負ったところがなく、とても自然な感じで進行し、ゆっくりとした気持ちで歌とトークを楽しめた。前々から阿木耀子の詞は「スゴイ!」と思ってきたので今日は満足した。特に、出来たてのほやほやの「人生ロマン派」は、「何でわかるの?」とニヤニヤしてしまった。

 桃井かおりのトークの中で、「私は今、何を学んでいるかというと、お芝居でまわりの役者さんをいかに引き立たせ、支えるかということ。」という内容のものがあったが、昨夜、永井愛の3年半ぶりの書き下ろし「かたりの椅子」を観たこともあって、「そうなんだよな」とうなづいてしまった。

 以前、枚方メセナで永井愛さんの「らぬきの殺意」の朗読劇を観た時から、彼女の作品を劇場で観てみたいという思いを強く持っていたので、念願がかなった。

http://engekilife.com/play/15259  クリック

 シンプルな舞台で、様々な立場の人間同士の会話を重ねる中で、1つの結論に持っていくのではなく、観ている人たちのそれぞれの経験、価値観などによって、いろいろな答えを自分の中に出していくことができるようになっている。密度の濃い舞台で、久々に演劇の醍醐味を味わった。

 たまたま、今日『毎日が発見』4月号が届けられたのだが、P134の演劇欄に“大いに笑って、共感できる現代を生き生き描く芝居に挑戦”ということで竹下景子が取り上げられていた。その中で彼女は『お芝居は、泣ける場面は大体同じですけど、笑う場面は人によってちがいますよね。この舞台では、どこで笑いが起きるのか。楽しみでもあります。』と語っていた。そんな思いも持って演じていたんやなと昨夜の劇を思い返す。旬のものを観ることができ幸せでした。

 

 

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久しぶりの好天・五感で楽しむ

2010年03月27日 | 日記
 少し寒気が入ってるみたいだが、朝から青空で気持ちが良い。午後から予定があるので家の用を片付けてからジムで汗を流してきた。秋めいた空気だが運動後のほてった顔には気持ちよく感じる風である。

 いつもの池沿いの道を歩いて帰っているとウグイスの鳴き声が他の小鳥のさえずりに混じってひときわ高く聞こえてきた。ウグイスにも上手に鳴くものと調子のはずれるものとがある。今日のウグイスはプロ級である。平安時代の人は「ひとく」と聴いたらしい。

 沈丁花の甘い香りがする。花言葉は「不滅」。強い生命力を感じる。

星野富弘さんの詩   誰にでも やさしい言葉が かけられそうな 気がする

                   沈丁花の香り ただよってくる朝

 キンカンの花言葉は「思い出」。鳥海昭子さん曰く「“思い出”というものは、何かのはずみに不意によみがえり 胸をいっぱいにします。気がつけばたわわに実った庭のキンカンの木を眺めていたのでした。思い出は不意に輝きキンカンの たわわなる木を見上げていたり

 私は“思い出”よりも“食い気”。キンカン2つを丸ごと口の中に放り込み、皮をかんだ時の味わいが大好きで、それを知っている近所の人がいつも袋一杯に入れて持ってきてくれる。毎日6~8個のペースで食べていくのだが当分楽しめそう。

 サクラ草がどんどん増えて、大きくなってきた。道路にはみだしてきたので、ちょっとまずいかと思い、廃品を利用してフェンスの上のほうにも置けるようにした。立体的になったので、それぞれの花がひきたつように思える。

 天気予報によれば、また夕方からは雲が出てきて日曜日は天気がくずれる模様。例年この時期、こんなに移り変わりが早かったかなと思ってしまう。予定がたてづらい。

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